第2話 月白の少年
とても幼い頃、私は白馬に乗った王子様が迎えに来てくれると信じていた。
年々、そのお姫様像も古の姿となり、最近のお姫様は自ら迎えに行くらしい。
近年、親の世代まで続いた「幸せ=結婚」という固定概念も薄れ、男と女以外にも性別が生まれた。
それを私は幸せなことだと思っているが、それに首を傾げる友人もいるのは事実だった。「親が亡くなったとき、孤独になるのは嫌だ」という子もいれば「独り暮らしで倒れたとき、発見が遅れて死んでしまうのは怖い」とか「子供をどうしても生みたい」なんて、理由は様々だったが。
|番“つがい”を作り、子を生むのは生き物として当然ある本能。
それを捻じ曲げることは不幸せなことだろうか。
それとも、生き物として「正しい姿」ではない人間そのものが元から不幸せだったのだろうか。
……。
まるで檻のように学校を取り囲む大きな柵も飛び越えるのは簡単だった。
学校の校舎裏は立入禁止区域とされている。
妙なところで規則を守る生徒たちが其処に出入りすることがないからか、その出入り口に見張りはおらず、見回りも来ない。その為、其処に出入りすることはとても容易で、全てが嫌になるときの逃げ場所として活用していた。
五年生が出入りする階段の左側にある体育倉庫。
錆びれたシャッターがずっと閉じている暗いその場所を通り過ぎて右に曲がったその先に隠された大きな桜の木と裏校門。
学校のなかで最も静かなその場所で桜の木に身を委ねながら眠ることもあったし、歪なデザインのおかげで足場が多く登りやすい裏門に足をかけて学校の外へ飛び出すこともよくあった。
近所の人の監視の目が厳しかったから、外に飛び出し多くの場所を
誰も来ない静かな楽園、私だけの場所……だったのに、その日は先客がいた。
私の特等席、桜の木の下で静かに眠る少年。
意気揚々に静かな場所に逃げれる、と駆けていた私はその光景を見て急ブレーキをかけた。胸に下がった名札は青色。どうやら六年生らしい。最悪だ。
私が通っていた学校の上下関係は特別厳しいものではなかったけれど、だからといって仲良しこよしするほど関係が良いわけでもなかった。
特に中級生と上級生は運動場でドッジボールコートの取り合いをし、常に喧嘩していることが多く、男子生徒同士でよく
そこに正義感たっぷりの
だから、それらに関わったことのない私ですら名札の色で敵だと判断される。
廊下で上級生たちが一方的にやって来て、怒鳴り込まれてはボールをぶつけられる、なんてことはよくあった。
私としては、知らない人たちが喧嘩をしようと殴り合いになろうと関係がないのでどうでもよかったのに、勝手に
音も立てずに門を乗り越えられる…?
特等席に誰かがいるなら、外に飛び出してしまえばいいと考えたが、裏門は長年、動かされたことはなく
小さいとはいえ私の体重でも左右に揺れれば軋む音が鳴り響く。
校舎で遮られ、校庭で騒ぐ生徒たちの声が半減されたこの場所では、その音を鳴らすのは彼を起こすことと同意だった。
どうしよう。
啖呵を切って出てきたこともあるが、あの煩い世界にまた戻るのだけはどうしても嫌だった。ここ以外にも静かな場所がないわけではない。だが、他の場所は物置にされていたり、学校の給食で出す果物を育てていたりで先生たちの出入りが激しい。
隠れて過ごすことができないわけでもないが、気が休まることはない。
慌てる脳味噌にどうするべきか最善の策が出ず、スカートをぎゅっと握りしめ半ば諦めかけ戻ろうかと胃を決しかけたときだ。眠っていたはずの彼が両目をゆっくりと開けこちらを見た。
ビクりと体が揺れる。硬直状態だった。
そんな私をジッと見てから開いた彼の口。
出てきた言葉は予想していたものとは違っていた。
「そこに立ってないでこっちに来たら?」
その言葉に唖然とする私。
それに彼が驚くことはなく、むしろぽんぽんと隣の地面を軽く叩いて早くこちらにと私を招いた。そして彼は柔らかな笑みを浮かべる。
これが上手に生きられない私を様々な世界へ導いてくれた
遠い昔の幻燈。刹那の夢。
「三年生?」
次に述べた彼からの質問。私はその問いに首を縦にふった。
想像の中の上級生はいつもかき鳴らしたエレキギターのように煩かったのだが、彼は違う。それは凪いだ風の狭間で響き、遠くの喧騒に飲まれて消えてしまうような優しすぎる音。
初めて聞いたその音は何よりも美しく聞こえた。
「俺、六年生。って、名札でわかるか」
あっといいながらへにゃりと笑う彼が私に怒鳴ることはない。
そう脳みそは理解していたけれど、私という人間はたったの三言で肩の緊張がとれるほど人馴れしてるわけではなかった。
「君の名前は?」
名札があるからわかるだろうに、なんでその質問をするんだろうと思った。
「人の名前を聞くときは、まず自分からって」
実際、強気な態度で出たら逆上する人だっていただろう。
普通に考えれば下級生がこんな偉そうに反論するなんてありえない。
なのに、彼は私の答えにまた笑うとその優しい声でこういった。
「ルーノ」
初めて聞くその単語は彼が胸から下げている名札の文字とは全く違っていた。
不思議に思った私が彼の名札をジッと見つめた。
それを見た彼はああ、と笑ってこう続ける。
「海外の言葉で月って意味なんだ。夜が好きでさ。ひっそりとした暗闇のなかで淡い光を放つ星。一度は見たことがあるだろ?」
勿論知っているとも、と答えを返すべきなのか、どうして本名を言わないの?と聞くべきなのか考えあぐねていたのだが、話しながらも何度かぽんぽんと隣の地面を彼は叩くので、私はとりあえず隣に座ることを決めた。
「俺がやってきた国には月が二つあってね。片方が欠けると片方が満ちていくシステムなんだ。だから月がないなんて日はなくて夜の空はあんな街灯なんかなくても歩けるんhだよ」
学校を覆う柵の向こうに見える細い街灯を指差しながら彼は信じれらないような話を続ける。
「俺の世界は春になると葉っぱが枯れていくんだ。そして夏に向けて全部葉が落ちると、やがて来る秋に向けて芽吹く準備をするんだ」
妄言だとは思ったけれど、その話が嫌だとは思わなかった。
なぜなら、見知らぬその場所を想像してみるのはとても心地が良かったから。
「この木が花を咲かせてるところは見たことがある?」
私たちの上に枝を伸ばし、青々とした葉っぱを装う桜の木。
それを彼は指さし、言った。
「…あります」
彼の問いに私は静かにそう答えた。
「そっか。俺、この街にきたのは1ヶ月前で…ここに気がついたときにはもう桜が散っちゃったあとでさ。綺麗だった?」
そうか、だから彼と会ったことがなかったのかと納得した。この場所にはよく訪れるが毎日ではない。この学校に来て1ヶ月という話が本当ならば、この場所を見つけるまでも時間を要しただろうし、時間と日が違えばすれ違いになっていたのも頷ける。
「綺麗でしたよ。とっても」
私の問いに彼は笑った。
「そっか。見てみたかったなぁ」
「来年も、咲くと思います」
「見れるといいな」
「そう、ですね」
柔らかな春の日差しがよく似合う人だと思った。太陽のように眩しくないけれど、宵闇の暗さとは違う人。
月、確かにその表現は彼に合っているかもしれないなと黒い瞳を見つめながらそう思った。
「君の名前をもう一度聞いてもいい?」
彼の問いを聞いた私は答えるべく、田口向日葵、そう簡潔に告げようとした。だが、口を開いてすぐ閉ざす。今、言うべき言葉はそれではないと心が叫んだからだ。
じゃあ、何をいえばいいって言うんだろうと混乱する。
言葉にならない私のせいで静寂が訪れるのがなぜか辛く、何度か口をぱくぱくさせていたのだが、彼の問いの答えは彼自身が教えてくれた。
「そっか、ルーナか」
「え?」
間の抜けた返事で返してしまう。
だが、その名前に拒否感はなく、むしろ心の奥にゆっくりと沈み込み、元からそこにあったように溶け込んでいった。ルーナ、それが私の名前。
「え?違う?」
まるで私が答えたようにそう言う彼を見て、私は首を横にふった。
それを見ると彼は嬉しそうな笑みでこう続ける。
「だよね。ルーナって顔してるし」
葉の隙間から差した太陽の光が彼の頰を照らしまた消える。
ふにゃりと笑って答えた彼の表情に私も自然と口角を上げていた。
こうして自然に笑うのはずいぶん久しぶりかもしれない。
あったかい。
胸の奥にじわりと広がる温もりが痛いほど優しい。
ふわりと私達の頬を撫でた風も春の温もりを抱いていた。
「今日は風の神様が上機嫌だから、心地がいいね」
「風の神様?」
「そう、風の神様は機嫌がいいと優しい風をあててくれるんだ」
そういった途端に強い風が私たちを包み込み、私の長い髪が彼の顔に直撃した。
「あ、ごめんなさい」
慌てて髪をどける私に怒ることもなく、彼はクツクツと笑って答える。
「大丈夫…神様、噂をしたから拗ねたみたい。俺のせいだ」
「…ふふっ、なにそれ」
自然に肩の力が抜けていた。
誰かと目を合わせて笑うのはいつぶりだろうか。
温かい気持ちを抱いて笑う午前の木陰、空は晴天だった。
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