第3話 深海に眠る国

教室に閉じ込められていることが嫌になる時は、わりと頻繁にあって、そういうときはひとりでジッと静かな世界に篭っているのが一番の幸せだと思っていた。


それを違うと知れた私はこの世界の誰よりも幸せだったと今、本当に思う。


突然現れた貴方は私の愛する静かな世界を守りながら、私を未知なる世界へ連れて行ってくれた。その世界はいつまでもキラキラと輝く星空のように、色褪せず心の中で生きている。


しかし、それを大人は妄言だというのだ。


……。


「あと、らんてぃす?」

「そう!深海に眠る古代都市アトランティス。世界中の考古学者が追い求め、多くの冒険家が海に出たけれど、誰一人として見つけることができなかった黄金郷」

「誰も見たことがないのにどうしてあるってわかるんですか?」

「昔の哲学者プラトンの著書クリティアスに書いてあったんだ」

「ちょ…」

「プラトンが書いた本に書いてあったっていうこと」

「有名な人……?」

「もちろん」


給食前のこの時間は太陽が真上に登りポカポカと暖かい日差しで桜の木を照らす。葉枝の隙間から除いた光が頬を照らし、眩しさでほんの少しだけ目を薄めた。チラリと彼の方を見ると、少し長い前髪が彼の目を影で隠す。


前髪を切ったらとってもステキだと思うのに。


そう思ったのは事実だが、髪を切れとは言わない。

私だってこの長い髪を切れと言われたら嫌だと答えるから。


「てつがくしゃは、すごいひと?」

「哲学を学んでるからね」

「てつがくって…」

「うーん。哲学って実は俺もよくわかんないんだよね」


彼の髪は私と同じ黒だったけれど、太陽に照らされ微かに赤くなるところは私と違う。絹の糸でもこんなに美しい光を帯びるだろうかと思うほど美しく見えていた。

彼が太陽の真下に出てきたらもっと素敵だっただろう。

だけど、それも言葉に表すことはせず。


「愛とか、恋とか、正義とか、悪とか、世界の根元について考える人たちのことで」

「愛とか、恋とか、そういうことを考えるのが仕事なの?」

「儲からない仕事だったかもね」


空を見上げながら答えた彼は、遠くで鳴いている雀の声に耳を澄ませるよう目を閉じた。私も一緒に目を閉じて世界の音に身を委ねてみる。

教室のなかにいると騒音にしか感じなかった声もこれだけ距離が離れていれば心地のい音に聞こえる気がする。

元気のいいその音達は教室の窓を突き破ってここまで届く。いつもなら不快にしか感じないその無邪気な声も今は楽しげに聞こえた。


普段なら、その音に耳を澄ませることもなかっただろうに、嫌いだった音すら心地いいと思えるのは彼が隣にいたからだろうか。

聞こえてきた遠くで鳴るピアノのと下手くそなリコーダーのおとたちが生まれたばかりの雛達の鳴き声に似てる気がするなんて少し笑って。


海の下にあるそのアトランティスはこことは違って何も音が聞こえない静かな場所なのだろうか。

目を閉じた先、目蓋の裏側は木の葉の影に隠れ闇を抱いている。

その先に浮かんだ想像の古代都市。それは海の底で静かに目覚めを待っている。

太陽の光も届かないその先で、朽ちた白骨たちが埋められることもなく無尽蔵に転がり落ちていた。


其処は突然終わりを告げられたのだろうか。

それとも、徐々に崩れていったのだろうか。


揺らぐ水の中、ただただ静寂が待っているその場所で。


「アトランティスに行ったら、昔のことを書いてる本があるのかな」

「…うーん、どうだろう。海の下だから、本はぐちゃぐちゃになってるかもね」


私の視界いっぱいに広がる古代都市の柱は、崩れ落ちて原型の影すらない。

崩れ落ちた建物の隙間を魚が自由に泳ぎ、微かに形を残す柱へ藻が蔦のように絡みついた。

泡の音すら鳴らぬ海の底でチョウチンアンコウの光は眩しすぎる。


「石板に文字を刻んでたりしないかな」

「大事なことだったら書いているかも」

「どんな服を着てたんだろう」

「どんな服だったんだろうね」

「建物は石で作ってたのかな」

「超文明都市って聞いてるから、セメントよりも硬かったりして」

「武器は持ってたと思う?」

「あるんじゃないかな。戦争だってあっただろうから」


彼の言葉によって魔法のように目蓋の奥で揺らぐ景色が動き出す。


崩れ落ちていた柱が大きな音を立てて形を成し、地面に倒れ砂と化した屋根も浮き上がり元の姿を取り戻す。

白骨の死体達は立ち上がり、その腕と足に肉をつけ、錆びた武器を両の手で握りしめる。浮かび上がった古代都市に太陽の光が差してひとつの泡が音を立てる。


その場所は何処かで目覚めを待っている……。


「綺麗…」


凍えるような寒さの、深い海の底で、それは眠っている。


「アトランティス、見えた気がする」

「…私も……!」

「海の神ポセイドンの子孫が住んでるんだって」

「じゃあ、旗の色は青かなぁ」

「戦いの色、赤かもしれない」

「木が生えていたら緑にしてたかも」

「じゃあ、太陽のオレンジの可能性もあるな」

「うーん…もう七色にしちゃえばいいのに!」

「あはは、それは贅沢な旗だなぁ」


虹色の旗はきっと海の下で崩れ落ち、水に拐われ形さえ残っていないだろう。


それでも私の目の奥には七色の旗が風に揺られて踊っていた。


「人は死んだら虹の橋を渡るんだって」

「虹の…橋?三途の川じゃなくって?」


いつの間にか敬語を使うなんて緊張感は吹っ飛んでいて。

私も彼もそんな些細なことに気づかない。


「三途の川にけてあるのかも」

「なんか、ちょっと思ってたのと違うかも。虹だと空にあるのがしっくりくるから…」


互いに目を開いて見上げた空は晴天。

乾いた土の上で虹が架かるわけもなく。


「人は死んだら空に行くっていうよね」

「じゃあ、ニジの橋を渡るのは間違ってない…?」

「雨上がりの空は死者達の大行進パレードかもね」

「じゃあ、目を凝らしたら歩いてるとこ見えるかな」

「幽霊が見えたら怖くない?」

「…たしかに」


雲ひとつない晴天に白い飛行機が横切った。


一本道のように描かれることもなく、飛行機雲の白い線は空の青にかき消される。

ふと思い出した光景、私の母はよく残った飛行機雲を見上げては明日は雨ね、とため息を吐いていた。


「明日も晴れかな」

「晴天だといいね。土がビチャビチャになっちゃうから」


同時に見下ろした地面で蟻が道を探してた。


「雲がひとつくらいあると面白いかも」

「じゃあ、明日、雲があったら面白い形のを探そうよ」

「ドラゴンとかあるかな…!」

「俺はドーナッツでもいいな」

「じゃあ、ケーキがいい。タルトケーキ」

「フルーツいっぱいのやつね」

「苺がいい?桃がいい?」

「悩みどころだな。マンゴーが好きかも」

「わ、ぜーたくなやつだ」

「へへ、食べたいな」

「食べたいね」


もう一度見上げた空は相変わらず真っ青で、私たちの髪を優しく風が撫でた。

遠くで聞こえたチャイムの音に教室から騒めく声が聞こえている。


「給食の時間だ」

「…ほんとだ」


お腹を減らしているという事実よりも教室に戻らなくてはいけない、ということがとても嫌だった。

あからさまにガックリと項垂れて肩を落としている私。その頭に彼はその手を乗せるとポンポンと軽く叩く。


「嫌だったらいつでもおいで。俺はいつでもいるから」

「…うん!」


見上げた先で笑う君の顔。


「待ってるよ。ルーナ」

「……絶対くるね、ルーノ!」


名前を呼ばれて嫌な気持ちを抱かなかったのはこれが初めてかもしれない。

そう思った私は上がる口角を抑えられず、隠すように立ち上がって教室へと向かった。

一度だけ振り返って、彼がいることを確認して、そしてまた歩く。

振り返った先の彼もまた嬉しそうに笑っていた。

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