第二章 うさみみの行く末
ある日、韓国のとあるコミュニティでこんなやり取りが行われた……。
ある古参プレイヤーがゲーム内チャットでこんな発言をした。
「うさみみを十全に活かすビルドを考えたんだ。皆見てくれ」
その時オンラインだったプレイヤーたちは、口々に「なんだこりゃ」と言った。
ビルドとは、キャラクターの育て方によって得られるステータスの特性やスキルセット、それに装備セットなど、それらの構築のことを言う。
初めは、ほんのお遊びだった。うさみみがコア(ビルドにおいて中心となる要素)の時点で実現性は極めて低い上に、そのビルドのコンセプトは「とにかくクリティカル攻撃の威力を上げる」というものだったからだ。このゲームのクリティカルは、モンスターに通常攻撃を行った際に二パーセントの割合で発生し最低二百パーセントのダメージを出すことができる。また、クリティカルによって発生するダメージは様々な装備で上昇させることができるが、クリティカル攻撃の確率に関しては一部の装備によってのみ上昇させることができる。
その一部の装備こそ、「うさみみ」であった。防御力と回避率などの上昇率もさることながら、クリティカルの上昇率は八パーセント。つまり、うさみみを装備した状態でのクリティカル確率は十パーセントになる。そしてもう一つ、「ねこみみ」という「うさみみ」の下位互換と考えられている装備が存在するが、上昇率が二パーセントと乏しく、ゲーム内通貨で安価に購入することが出来、殆どのプレイヤーにとってはただの装飾品だった。
うさみみをコアとするビルドに関しては、お遊びの範疇ながらコミュニティ内で様々な検証が行われた。調査方法は、あくまで期待値での計算ではあるものの、特定のモンスターの体力を削りきるまでに要する攻撃回数をオーソドックスなビルドとうさみみビルドとで比較したり、逆に何発攻撃を耐えることが出来るのかを比較したり、果てはうさみみをコアとするビルドの中で最も醜悪な外見を模索したり……。結果はいずれも、今までの、バランス良く攻撃力と防御力にステータスを振り分けるビルドに軍配は上がったものの、彼らにとってうさみみの可能性を模索することはまさしくロマンだった。
だが、今度は中国にとんでもない奴が現れたのだ。
彼のプレイヤーは、韓国でうさみみビルドに関する議論が活発に行われていたことを聞きつけて、独自の研究により新たなうさみみビルドを考えついたのだった。彼はまず、防御力を捨てた。次に回避率、機動力、果ては攻撃力……最終的に残ったのは、クリティカル率と、驚くべきことに魔法力だった。
そして、自らのうさみみを以て、その実用性を証明する動画をSNSにアップロードした。動画に映っているキャラクターの外見は、一切統一性が無いためにどえらいことになっていたが、「魔法の力を拳に込めて敵を打つ」という設定のスキルで、とんでもないダメージを出していた。ボスの攻撃を受ける盾役のキャラクターの横で、クリティカルが出るまでスキルを使い続けたうさみみのキャラクターは、三度目のクリティカルでボスを撃沈していた。それも、そう時間も掛かっていない。
これを観た韓国のコミュニティのメンバーは、大いに悔しがった。彼らは、クリティカル攻撃の威力を攻撃力というステータスで上昇させることに固執する余り、魔法力が通常攻撃のダメージとして加算されるそのスキルの可能性を、ましてや、うさみみと魔法力という未開拓領域の存在にすら気づきもしなかったのだ。それに、なんとこの外見の醜悪なことか!
日本に上陸する頃には、そのビルドは装備に一切統一性がないことから、カードゲームにおける同名のカードを一枚しか投入しない構築方法の名前を取って、「うさみみハイランダー」と名付けられていた。
「それにしても、良かったじゃんね。まさか、バアさんがあすみちゃんに勝つとまでは思わなかったけどさ。あのバアさん根性あるじゃんね。常識が通じない所もあるけど、そこがあすみちゃんを打ち負かす秘訣だったのかな」
「ええ、……」
喫煙室で一方的に喋っているクソロンゲの話を、心ここにあらずの表情で聞いているのは高梨だ。
高梨が指で挟んでいる煙草の灰が、ぽろんと彼のズボンにこぼれ落ちた。
「どした? 高梨君。なんか最近ぼーっとしてること多くないか?」
高梨は、ハッとしてクソロンゲの不審そうな顔を見た。そして、まだ短くなっていない煙草を灰皿に捨てて、
「いや、なんでもねーっす」と取り澄まして言った。
喫煙室から席に戻った高梨は、今日も橙色で縁取られたアイテム欄のうさみみを見つめて、ほっと溜め息をもらす。
七ヶ月だ。高梨は思う。
うさみみを手に入れるのに、実に七ヶ月掛かった。その中には、自分のキャラクターの育成時間も含まれているが、……それにしても、長かった……。ネットカフェに通うためにバイトを始めて、彼女の奈緒が欲しがったこのうさみみのために、このゲームをプレイし続けた。
結構、可愛い見た目してんじゃねえか……。
そして、高梨はまたうっとりする。
界隈で「うさみみハイランダー」のミームが蔓延しているために、うさみみの需要が高騰していることを彼はまだ知らないでいる。
*
あすみは、紗和に敗北を喫してから、忸怩たる思いと悔しい思いに苛まれ続けていた。
取り決め通り、現在は紗和とはフレンドとなり、おまけで付いてきたクソロンゲともフレンドとなって、彼女たちと一緒にランクマッチをプレイしている。紗和もクソロンゲも味方としては頼りないが、あすみが注意深く彼らの動きに指示を出すことで、今までよりも勝率は格段に上がった。
勝率が上がるだけに、あすみの悔しさは募る。
「お前は確かにエイムの天才で、疑う余地のないスタープレイヤーだよ」
夜、布団に入る度に、以前紗和と同じルールで闘った相手の言葉が蘇る。
「だが、このゲームはエイムが上手くなくても勝てるんだ」
あすみは寝返りを打つ。それでも、ボイスチャットで聞こえた言葉が頭の中で反響する。
「FPSは、ただ撃ち合うだけのゲームじゃない」
そんな夜を繰り返す度に、あすみは自分の信念を思い返した。
エイムが上手ければどんな相手だって打ち負かすことが出来る。そう信じている。
ところが、あすみはどこか気が抜けてしまったようだった。ゲームでも、現実のバイトでも同じミスを繰り返した。
ゲームではマップ上に映っている三角を味方と敵で間違えることが二度あって、バイトではサラダにドレッシングをかけ忘れるのを二度、味噌汁を上澄みの汁だけ掬って出してしまうのを三度、出勤時にタイムカードを切るのは大抵忘れた。店長はあすみを数回叱ったが、あすみとしては特に改善する必要性を感じていないから始末が悪かった。
結局、あすみは鍋洗いや皿洗いなどの仕事を言いつけられる。もの凄く汗をかく作業だが、一番辛い夏場を超えて、あすみはこの洗い場を格好の考え事の場としていた。
どうしたら、あの時あのババアに勝てたのか……。
あすみの耳には、煙の中で聞こえたナイフの音がこびり付いている。
……しゅびっ……しゅびっ……。
そのとき、「小池さん」と背後から店長に声を掛けられた。振り返ると、忙しそうにフライパンに火を掛けている店長がこちらを見ていた。
「ちょっと、新規のお客さん多いから、ホール出て!」
店長は内心身を切る思いだったに違いない。あすみはそう思った。
そういえば、今日は紗和が居ない日だった。今日シフトを共にしているのは、あのいけ好かないフリーター男と、最近新しく入ってきた小太りな主婦だった。主婦の方はまだ仕事に慣れないらしく、あたふたとあちこち走り回っている割には、あまり客の相手が出来ていないようだった。
あすみは、取り敢えず手近なテーブルの相手をすることにした。
コップに氷と水を入れて、出す。客を見るときに、顔は笑顔に切り替える。伝票はポケットに入れておいて、客が注文するなら、書く。しないんなら、ボタンを押して呼べとかなんとか言って、去る。
紗和はそんなことを言っていたような気がする。
そして、あすみは音を出さないように気をつけながら、水の入ったグラスをテーブルに置いた……置こうとしたのだが、ゴツ、という音は鳴った。とにかく、後は笑顔だ。だが、テーブルに座っている客の一人が「あっ」とあすみの顔を見て声を出した。
あすみも、客の顔を見て「あっ」と声を上げた。笑顔は忘れた。
席に座っているのは、いつもネットカフェで見るチャラチャラした若い男……高梨だった。常連の顔なんぞ、あすみは一々覚えていない。だが、いつネットカフェに行っても見る顔だったから、流石に覚えていた。ただし、高梨という名前までは勿論知らない。
そして高梨の向かいに座っているのは、清楚な感じで前髪を揃えている女……奈緒だった。奈緒は、高梨とは二年前、……現在高校二年生だから、中学三年生のときから付き合っている仲だった。丁度土曜に入っている授業を終えた後だったから、制服だった。
あすみは、制服が近くの進学校のものであることに気が付いて、こいつら、一体どういう関係なのかと訝しんだ。
高梨にしても、こいつ一体どうしてこんな所に……と訝しんで、あすみを見ているところだった。それに、このファミレスの制服ときたら実に馬鹿馬鹿しいデザインなのだ。半袖のパフスリーブで、首元には目立つ色では無いが大きなリボンが付いている。下はあすみの脚の長さではギリギリ足首が出るくらいの長さのズボンで、胸元からは黒いエプロンが付いている。
彼らの関係を知る由のない奈緒は、何事かと思って二人を見比べた。あすみはすぐに我に返った。知っている顔がなんだ、やることは変わらない。そう自分に言い聞かせた。
ホールが落ち着く頃には、あすみ厨房の奥から高梨の座っている席をじっと眺めていた。高梨は今、丁度放課後の奈緒を呼び出して、自分がこの半年で得た苦労と収穫について話をしている所だった。
あすみには彼らの話声は聞こえない。ただ、高梨が何かをもったいぶって奈緒に伝えたところで、奈緒が俄然話に食いついてきたことは分かった。それからは、あすみの眼からはあからさまにぶりっ子な仕種をする奈緒、が口元を両手で覆って笑いだした。高梨は、如何にも女に騙されているような男の笑顔で、じっと奈緒を見ていた。
高梨は奈緒とファミレスを出た後は彼女と別れて、偶然ファミレスで顔を突き合わせたあのエイムが上手い女……あすみのことが気に掛かりながらも、ネットカフェに来店した。そして、いつもプレイしていたオンラインゲームを起動して、うさみみを奈緒のアカウントにプレゼントとして送った。
それから、高梨は座り心地の良いゲーミングチェアでしばし呆然とした後、むっつりと喫煙室に向かって歩いた。推定八十万円の価値があるアイテム、うさみみを奈緒にプレゼントすることは、彼にとっては少なからず迷ったところだった。だが、高梨はある夜こう思ったのだった。
愛に殉じよう。
決心してからの高梨はさっそくLINEで奈緒に連絡を取って、つい先程、ファミレスでうさみみを手に入れた旨を、それに伴って味わった大変な苦難と共に伝えたところだった。
そして、今……全てが終わったところだ。
もう、高梨のアイテムボックスには、うさみみは無い。
喫煙室では、タイミングを示し合わせたわけでもないが、いつものようにクソロンゲがアメスピを吸っていた。特に何を話すでもなく、高梨も自分のセブンスターを吸い始めた。
高梨は、何故だか無性に悲しかった。例えば、長い間知り合いから預かっていた犬が、自分に懐いて、高梨としても犬の考えがある程度分かってきて……それで、とうとう知り合いにその犬を返したような心持ちだった。
そう、高梨は、あの可愛らしいデザインのうさみみに少なからず愛着が湧いていたのだ。 所詮、ゲームのことだと思いながら……。
「……俺も、あのFPS初めてみっかな……」
独り言のように、しかしクソロンゲに向かってそう言った。
「えっ!?」
クソロンゲは高梨の急な心境の変化に驚いた。だが、高梨の限りなく遠い眼を見て、彼の心中に何事かがあったのだろうと察した。
「それじゃあ、さっそく高梨君のことをバアさんに紹介しようか」
「頼みます。……ああ、でも、多分もうすぐエイムが上手い方の人も来るでしょうから、その時で良いですよ」
クソロンゲも、自分の腕時計を確認して、そろそろあすみのシフトが終わる頃合いだということに気が付いた。今日は、紗和が早くからネットカフェに詰めていた。
紗和は、この頃ランクマッチに燃えていた。あすみとの決闘以来、彼女のFCに対するモチベーションは増大する一方だった。だが、モチベーションとは裏腹に、試合では中々彼女の思うように勝利を掴むことは出来なかった。クソロンゲとも一緒にプレイして、なけなしのチームワークを見せても同じだった。
ランクでは、あすみが紗和の遙か高みの位置にいた。だから、決闘に勝利した紗和でもあすみに勝ったとは到底思えない心持ちだった。
総プレイヤーの中でも、紗和の実力とランクポイントは平均といったところだ。一方あすみは、紗和と同じ時期に作成したアカウントだというのに、上位の二十パーセント内に属する程にプレイしていた。
実際、紗和の成長スピードは初心者としてはかなりハイペースだった。あすみに師事している(尤も、あすみとしてはそう思っていない)ことも影響しているが、紗和はバイトしている時間以外は実に暇で、悠々自適な生活を送っているからこそだった。
どうすれば、もっと高位のランクに属することが出来るのだろうか。
紗和は真剣だ。真剣に、ゲームで遊んでいる。
そう思案している所に、あすみがブースに入ってきた。あすみは、紗和から一つ置いた席に座った。あすみが腰を下ろすなり、
「ねえ、あすみちゃん。私、どうやったらランクで上がれると思う?」と紗和は聞いた。
あすみは、突然の相談に多少面喰らいはしたものの、「まず、エイムが上手くなることだね」と、以前からあすみが考えていた紗和の弱点を指摘した。
「エイムって、どうすれば上手になるのかしら……」
紗和は、エイムに関してはかなり苦手意識があった。完全に敵の背後を取れれば流石に撃ち勝てるものの、前線を張れる程の実力は無かった。
「あのね、オバさん。撃ち合いの強さっていうのは一朝一夕で身に付くような技術じゃないのよ」
あすみはそう言って、身を屈めてPCの電源に手を伸ばす。
「私だって、初めは撃ち合いなんて下手っぴだったよ。それから、長い間を掛けて、エイムが上手くなったの」
「あすみちゃん、一体どれくらいこのゲームやってるの?」
「そうね……もう……」
あすみは、かつてこのゲームで金を稼いでいた日々を思い出した。……初めは、ただ夢中でいた。あすみは落ちぶれてばかりの人生だから、夢中でいられたゲームの中だけでは、勝ちに拘っていた。たとえフィクション……虚構の勝利だったとしても、それに、拘るしか無かった。それで、毎日の練習でプレイヤーとしての技術を鍛え続けて、金を稼げるまでになって……。
チームを追い出された。あすみを追い出したチームは、今では厚顔無恥でプロとして名乗っている。
そこに、クソロンゲが高梨を引き連れてやってきた。
高梨はあすみと顔を合わせると、バツが悪そうに佇んだ。……そして、こう呟いた。
「俺も、FC初めてみっかなって」
紗和は顔を綻ばせて、「あらあ」と呟いて、表情で歓迎する向きを示した。
あすみは、「あらま」と口には出さずに、表情で訝しむ向きを示した。
「ねえ、あすみちゃん。あと一人仲間が出来たら大会にだって出られるかしら?」
紗和は、わくわくしていた。以前から、ゲームの大会というものに興味があった。
あすみは、「まあ、出られることは出られるだろうけどね」と、冷たく言った。「どうせ一回戦敗退だよ」
「えっ? だって、俺たちには元プロのあすみちゃんがいるんだぜ? 百人力だろ?」クソロンゲは不思議そうに言った。彼はゲームライターで界隈には詳しいが、自分のチームの戦力と大会で求められる平均的な戦力のギャップには、まだ分からないくらいプレイヤーとしては素人だった。
あすみは、一瞬間を置いて、「いくら私がいるからってね、FCは総合的な戦力で戦うゲームなの。だから、マイナス五十人力が三人いる現状では、禄に勝てるわけがないの」
「ちょっと待てよ」反論したのは高梨だった。「これから始める俺はとにかく、大会までまだ期間はあるんだろ?……そうなんだろ?」
正直、高梨はゲームに関しては様々なジャンルに自信があった。それというのも、彼女の付き合いで様々なジャンルに手を出したからだったが……。ただし、FPSをプレイするのは初めてのことだった。だから、口先では謙遜していた。
確かに次のシーズンの大会までは丸々一年あった……あすみはその質問には肯定で返した。
「だったら、これから強くなりゃいい話だ。そうだろ? それに、バアさんだってこの間アンタを打ち負かしたじゃないか。クソロンゲの実力は知らんけどさ」
「ちょっと、高梨君!」クソロンゲは如何にも心外だというように唇をひっくり返した。だが、それ以上は反論しなかった。
チームの誰しもが、一年後の自分たちの実力なんぞ判断しかねた。なぜなら、彼ら知り合って殆ど間もなく、FPSにおいてはひよっこ同然だったからだ。
「とにかく、目指すことにしない?」
そう提案したのは紗和だった。
「参加できるのなら、私、参加したいもの。ゲームの大会なんて、わくわくするじゃないの。だって、皆が私たちのようにチームを組んで、それでプライドを掛けてチャレンジしているんでしょう?」
「それは、」あすみは反論しようとした。だが、あすみだって大会に対するモチベーションが低いわけではなかったから「そうだけど」と、結局同意してしまった。
「挑戦するのって、尊いことよ」紗和は、そう締めくくった。
実は、高梨としてはそこまでモチベーションが高いわけでは無かった。ただ、うさみみに関する半年間を掛けた挑戦に決着がついて、若いエネルギーを持て余している彼は、何か他のゲームで発散したいと考えているだけだった。
クソロンゲとしては、何か記事のネタになる予感がしている程度だった。来年の夏というと、涼子の受験は終わっているな、と思ったくらいだった。
とにかく、紗和の提案によって、まだ四人しか居ないチームは来年夏に行われる大会の予選を目指して練習することになった。
FPSの完全な素人が二人居るチームで、どこまでやれるだろうか? あすみは、思案する。運良く予選の一回戦は勝ち抜けるかもしれない。だが、二回戦はどうか……。
ところが、実際に「一般チャンネル」で試合をしてみると、高梨は思いのほかエイムが上手いことが分かって、あすみは驚いた。
高梨だって、伊達にゲームの勘を養っているわけではない。
そして、高梨をチームに迎えた初めての試合を終えた後にあすみが次のような提案をした。
「ボイスチャットで話さない? 私たち」
ボイスチャットとは、インターネットを通して、マイクを使って他人と肉声で交流する手段のことだ。プレイ中のチームメンバーを見渡したあすみは、ヘッドホンを付けている奴と付けていない奴がいることに気が付いたのだった。
ヘッドホンを付けていたのは高梨だけで、付けていないのは紗和とクソロンゲだった。
このあすみの提案に難色を示したのは、意外にも紗和だった。
「ボイスチャットって、このヘッドホン付けなくちゃいけないんでしょう?」
そう言って、ブースのPCに備え付けてある重たいヘッドホンを持ち上げる。紗和は、以前のあすみとの決闘で、戦略に必要だと思ったからヘッドホンを付けてプレイした。だが、その後はひどく肩が凝って、看病した涼子の風邪が移ったのかと勘違いしたくらいだった。
「肩が凝るわ、あすみちゃん」
何腑抜けたことを……と思ったあすみだったが、流石に紗和がババアであることを考えて口に出すのは自粛した。
「だったら、イヤホンを買えば良いんだよ。ゲーミング用にマイクを内蔵しているのだって売っているから」
「俺も、このヘッドホンは嫌だなあ」続いて難色を示したのはクソロンゲだった。
「……なんで?」あすみが尋ねる。
「だってほら、」そう言ってクソロンゲは自分のドレッドを大切そうに撫でて、「解れるじゃん?」と白い歯を見せて笑った。
*
学校とファミレスから帰ったあと、奈緒は自室でさっそくオンラインRPGにログインした。メッセージボックスに高梨からのプレゼントが届いていることを確認すると、にんまりと笑った。
そこには、しっかりと橙色の縁取りでうさみみの名前があった。
高梨……あの男、ほんと馬鹿。
奈緒は、腹の内で冷笑してから、馴染みのRMTのブローカーに連絡を取った。
*
紗和は、以前から気になっていたフレンド申請をどう扱ったものか、考えあぐねていた。この申請は紗和がFCをプレイし始めた頃から、というよりは、紗和があすみからアカウントを貰った時からあった。最近あすみや高梨とフレンド関係になる際に改めて気が付いたのだった。
「Diego」
フレンド申請の項目には、そう名前が記されている。一体、なんて読むのだろうか?
紗和には、英語の読み方がちっとも分からない。
ともかく、いつまでも保留しておくのは悪いと思って、紗和はDiegoというプレイヤーとフレンド関係になった。
そしていつものように、ブースにチームのメンバーがいないときには一人でランクマッチに勤しんだ。最近は、紗和でも少しくらいは敵に撃ち勝てるようになってきた。
だが、これでは足りないのだ。この程度の実力では、あすみに遠く及ばないのだった。あすみがプレイしている画面をじっくり観たことがあったが、それはもう凄かった。ゲームに慣れた紗和には余計あすみのエイムの巧さが分かる。
あすみの基本的なプレイスタイルは、前線を張るグループに入って積極的に敵と撃ち合うスタイルだった。デモリッションでは、主に前線を張りに行くフロントという集団と、オブジェクトを防衛するか爆破に廻るサイドと呼ばれる集団がある。あすみのプレイングでは、サイドは完全に他人に任せて、自分は前線でとにかく敵のダウンを取りまくる。そして、敵の前線を崩壊させた後は、じっくりサイドを落としに掛かる。
紗和からすれば荒唐無稽な作戦だが、あすみのエイムの強さがそれを可能にしているのだった。
そこに、つい今しがた新しくフレンドとなったプレイヤー……Diegoからこんなチャットが飛んできた。
「ボイスチャットできますか?」
紗和の心臓はいきなり音を上げ始めた。そういえば、紗和が完全にオンライン上で人と交流したことは、……試合で殺し合っていることを除けば……無いのだ。
こういうとき、どうすればいいのかしら。
紗和は、当然のようにボイスチャットの使い方を熟知していない。だが、紗和がボイスチャットに使っているアカウントの名前をチャットで返すと、大凡の段取りはDiegoが進めたらしかった。
そして、とうとう紗和は、初めて知らない人とボイスチャットを繋げた!
紗和は、働いていたときには顔の見えない相手と何度電話をしたかは分からない。その時にはこんなに緊張することもなかった……。
どうしてかしら?
だが、Diegoの「こんにちは」という声を聞いた瞬間にそれが分かった。
今まで仄かに存在感があった、顔の見えない全国のプレイヤーたち。その中の一人が彼なのだ。紗和は、自分でも気付かぬうちに普段試合をしている相手がどんな人間なのか、あれこれ想像を巡らせていたのだ。そして、今その答え合わせが行われている。勿論、声しか聞くことは出来ないが……。
Diegoは、低く落ち着いた男の声をしていた。年の頃までは分からなかったが、紗和としてはそこまで若すぎる印象は抱かなかった。そして、紗和もおそるおそる挨拶をした。
「ディイゴさん? よろしくね」
「いえ、ディエゴですけど……というか、あれ……」
ディエゴは、困惑したような声で、こう言った。
「てっきり、あすみさんのアカウントかと思っていたんですが」
「このアカウント、あすみちゃんから貰ったのよ。ごめんなさいね」
紗和は、少し残念だったが、Diegoがフレンド申請を送ってきていた理由に納得した。
「ディエゴさんは、あすみちゃんの友達だったのね」
「……友達……」ディエゴは、妙に節を付けて呻いた。「まあ、はい。そんなもんですかね」
*
紗和は、平日に一人でブースにいるとき、ディエゴと一緒に試合をするようになった。
週に一日か二日くらいはずっとFCにログインしている紗和も大概だったが、ディエゴの方はもっと凄かった。彼は、遅くとも昼十二時から……そして、早くとも深夜の二時までなにかしらのゲームをプレイしているのだった。だから、オンラインであることを示すボイスチャットアプリに表示されている彼の名前の横に付いている緑のランプはずっと点灯していた。そして、ディエゴが紗和と共に試合をするのは、メインでプレイしているチームの練習時間の丁度合間……大抵は昼頃から夕方までの一時間から二時間だった。そのため途中で紗和と別れ、メインでプレイするゲームの方へ行くこともあったが、ディエゴとしては肩の力を抜いて、気楽にプレイできた。
ディエゴは、あすみと同じように前線で積極的に撃ち合いをするタイプのプレイヤーだったが、アサルトライフルではなくスナイパーライフルを得意としていた。それに、スコアボードの上位に名を連ねることも殆ど無かった。
ところが、ディエゴとプレイしている時の紗和は、何故か上位のスコアを叩きだすことが多くなった……これに一番驚いたのは、勿論本人だった。エイムの下手な紗和でも、バッチリと敵の背後を取れるようにマップを動き、時には三人同時にキルすることすらあったのだ。
そんな経験は、今までなかった。敵を打ち倒すことの快感と来たら、病みつきになるほどなのだ……当然、病みつきになったからといって、そんなプレイを繰り返せるはずもないのだが。
紗和には、何故普段のランクマッチでこういうスコアが取れないのか、不思議でたまらなかった。あすみたちとプレイする試合では、いくら力んでもキルなんて取れなかった。
「それは、僕が敵の動きと、味方がどう動こうとしているのかが分かるからですよ」
こともなげにディエゴは言うのだった。紗和には半信半疑だった。
「味方がオブジェクトにアプローチするときに、僕が前線を押すんです」
「一体どうしてそんなことが分かるの?」紗和は、訝しんで尋ねた。
「どうしてって……」
ディエゴは返答を考える間に、敵を一人倒した。
「それが僕にも分からんのです」
顔の見えないディエゴとは、お互い殆ど自分のことを話さなかった。ただ、敵の位置を報告しあい、オブジェクトにアプローチするタイミングを入念に示し合わせ……つまり、ゲームのことしか話ていなかった。
ディエゴは、チームプレイが非常に上手いのだった。
そのうちに、紗和はエイムの練習はともかくとして、ディエゴの思考を模倣しようと努めるようになった。何故、このタイミングで前線を押すのか?……何故、あの位置にスモークグレネードを投げたのか?……そういうことを考えることは、少なからず紗和にとって力になっていった。
*
あすみは、焦げの付いたプレートが大量に積まれた洗い場の窓から、外を見ていた。窓から見えるのは、店の丁度裏手に面している遊歩道、その奥にはこの街を大きく横断する幅広な川がある。……川の脇にはシダレヤナギが等間隔で植えられているが、もう、女の髪の毛のように細くしなった枝には葉っぱが付いていなかった。そして、滝のように何本もの枝が重なりあっている間からは、夕暮れの赤い光が隠しきれないように光っているのだった。
もう日もすぐ暮れるようになった。
冬か……と、あすみは感慨に耽る。
あすみは流石にこのバイトにも慣れてきた。実は、あすみはこれが初めてのバイトだったのだが、もうグラスをテーブルに置く手もすっかり震えなくなったし、注文も取れるようになった。そして何より、あすみは自然な笑顔が出来るようになったのだった。……それでもしょっちゅう細かいヘマをするから、バイトの中ではまさしく最終兵器的扱いを受けていた。
あすみがホールに出れば、必ず誰かの仕事が増える。そういう共通認識がある。
紗和が居るときは、大抵その役回りは彼女だったが、今日もまた、紗和がシフトに入っていない日だった。
だが、バイトに馴れる一方で、FCの方ではどうもスランプに嵌まっているらしかった。エイムの強さに陰りはないものの、マップ上の敵の動きを読み違えることが多かった。
あすみは、以前の紗和との決闘が尾を引いているのだと考えていた。そして、このスランプは一過性のものだとも。ところが、あすみの意に反してランクマッチの成績は目に見えて下降する一方だった。
撃ち合いの強さだけでは、やっぱり駄目なのか……。
あすみは、この頃弱気になっていた。悪いことに、弱気がプレイに出てさらに勝率を落とす悪循環に陥っていた。
そして、あすみは紗和のランクの成績がこの頃みるみる良くなっていることを知っている。
どうして勝てない?
あすみは、いつものようにプレートをたわしで擦りながら考えに耽る。
そのとき、「小池さん」と、いつかのように背後から声が掛かった。
振り返ると、やはり店長が忙しそうに、それでいて如何にも辛そうにフライパンを振って「ホール! 出て!」と言っていた。
あすみだって、同僚に迷惑を掛けるのは嫌なのだ。だが、店長に言いつけられたのではしょうがない。早速、注文待ちしていたテーブルをそれぞれ当たって、厨房で作るメニューは厨房に通して、バイトが作るサラダやライス、スイーツの用意に取りかかった。
あすみが用意したサラダはドレッシングを掛けすぎて、ライスは普通は縁を綺麗にへらで丸めるのに、それを忘れてごわごわしていた。それでも、なんとか客の注文をやり過ごすことができた。
そして、ほっと一息つく頃に、窓際のテーブルに以前見た顔があることに気が付いた。秋頃に高梨と一緒に座っていた女……奈緒だった。高梨からうさみみの件は聞いていたから、奈緒が彼の恋人であることは知っていたが、奈緒が見知らぬ男と親しそうに話しているものだから、あすみは何事かと訝しんだ。
それから厨房の奥で、彼女の座っているテーブルを注意深く見ていた。
どうみたって、恋人同士の距離感だ。
あすみは、複雑な心境で腕を組んだ。高梨は彼女と別れたのだろうか?……特にそういう話は聞いていないが……。彼はこのことを知っているのだろうか。
そもそも、ブースで話す日常会話といったら、殆どクソロンゲの日常なのだ! ボイスチャットを繋げても繋げていなくとも、いつもあすみの向かいに座るクソロンゲの口からは止めどなく来年春に受験を迎える涼子の個人情報や、最近面白かったゲームに関するニュースのことが流れているのだった。そして、クソロンゲから一つ席を空けて座っている高梨は、ゲーマーらしい物静かな表情でとくとくと画面に集中しているばかりだ。
高梨としては、FCをプレイしているのは、ゲームが楽しいからというよりは何かを習慣的に続けることの惰性だった。彼にFCのモチベーションがあるとすれば、それは失ったうさみみが尾を引いているのだった。
今日はまだ紗和の姿もあすみの姿も見えない。クソロンゲは既にFCをプレイしていたが、高梨は漫画本を読んで、残りの面子が来るまでの暇を潰していた。だが、本を読んでも内容が頭に入ってこない。気がかりなのは、最近連絡が疎かになっている彼女の奈緒だった。
「高梨君、そういえばうさみみの最高取引金額更新されてたよ」
「へえー」高梨は気のない風に返事をした。実際、最早高梨にとってうさみみは過去となりつつあった。「で、幾らっすか?」
「九十万円だってさ」
クソロンゲは、自分のスマホでニュースの記事を高梨に見せた。
「すげーな……韓国?」
韓国は大抵のオンラインゲームで最もプレイ人口が多く、コミュニティが活発だ。本来規約に反するRMTだが、その裏市場も当然人口に比例して大きいはずだった。前回八十万円で売買が行われたうさみみも、韓国国内での取引だったらしい。
「買い手は韓国だったらしいけど、売り手は日本だってさ」
高梨は、持っていた漫画を危うく取り落としそうになった。
売り手が日本だったということは、日本のサーバーでうさみみは見つかったということになる。高梨は胸の内にムクムク不吉な予感が湧き上がってくるのを感じていた。
彼らが座っている席の向かいに、紗和がのこのこ歩いてきた。紗和は、外套を脱ぐなり、「高梨君、なんだか顔色が悪いわ」と心配そうに呟いた。「調子でも悪いんじゃない」
確かに、高梨の顔は青ざめていた。
クソロンゲは、隣に座っていたというのに紗和がそう言うまで全然気が付かなかった。
「いや、平気っす……ちょっと失礼」
高梨は俯いて呟いて、ポケットからスマートフォンを慌ただしく取り出した。そして、そのままブースを出て行ってしまった。
クソロンゲは、不思議そうな顔をして高梨の背中を見送った。
コートも着ずに一旦店の外へ出た高梨は、奈緒をコールしているスマートフォンを耳に当てていた。しかし、奈緒は結局通話に出ず、仕方が無く「ちょっと会って話したいんだけど」というメッセージを残しておいた。
そこで、バイトを終えた後のあすみと行き会った。
「高梨」と、あすみは声を掛けた。「何してんの。上着も着ないで」
「ちょっと彼女に連絡してただけっすよ」
「彼女?……ああ……」
あすみは、今日、奈緒が他の男と親しそうに話をしていたことを思い出した。
「彼女って、二週間くらい前にファミレスで会ってた女の子?」
高梨は、既読の付かないLINEの画面を見つめながら、ぼんやりと頷いた。
あすみは眉を顰めて、ジャケットのポケットに手を突っ込んだまま、その場でブーツの底で地面を擦った。高梨は、何か言いたげなあすみの様子には気が付かず、スマートフォンの画面を見つめている。
「高梨さあ」とうとうあすみは重い口を開いた。「なんかあの子に騙されてるんじゃない?」
高梨はドキリとして、顔を顰めてあすみの眼を見る。
「騙されてるってなんすか」
あすみは一瞬哀れむような眼を彼に向けたが、すぐに通りの方を向いた。
「さっきバイト先であの子見たの。なんか男の人と親しげに話してた」
それから、少しの間高梨は黙っていた。黙っていたというよりは、停止していた。彼の頭の中は色々な思考が渦のように混じり合って訳の分からないことになっていたのだった。あすみは、しばらくの間ショックを受けているらしい高梨の顔をちらちら見ていたのだが、高梨の黒目が、細かく不気味に震えていることに気が付いてからは心配そうに声を掛けた。だが、高梨を呼ぶあすみの声も今の彼の耳には届かないようだった。
「……高梨?」
「……」
「高梨!」
「……」
あすみは困り果てて、自分の髪に手櫛を挿した。だが、高梨は急に再起動して、焦点が合った眼を取り戻した。そして、こう言った。
「まだ、奈緒は店にいますかね?」
あすみには、高梨の言う奈緒というのが、件の彼女のことだとは話の流れで分かった。
「さあ……私が上がるときには、まだいたような気がしたけど」
そう聞くや否や、高梨は上着も着ていないのに走り出してファミレスの方面へ行こうとした。
「高梨、ちょっと待ちなよ! どこ行くのさ!」あすみは慌てて呼び止めた。
高梨は立ち止まったが、振り返って一言、
「うさみみを、取り戻しに行くのです」と決然と言い切って、また走って行ってしまった。
あすみは突然現れた「うさみみ」という可愛いワードに、少しの間ぽかんと口を開けて呆然としてしまった。あすみの頭の中には「うさみみ」という言葉に関連する幾つものイメージが渦巻き始めた。……小学校の頃、飼育小屋にいた兎(いつの間にか一匹増えてた)……とある童話のカツアゲ〈服のボタンを留めていたのか?〉されている兎の挿絵……とあるパチンコのキャラクター(バニーガール)……にんじん(これはあまり関係ないか?)……クリティカル率……。
……こないだ言っていたレアアイテムのことか! うさみみ!
そう気が付くと、あすみには高梨を取り巻く事情がある程度分かってきた。……つまり、長いことうさみみを探していた高梨は、てっきり匙を投げたのだと思っていたのだが、実は発見していたのだ! そして、あろうことに苦難の末に手に入れたうさみみを、今、恐らく不貞を働いている奈緒にプレゼントしてしまったのだ!
なんて……、
あすみはなんとも深刻な彼の境遇に思いを馳せる。
……なんて情弱なんだ、高梨……。
とにかく、なんだか大変なことになりそうだ!
あすみは急いでネットカフェのブースに入った。丁度、FCで上手くやった所だったのか、「うい~い」と言いながらクソロンゲが、スクリーンから身を乗り出して紗和と下手くそなハイタッチをしているところだった。
「ちょっと、なんか高梨がファミレスにすっ飛んでいっちゃったのよ!」
クソロンゲも紗和も、非常な剣幕のあすみが変なことを言うから驚いた。
紗和が、「あすみちゃん、ちょっと落ち着いて。何があったの?」と心配そうな声を出す。
「高梨君がどうしたって?」と、クソロンゲが興味深そうに尋ねる。
だが、言葉とは裏腹に彼女達の手元と視線は一心にゲームへ向かっている。
あすみは責め立てるようなキツい眼でゲームをしている二人を見た。クソロンゲも、紗和ですらも、同じようなバツの悪そうな表情を浮かべた。
「ちょっと、もう少しで勝てそうなんだ……」クソロンゲが言い訳がましく、額に汗を浮かべて言った。
「これだからゲーマーは!」
あすみは、自分のことは一先ず棚に上げて嘆いた。ゲーマーというのは、こうなのだ。いつだって「ちょっと待って」と「もう少し」なのだ。これが世間にゲーマーが白い目で見られる由縁なのだ。
あすみはブースからとって返そうとしたが、そこに紗和の「あすみちゃん!」という声が掛かった。やはり画面からは眼を離さなかったが、右手で高梨が先程まで座っていた席を指差した。
「高梨君のコート、持って行ってあげて」
あすみはそれには首肯して、高梨の席に掛かっていたコートを丁寧に畳んで脇に抱えて、ブースを出て行った。
駅前通りのタイル敷きの道を、ブーツの底をごつごつ鳴らして走りながらあすみはこう考えていた。
こういう役回りは、私らしくない。
ファミレスに着くと、あすみは真っ先に奈緒と男が座っていた窓際の席を外から確認した。今は、別の家族連れが席を利用しているようだった。
高梨はどこに行ったのだろうか?
取り敢えず店内の様子を見ようと入り口に近づいたとき、店の裏の方から男の変な掛け声のようなものが聞こえた。
店の裏手は遊歩道に面していて、シダレヤナギの並木道になっている。丁度、今日の夕暮れ頃に洗い場の窓から見ていたあのシダレヤナギだ。
そこに、二人の男が立っている。
遊歩道の脇に立つ、白色の街灯だけが彼らのシルエットを夜の闇から切り取っている。向こうの川からは星の光が反射して瞬いている。
二人の男は、「なんだぁ~てめ~え」「こいや~おら~あ」と妙な節を付けた声で挑発しあっている。右手に立っている男は、耳のところにピアスが光っているから、高梨だと分かった。ファイティングポーズのつもりなのだろうか、顔の前で枝のように細い腕を八の字に上げているのだが、脇が開きすぎてどうみても殴るのに不向きな構えだった。
対する制服を着た男は、どうやら奈緒と同じ高校の生徒のようだ。取り敢えず手近にあった武器を探したのか、ひょろ長いシダレヤナギの枝を下段で構えて、枝の先をひゅんひゅんしならせて威嚇しているらしい。
なんだこれ……。
そういえば、あの二股女は?
あすみは、辺りの暗闇に奈緒の影を探した。しかし、そこにあったのは二人の男の影だけだった。
そのとき、高梨がうなり声を上げて対面している男に突撃していった。
高梨を迎え撃つ、枝を持った男は「きぇあぁぁ」と変な叫び声を上げながら高梨の頭に枝の先を叩き付けようとした。しかし、高梨が左手で枝を受け止め、たやすくへし折った。対面していた男は明らかに狼狽えて、街灯の下に後ずさった。そこで分かったのだが、その男も高梨と同様にひょろひょろした男で、四角い顔には眼鏡が掛かっていた。
「高梨! 止めろ!」
あすみは彼らを制止させようとして叫んだ。しかし、頭の中がアドレナリンまみれの二人には全くあすみの声が聞こえなかった。
後ずさった男に、高梨は右ストレートをお見舞いした。……お見舞いしようとしたらしい。あすみの予想通り、殴るのに不適なファイティングポーズだったから、殴打というよりは上から腕を振り下ろす打擲のようなパンチになっていた。傍から見ている限りは、あまりダメージにはなりそうもない。
だが、少なくとも男の眼鏡をはたき落とすことには成功したようだ。
もみくちゃになっている二人の男の影から、「眼鏡ッ」と悲鳴が聞こえたからそれが分かった。高梨はそのまま男に詰め寄りながら、上から腕を振り下ろす攻撃を右手、左手とラッシュする。打たれている男は背中を丸めてそれを受けながらも、高梨の腰に腕を廻して、押し返した。それでまた闇の中に二人の影が紛れる。
もしここにボクシングのレフェリーがいたら、ブレイクしているところだ。
あすみは、もう、ただ突っ立って男の取っ組み合いを見ていた。これはもう彼女にはどうしようもない事態だった。
「うどああぁぁ」
取っ組み合っていた男たちの影が、急に倍の高さほどに伸びた。ラッシュを受けていた男の方が、火事場の馬鹿力で高梨を持ち上げたのだ。持ち上げられた高梨は、丁度脚が真上に向かう形の体勢だった。それで、自由になっている脚をバタバタさせる。
あすみには、急に伸びた影の先っちょが不気味に二股になって、じたばたしていることしか分からない。そこで、ふっと影が消滅したから驚いた。
「高梨!?」
あすみは、急いで影が消えた場所に駆け寄った。
そこは川に向かって小さい坂になっているのだった。高梨を持ち上げた男はここでバランスを崩して、偶然にもプロレスのブレーンバスターのような形で転がり落ちていったのだ。
川の脇の草むらでは、もうグロッキーになりながらも、二人の男が先程のように向かい合っていた。川辺の光の反射で、土手の上よりは二人の姿がはっきり見える。皮肉にも、疲れのために二人のファイティングポーズは先程よりはましになっているようだった。脇を開いていた高梨のファイティングポーズは、今ではぱたんと閉じてきちんとボクサーらしいものになっている。四角い顔の男は息切れをしているが、先ほどのブレーンバスターに味を占めたらしく、レスラーのように姿勢を低くして高梨の様子を窺っている。
「……返せよ……」
高梨が、息切れの合間に呟いた。
四角い顔の男は顔を顰めて、「ああ?」とこちらもどうにか息の合間に呻いた。
「うさみみ……返せよ……」
二人の男は慎重に間合いを取り合って、草むらをゆっくりした足取りで回り始めた。
「奈緒じゃ……ねえのかよ……」四角い顔の男は、かかかと渇いた喉を鳴らした。笑ったらしい。「そんなだから……利用されんだよ……負け犬が……」
土手の上に立っているあすみは顔を顰めた。あまりの言われように、高梨はさらに激昂すると思ったのだが、じっくり脚を運ぶ彼は少しも傷ついていないように冷静だった。
「今まで、てめえが集めたレアアイテムは、俺が、全部金にしてやった!」
四角い顔の男がそう言ったとき、高梨の放ったジャブが、あすみから見ても綺麗に顔面に命中した。四角い顔の男は右手で鼻を押さえて、手の影からは鼻血が出ていた。
やった!
いつの間にやらあすみは高梨を応援している。
「女とか、金とか、他のレアアイテムなんて、どうでもいい」首を回しながらファイティングポーズを構える高梨は、鼻を押さえている四角い顔の男に近づく。
「うさみみだ! うさみみを返せっつってんだよ!」
高梨はそう叫んで、大振りな右ストレートを放った。しかし、四角い顔の男は際どいところで背中を丸めてそれを避けた。そしてそのまま、高梨の腰に手を回す。
「ふぬぅぅぅぅ」四角い顔の男は鼻血で口元を濡らしながら、鬼のような形相で高梨を持ち上げた。
ブレーンバスターの体勢だ!
「高梨! 頑張れ!」あすみは叫んだ。
その応援が聞こえたのかどうかは分からないが、高梨は一生懸命自由になっている脚をしゃくとり虫のように暴れさせた。そのあがきが功になって、「ぬあぁん」と四角い顔の男が呻いてバランスを崩した。そして高梨を元の体勢で地面に戻してしまった。すると、今度は高梨が四角い顔の男を憤怒の形相で持ち上げる番だった。
それはもう、見事に持ち上がっていた。
四角い顔の男の脚は、兎の耳のようにピンと天に向かって伸びていた。
「おらぁぁぁ!」
高梨の叫び声は、川辺に響いた。
そして高梨は、そのまま自分の体諸共、草むらに四角い男を叩き付けた。
*
草むらに倒れ伏して星空を見上げている高梨に、あすみは彼のコートを投げて寄越した。四角い顔の男は気を失っているらしい。鼻血は止まっているようだし、多分平気だろう。
喧噪が静まった川辺の草むらでは、秋の虫がぎこぎこ鳴いている。蛙の鳴き声も聞こえる。
「グッドゲーム」と、あすみは声を掛けた。
グッドゲームとは、オンラインゲームの試合後などで「gg」と略して敵味方問わず交わされる挨拶だった。「お疲れ様」だとか、「良い試合だった」だとか、そういった意味が含まれているスラングだ。
高梨は、寝転がったまま腕を少し振り上げてあすみに挨拶した。
「良い勝負だった《グッドゲーム》? 馬鹿言わないでくださいよ……」
それから彼は大儀そうに立ち上がって、コートを羽織った。口元が腫れていて、唇と腕の擦過傷から血が出ていた。
「こんな喧嘩に勝ったって、何にもならねえ。うさみみだって帰ってこねえし、金はあいつらのモンだし、俺が負け犬だってことも変わらねえ」
「底辺なんて」あすみは何故か少し憤慨して言った。「自分で言わないでよ、全くもう……」
それから、彼女たちはネットカフェの方向に、並んで遊歩道を歩き始めた。
道中、高梨が口元の血をティッシュで抑えながら、こう話かけた。
「俺、うさみみがフィクションだったとは思えないんすよねえ」
「ん?」
「うさみみが手に入った瞬間、俺はハッキリと感じたんですよ。ああ、俺はこのアイテムを手に入れるためにこのゲームを続けていたんだ! って……彼女に言われたからでもなく、他のアイテムを探していたからでもなく……」
「うん」
「俺、マジでうさみみのこと大事に思ってて。所詮ゲームのアイテムだって、自分でも思ってたんですけど」
「……」
「うさみみを奈緒にプレゼントすることで、少しでも俺の気持ちが伝わるんじゃないかと思ったんすけど」
「……」
それから少し間があった。ただ、虫がぎこぎこ鳴いているのと、蛙がげこげこ鳴いているのが聞こえ続けていた。
「……ま、結果がこれじゃね」と、あすみは呟いて、小石をブーツで蹴飛ばした。
「フィクションにだって、少しは……」高梨は、羽織っていたコートを着直した。「ほんの一片くらいは、ノンフィクションの部分だってあるって、思ってたんですけど」
「そうね」
素っ気ない返事の割には、あすみは高梨が言わんとしていることに、内心深い理解を示しているのだった。
うさみみは、高梨の心そのものだったんだ。
所詮ゲームのアイテムにだって、そういう思いを持つことは、あるのだ。
「そういえば、あすみさんって元プロゲーマーなんだって?」
「……ん?」
「プロともなれば、ゲームだって殆ど
あすみは、ポケットに手を突っ込んだまま肩を竦めた。
「ま、そうかもね」
*
高梨がシダレヤナギの並木道での決闘を終える一方、殆ど時差の無い韓国の、とあるネットカフェでの出来事だった。こちらでは日本の、基本静かなネットカフェとは打って変わって明るく騒がしい。大きなフードコートにパソコンを操作するできる席がたくさんあるといった感じで、実際に店内には入り口近くの厨房から料理の香りが店内に漂っている。中には様々な年齢の客がいる。中学生くらいの男の子が四人固まって同じオンラインゲームをプレイしていたり、老人が黙々とオンライン麻雀をプレイしたりしている。
そして、中央辺りの席に、五人組のオンラインRPGをプレイする集団がある。彼らは、とあるギルド(FPSにおけるクランのようなもの)の創立メンバーだった。彼らのギルドは全体の中では大手に一歩及ばない中堅といったところに位置しているが、最近のギルド間の戦争では勢いがあった。一部の地方では、大手のギルドを押しのいて制圧している程だ。
そして今、彼らが拠点としている街の広場に、ギルドメンバーの面々が集まっていた。
五人の創立メンバーのキャラクターも中にいる。そのうち、個性豊かな外見のキャラクターがわちゃわちゃしている中から、西洋の甲冑姿のキャラクターが広場の舞台に進み出た。体力バーの上にはPikeという名前が記されている。
彼はギルドのリーダーだった。
「今年も、戦争のシーズンが間近に迫っている」と、Pikeはゲーム内チャットで、勿体ぶって切り出した。「前シーズンからは、北方地方を担当するYon氏の兵役の為に、我々の指揮系統にとっては手痛い損失となったが」
何せ、戦争は普段のモンスター退治とは比べものにならないくらいのプレイヤーが参加する、対人戦なのだった。ギルド内ではトップダウンで全体の指揮を執るために、各地方の各拠点に分隊を設置していた。Yon氏は、北方では重要度の高い拠点のリーダーだったのだ。前シーズンからは、代わりに北方補佐のChanChan12氏がそのポストに収まっていたが、分隊としてのパワーは誰の眼から見ても、明らかに落ちていた。
「今シーズンの目標は前シーズンと変わらない。山岳地帯の制圧だ」
「山岳地帯は競争率が高すぎます」西方担当のViper氏がゲーム内チャットで声を上げた。「資源を狙って大手も参入してくるに違いありません。今シーズンは平原地帯を確保し、拠点を拡張するべきでは? Yon氏が不在の今なら、尚更……」
山岳地帯は鉱山資源が豊富だが、その分競争率が高い。対して平原地帯では資源があまり取れないものの、建造物を設立するハードルが山岳地帯と比べてかなり低い。
だが、「案ずることはない」とPikeは決然と言った。「今シーズンの我々には決戦兵装があるのだ」
次の瞬間、Pikeは舞台の上で甲冑の装備からうさみみ装備に変身して見せた。
広場に集まっていたギルドメンバーたちは興奮に湧き上がった。彼らは揃って「うさみみ!? うさみみだ!」と口々に発言している。先程異議を唱えたViper氏でさえ、「すげえ! 初めて見た!」と感動に打ちひしがれていた。
ゲーム内でのギルドの会合が終わったあと、五人の創立メンバーはネットカフェの向かいにあるスンドゥブチゲ屋で卓を囲んでいた。
「皆には、RMTで手に入れたことは言わないでおくの?」
創立メンバーの一人、老いた女が言った。彼女は丁度、紗和と同じ年頃だ。
「言う必要はないさ」と、ゲーム内でPikeと名乗っていた男が言った。「汚いやり口で手に入れたことには変わらないからな」
「けど、RMTなんて大手だったらどこでもやってるぜ」こう言ったのは、若い男だ……丁度二十代になりたてといった感じで、チャラチャラした風貌に分厚いレンズの眼鏡を掛けている。
「韓国と日本の事情は違うんだよ。日本のサーバーからの輸入というだけで凍結のリスクは跳ね上がる。こっちでは最近黙認されている気配が強いが……」
その時、彼らのテーブルに注文した酒が廻ってきた。一同は杯を手に取り、Pikeは立ち上がって同席者を見渡した。
……この男達も、日本の紗和たちと似たような成り行きで集結した者たちだった。今立ち上がっているPikeは三十代という若さでIT企業のCEO。それに、息子二人が独立した後の六十代の主婦、資産運用で不労所得を得て生活する五十代の男、視力が悪いあまり兵役を免れた二十代の男、自称トランスジェンダーの同じく二十代の女……。ただし、彼らは紗和たちと違って、出会ってからもっと多くの月日を過ごしていた。
初めは五人だけのギルドから、一人、また一人とメンバーを増やし、時には別れ、時には裏切られ、時には勝利を経験して、とうとう競争の激しい韓国のサーバーで中堅と呼ばれるまでにギルドを成長させた。
そして、彼らは多かれ少なかれ出資し合って、高梨の発見したうさみみを購入したのだった。金のない者はゲーム内通貨を現実の通貨に変えた。
「改めて見ると……」
Pikeは右手に杯を持ちながら笑みを浮かべた。彼は、中国で考案されたという最新のうさみみビルドの、一切統一性の無い奇天烈な風貌を思い出していた。
「まるでハイランダーだな。我々は」
着席している一同は互いの顔を見回して、同じように笑った。
「それでは、来る戦争の健闘と……名も知らぬ、日本のうさみみ発見者の幸運を祈って。乾杯!」
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