第三章 目の色で分かった

 紗和たちのクランの名前は「ボーパルバニーエース」というのに決定した。

 あの川辺の事件からネットカフェに向かっている道中、高梨がそう提案したのだった。

「ボーパルバニーエース?」

 あすみは不思議そうに繰り返した。

 高梨によると、ボーパルバニーというのはうさみみをドロップするボスの名前から取り、エースというのはなんとなくカッコイイからということだった。

「ボーパルバニーエースか……」

 ボーパルバニーというのは、殺人首切り兎のことだ。様々なゲームに登場するから、あすみも聞いたことがある。元ネタはイギリスのコメディ映画だったか。「首を切る」という部分が、ゲームではしばしばクリティカル攻撃をしてくる敵としてデザインに落とし込まれるのだ。

 Frontal Collapseで言えば、ヘッドショットといったところか。……悪くないかも?

 心の中で反芻する内に、あすみは結構その名前が気に入り始めた。

 ……いや、ちょっと待て!

ーパル、ニー、ース? ……クランタグにしたらBBAババアってことになるじゃない!」

 あすみはその時紗和の顔を思い浮かべていた。

「いや、ならねっすよ」

 そう言って、高梨は歩きながらスマートフォンで「ボーパル」の語源を解説しているページを開いて見せた。「鏡の国のアリス」の挿絵と、「vorpal sword」という綴りが記されてある。ルイス・キャロルが創作した形容詞で、「verbal(言葉)」と「gospel(真実)」の合成語という説が有力のようだ。

 つまり、ボーパルバニーエースの綴りはVorpal Bunny Aceということになる。

 

「VBA?」

 紗和は、自分の名前の横に付いたクランタグを読み上げた。

「クランタグは、普通チーム名の単語の頭文字を取るの」と、あすみが補足説明する。

「いんじゃない?」クソロンゲも、高梨の考えたクランの名前を気に入った様子だった。「かっこいいじゃんね。ボーパルバニーエース」

「まあ、特に名前の意味は無いんすけどね」高梨は、謙遜した風に言った。

「とにかく、クラン名も決まったし、あとは来年夏の大会に向けて練習するだけじゃんね」

 あすみは呆れた顔をした。

「何言ってんの。大会に出るには後一人メンバーが足りないよ」

 基本的に五対五で試合が行われるFCでは、大会に出るにはVBAのメンバーが一人足りない。四人でプレイするときは一般チャンネルで「4vs4 クラン戦希望」という名前で部屋を作って待っていれば、そのうち四人のチームが勝手に入ってくれるのだが、公式ルールの大会ではそうもいかないのだった。

 だから、足りないメンバーを探すことが、彼女たちの抱える差し迫った問題だった。


 うさみみ事変(紗和たちは川辺での高梨の決闘をそう呼んでいる)から、高梨は一層FCに打ち込み始めた。彼のプレイスタイルは、エイムはあすみに遠く及ばないものの、フロントを張って積極的に撃ち合うという点で、あすみのそれと似通っていた。クソロンゲと紗和に比べてFCを始めた時期が遅い高梨だったが、若さのためか、勉強以外の殆どの時間をFCに注ぎ込んだからかは分からないが、あっという間にチーム内で撃ち合いではあすみに次ぐ実力となった。

 クソロンゲは割とオールラウンダーにマップを動くプレイヤーだったが、チームの役割分担から、自然と紗和と同じくサイドに回ってオブジェクトにアプローチするようになった。

 この頃はチームメンバーの各分担がハッキリし始めているのだった。あすみと高梨は撃ち合いに集中し、チームプレイの巧みなディエゴに師事する紗和は、サイドに回りながらもマップ全体を見て、敵の動きを予測しチームメンバーに伝える。役割としてはパッとしないクソロンゲでも、まだ撃ち合いの苦手な紗和をサポートする形でしっかり活躍していた。

 あすみとしては、高梨の急激な成長よりも、紗和の熟練のFPSプレイヤーのようなマップを把握する技術に眼を見張っていた。……自分の苦手な方面で才能を開かせる紗和に対して、多少悔しくも感じ、同じくらい頼もしく感じていた。

 そして、ネットカフェで四人が面を合わせたときには、試合を始める前にチームとしての動き……スモークグレネードを用いたセットプレイや、フロントとサイドそれぞれの攻略プランを綿密に打ち合わせるようになった。

 だが、それでも喫緊の問題である足りないチームメンバーに関しては手付かずのままだった。

「もう、いよいよとなったら代行業者でも雇いましょうか」

 紗和と向き合って座っている高梨が言った。その日は珍しくあすみ以外の三人だけがいた。

「代行なんて頼んでどーすんのよ」と、クソロンゲは笑い飛ばす。

「代行業者って、なに?」

 紗和が聞く。耳慣れない言葉だ。

「お金を貰って、ゲームを代わりにプレイする業者のことっすよ」

「代わりに?」

「ほら、ランクを上げたりとか」

「……なんでそんなことするのかしら?」

 クソロンゲは、高梨の説明にこう補足した。

「例えばプロ向けの大会だと、あるランク以上じゃないと参加できないっていう決まりがあるんだよ。だから、自分より上手い業者にランクをあげさせたり」

 これに驚いたのは高梨だった。彼はチームでの試合ばかりで、ランクマッチは殆どプレイしていなかった。

「ランクの制限! マジで!?」

「いや、来年夏の大会にはランクの制限なんてないよ。といっても、アマに混じってプロも出てくるけど」

「……なんだ、良かった……」

「でも、ゲームは自分でプレイするのが楽しいんだと思うわ」

 紗和は、いまいち的を射ない疑問を呈した。

「俺もそうは思うけど。まあ、見栄とか? 特に有名なプレイヤーだったら色々あるんじゃないかな」


 足りないメンバーの問題は、冬が深まるにつれて各々が真剣に考えるようになっていった。クソロンゲと高梨はまず、ネットカフェの他の常連に声を掛けたりもした。しかし、MOBAで今シーズンの目標に到達していたクソロンゲや、オンラインRPGを止めた直後の高梨のような人間は中々いないのだった。そもそも、ネットカフェの常連たちは各々が熱を上げているゲームをプレイするため、ゲーム推奨PCブースに通っているのだ。

 紗和とあすみは声を掛けるような知り合いがいなかった。今からチームに入って来年夏の大会を目指すとなれば、まず時間を持て余していて、ゲームの勘がある若い人か、さもなければFCを既にプレイしたことがある人がベストだった。しかし、彼女たちの知り合いにはそんな人間がいなかった。

 ただし、紗和には一人だけ心当たる人物がいた。顔も知らないディエゴだ。だが、ディエゴは今、春に行われる別のゲームの大会に向けて集中的な練習をしているらしく、彼とボイスチャットを繋ぐ機会は訪れなかった。


 *


 そのうちに、紗和たちの住むのどかな町にも、クリスマスがやってきた。

 ネットカフェの入り口が面している通りの街路樹にはもうすっかり葉がないが、代わりにクリスマスらしい賑やかな電飾が付いている。路上を歩けば、サンタの帽子を被った飲食店の店員がチキンを売っていたり、ケーキを売っていたりしている。

 あすみは辛気くさい顔で洗い場の窓から裏手の遊歩道を見ていた。

 シダレヤナギの枝にはすっかり樹氷が付いて、花火が打ち上がった後みたいに地面に向かって垂れている。タイル敷きの道は雪が積もって、太陽の光を眩しいくらいに照り返している。

 焦げの付いたプレートは、シンクに堆く積まれている。

 洗う暇が無いのだ。……今日は十一時頃からはもう次々と客が入ってきて、店内のテーブルが全部埋まってしまうくらいなのだ!

 その日、運悪くシフトだったあすみも紗和も、フリーターの男もてんてこ舞いだ。今日の客ときたら大人も子供もすっかり浮かれていてバイトが用意しなければいけないソフトクリームやパフェなどを注文するのだ。それに、勿論新規の客が来たら慌ただしくグラスに氷と水を入れて出しにいかなければならない。

 あすみは厨房で紗和が苦手としているアイスクリーム作りに勤しんだ。紗和はホールであすみの苦手としている接客を一生懸命熟している。

 ふとした時に、彼女たちは厨房の奥で擦れ違った。紗和は料理を運ぶため、あすみは足りなくなったソフトクリームのパックを補充するためだった。

「この忙しさときたらゴールデンウィーク以来だね! 全く……」

 あすみは、業務用の冷凍庫に上半身を突っ込みながら早口で毒づいた。

「そういえば、去年の今頃はあすみちゃん、まだここで働いていなかったものね」

 紗和はあすみよりも半年早くここのバイトに勤めていた。

「まあね」

 あすみは、パックのダースを冷凍庫から取り出して、バタンと蓋を閉めた。

「そうか。そういえば、私がここで働き始めてもうすぐ一年になるんだ」

 あすみは、そう呟いて今年の一月、紗和と初めて出会った日のことを思い出していた。

 ……あのとき、ソフトクリーム作りに苦戦していた、あの不器用なババアとまさかFCでクランを組むことになるとは……。

 紗和も、同じようにあすみとの出会いを思い出していた。あのとき、目も合わせないでぶっきらぼうに挨拶した女の子と、こう仲良くなるとは思いもしなかった。

 ……接客に関しては、随分進歩が遅かったようだけれど。

 紗和は、口元に笑みを浮かべた。


 昼のピークを過ぎてようやく客が引けてきた頃、ホールに立っていたフリーターの男が青い顔をして、洗い場でプレートを擦っていたあすみに駆け寄ってきた。

「あ、あすみちゃん。ちょっと来てくれ」

 あすみは、この男を心底嫌っている。振り向かないままで、「なんで」と低い声で返した。

「外国人が来たんだよ! おばあちゃんに英語なんて分かるわけねえし、ここは最終兵器の出番だろ!?」

 そういえば、私は最終兵器的扱いをされているのだということを、あすみはその時思い出した。

「外国人……」

 あすみは深刻そうに呟いた。

 確かに、あすみにはこの男や紗和よりは英語が出来る自負がある。実は、あすみは学生時代、結構英語の成績が良かったのだ。それに、昔はオンラインゲームのチャットでしょっちゅう外国人と喧嘩をしていた。

 だが、あすみの脳内英文法は、実践の機会に際してもうしっちゃかめっちゃかになっているのだった。

 What the fuck(意味が分からん)という英語圏のネットスラングと、Laugh out loud(ウケる)というネットスラングしか彼女の頭の中にない。

 それでもあすみはテーブルまでの道々、なんとか頑張ってMay I help you?(いらっしゃいませ)というフレーズを思い出した。しかし、「ご注文は何でしょうか?」が、幾ら考えても出てこない。考えているうちに、外国人が座っているというテーブルに行き着いてしまった。

 ところが、紗和がテーブルに座っている客と楽しそうに会話しているから、あすみは驚愕した。

「バアさん、英語喋れたの……?」

 あすみが掠れた声を出すと、紗和はあすみの方を振り返って客に言った。

「ほら、あすみちゃんもいるのよ」

「おおー」

 感嘆の声を上げたのは、奥の椅子に座っていたドレッドヘアの男……クソロンゲだった。

「……クソロンゲ?」

 クソロンゲの向かいに座っているのは、金髪碧眼で白人の少女、涼子だった。

 涼子はあすみに「お久しぶりです。あすみさん」と、日本人らしい挨拶をした。それから、「お父さん、本当にクソロンゲって言われてるんだ」と、涼子は呆れかえるように言った。

「だって、俺のアカウント名がそうなんだから。しょうがないじゃんね」

 確かに、この二人が店先に見えたら外国人が来たと思うだろうな、とあすみは思った。

「それにしても、バアさんとあすみさんがバイト仲間だったとはね!」

 クソロンゲは、改めて感嘆した風に言った。

「あれ、言ってなかったっけ?」と、あすみは紗和に向かって尋ねた。

「私もびっくりしたところだったのよ。改めて考えると、私たちってお互いのこと何にも知らないんだから」

 そういえば、VBAの面子がブースで顔を合わせても、試合のことや戦略のことを話し合うばかりで、お互いのことなど殆ど話していないのだった。ただ、クソロンゲの音楽の趣味や仕事に関することは、彼が一方的にボイスチャットを通して語っていた。

 だから、あすみも紗和も、涼子が来年春に受験を控えていることを知っている。

 あすみは、「それにしてもクリスマスにファミレスで食事なんて、しみったれてるじゃないの」とクソロンゲに言った。だが、すぐに自分はファミレスでバイトをしていることを思い出して気分が沈んだ。

 クソロンゲは気にする風でもなく、「まあ、クリスマスだし。たまには娘と外食しようと思ってさ。夜はもうちょっと良いレストランの予約取ってるんだぜ」と機嫌良さそうに言った。

「あら、良いわねえ」と、紗和は目を細めた。

 涼子が、「あすみさんは、今日の夜、何か予定入ってないんですか?」と尋ねた。

「え、私? 私は……バイト終わった後は、ネカフェにでも行くかな」

 紗和は、流石にあすみが哀れに思えて顔を顰めた。

 ……あすみちゃん、多分恋人はいないだろうし、家族と仲が悪いのかしら。

 そんなことすら考えた。

 紗和の哀れむような視線に気が付いたあすみは、「なにさ。何もクリスマスは家族や恋人と過ごす決まりなんてないでしょう!」と憤慨して言った。

「そうだ、涼子ちゃんが良いんじゃない?」と、紗和は思いついて言った。

「え?」

 涼子は、不思議そうに顔を上げた。あすみもクソロンゲも、紗和の言っていることが分からなかった。

「ほら、足りないメンバーよ。涼子ちゃんがクランに入れば、五人になるじゃない!」

「馬鹿言っちゃいけないよ」

 しかし、あすみはすげなく却下した。

「涼子ちゃんだって、受験で忙しいんだから」

 涼子は困ったような顔で、キョロキョロ二人の顔を見回していた。

 クソロンゲはメロンソーダをストローで吸いながら、上目遣いでじっと二人の様子を見ていた。

「受験って言ったって、大会は来年の夏だわ」と、紗和は食い下がる。「練習の時間なら、三、四ヶ月くらいはあるんじゃない?」

「ちょっとちょっと、大学一年生の春がどれだけ忙しいか知らないの? 無理に決まってるじゃない」

 それに、そもそも涼子が大学に合格するとも決まったわけではないのだ。

 そのときは、「ゲームの話ですよね? なんか面白そうです」と、涼子も中途半端な相づちをして、その話はうやむやとなった。 


 バイトのシフトが上がった後のあすみは、ファミレスで宣言した通り、ネットカフェに向かう日の暮れた通りを歩いていた。しかし、家族連れやカップルと擦れ違って歩くうち、家に一人でいる母親のことを思った。あすみの母は脚が悪いので、特別な要もなく外出することを嫌っている。

 クリスマスに家族と集まったって何するんだよ……とは思うのだが、今年……数年に一度くらいなら、そんな日も悪く無いかもしれない。

 結局、あすみはフライドチキンとケーキを買ってから真っ直ぐ家に帰ることにした。


 紗和は、バイトが終わった後は真っ直ぐ妹夫婦の家に遊びに行った。丁度、玄関先で甥の賢治と面を合わせた。独立はしているが恋人のいない彼も、この日は実家に招待されていたのだった。

 そこで、紗和はこの一年の間にバイト先で知り合ったあすみのことや、今プレイしているゲームのこと、ネットカフェで知り合った面々のことなどを話した。妹夫婦も賢治も、いつもは物静かな紗和が楽しそうに喋っているから、不思議そうな顔で彼女の話を聞いていた。

 賢治はてっきり、紗和がゲームセンターにあるコインゲームのコーナーに通っていると思い込んでいたから、FCという、賢治も知るFPSのタイトルを紗和の口から聞いたときにはかなり驚いた。

 まさか、このバアさんがFPSに嵌まるとは……。と賢治は考える。

 ま、オバさんの趣味……いや、生きがいが見つかって良かったじゃないか。

 賢治は、紗和にバイトを勧めた手前、内心してやったような気分で酒を飲んだ。

 紗和の妹は、「でも、お姉ちゃんもう年なんだから。あんまり無理しないようにしてね」と、髪の中に白いのが混じるようになった姉を心配して言うのを忘れなかった。


 高梨はその日は一日中家の自室にいた。実は、彼もそのうちネットカフェに出向こうかと考えていたのだが、昼から動画配信サイトで見始めた「母を訪ねて三千里」に嵌まって、夕方、夜と時刻が回っても見続けていた。しまいには涙を流す始末だった。


「お父さん、なんか楽しそうだね」

 人が混み合っているイタリアンレストランの奥まった席で、涼子はクソロンゲに言った。

「ん? 何が?」

「あのファミレスで働いていた人たち、お父さんと一緒にゲームやってるんでしょう?」

「まあな」

 普段はお喋りの止まらないクソロンゲも、娘の前では一転して無口な父親になる。彼は、自分の娘に対してどういう話題を以て挑めば良いのか分からないのだった。それに、涼子は今受験を間近に控えているのだ! ゲームの話題なんてして、機嫌を損なったりしないのだろうか? そう考えると、クソロンゲはますます無口になった。

「なんていうゲームやってるの?」

 だから、自然、二人の会話の主導権は涼子が持つことになる。

「FCってやつじゃんね。FPSだよ」

「ああ、Frontal Collapseやってるんだ」

 涼子がさらりと正式タイトル名を言うから、クソロンゲは意外に思った。

「なんだ。もしかして涼子、FCやったことあんの?」

 クソロンゲが尋ねた。すると、あすみこそ意外に思ったような顔でこう答えた。

「あるよ? うちのパソコンにインストールされてるじゃない。今年に入ってからはプレイしていないけれど」

 涼子の部屋には、家庭用ゲーム機がある。ただし、本棚に揃っているゲームソフトのラインナップはそう多くはない。彼女は父親程コアなゲーマーでは無いのだが、ネットゲーム家庭ゲーム問わず色々なジャンルに手を出してすぐに飽きることを繰り返していた。

「そういえば、昼に話していたチームメンバーがどうのこうのって、そのことだったんだ」

「そうだよ。大会は来年夏だから、そこそこ上手くて、時間が空いてる人を探してるんだけど」クソロンゲは、フォークで魚料理を突きながら肩を竦める。「中々見つからない。皆でどうしようかなーって話し合ってたとこさ」

 涼子は、「じゃあ、私入ろっか」とあっさり呟く。

「ええ?」とクソロンゲは眉を顰めて、「涼子が……?」と首を捻って呻く。

 ……娘とFPSの大会に出る親って、どうなのだろうか?

 少なくとも、ゲームライターをやっているクソロンゲだって聞いたことはない。しかも、アマチュア向けの大会ならいざ知らず、来年出る大会はプロ、若しくはプロを目指すプレイヤーが数多く出場する。

 しかも、涼子は今受験生だし。……いや、受験は涼子はきっと受かるはずだ。すると、三月の終わりには勉強を終えているだろう。しかし、受かったとしても一人暮らしするための物件探しとか……。

 忙しくなるんじゃないか?

「駄目だ。涼子、チームで練習する時間ねーだろ」

 すると、涼子は機嫌を悪くしたように口をすぼめた。

「でも、お父さんたち探してるのに見つからないっていうじゃない」

「まあ、そうなんだけど……」

「そんな完璧な人材、そこらで見つかるわけないでしょ? 高望みしすぎだよ。それに、時間だって取ろうと思えば取れるよ。私だって一日勉強漬けというわけでもないんだから、夜とかさ……」

「いや、お前それは」クソロンゲは額に汗を浮かべている。なんだか話がとんでもない方向に向かっている。「勉強は、疎かにしちゃあ駄目だろ」

「しないよ。勉強もゲームも両立できるもん」

 何故か、涼子はやけに食い下がる。

 結局クソロンゲは流れに押されて、後日紗和たちに紹介する約束を取り付けてしまった。


 *


 クリスマスが明けて、もう年末ムードの二十七日。

 ネットカフェの、ゲーム推奨PCブースにはVBAの面々が集まっている。あのクリスマスの日から、クソロンゲは彼らに口頭でこの日時にブースにいるよう頼んだのだった。ブースで居合わせなかった紗和には、ボイスチャットのテキストチャットに書き残してその旨を伝えた。

「妙なことになったなあ」と、あすみは不貞腐れて言った。「それもこれも、バアさんが思いつきで変なこと言うからだよ」

「ええっ? だって、涼子ちゃんなんて適任じゃない。若いんだし、ゲームもきっと上手いと思うわ」と、心外そうに紗和が言う。

「別に若い連中がみんなゲーム上手いってわけでもないんすけどね……」高梨も、彼女たちの向かいの席にいる。彼の胸には、未だにマルコ(母を訪ねて三千里の主人公)がお母さんと再会出来て良かったなあという感動の余韻がある。

「とにかく、私は反対だからね」

 あすみは言い放って、立っている立っているクソロンゲを、目を細めて睨み付けた。

 スクリーンの境目で立っているクソロンゲは、「皆様、ご多忙の中お集まり頂きありがとうございます……」と、恐縮しきって最敬礼した。

 周囲に涼子の姿はない。

「……で、涼子さんというのは?」と、高梨は興味津々で尋ねる。自分と同年齢の新しいメンバー候補に対する興味というより、このクソロンゲの娘がどんな面をしているか見てみたいのだ。

 ところが、「本日、うちの涼子はオンラインでの参加となります」と、クソロンゲは真面目腐って言うから、高梨はガッカリした。

 これは、クソロンゲと涼子が話し合って決めたことだ。クソロンゲの家には、大抵のオンラインゲームを動かせるそれなりのゲーミングPCが一台あるから、勉強で忙しい涼子はそれを用いて参加することにしたのだった。

 それから、彼らはボイスチャットに涼子を招き入れた。

 間もなく、「皆さん、こんばんは」と、ボイスチャットに初々しい涼子の声が聞こえてきた。

「お勉強は頑張ってる?」と紗和が尋ねる。

「ええ、お陰様でなんとか」

「初めまして。高梨です」と、高梨も変な顔して涼子に話しかける。彼も、知らない人とボイスチャットを繋ぐのは初めてなのだった。

「初めまして。よろしくお願いしますね」

 高梨はヘッドセットを取り払って、「よろしくお願いしますね、……だって!」と嬉しそうに声を上げて、座ったまま腕を組んで脚をバタバタさせた。何故か、高梨はこの状況を極めて愉快に感じていた。

 続いて涼子は、「あすみさんも、よろしくお願いします」と、清ました声で言った。

 あすみは癖毛に手櫛を入れながらも、「ま、今日はよろしくね」と返した。

 ともかく、今日はこの五人での試合の調子を確かめるために、三試合ほどプレイする予定を取り付けていた。ただし、正式にクランに入会していない涼子のアカウント名には、「VBA」というクランタグは付いていなかった。


 一試合目、紗和たちのチームは軽々と勝利を収めた。勝負を決めたのは、主に紗和とクソロンゲ、サイドによるセットプレイだった。チームバランスで涼子はフロントに配属され、彼女が使用していたのはライトマシンガン(軽機関銃)だった。ライトマシンガンは、全ての武器種中最も弾数が多い代わりに、かなり反動が強く、同時に重量がある。FCでは武器重量はそのままプレイヤーの移動速度に影響してくる。そのため涼子の脚は遅かったが、驚くことに反動の強さの割にエイムの正確性は高梨に匹敵するものだった。実際に、スコアボードでもチーム内で二番目にキルを取ったプレイヤーは涼子だった。

 高梨としては複雑な気持ちだったが、彼より撃ち合いが強いことは誰の目からみても明らかだった。ただし、それでもあすみは次元が違うようなエイムの強さを試合中発揮していた。

「今のは敵が弱かったよ」

 あすみは、それでも涼子の肩を持とうとしない。

「でも、私の言った通り。涼子ちゃん、やっぱり上手ね」と、涼子を擁護するのはやはり紗和だった。

「嬉しい。ありがとう、おばあさん」と、涼子は明るく受け答える。

 高梨もクソロンゲも、ちんと閉口している。初めて参加した涼子にスコアボードを上回れることは、彼らのプライドを少なからず傷つけた。

「チームプレイが出来る相手、来ないかな……」と、あすみは腕を組んでぼやいた。


 続く二試合目は、あすみが希望する相手が来たと言って良かった。相手チームのプレイヤーには全員に同じクランタグが付いていて、彼らも来年夏の大会に参加する予定のチームらしかった。勿論、彼らも紗和たちのような役割分担は済ませ、簡単なセットプレイなどは当然のように習得している。

 この相手は、紗和たちと比べてチームとしての動きがより洗練されていた。手こずりながらもなんとかマッチポイントを取ったところで、続く二ラウンド、連続でポイントを取り返されて敗北した。

 敗北はしたが、あすみとしてはあまりショックではなかった。チームとしてのプレイには、まだまだ伸びしろがあるとは彼女自信考えているところだった。

 だが……、

 あすみは背を凭れてヘッドセットを外し、肩の筋肉を揉んだ。

 問題は、涼子だ。

 高梨は、マイクに音声が入らないようヘッドセットを外して、あすみにこう喋り掛けた。

「あすみさん。俺はそんなに涼子さんの動き、悪いとは思わないすけど」

 疲れた様子のあすみは、高梨に目を向けた。

「まあ、悪くはないね」と、あすみもそこは認めた。それから、瞼を指で擦った。「けど、やっぱり大事な時期の受験生なんか、チームに引き入れる場合じゃないよ」

 高梨は曖昧に頷いた。

 もし進学校を退学していなければ、彼も今年のこの時期は受験勉強で忙しいはずだったのだ。いや、通信高校に通っていたって、その道が閉ざされたわけでは決してない。ただ、今の高梨にはゲームが必要だった。

 将来の見通しがある涼子を、彼は内心羨ましいと思っていた。


 三試合目の相手は、これまたクランだった、この試合はフロントの実力差が如実に出た。紗和たちがサイドを押さえ込みに回るタイミングで、フロントの面子が強引にプッシュ(前に出ること)することで、相手のマップコントロールを崩壊させ全滅させるか、オブジェクトを制圧するかの試合で、易々と勝利した。

 そして、こういった試合において、敵の位置が予測するハードルが低くなることを、紗和はこのとき初めて知った。「敵の動きと、味方がどう動こうとしているのかが分かる」と言った、ディエゴの言葉が思い出された。


 試合が終了した後は、改めて涼子をクランに迎え入れるかの話し合いが行われた。

 主に反対意見を主張したのはあすみで、逆に迎え入れる意思を示したのは、やはり紗和だった。

「涼子ちゃんがクランに入ることは、私たちにとっては力になることかもしれない。けど、涼子ちゃんは今大事な時期なんだから」

「そうは言っても、大会は来年夏にあるんだから……」

 というような押し問答を彼女達は繰り返した。

 高梨は、大筋ではあすみの意見に乗っかる形で慎重に反対意見を述べた。

「まあ、俺も心強いとは思うんですけどね」と、高梨が前置きをしてから「でも、受験が終わってから本格的に練習するとなると……」と言葉尻を濁したところで、

「無理が出るよ」とあすみが言葉を引き継いだ。

 こうして、クラン内での話し合いは反対二、賛成一という多数決で煮詰まりつつあった。クソロンゲは、何も意見をしなかった。ただ、紗和、あすみ、高梨が話し合うのを腕を組んで聞いていた。

「……で、父親としての意見はどうなの。黙ってないでなんとか言いなよ」と、あすみが話し合いにとどめを刺すように仕向けた。

 クソロンゲの額から、汗が一粒たらりと流れた。

「俺は……父親としては……」

 一同は、じっとクソロンゲの意見を待った。クソロンゲは唇をひっくり返して黒目をあちこちに動かして、汗をたらたら流し始めた。やがて、こう結んだ。

「分からない……何にも分からない……」

「お父さん」

 そのとき、涼子の声が一同のイヤホン越しに割って入った。

「私、チームに入りたい。絶対に脚は引っ張らないから……」

 紗和は、賛成した手前だったが、何故涼子ちゃんはこう食い下がるのだろうか、と不思議に思った。

 何か、特別な事情があるのかしら?

 紗和が涼子の言動に何かを感じている時、ボイスチャットではこんな会話が行われていた。

「このチームのリーダーって誰なんですか」

「リーダー?」と高梨。「別にそんなの決まってないすよ。ゲーム上でクランを設立したのはあすみさんのアカウントだから、一応、あすみさんが仮のリーダーになってるけど」

「だったら、このチームで一番上手い人は?」

「……まあ、あすみちゃんだろうね」と、クソロンゲが答える。

 ただし、試合中のあすみはボイスチャットで発言しない。撃ち合いに集中しているから、彼女にはマップを見る暇が無いのだ。だから、指揮役は紗和が行っている。

 ただし、それを考慮してもあすみはエースだった。

 あすみは、自分の名前が出てくる度に嫌な予感がしている。

「あすみさん。あすみさんの言いたいことって、突き詰めると私の実力に不安があるってことですよね?」

 あすみは、実際はそれ以外にも山ほど反対する材料がある。ただ話がややこしくなりそうなので、「まあ、そうね」とそのときは答えた。

「だったら、私と一対一してください」

「は?」

「もし私があすみさんに勝てたなら、私の実力は証明されるってことですよね?」

「……」

 あすみは、何も答えない。

 そのうち、紗和が会話に割って入った。

「涼子ちゃん、あすみちゃんに勝つのは、いくら何でも無茶だと思うわ」

「でも、そういう紗和さんだって、始めたばかりの頃にあすみさんに勝ったんでしょう?」

 あすみは、黙ったまま腕を組んだ。そして、クソロンゲを睨み付けた。きっと、クソロンゲが彼女に口を滑らせたのだろう。クソロンゲは、一生懸命愛想の良い笑顔を浮かべた。

 まあ、いいわ。事実だし。

「それは確かにそうだけど、バアさんはあの時、連日練習して私に挑んだのよ?」と、内心ムカムカさせながらも、あすみは冷静に言った。「……まあ、でも」

 あすみは肩の力を抜いた。そして、

「それで気が済むってんなら、いいよ。一対一で決着を付けても」と、涼子の挑戦を受けて立った。


 涼子がボイスチャットを切った後、VBAの面々は気まずいような、良い試合で負けた時のような沈黙に覆われていた。結局、そういった状況で口火を切ったのはいつも紗和だった。

「まるで、今年の春みたいなことになってきたわねえ」

 紗和とあすみの決闘は、今でもネットカフェの常連達の中で語り継がれる伝説だ。彼らの「マチェーテおばあちゃん」は、今ではすっかり彼らの中に馴染んでいる。

「全く、あの子はなんでああ食い下がるのかな!」と、あすみは癖毛に手櫛を差しながら言った。

「あすみさんが涼子さんの挑発に乗るからじゃないすか?」

「売られた喧嘩は買うんだよ! それがゲーマーってもんなんだから! ったくもー」あすみは頭を抱える。「これだからゲーマーは……」

 

 *


 クソロンゲがネットカフェから自宅に帰るなり、自室から扉を開けた涼子が「私、あすみさんに嫌われるようなことしたっけ!?」と、まくし立てた。

 あすみはプライドを刺激されて気が立っていたかもしれない。しかし、涼子は涼子で全く話を受け入れないあすみに腹を立てていたらしかった。

「初めて家に来てくれた日は、親切な人だなって思ったのに……損したわ!」

 クソロンゲは、自分の娘がこんなに激昂しているところを久しぶりに見た感慨に耽っていた。……久しぶりどころではないのかも知れない。

 初めてか? こんなに涼子が勝負事に真剣になっているのを見るのは。

 そんなことを思う。そして、

「やっぱり涼子も負けず嫌いだったんだな」と父親らしい顔をして言った。

 初めて、産まれた後の涼子の瞳の色を見たときにクソロンゲは思ったのだった。

 この目は、俺に似た負けず嫌いの目だと。

「何それ? とにかく、お父さん一対一の練習、付き合って貰うからね」

「おい、勉強はどうするんだよ?」

「だから、両立できるってば!」


 *


 それからの涼子の日々は、凄絶と言って良かった。朝は六時に起床して、七時になるまでにはシャワーを浴びたり、朝食を済ませたりして支度を済ませる。それからは昼時になるまではずっと机に齧り付くように向き合って、昼飯の頃合いになると、リビングに戻ってクソロンゲが既に食卓に用意している飯を平らげる。そして、午後七時になるまでは、細かい休憩を挟みながらも勉強し続ける。

 六時から十九時まで、殆ど合間無く勉強し続けているから、単純な計算で一日十三時間勉強していることになる。それまでの涼子は、大抵の受験生に倣って一日十時間を目標に勉強していたのだが、あすみとのやり取り以来、涼子も意地になって、なんとしても勉強の質を落とさんと必死だった。

 そして、二十時に晩飯を済ませた後は急いでシャワーを浴びる。風呂には、一度入るとだらだらしてしまうから入らないことにしている。それからはクソロンゲとFCで練習試合、または撃ち合いの練習を兼ねたランクマッチをする。

 涼子がこんな生活をしているから、クソロンゲは中々出歩くタイミングを見つけることが出来なかった。朝昼晩の飯は彼が用意する必要があったし、涼子が体を壊してはコトだからインスタンドばかりで済ませるわけにもいかない。それに仕事の時間も勘定に入れると、クソロンゲはその間、殆ど家にいるといって良かった。

 そんなわけで、クソロンゲはFCが起動できるスペックのゲーミングPCをもう一台購入することにした。一台目のPCはデスクトップ(据え置き型)だったので、二台目はラップトップ(持ち運び型)にした。ラップトップに、今まで仕事に使っていた資料やソフトウェアの移行も済ませた後、一台目のPCのデータを整理して、涼子専用のPCとした。

 受験が終わったら、このPCは涼子にあげよう。

 敢えて口には出さないが、クソロンゲはそう考えていた。大学に受かったら、涼子は一人暮らしだ。

 

 一対一の約束を取り付けた日は、あすみの忠告を受けてセンター試験から四日後と決めた。あすみとしては、せめてセンター試験までは勉強に集中して欲しいという思いがあった。センター試験が終わったら、次の二次試験……肝心要の個別試験まで、恐らく一月以上は猶予がある。そもそも、涼子との決闘の目的は彼女の今の実力を証明することなのだから、準備期間にしても多くは取らなくて大丈夫だろう、という見込みだった。

 あすみは、涼子がとんでもない負けず嫌いだということをまだ知らないでいる。それも、あすみや紗和のような、筋金入りの負けず嫌いだ。


 *


 高梨は、その日もネットカフェの喫煙室でぼーっとしていた。年が明けてこっち、未だにクソロンゲの顔を見ていない。

 仕事が忙しいんだろうか?

 とは言っても、会話はしている。

 自宅のPCを使っているらしく、最近は変な時間にぽっとオンラインになって、FCを二、三試合したらすぐにオフラインになる。そんなことを一日の間に二三度繰り返している。

 まあ、年明けだしな。

 高梨は一人、棚から取った古い名作漫画を片手にブースに戻る。

 現在時刻は夜十一時二十三分。

 その日は、既にあすみも紗和もブースを出ていた。彼女たちはどんなに遅くても午後十時には店を出るのだ。高梨は、試合を終えたあとに漫画を読んだり、ぼーっとするときは退出時間が十二時を過ぎることが珍しくない。

 何の気なしに画面を見た高梨は「おや」と思った。

 フレンド欄で、クソロンゲと涼子のアカウントが試合中になっている。それも、ルールを変更できるカスタムマッチをプレイしているようだ。

 一対一の練習をしているのか。と、高梨は確信した。

 この時期はまだセンターが終わっていない筈だが……。

 しばらく操作していないから、高梨のアカウントは、現在「離席中」という表示になっている。

 高梨は、あすみにこのことを伝えるべきかを迷ったが、結局は止しておくことにした。

 ルール違反、というわけでもないし。

 そもそも、フェアであるかどうかというなら、あすみの方が絶対的に有利なのだ。

 彼にはクソロンゲが最近忙しそうにしている理由が垣間見えた気がした。涼子の生活リズムに合わせて、クソロンゲも色々やることがあるのだろう。それに、彼には親子二人があすみという強敵に向かって努力している、という構図が尊いように思えたのだった。

 高梨は、一人にやける。

 ……あすみさんはラスボスってわけか。

 二人が現在試合中であることを確認してから、高梨はFCのウィンドウを閉じた。

 ま、それもいい。


 *


 年末年始の休業を空けてから、紗和たちの勤めるファミリーレストランはしばらく忙しい日々が続いた。しかも、この時期になって若い女の子のバイトが一人、連絡も無しに職場に来なくなったことでてんやわんやになっていた。不足したシフトには、何故かあすみが入れられることになった。

 店長が説明するところによると、他の主婦でも年始のこの時期は実家に帰っていたりで不在の人が多く、フリーターの若い男に関しては、そもそも連日シフトに入っていた。

「バアさんがいるじゃないですか!」と、あすみが反論すると、

「過労死しちゃうから」と、店長はあっさりと言いのけた。

 そう言われたら、あすみだって何も言えない。ただ、心の中では「あのババアがこれくらいでくたばるもんかよ」と毒づいた。

 そんな事情があって、紗和たちは、特にあすみは連日家族連れでごった返しているファミリーレストランで、年始の時間を潰すことになった。週三でシフトを入れていたあすみだったが、二週間くらいは週六、七の勤務が続いた。

 それでもシフトから上がった後は、あすみは疲れた体を引きずるようにネットカフェに行くようにした。勿論、涼子との決闘には絶対に負けられないという覚悟を掛けるつもりではあったが、それはそれとして、一対一の練習は控えるようにしていた。

 ただ、撃ち合いの勘だけは絶対に衰えさせてはならなかった。

 そんな生活を二週間も続けるうち、あすみはいつの間にか、ストイックに勉強とゲームを熟している涼子と同じくらいにヘトヘトになって、少しやつれる程だった。

 紗和は、年始は妹夫婦の家で美味しい物を食べたらしく、若干顔に肉が付いていた。

 高梨もあすみのように、年明けすぐバイトのシフトが入っていたが、忙しさはあすみ程ではなかった。高梨も紗和のように年始は親戚の家で美味しい物を食べ回っていたらしく、少し太っていた。

 あすみが連続十日勤務を達成した日に、クソロンゲが久しぶりにネットカフェに遊びに来た。

 新年の挨拶がてらにFCをプレイしに来た彼は、何故かあすみのように疲れた顔をしていて、自慢のドレッドすら少し解れている始末だった。

 そうして、彼らは挨拶もほどほどにさっそく試合のマッチングに移った。

「涼子ちゃんはどう? 勉強は捗ってる?」と、紗和が尋ねる。

「もー一日中だよ。俺もあいつの生活に合わせて寝起きしてるから大変で大変で……。受験生って集中力あるじゃんね」

「俺たちもゲームに集中してる時間なら結構なもんじゃないすか?」

「ゲームと勉強は違うんじゃないの?」あすみは、どうでもいい会話だなあと思いながらも参加した。こういう会話にクソロンゲの肉声が混じるのは結構久しぶりのことだった。「まあ、どっちも頭は使うけどさ」

「そういえば、一つ目の試験ってもうすぐかしら?」

「センター? ああ……」

 クソロンゲは今日の日付を確認すると、感慨深げにこう言った。

「もう来週末なのか。あいつの試験日」

「そういえば、涼子ちゃんってどこの大学目指してるの」

 クソロンゲは、東北の国立大学の名前を挙げた。

「うわっ」声を上げたのは高梨だった。「名門じゃないっすか。そういえば、涼子さんって俺のいた進学校の生徒だもんな……」

 確かに、涼子が目指している国立大学は、東北地方では最も偏差値の高い国立大学として知られている。クソロンゲは、まだ涼子が受かったわけでもないのに内心誇らしかった。

「見込みはあるの?」と、あすみが聞く。

 クソロンゲは、「まあ、絶対受かるわけではないけど、頑張れば受かるって感じみたいじゃんね」と、ニコニコしながらも敢えて他人事のように答えた。

 それから、紗和たちは五試合ほどプレイした。いずれも同じ相手で、一戦目はおおよそVBAの圧勝と言っていい内容だったが、相手は辛抱強く連戦を希望した。二戦三戦とVBAは勝利を収め、四戦目は際どい所で相手の勝利となった。その試合は、珍しくあすみがヘマをした試合だった。そして、最後の五戦目は辛くもVBAが勝利を収め、最後には敵も味方もテキストチャットで「gg」と伝えて、お互いのプレイを称え合った。

 まだ日が暮れ始めた頃合いだったが、涼子の晩飯を用意するためにクソロンゲはもう帰らなくてはならなかった。クソロンゲが席を立ったところで、

「そうだ、陣中見舞いに行かない?」と、紗和が提案した。

「陣中見舞い?」と、クソロンゲが聞き返す。

「そうよ。受験生であんまり出歩く暇もないでしょうし、何かお菓子でも買って。それに、あすみちゃんにとっては今度の宿敵だもの」

「また変なことを考えるなあ」

 あすみは如何にも面倒臭そうに呟いた。実際、そんなことするくらいなら彼女は家に帰って横になりたいところだった。

 だが、「受験生の陣中見舞いって、何買っていけばいいんですかね」と、珍しく高梨が乗り気だったから、紗和たちはすっかりその気になってしまった。

 

 結局、一同はクソロンゲの自宅にお邪魔することになった。一番テンションが上がっていたのは高梨で、彼はクソロンゲの自宅がどんな風なのかということと、クソロンゲの娘がどんな顔をしているのかということに興味津々だった。クソロンゲの自宅に向かう途中、彼らは最上階に映画館も入っているような大型ショッピングセンターに寄って、各々が見舞いの品を買うことにした。

 あすみは、手頃な栄養ドリンクのダースを購入することにした。会計を済ませた後に紗和の買い物の様子を見に行くと、紗和が提げている買い物かごには何故か煎餅のパックと塩饅頭が入っていた。あすみは呆れた。

「バアさんね、そんなジジくさいお菓子、今の若い子は多分食べないよ」

「ええ? でも、美味しいじゃない?」

 あすみは塩饅頭をかごから取り出して、「右手にペンを持ってる人が、左手で饅頭を掴みながら勉強すると思ってるの?」と、ジェスチャーも交えて丁寧にダメ出しする。

「なるほどねえ……」と紗和は感心して、塩饅頭の代わりにらくがんをかごに入れる。

「墓参りじゃないんだから」

 あすみは笑いながらも突っ込みを入れた。

 すると、紗和もにこにこ笑いだして、らくがんを棚に戻した。

 どうも、紗和なりの冗談だったらしい。

 だが、気を取り直して紗和がかごに入れたのが美味しそうな犬のジャーキーだったので、あすみは引きつった笑みを浮かべた。

 高梨は、色々なチョコレートをかごに入れていた。頭を使うと甘い物が食べたくなるだろうと思ったからだ。そこに既に買い物を済ませたクソロンゲが歩いて来た。

「何買ったんすか?」高梨がクソロンゲの提げている袋を見ながら言った。

「あ、これ? これは今日の夕食の食材じゃんね」

「なんだ、お使いすか」

「お使い? いや、俺が料理すんだよ」

 高梨はまじまじとクソロンゲの風体を見回す。そして、顔を顰めた。クソロンゲがキッチンに立っているのがどうしても想像できないのだ。


 だが、いざクソロンゲの自宅に訪れると、高梨にはクソロンゲが料理をする理由が分かった。

 父子家庭だったのか。と、高梨はそのとき初めて知った。

 さらに驚くことには、クソロンゲの娘が金髪碧眼だったことだ! 完全に予想の斜め上を突かれた高梨は、涼子と対面するなりぽかんと口を開けてしまった。

 涼子は、事前にクソロンゲから客が家に来ることを知らされていたから、普段の部屋着から外行きの服に着替えていた。玄関から四人がわらわら入ってくるなり涼子は自室の扉を開けて、礼儀正しく一同に挨拶をした。

 それから、紗和、高梨、あすみが、涼子に陣中見舞いの品を手渡した。紗和が選んだ品には結局あすみの忠告でジャーキーの代わりにじゃがりこが二品加えられることになり、呆けた高梨からは袋に詰められた色取り取りのチョコレートが手渡された。

 だが、正直のところ涼子が一番ありがたかったのは、あすみの買ってきた栄養ドリンクのダースだった。実は、チョコレートやお菓子は台所の棚にまだ少しストックがあったのだ。

「勉強、頑張ってるみたいね」と、あすみは栄養ドリンクのダースを涼子の机の横に置きながら言った。

「お陰様で、捗らせて貰ってますよ」と涼子は答えた。

「言っておくけど、」とあすみは前置きして、こんなことを言い出した。「一次が上手くいかなかったからって、チーム入りを許しはしないからね」

 涼子は曖昧に笑みを浮かべたが、内心ムカムカしていた。

 この人と来たら、気が利くんだか利かないんだか、分かりゃしないわ! と、涼子は思った。

 あすみとしては、実は涼子が反骨心で燃えるタイプだということは先日のボイスチャットで見抜いていた。だから、あすみはわざと涼子を怒らせていたのだった。

 クソロンゲも何となくだがあすみの狙いが分かっていたので、特に何も言うべきことは無かった。ただ、あすみの人柄はしばらくの付き合いで分かっていたから、彼は特に心配するようなことがなかった。

 ぼちぼち勉強を再開するという涼子を部屋に一人にさせると、流れで四人はリビングで茶を一杯飲むことになった。

 紗和は、ダイニングテーブルに座りながらもリビングのあちこちを興味深げに見回した……本棚には、デスメタルだけでなく、様々なジャンルの洋楽らしきCDジャケットがわんさと詰まっていて、大きな薄型テレビの置いてある棚には、最新のものから二世代前の物までの家庭用ゲームハードと大量のゲームソフトが飾るように収納されている。アクションフィギュアもある。リアル志向のおどろおどろしいホラーゲームのキャラクターから、デフォルメされた二頭身のアクションゲームのキャラクターまである。さらに、何故か不動明王や阿修羅といった仏像のアクションフィギュアも飾ってある。

 高梨は、フィギュアが飾ってあるケースを興味深げに立って眺めている。あすみは紗和の向かいに座って茶飲みに淹れられたほうじ茶を啜っている。ただし、横目で古いゲームハードを珍しそうに見ている。

 雑然とした印象のクソロンゲ宅のリビングだが、案外掃除は行き届いている。コレクター気質のクソロンゲは、週末の掃除を欠かさない。

「涼子とは、血が繋がってないんだよ」と、脈絡もなくクソロンゲが言った。

 ダイニングテーブルには席が二つしかないので、彼は台所から持ってきた木組みの腰掛けに座っている。

「誰が見たってそう思うよ」と、あすみが言った。

「養子……?」

 それもおかしいか、と思いながらも紗和が尋ねる。

「俺の元奥さんと浮気相手の子なの」

 クソロンゲの元妻は、とあるゲームイベントに参加したときに知り合った白人女性だった。病室で涼子が取り上げられたときのことを、クソロンゲは未だに昨日のことのように思い出すのだ。当時担当していた看護師は、揃って変な顔をしていた。産まれてきた赤ん坊の形質が、彼らにはどうみてもハーフではない、白人そのもののそれだと感じたからだ。腫れぼったい瞼の間から見える瞳の色は澄んだような青で、日本人の父親のそれとは似ても似つかない。何より、髪の色は父親の形質を半分も受け継いでいないような金なのだ。

 通常であれば、瞳の色は遺伝子の法則によって母親の青よりも父親の黒が優先的に発現するはずだったし、髪の色は母親の金と父親の黒の形質を半分ずつ受け継いだ暗褐色あたりに落ち着く可能性が高い。ただし、可能性が高いというわけで、遺伝子の形質がその通りに受け継がれると決定されているわけではない。

 ただ、産まれてきた我が子の顔を見たときの元妻は、血が上って真っ赤になった顔に凍り付いた表情を貼りつけていた。

「そういえば、美少女フィギュアないんすか?」と、棚を眺めていた高梨が、話題を変えるように言った。

「そういうのは、俺の部屋に置いてあんの」

 それから、クソロンゲは高梨を連れて自分の部屋のコレクションを見せに行った。ダイニングテーブルに座っていたあすみはそのうちお茶を飲み干して、棚に詰まっているCDのケースを立って眺め始めた。


 *


 いよいよ涼子がセンター試験を受験する日が来た。

 前日ばかりは、この日まで過酷なスケジュールで勉強、FCと熟してきた涼子も休んだのだった。

 クソロンゲは、不謹慎かも知れないが今日までの忙しい日々を楽しく感じていた。昼間は仕事と涼子の勉強のサポートをして、夜になると娘とゲームをする。

 この父子の間には一緒に何かを成し遂げた記憶がない。子供の頃から優秀だった涼子は、殆ど一方的と言っていいくらいに自助努力によって成長してきた。クソロンゲだって、涼子がちびっ子の頃はいざ知らず、成長と共に若い女の子としての性質を備えていく涼子に、どう接したらいいのか分からなくなってしまったのだ。

 一日目、涼子はかなり緊張し通しだったが、忘れ物も無く、クソロンゲが運転する車で近くの試験場となる大学まで移動した。試験場には様々な高校の制服を着た人たちや、私服で来ている者もいたが、どんな群衆の中にいたって、顔立ちが彼らと違う涼子はかなり目立つ存在だった。涼子にとっては、そんな状況は慣れっこだった。

 試験用紙にいざ向かうと、緊張の余り頭が真っ白になった。

 だが、陣中見舞いに来たとき、あすみに掛けられた言葉を思い出して、怒りで緊張を払拭することができた。


 試験が終わる頃にはもう日が暮れている。

 クソロンゲは、かなり気を揉みながらもなんとか無事故で試験場の前に車を乗り付けた。彼が涼子に連絡を入れると、間もなく校門の照明に照らされながら、涼子が車の方に駆け寄ってきた。

 駆け寄ってきた!

 そんな彼女の様子を見て、クソロンゲはほっと胸を撫で下ろした。

 とぼとぼ歩いて来たら、不首尾。上機嫌に駆け寄ってきたら、上首尾。子供の頃は、大抵こうだった。実際に運転中試験の出来を聞くと、涼子は「まあまあかな」と嬉しそうに言ったから、きっとそうなのだろう。


 その日、あすみは一対一の部屋をカスタムで立てて、適当な相手とやり合っていた。

「あすみさん、一対一の練習すか」と、後ろから画面を眺めている高梨が言った。

「うん、一応ね」

 一対一といっても、以前に紗和とやり合ったような頭脳戦を仕掛けてくる相手は殆どいない。ただ、広大なマップでお互いがお互いを探し回って、時には爆弾を設置し、時には撃ち合う程度の試合だ。一対一の部屋に入ってくるだけあって撃ち合いに自信のある強い連中があすみの相手となったが、それでも運が悪くない限りは大抵あすみは勝利を収めていた。

 あすみは、殆ど頭を使っていなかった。ただ、反射的に敵を撃ち殺していた。今日ばかりは、彼女も連勤が開け、しばらく休みが取れ、めでたい気分になっていたのだった。

 そのとき、紗和も高梨もブースにいたが、クソロンゲがいないため彼らは各々の時間を過ごしていた。紗和は、今もあすみに追いつこうとランクマッチに精を出している。最近、顔をぽつぽつ見せ始めたディエゴのアドバイスもあり、所謂中間層の壁を抜けたところだ。

「涼子ちゃん、もう試験が終わった頃かしら?」

 試合の合間に、紗和が言った。

 実は、あすみも高梨もそれが気になってそわそわしていた。クソロンゲが来ないとは分かっていたが、なんだか居ても立ってもいられなかった。

 高梨が、試験のスケジュールを手早く調べて、

「もう、一日目の試験はとっくに終わってますね」と答えた。


 *


 二日目の試験に挑んだ涼子は、昨日のような緊張感に襲われることはもう無かった。

 この日は、一日目よりはもう少し遅い時間から試験が始まるが、今日の科目は暗記科目ではないし、涼子の得意な分野だったから、少し家でゆっくりして、それからクソロンゲの運転で試験場に向かった。

 車中で、涼子はこんなことを言い出した。

「私、あすみさんに感謝するべきかな?」

 クソロンゲは、しっかり前を見ていた。実は涼子よりも万が一にも事故を起こさないよう心がけるクソロンゲの方が緊張しているくらいだった。

「あすみちゃんがお前を煽ったことか?」と、クソロンゲが慎重に運転しながら尋ねる。

「いや、そうじゃなくてさ。まあそれもそうかもしれないけど」

 涼子は、急に心配になって鞄の中身を点検した。受験票も筆記用具もある。昼に食べる携帯食料もある。大丈夫だ。

「私がお父さんたちと大会に出たかったのは、思い出が欲しかったからだから」

「思い出?」

「うん、家族っぽい思い出みたいな。お父さんと」

「……だから、VBAに……」

「そう」

「そうか」

 試験場が見えてきた。

「思い出、出来ちゃったから」

 涼子は、打倒あすみのために勉強とゲームを頑張った今までの日々を思い出した。十二月の下旬からだから、二ヶ月程度だ。

 勿論、あすみとの決闘はまだ先のことだし、肝心な個別試験だってあるが。

 あの忙しい日々は、悪く無かったわ。

 涼子は、そう思った。

 あとは、そう。ラスボスを倒すことができれば、言うことはない。


 *


 あすみとの決闘の日までは、四日間ある。その間、涼子はそれまでのように早起きをしてかなり忙しいスケジュールを過ごした。センターの次の日だけは、今までのスケジュールで勉強に充てていたところをFCに変えて、FCに充てていた時間を志望校の過去問を解いて過ごした。既に何度も解いた問題だったので、じっくり思考の過程を確認しながら、全教科熟した。

 クソロンゲも、勿論彼女の一対一に付き合った。尤も、クソロンゲでは涼子とはマトモな撃ち合いの相手にはならなかったから、あすみとの試合で紗和が行ったようなスモークグレネードを用いた戦術を彼女との闘いのなかで使ったり、一人でグレネードをマップのあちこちに投擲して「待ち」に最適なポイントに丁度よく爆破する距離で投げる訓練をしたりした。

 そういうわけで、基本的に撃ち合いで勝つのはライトマシンガンを持つ涼子だったが、クソロンゲも全く勝てないわけでは無かった。涼子との特訓は、少なからず彼にとっても血肉となっていた。

 彼らが一対一をするとき、それぞれ別の部屋でプレイしている。涼子はデスクトップPCが設えてあるクソロンゲの自室兼仕事場で、クソロンゲはリビングのダイニングテーブルにラップトップを置いてプレイしていた。なんとなく、試合中はお互い顔を合わせたくない心理があった。


 決闘の前日、クソロンゲはまた久しぶりにネットカフェに遊びに来た。そのときはブースにあすみしかいなかった。

 あすみは、ブースに入ってきたクソロンゲを見るなり、「おや」という風に目を見開いて彼の顔を見た。

「あすみちゃん、久しぶり」とクソロンゲが声を掛ける。

「うん。……髪の毛、どうしたの?」

 クソロンゲのドレッドはしっかり解れてしまって、ただの癖っぽいロン毛になっている。

「最近セットする暇がないから、すっかり解れちまったよ」

「シャンプーしなよ。良い機会でしょ」

「涼子にも言われた。今朝、したよ」

 そして、クソロンゲはあすみの向かいの席に座る。

「あすみちゃんさ、俺と一対一してくんない?」と、スクリーンから覗き込んだクソロンゲが言う。

 あすみは試合中だったから、彼の顔を一瞬ちらりと見て、すぐに自分の画面に目を戻した。少し考えたあと、

「敵情視察?」と尋ねた。

「ちげーよ」とクソロンゲは笑って言った。「ただ、実際のところあすみちゃんと涼子のどっちが強いのか、知っておきたいだけじゃんね」

 あすみは眉を顰めたが、彼の提案を了承した。


 クソロンゲとあすみの一対一は、まるで勝負になっていないくらいの内容だった。クソロンゲはあれこれ工夫して、なんとか接敵を避けて爆弾を設置し、有利な状況を作ってからあすみとの撃ち合いに挑んだが、結局三ラウンド連続で敗北してあすみの勝利となった。

 試合が終わったあとのクソロンゲは、何故か清々しい顔をして、

「やっぱり、あすみちゃん強いね」と白い歯を見せて笑った。そして、「明日の勝負、手加減しないでいいからね」と言う。

 あすみは、無表情だった。ただ、幾つもの試合の内の一つを終わらせたというような表情だった。そして、こう言った。

「クソロンゲも、始めた頃よりは随分ましになったもんだよ」

「お、そうか」

 クソロンゲは全く謙遜せずにその言葉を嬉しく受け取った。

 あすみちゃんはお世辞を言うような子じゃねえし。

「俺も強くなったか」と、呟く。

「うん」あすみは無表情のままだ。「本当に、皆強くなったわ。本当にね」

 

 *


 高梨が早くにブースに入ると、あすみと涼子が約束している時間に近づくにつれて、わらわらと馴染みの常連客が集まり始めた。喫煙室に行くと、普段は余裕のあるスペースがおっさん臭い男たちで一杯になっている。

「ちょっとしたイベントだなあ」

 丁度物品の取り替えに訪れた顔なじみの若い男の店員に、高梨は声を掛けた。

「またあの子なんですってね。カリスマ性ありますねー」

「……そういえば、今回の試合の話ってなんで広まってるんだ?」

 前回の紗和とあすみの決闘のときは、クソロンゲが滅茶苦茶に常連たちに教えまくったのだった。

「さあ……。でも、注目度高いですからね。VBA。それに、今日クソロンゲの娘さん来るんでしょ?」

「ああ」

 そうだ。今日の試合ではブースに涼子がやってくるのだった。以前の高梨のように、クソロンゲの娘というミステリアスな人物を一目見たいという人も多いのだろう。


 ブースに先に入ってきたのは、涼子だった。ブースに外国人の客が来るのは珍しくないから、常連たちは彼女がクソロンゲの娘だということに全く気が付いていないようだった。涼子は先に来ていた高梨と軽い挨拶を交わしてから、店員が適当に取った、高梨の右向かいの席に座った。それから涼子は腕を組んで、ただじっとしていた。

 そういえば、クソロンゲが居ない。

「涼子さん、クソロンゲは?」

「ちょっと仕事が残ってるから、それから来るって」

「あ、なるほど」

 次にやってきたのは紗和だった。

 紗和は今日もバイトを終えた後だった。紗和は涼子に声を掛けて励ました後、まだ彼女たちの試合までは時間があるので一人でランクマッチをプレイすることにした。

 それからクソロンゲ、あすみがやってきて、いつもの席に座った。だが、クソロンゲがすぐに立ち上がって、

「おい、涼子」と、手招きで涼子を呼んだ。「せっかくだから対面に座れよ」

 いつもあすみは島の端に座り、紗和は一つ置いてあすみの右隣。クソロンゲはスクリーンを挟んだあすみの向かいに位置を取って、高梨も丁度紗和の真向かいに座っている。だから、涼子がクソロンゲから譲られた席は島の端、あすみの向かいになる。

 二人の画面が、それぞれの側から見やすくなった。店員もブースの雰囲気はよく知っているから、クソロンゲの勝手な行動はどうとも思わない。

 涼子は、少し距離を置いて多くの客が自分たちの動向を注視していることに気が付いた……前回のように、殆どは芋臭い男性客だが、二、三人は若い女性客もいるようだ。それに加えて、最近グループでくるようになった大学生と思われる若い男性客も、雰囲気に呑まれるようにことが始まるのを待っていた。

 あすみは、もうこの雰囲気には慣れていた。VBAの面子は皆慣れているのだ。

 涼子だって、こういう雰囲気には慣れている。しかし、

 どんだけ人気なんだ。あすみさん。と、内心驚いた。

 常連たちは、「涼子」と呼ばれたクソロンゲの娘が、どうやらこの金髪碧眼の女の子であると気が付くと、結構どよめいた。中には「うっそだろ!?」という嘲笑の混じった心ない呟きも聞こえてくるのだった。

 気にしない、気にしない。

 涼子とクソロンゲの人生には、しょっちゅうこういうことがある。小学校の時の授業参観に始まり、偶然父子での買い物途中で中学校の同級生の一段と会った時や涼子の卒業式には、大抵こういうことになる。

 だから、涼子はもう気にしないことにしている。

 こういうものなんだ。人生って。

 涼子が自分のアカウントでFCにログインすると、向かいから「部屋作るから」というあすみの声が聞こえてきた。それから、あすみが作った部屋に入るための簡素なやり取りをしてから、さっそく試合が始まった。

 試合のルールは一対一でマップに二つあるオブジェクトの爆破、若しくは防衛を行うデモリッション。マップは、あすみが涼子の希望を聞いて、FCでは最もスタンダードなマップに決まった。広場に面したA地点が北東、屋内で入り組んだ地形のB地点が北西に位置し、それらの間を繋ぐ細いダクトが特徴の、前回紗和との試合でも登場したマップだ。

 先攻後攻の取り決めはランダムで決めて、初めに涼子が爆破側、あすみが防衛側となった。

 あすみは真っ直ぐに入り組んだA地点に向かい、有利となる遮蔽物の影に一度って、Bまで繋がるダクトを含む、三方向の進入経路を監視し始めた。通常のルールであれば、何れかの侵入経路に地雷を置く戦術を好むあすみだが一対一では有効ではないと考え、殺傷性の高いグレネードを持ってきた。

 さて、涼子ちゃんはどう動くかな。

 考えている間も、あすみはかなりの高頻度で主に南側の二つの侵入経路を見る。ダクトから来る可能性は低いから、三秒くらいの間隔を置いてチェックする。相手が侵入してくる方向によって有利な立ち位置も微妙に違うので、細かく位置取りも変える。

 ……そろそろ、Bに直行していれば爆弾が仕掛けられてもおかしくない頃だ。

 それでも、爆弾設置のアナウンスは流れない。

 ……もしかして、私を待っているのか?

 だとすれば、ほぼ一直線の通路になっている南側の侵入経路の一つが潰れる。

 投擲してみるか……、とあすみが身を乗り出したところで、ダクトの方から銃撃を受けた。多分、二発くらいヒットしたと思う。銃声から、涼子が使っているのがライトマシンガンだと分かる。

 そういえば、こないだの試合でも使っていたわ。

 体力の際どいところで、あすみはなんとか遮蔽物に隠れることが出来た。しかし、見物人たちの殆どはこのラウンドは決まったと思った。ライトマシンガンの強力な銃撃は、それくらいのダメージが出るのだ。あすみは慎重にオブジェクトの影を縫って移動しながら考える。

 ライトマシンガンの移動速度でダクトを通ってくるということは……。

 後ろの方で何かが地面に落ちる音が聞こえて、あすみは反射的にダッシュとジャンプを組み合わせた動きで大きく距離を取った。しかし、投擲物はスモークグレネードだった。

 涼子ちゃんは、Bに直行した後、クリアリングして私がいないことを確認してから、ダクトを通って私の背後を取ったんだ。

 体力が低下したあすみの視界は真っ赤になっている。オブジェクトのある方面は煙に覆われている。全く正統なスモークグレネードの使用方法だ。煙のお陰で、爆弾を設置しているであろう涼子の姿が全く見えない。

 この状況は良くないな、とあすみは考える。

 あすみは咄嗟の判断でグレネードをオブジェクトの方に投擲した。もし涼子が爆弾を設置している最中なら、中断して回避行動を取るはずだ。……やはり中断したようだ。アナウンスがまだ流れない。

 あすみは、オブジェクトから少し距離を取った遮蔽物の影で、しばし待った。

 涼子は、その間に煙の中で爆弾を仕掛けた。この時点で、制限時間が涼子側の味方となる。

「涼子さん、一対一練習してましたよね」

 高梨とクソロンゲは、あすみの画面を野次馬に混じって立って見ている。

 クソロンゲは、眉を上げて高梨を見た。

「夜中に、二人がカスタムマッチしてんの、見てましたよ」と、高梨は小声でクソロンゲに言った。

「なあんだ、ばれてたか」と、クソロンゲは相好を崩す。

「あすみさんには言ってないすけど」

「え、なんで?」

「だって、……」

あすみさんがそれで本気になって対策をうったら、それこそ勝負にならない。元プロだし。という言葉は飲み込んだ。

 高梨はさらに声を落として、「あすみさん、多分機嫌悪くするじゃないすか」と言う。

 クソロンゲは、ゆっくり首肯してまたあすみのプレイに目を戻した。

 試合は、涼子の仕掛けた爆弾のタイマーがどんどん進んでいるところだ。あすみは、まだ動かない。

 彼女たちを取り囲む見物人たちは、大凡このラウンドは涼子の勝利だろうと見当を付けていた。

 一方、紗和は対面の涼子の後ろで難しい顔をしていた。紗和としては複雑なところだが、涼子の加入に賛成した手前、今日の試合は彼女の応援をすることにしている。だが、勿論口出しはしないつもりだ。だが心の中では、

 あすみちゃんの一番得意な地形……。と、涼子がこれから遭遇するであろう苦境を確信した。

 オブジェクトを覆っていた煙が消えた。あすみはこの瞬間を待っていた。そのために、グレネードを投擲して、爆弾を設置するタイミングを遅らせたのだ。

 あすみの撃ち合いの強さは、ただ反射神経とエイムの正確さだけが理由だけではない。まさにこのB地点のような、遮蔽物が多い地形での行動予測が抜群に冴えるのだ。

 弾の撃ち惜しみは惜しまない。来る、と思ったら、敵が遮蔽物から身を出していようが出していなかろうが取り敢えず射撃するのだ。

 それが、当たるのだ。

 今も、ほんの少し遮蔽物から顔を覗かせようとした涼子の肩に二発当てた。涼子は慌てて身を隠した。

 汗が、涼子のもみあげの辺りを一つ流れた。

 体力の差は、まだ涼子の方が勝っている。

 ……爆弾はまだ爆発しない……まだ随分秒数が残っている……。

 とにかく、爆弾が爆破すれば私の勝ちになる。時間を持たせないといけない……。

 そう考えて、オブジェクトの近くに移動しようとした涼子を、足音を殺して近づいていたあすみが撃った。そこで決着が付いた。

 一ラウンド目はあすみの勝利。

「やっぱり、LMG(ライトマシンガンの通称)は歩行速度がネックっすね」と、高梨は今の試合の感想を言う。

「や、あすみちゃんならサブマシンガンの足でも当てるでしょ」

「やっぱフラッシュバン(敵の視界を一時的に奪う閃光手榴弾)すかねえ、一対一は」

「フラッシュ持ってったって、スモークの中の敵にはあんまり意味ないじゃんね」

「ほんじゃ、やっぱしグレネードかスモークかあ……」

 彼らが言い合う感想も、すっかり一プレイヤーの目線だ。

 あすみが爆弾を解除している間、対面の涼子は「あー、くそ」と悔しがった。

 撃ち合ったら負けるか……。

 こんな人に、本当に紗和さんが勝てたのかな?

 後ろで見物している老人が、以前は対面のあすみに勝利したのだ。この間一緒に試合をしたときも、特別紗和が撃ち合いの強さを披露した覚えはない。ただ、敵や味方の動きをよく見ていた印象がある。

 撃ち合わないで勝ったのか……そんなこと、可能だろうか?


 涼子がその可能性をじっくり検討する前に、二ラウンド目が始まった。今度は涼子が防衛側に回る。ラウンドの間に、涼子は装備をスモークグレネードからクレイモア(地雷)に変えておいた。

 スモークグレネードは、防衛で使えるような装備ではない。というのが涼子の考えだった。爆破側では、オブジェクトをスモークで覆うことによって、自分がどこで爆弾を設置しているのかを隠すことができる。それならば、爆弾を仕掛けられた防衛側でも同様の戦術が取れそうなものだが、実際は爆破側には自分がどの位置に爆弾を仕掛けたかを把握しているという有利がある。だから、防衛側がスモークを使っても、爆破側は自分が仕掛けた爆弾の付近を適当に撃つだけで解除を阻止することができる。

 だから涼子は地雷を持ってきた。

 まず、先程主戦場となったB地点に涼子は直行し、オブジェクトの近辺に地雷を仕掛けることにした。B地点は高低差のあるコンテナに囲まれていて、爆弾はコンテナの下でも、コンテナの上でも設置することができる。涼子はまずコンテナの上に登って、すぐ近くの壁に操作キャラクターをぐりぐり押しつけた。それから回れ右をして、丁度コンテナの縁が視界から垂直になる位置で地雷を手に持ち、落ちるか落ちないかのギリギリの所に水平移動する。多分、傍目から見たら、涼子のキャラクターは左足だけをコンテナの縁に乗せて立っている不思議な状態だ。その状態で地雷を設置する動作をしながらコンテナの縁にそって落下すると、地雷が半分コンテナの壁に埋まった状態で設置される。

 外からは丸見えになっているが、どこの位置に爆弾を設置しようとしても、絶妙に地雷の判定に入るポイントだ。これは決してズルや反則ではない。ランクマッチなどでも使われる、「キノコ」と呼ばれる地雷の置き方だ。

 それから、涼子は急いでA地点に向かった。B地点にあのキノコがある限り、あすみは必ず除去しなければオブジェクトに近づけない。そして、地雷の除去とは遠くから地雷に発砲して爆破させることなのだ。だから、涼子にはB地点にあすみがいるというアラームの役割を果たす。なんとか、あすみがオブジェクトに接近する前に涼子は位置に着くことができた。

 涼子の後ろで立っている紗和は、密かにAの侵入経路にあすみが来ることを期待していた。本来、ライトマシンガンはこういう状況で最も強みを発揮できる武器種なのだ。移動速度と反動の強さを犠牲にする代わり、威力と弾数が武器種中最も優れる。また、遮蔽物の縁に備え付けの台座を展開することで反動の強さが大きく軽減される。

 デモリッションでは、こういった固定砲台としての役割が好まれ、防衛側で採用されることが多い。攻撃側のカウンター(対応策)として主に採用されるのはスナイパーライフルだ。

 だが、あすみは愛用のピーキーなアサルトライフル以外はあまり使わないのだ。当然、このラウンドも同様だろう。

 それならば、この開けたA地点での撃ち合いは涼子ちゃんの有利になるはずだ。

 涼子だって、当然それは承知している。照準の先には南からの侵入経路の一方を斜め向かいに置いて、もう一つの侵入経路は視界の端に置いておく。ダクトから来る場合は、キノコの爆発音が聞こえるはずだ。

 そのとき、涼子が照準を据えている先の通路にアサルトライフルの銃先が出てきた……あすみは慎重に周囲をクリアリングしているようだ……涼子はまだ発砲しない。

 十分に身を乗り出したときに撃たなければ、すぐに遮蔽物に隠れられてしまう。そうなると、一ラウンド目のような読み合いになる。あの入り口からオブジェクトの方をクリアリングしようとしたとき、必ずこっちに身を乗り出してくるはずだ。

 だが、アサルトライフルの銃先は、引っ込んでしまった。

 侵入経路を変えるつもりか?

 涼子は唇を舐めた。次の瞬間に、銃先が見えていた入り口の方から投擲物が広場の中央に飛んできた。フラッシュバンを警戒した涼子は、咄嗟に遮蔽物の影に屈んで視界を守った。しかし、聞こえてきた音はスモークグレネードが煙を吹き出す音だった。

 ここでスモークか。

 もしかしたら、B地点の方面は既にクリアリングしたのかもしれない。オブジェクトに設置されているキノコを確認して、こっちに移動してきたのか。

 間もなく、煙の中からあすみが走ってくる音が聞こえてきた。涼子が遮蔽物から広場を覗くと、東の方に止まっているトラックに向かってあすみが走って行くところだった。涼子は咄嗟に台座を構えて連射した。しかし間に合わず、あすみが遮蔽物に身を隠すのを許してしまった。

 その後、お互いが遮蔽物に身を隠しつつ撃ち合う形になった。涼子は台座を付けない状態だったが、なんとかこちらを覗いたあすみの胴に二発当てることに成功した。だが、結局その時の撃ち合いで、あすみが涼子の頭を撃ち抜いて勝利した。あすみの体力だって際どい所だったが、負けは負けだ。

 どれだけ撃ち合いを練習したって、弾丸が頭に命中すれば一撃で死んでしまうのだ。

「今のは事故っすね」と、高梨が苦笑する。

「事故ねえ」

 クソロンゲは、ぼんやりと、それはどうだろう? という感じを滲ませて呟いた。

「結果は全てだからねえ」

「そりゃそうすけどね」


 三ラウンド目は、涼子が爆破側だ。

 あすみは少しマップを移動してから、ある地点で立ち止まった。

 そこで、肩の力を抜いた。キーボードから手を離して、首を回しながら左手で肩を揉み始めた。

 さっきの撃ち合いは、危なかった。

 ライトマシンガンの弾が三発当たったときは、流石にあすみも肝を冷やした。当たり所が悪ければ死んでいる所だ。

 よく当てるもんだよ。全く。

 台座を展開していないライトマシンガンで、三発も連続で当てるのは難しい筈だ。

 きっと練習したんだな、とあすみは思った。

 そうこう考えていると、涼子がB地点に爆弾を設置したアナウンスが流れたので、あすみは真っ直ぐそちらへ向かった。しかし、いざB地点に到着すると、すぐさま涼子の投げたスモークがオブジェクトを覆いだした。

「あれ、この戦法……」

 高梨がクソロンゲの顔を見る。

 クソロンゲは、心外そうに右手をパタパタ振る。

「教えてない教えてない」

 以前、紗和が用いてあすみを打ち負かした戦法だ。涼子は、土壇場でこの戦法を思いついたのだった。

 だが、あすみはスモークを前にして落ち着いていた。

 ……煙は必ず晴れる。

 今回は、あの時のようにショットガンは持ってきていない。煙が晴れたら、きっと二ラウンド目のような撃ち合いになるだろう。爆弾解除の前に、打ち負ける可能性だって当然ある。

 バアさんの時よりは、難しいかな?

 あすみは考える。

 ……いや、どうかな。

 一応、グレネードを煙の中に投げた。少しでも体力差を作ることが出来れば良かったが、手応えはなかった。

 私だって、あれから強くなっていないわけじゃない。

 そして、スモークが晴れた。爆破までの時間は際どい所だ。あすみはすぐに遮蔽物から飛び出て、涼子に向かって発砲した。涼子は、咄嗟に身を隠して無傷で済んだ。そのまま移動して、今度は涼子があすみを狙う番だった。あすみが飛び出た位置からオブジェクトに向かうルートに、涼子は構える。

 しかし、そこにあすみはいなかった。彼女は、飛び出したはずの遮蔽物から涼子が顔を出すのを待っていたのだ。涼子は、あすみの弾を胴に三発喰らって死んだ。まだ爆弾は残っている。

「解除、間に合うのか……?」という常連の誰かが言った言葉に、

 間に合うさ、とあすみは胸の内で答えた。

 この時間を作るために、あすみはA地点とB地点どちらにもすぐ寄ることができるダクト内で待機していたのだ。勿論、リスクのある動きだが、あすみには、何となく涼子がこの戦法を使うかもしれないという予感があった。

 あすみがプレートの焦げを落としている間に考えに考え抜いた、紗和の戦法に対する完全なカウンターがこの策だった。


 *


 涼子は、自分でも予想していたより凄くショックを受けたのだった。

 あんなに練習したのに、一ラウンドも取れなかった。

 そう考えた途端、涙が出てきてしまった。それで、元々クソロンゲが取っていた席で、顔を手で覆って泣き出してしまった。

「涼子ちゃん」

 後ろで立って見守っていた紗和が呟いた。紗和だって涼子になんと声を掛けたら良いのか分からなかった。

 クソロンゲも高梨も、向かいの席からこっちへ回ってきた。あすみも少し遅れて、涼子のすぐ側に歩いて来た。彼女はすすり泣いている涼子を見て、ちょっと居心地が悪そうな顔をした。

「何も、涼子ちゃんが嫌いだからチーム入りに反対してたわけじゃないんだけど」

 あすみが、優しい声で言った。

 そういえば、バアさんに負けたときもこんな感じの声を掛けられたな、とあすみは思った。

「私ね、昔、今の涼子ちゃんみたいにゲームとリアルのことを一緒に熟そうとしてさ、失敗したから」

 涼子は顔を覆って泣きながら席から立った。そして、そのままふらふらネットカフェの出入り口まで歩いて、出て行った。

 回りの常連は静まりかえっている。中には、何をゲームに真剣になっているんだと思っている者もいるかもしれない。

 涼子が自動ドアの向こうに出て行ってから、会計を済ませていない店員が不安げにクソロンゲの顔を見た。それに気が付いて、クソロンゲは慌てて涼子の分の会計を済ませて、涼子の後を追って一時退店した。残ったVBAの三人も、クソロンゲが出て行ってから、彼らを追いかけて一回外に出た。ビルの入り口まで降りたところで、クソロンゲと啜り泣く涼子の後ろ姿が見えた。

 そうだ、

 あすみは、彼女たちの後ろ姿を見たときに気が付いた。

 涼子ちゃんと会うのはこれが最後になるかも知れないのだ、と。

「涼子ちゃん!」

 あすみは、珍しく大きな声を出して彼女を呼び止めた。

 クソロンゲが、眉を上げて振り向いた。涼子は立ち止まったままだった。

「勉強! 頑張って!」と、あすみは叫んだ。

「頑張れ~」と、紗和も張りのない声で続く。

 高梨は、何故か勢いよく拍手しだした。

 涙で頬を濡らした涼子が、ゆっくりビルの入り口を振り返る。そして、俯く。そのまま、足を開いて両膝に両手を付く。丁度、緩く四股を踏んでいるような、何かに落胆しているような姿勢だ。

「あすみさん!」と、俯いたままの涼子が震える声で叫んだ。

 そして勢いよく頭を上げて、

「死ねぇーい!」と、唇をひっくり返した鬼のような形相でもう一度叫んだ。いつの間にか、両手の中指を天に向けて突き立てている。

 それからは一目散にクソロンゲが車を停めている駐車場に向かって走って行った。

 なんという捨て台詞だ。

 あすみは思わず吹き出してしまった。高梨も紗和も同じように笑っている。

 一頻り腹を抱えて笑った後にあすみは、

「確かに、涼子ちゃんはクソロンゲの子供だね」と、笑い泣きの涙で濡れた目を擦った。


 *


 駐車場は、近くの大型書店や小さな洋服店、それにネットカフェを含むビルなどが「第二駐車場」としている吹きさらしの土地だった。駐車スペースを示す白線はすっかり薄れてしまって、この駐車場を利用している車も殆ど停まっていない。

 車へ乗り込む道中、彼らはこんな話をした。

「お父さん、どうして私を育てようなんて思ったの?」

「え? うーん」

 少しの間、クソロンゲと涼子は黙って歩いた。

「いつかは、本当になれると思ったんだ」

「……何に?」

「本当の、父親に」

「ふーん」

 それから、停めている車の鍵をクソロンゲが開けて、二人はほぼ同時に扉を開いた。そこで、涼子が「何でそんなこと分かったの?」と、また尋ねた。

 クソロンゲの意識は、扉のハンドルに手を掛けたまま、初めて涼子を抱き上げた日に飛んでいた。看護師の変な顔……元妻の気まずいような表情……自分の子供だという、青い目の子供……。当時のクソロンゲは、まだクソロンゲではなかった。頭は角刈りで、毎日会社に出勤するただのサラリーマンだった。

「目の色で分かったのかなあ」

 運転席に乗り込むなり、クソロンゲが言った。

「目の色……」

 青は、劣性遺伝子の青。

 涼子は、母親と実父から受け継いだ自分の瞳の色を思った。

 深刻そうに呟いた涼子に、クソロンゲは笑ってこう付け加えた。

「瞳の奥の色で、分かった」

 初めて涼子を抱き上げたときに、クソロンゲは思ったのだ。

 なんと、負けの嫌いそうな目をしているんだ。

 自分を抱き上げている男に誰何しているような赤ん坊の目付きを、クソロンゲは今も忘れない。

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