第一章 ババア、決闘する

 その後、六十のババアになるまで、紗和の人生に語るべきことは多く無い。

 高校を出た後は、地元の会社で事務職に勤めた。気の弱い紗和は、職場では努めて無害な人間であることを心がけた。そのためか、波風立たない日々を過ごすことが出来たものの、誰からも尊敬されることはなかった。

 紗和が職場に勤めている間、妹が結婚して、男の子を出産した。甥の名前は賢治と名付けられて、妹夫婦に連れられて遊びに来ることもあった。テレビくらいしか娯楽のない紗和の家で、幼い頃の甥は「帰ってゲームがしたい」と言って、妹夫婦を困らせていた。

 職場を辞した後の紗和は、暇を持て余した。貯金はあったが、引っ越しが面倒だから、昔から住んでいる質素なアパートに住み続けた。

「近くでバイトでもしたら?」と、営業回りのついでに顔を見せた賢治が言った。「最近は年金なんて当てにならないらしいしさ」と思いつきの提案を補足する。

 紗和にしても、貧乏老人の将来なんてゾッとするような未来予想図だった。それに、とにかく時間を持て余していたので、彼女は近くの求人を当たることにした。

 紗和のバイト先は、アパート近くにあるファミリーレストランに決まった。


 *


紗和がバイトを始めてから、半年が経つ頃だった。一月の、年の瀬が明けて、もうすぐ忙しい時期が来る頃だった。

 子供連れの客が、ソフトクリームを三つ注文していたので、紗和は極めて真剣にマシンと向かい合っていた。何度やっても、綺麗な形に巻けない。あまりにも凄惨な形をしたものは、こっそり冷凍庫にしまって、後で内々で食べるか捨てるかして処理をする。

 ソフトクリームの形で一度客にクレームを入れられてから忌避していたのだが、昼にシフトを入れている紗和はどうしても、この作業と向き合う機会が生まれた。

「伊藤さん、ちょっといいですか?」と、後ろから声を掛けられた。

 厨房の方から店長が手招いていた。これ幸いと紗和は隣のカウンターの裏でグラスを拭いていた若い男にソフトクリームのオーダーを引き継いだ。小走りで厨房の方へ行くと、店長の横に、若い女の子がいた。彼女は癖の付いている自分の髪を指で弄っていた。

「この子ね、新しくバイトに入った子だから」と店長が隣に立つ彼女を紗和に紹介する。

 若い女は、紗和と目を合わせないまま、

「小池あすみです」と、簡素に自己紹介した。

 あすみは、短いが強い癖のある髪で、形の良い耳が印象的だった。どことなく、厭世的な雰囲気が目許にあった。年は二十三だった。

 教育係を言いつけられた紗和は、人が居ない時間を見計らって、店内のテーブルの番号を確認する術や、ドレッシングや醤油の補充分が置いてある棚の位置などを、初めの二三日は教えた。

 あすみは紗和の言うことを体面ではよく聞いている風だった。しかし、試しに接客させた所、態度は最悪だった。

 練習台になったのは滑舌の悪い一人の男性客だったが、ミルキーホワイトちょこれいとファンタズムという、紗和ですら「これはどうなのかしら」と思うネーミングのパフェを注文したらしい。店のメニューが大体頭に入っている紗和には、男性客の拙いオーダーが理解できたが、まだ日の浅いあすみにはちんぷんかんぷんだった。

「申し訳ありません、もう一度伺ってよろしいですか」と、悪びれない様子であすみは言った。だが、再度のオーダーもあすみには理解することが出来なかった。しまいには、あからさまに顔を顰める始末だった。

「あんなまどろっこしい名前のパフェ誰が考えたんだよ!」と、裏に入ってからあすみは悪態を吐いた。近くの客に聞こえるくらいの声で言うから、紗和はギョッとしてあすみを見た。

 五時頃に、紗和たち昼のバイトは夜のバイトと交代する。あすみと紗和は店を出たあとはしばらく一緒の方向だった。しばらく通りに沿って歩いたあとは、大抵駅前の本屋の向かいにあるビルの手前で別れた。

 あすみは殆ど毎日、ビルに入っているインターネットカフェに入る。紗和は、漫画が好きなんだなあくらいに考えていた。


 冷たい雪が、雨のような重さで降るある昼のことだった。店内には客が殆ど居なかったので、シフトに入っていた紗和とあすみ、フリーターの若い男は暇を持て余していた。茶髪で、軽い雰囲気のフリーターは裏でスマートフォンを弄っているあすみに絡み始めた。近くのシンクでは、紗和が大して量もない食器を、出来るだけ暇な時間を潰せるようにのろのろ洗っていた。

「あすみちゃんもフリーター?」

 あすみは、如何にも面倒臭そうな細い眼でフリーターをにらみつけて、すぐにスマートフォンに視線を戻した。

 その様子を却って面白がる風で、フリーターは「無視い? あすみちゃあん、ちょっとひどくない?」と粘っこい口調でなお絡む。

 あすみは今度こそ、フリーターに侮蔑の目を向けて、「私、働いてたから」と冷たく言い放った。

「ええ、どんなお仕事されてたんですかあ?」とフリーターは質問した。それは、会話を耳に挟んでいた紗和にしても、疑問だった。

 だが、あすみは顔を顰めて「なんでもいいでしょ」と言った。

 おや、と紗和は思った。あすみの声には動揺の色があった。

「なんでもよくはないですよー。だって、これから仲良くしようってんだから。バイト仲間でしょー?」そして、意地悪く、「あ、もしかしてキャバ嬢とか? ありえねー!」と下品に笑った。

 紗和は、嵐の気配を感じて濡れた手を布巾で拭きながら彼らに近寄った。そこで、あすみの顔が火が付いたように真っ赤だったことに気が付いた。明らかに、怒り心頭だった。

 二人の間に入ったはいいものの、紗和はオロオロした。右には顔を赤くして男を睨みつけるあすみ、左にはにやにや笑っているフリーターが立っている。

 あさみは、

「ゲーマーだよっ」と、短く言い切った。

 紗和も、フリーターの男も頭の中がぽかんと空白になった。

 あすみは耳まで赤くなった。

「ゲーマーって、プロゲーマー? それって、仕事?」と、訝しむようにフリーターが言った。

 真っ赤なあすみは、その質問には取り合わず、フリーターと、ついでのように紗和も一瞥してから、足早に更衣室へ入った。まだ四時半で、シフトの交代にはまだ早いが、手早く着替えたあすみはタイムカードを押してさっさと店から出て行ってしまった。

 フリーターも、「ゲーマーって」と嘲笑ってから、着替えて一足早く上がった。どっちにせよ、客もいなかったので、紗和一人でも交代がくるまで問題は無かった。

 その日、シフトを上がった紗和は、いつもあすみが入っていくネットカフェに入店した。おせっかい焼きな性質でもないが、単純にあすみの言った「ゲーマー」という職業に興味があった。

 だが、入り口のドアを通ってから、ネットカフェというものは個室が殆どの空間を占めていることを知って、どうしようかと思った。折り悪く、入り口近くのカウンターにいた店員にも「いらっしゃいませ。初めてのご利用ですか?」と声を掛けられた。

 曖昧に頷きながら困っていると、漫画本が敷き詰められている本棚の向こうの通路に、丁度背中を伸ばしているあすみが見えたので、紗和は指を指して、「あそこの席、空いてますか?」と言った。

 店員は仰天したように紗和を数秒見つめて、「あちらはネットゲーム推奨PC導入席となっておりますが」としどろもどろに答えた。

「じゃあそこで」


 あすみは、左手をキーボードの左側において、右手はマウスを持っていた。大きなヘッドホンを頭に掛けている。画面には工場みたいな風景が映っていて、下から銃が、画面の手前から奥の方に突き出ている。あすみがなにかを操作すると、両手が現れて、銃の弾を補充しているようだった。あすみは、熱中しているあまり隣に立っている紗和に気が付かない。

 プレイしていたのは、老舗の一人称シューティングゲーム、Frontal Collapse(通称FC)だったが、そんなことは紗和の知るよしもなかった。

 紗和にとっては情報量の多い画面ではあったが、それでもあすみが続々と敵をやっつけていることは、視界に入る人間を打ち抜いている様子から分かった。

「あすみちゃん、ゲーム上手いんだ」

 紗和はそっと声を掛けるでもなく、呟いた。

 あすみの肩はびくんと跳ね上がって、次いでヘッドホンを頭から引っぺがして丸い目で紗和を見た。あまりに不釣り合いな光景だったから、あすみはしばらく混乱したが、無言のまま、また画面に眼を戻した。ヘッドホンは外したままだったから、出力される音声は聞こえなかった。

「何か用?」

 それでも、あすみは視界に入る敵との打ち合いに勝ち続けた。ゲームモードはチームデスマッチだったので、打ち負かした敵は続々と復活してきたが、今のあすみはとにかくばかすか打ち合いたい気分だった。

「ゲーマーって、お金稼げるの? 私、詳しくないんだけど」

 あすみにとってはうんざりする質問だったが、ゲームの中で人を撃ち殺したところだったので、彼女の気分は先ほどよりはずいぶんすっきりとしていた。

「そんなの人によりけりなんじゃないの。私だって詳しくはないよ」

 口ではそういいつつも、あすみはバイトを始めるまでは実際に日夜ゲームをプレイする生活をしていた。安定した収入ではないが、あすみは実家で女一人分の生活費をギリギリ賄う程度の金を稼いでいた。だが、そんな生活も数ヶ月前に行われたFCのアップデートで一変した。

 紗和が取ったのは、あすみの丁度右隣の席だった。ここのゲーム推奨PC席にはチームプレイをする客のために仕切りがなく、見ようと思えば周りのプレイヤー全ての試合を立って回って観戦できた。見渡すと、一人の画面を三人で囲ってあれこれ会話している男たちもいる。

 紗和は、事務をしていた経験から多少パソコンを使った経験がある。だが、今目の前にしているようなハードには触れたこともなかった。まず電源を探したが、それすらも時間が掛かった。

 あすみは横目でちらちら様子を窺いつつも、手際の悪さにやきもきし始めた。プレイにも精細が欠け初めて馬鹿みたいな死に方を二度続けた。

「ネットするんなら、個室の席空いていたでしょ」

「どうやったらそのゲームできるの?」

 あすみは今度こそ驚愕して紗和を見つめた。

「やるの!?」

「だって、ゲームするパソコンなんでしょう? これ」

 それからしばらく、あすみはチームデスマッチの残り時間を適当なプレイングで消化する傍ら、FCをプレイするための手順を口頭で紗和に説明した。

 この席のパソコンにFCはプリインストールされているので、初めてプレイする人間が行うのは、基本的には新規プレイヤー登録のみだった。しかし、紗和はなにもかもにもたついて、あすみがプレイしているFCのトップページを開くことだけにも、ひどく時間が掛かった。結局、試合を終えたあすみが苛立たしげに紗和の握っているマウスを奪って、ゲームの起動まで操作した。アカウントは、あすみの捨てアドレスで作成したものを使った。それは仕事で使うつもりだったが必要のないものだった。

 FCの画面がフルスクリーンになったところで、あすみは紗和に操作を返した。ここからは、新規プレイヤー向けのチュートリアルが勝手に始まるので、あすみはもう放っておいても良かった。

 それからあすみは自分の試合に集中した。紗和も、慣れないような操作だったもののチュートリアルの指示はごく簡便なものではあったから、手元を確認しつつ、なんとか一人でやっていけた。

 あすみは、肩の筋肉が重くなってきた頃に集中が切れて、スマートフォンの時計を見た。席に座ってから二時間くらいが経過していた。紗和はまだ席に座って覚束ない操作を続けていた。紗和の目付きはどろんとしていて、目尻の皺が重くなったように細くなっていた。あすみはもうすぐ飽きる頃合いだろうと思った。

 ところが、紗和はそれから一時間、二時間と、初心者しか居ない部屋でチームデスマッチをプレイし続けた。元々、一度集中すればのめり込む性格だった。それは、囲碁にのめりこんでいた中学生の頃と変わらない、彼女の美点だった。

 紗和がふと隣を見たときには、もうあすみは席を離れた後だった。その前にもトイレや気晴らしに漫画の背表紙を眺めたりなどあすみは席を空けることもあったが、画面が真っ黒に消灯していたから帰ったのだと分かった。

 ネットカフェは閉鎖的な空間で、時間の感覚を失いがちになる。

 腕時計を見ると、もう数時間も経過していたので驚いた。紗和も、すぐに店を出た。自炊するには遅すぎたので、その日はスーパーで惣菜を買って帰った。そして、いつものように十一時頃には布団に入った。

 実のところ、紗和にはあすみがプレイしていたゲームの面白さがまだよく分かっていなかった。ただ、単純にキーボードでキャラクターを操作するのが楽しさは感じていた。真剣に競っているわけではないが、負けは負けで悔しくはあったし、勝ちは勝ちで嬉しかった。

 そういえば、「試合」なんて何年振りなのだろうか? と紗和は布団の中で思う。

 ああ、あれだ。実家に帰ったときの、妹家族に混じっての麻雀。

 ……何年前だ?

 その晩、紗和はよく眠った。


 *


 その翌日、紗和のシフトは入っていなかった。紗和は朝起きてから、大して多くもない家事を熟してから、いつものようにテレビを見始めた。昼になると駅前まで散歩のついでにドラマのDVDをレンタルしに行った。そして、夕方頃になると台所に立って夕食を作り、もそもそと食べて、テレビを見て、布団に入った。

 強いて言えばドラマ鑑賞が趣味と言える生活だった。

 紗和はその日、なんとなく退屈に思った。

 翌出勤日には、あすみと同じシフトだった。張り出されているシフト表を見て、この間のフリーターがいないことを確認した紗和はほっとした。その日入っていたのは、近所に住んでいるらしい、三十代の丸々とした主婦だった。

 そこまで忙しくもなかったが、紗和は運悪くソフトクリームのオーダーを受けた。

 裏のマシンに真剣に向き合う紗和をよそに、あすみは退屈そうに欠伸をかきながら皿洗いをしていた。

 そして、その日も当然のように、あすみは本屋の向かいにあるネットカフェに入った。

 試合中、あすみは右後ろに人が立っている気配を感じて、「おや」と思った。

 今日もババアが来ている。私の試合を見ている。

「あすみちゃん、上手いね」

 紗和は声を掛けた。

 あすみは、「私が上手いんじゃなくて、相手が弱いんだよ」と、画面を見ながらつまらなそうに答えた。「こんなの、勝って当然だから」

 事実、あすみは殆どの試合でスコアボードの上位、ともすれば最上位に名前を刻んで、KDAレートと呼ばれる、敵プレイヤーをキルした回数と、それをアシストした回数を自分がデスした回数で割った数値は三を超えていた。これは、並のプレイヤーには中々到達することのできない数値だった。

 あすみは、伊達にゲームで食っていたわけではない。だが、相手が格下であることはあすみ自身も認めるところだった。あすみが使用しているアカウントも、紗和と同じように作ったばかりだったから、初心者か中級者としかマッチングできなかった。

 試合が終わったあとにあすみは、「にしてもおばさん、まさか嵌まったの?」と聞いた。

 また電源の場所を探している紗和は、

「まだよく分からないんだけど、新しい趣味にいいかなって」と答えた。

 あすみは、ちょっとだけ得意な気持ちになった。だが、

「あすみちゃん、どうやってゲーム始めるの?」と紗和が聞いてきたので、うんざりして天井を仰いだ。


 *


 二週間も経つ頃には、紗和には色々なことが段階を踏んで理解出来ていた。例えば、ゲームルールや地形によって、ある種類の武器は強くなったり弱くなったりすること……ショットガンのような近距離で威力を発揮する武器は特にその傾向が顕著で、こういった武器を使いこなすには、相応の戦略が必要だった。

 この頃は、紗和はマップをよく見るようになっていた。これは、紗和のプレイを横で見ていたあすみが、ぼそっとアドバイスをしたことが切っ掛けだった。

「マップで味方の視界が何処にあるのか、注意した方が良いよ」

 マップは、画面左上に表示されている。操作しているプレイヤーの周囲の地形と、味方の位置が青い三角で、敵の位置は、発砲したプレイヤーのみが赤い三角で表示される。

 あすみに言われるまで、紗和はこの小さいマップのことを、せいぜい赤い三角を探すくらいにしか注意を払うことがなかった。だが、言われてみると確かに、味方がどこにいて、マップのどの辺りの視界を確保しているのかということは重要な情報だった。FCでは基本的にプレイヤーは五対五の試合を行うから、少なくとも、マップからは四人分の視界の情報を得られることになる。そこにいないということは、味方の死角となっている位置に敵がいるということだ。

 これは、紗和にとっては大きな気づきだった。もちろん、中級者以上のプレイヤーには必須の技術だったが、このことに気が付いてから、紗和は、視界の靄が晴れるようにこのゲームの奥の深さと楽しさが分かってきた。そして、そのことは少なからず紗和の勝率に寄与した。

 つまり、囲碁や将棋みたいなものか。と紗和はこの頃考える。ただ、プレイヤーは全ての駒を操ることは出来ないし、自分もまた、一つの駒なのだ。

 紗和は、敵プレイヤーと撃ち合うことよりも、むしろゲームルールに勝つための戦略を考えることに、FCの楽しさを見出していた。

 あすみは、彼女自身にとっては無意識だったが、日毎に紗和のプレイに口だしすることが多くなっていった。

 とにかく、紗和のプレイングの色々なことに疑問符と感嘆符が付き纏う。努めて、「静観しよう」とあすみは思うのだが、それでも、うっかりアドバイスをして、「静観するんだってば」と自分に言い聞かせることがある。

 彼女たちが肩を並べてプレイするのは、決まってバイトのシフトが合ったときだった。彼女たちは、ネットカフェの常連たちの興味を引いて、密かに話題になり始めていた。

 店員達にクソロンゲと呼ばれている男は、常連の一人だった。クソロンゲはいつもデスメタルバンドのTシャツを着ている三十代の大男で、ドレッドヘアの髪の束は肩の辺りまで伸びている。

 クソロンゲはいつものように密閉された喫煙室で、

「あのバアさん、ここんところずっと来てるじゃんね」と、アメスピの箱を指で叩きながら噂話を始めた。

 クソロンゲに喋り掛けられた高梨という未成年の男は「ですねえ」と、大して興味もなさそうに新しい煙草に火を付けて答えた。高梨は耳にピアスをしていて、極めて将来の不透明な、通信制高校に通う十代だった。

「でもさ、あの隣の女の子のプレイングみた? すっげえエイムうめえの」

「そっすね。つか、クソロンゲさんFPSやりましたっけ?」

「昔やってたよ。丁度、あの女の子とバアさんがプレイしてたやつだったかな」

 答えて、クソロンゲも火を付けて一吸いしてから、

「クソロンゲ?」と、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。

 高梨はもう喫煙室を出ていた。

 

 あすみは、スクリーンを隔てた席の向かいに奇天烈な容姿をした男が喫煙室から戻ってきたのを、試合の間のちょっとした隙に見た。

 座るときに、あすみの視線に気が付いたクソロンゲは、飛びきり愛想の良い笑顔をしたが、際どいタイミングで画面に眼を戻したあすみは全く気が付かなかった。クソロンゲは、ちんと真顔に戻って、自分がプレイするMOBAという、あすみたちとはまた違ったジャンルのオンラインゲームに意識を戻した。高梨は、クソロンゲたちとは違う島のブースで一人、黙々とオンラインRPGをプレイしていた。


 *


 徐々にゲームの操作にも、ネットカフェに入店することにも慣れ始めた紗和は、週末に初めて一人で来店した。あすみから貰ったアカウントには、メモ用紙に書き留めたアカウント名とパスワードさえ入力すればログインすることが出来た。

 紗和は、いつものように初心者のみが集まる部屋に入ろうとクリックした。だが、画面にポップアップウィンドウが出てきて、紗和は不思議に思った。OKを押してウィンドウを消して、もう一度入ろうとしてもまた出てきた。

「あら?」

 紗和は困惑して、隣の席を見た。だが、誰も座っていない席を見て、今日は一人で来たことを思い出した。

 予想外の出来事に、紗和はどんどんと困った。もしかしたら、このゲームはある期間までは無料で遊べて、それが終わったらお金を払わないといけないのかしら、と思った。

 だが、あすみがゲーム上でお金を払っているような所は見たことがなかった。

 クレジットカードとかで引き落としにしているのかしら?

 おろおろしている紗和の後ろを、偶然通りかかったのはクソロンゲだった。

 ここの所、家で受験勉強に勤しんでいる娘の涼子を気遣って、クソロンゲの来店頻度は殊に増していた。この日は、休日でもあったので昼間から酒を飲んでいた。

 クソロンゲは、どうやら困っている風の紗和に気が付いた。そして、彼女がどうして困っているのかは、一目瞭然だった。紗和は同じ所をクリックしまくって、ポップアップを出したり消したりしていたからだ。

 クソロンゲは、唇を歪めて白い歯を見せてにやにやした。見てくれとは反面に、嘲笑といったような温度感の笑いではなかった。彼は微笑んでいたのだ。そして、紗和に声を掛けた。

「バアさん、そこ初心者専用のチャンネルだよ」

 紗和はすぐさま声を掛けた男の方を向いて、唖然とした。声の主が、酒臭い、奇怪な大男だったからだ。しかも、大男はにやついているようだったから、紗和は嫌な気持ちになった。だが、大男は構わずぺらぺらと喋り始めた。

「バアさん、もうレベルが十以上だからさ、これからプレイするのはそっち」と画面上に指を差す。

 確かに、クソロンゲが指差す場所には「初心者チャンネル」と「一般チャンネル」と書いてあるタブがあった。実際に紗和が「一般チャンネル」をクリックすると、今までプレイしていた「初心者チャンネル」とは比べものにならないくらい試合を行うための部屋が画面に並んだ。紗和は、ちょっと感動した。自分が想像していたより、ずっとこのゲームをプレイしている人間がいることが分かったからだった。

 紗和は、どんな人たちがゲームをプレイしているんだろう? と思った。

 もしかしたら、私みたいな年の人でも、プレイしているかもしれない。

 そう考えると、紗和はなんだか愉快な気持ちになった。

 クソロンゲは、「あと、ほら。このレベルからショップが使えて、色んな銃が使えるようになるじゃんね」と、うろ覚えの知識を紗和に説明し始めた。ゲーム内のショップでは、試合で溜まったポイントを使用して武器を購入することが出来る。

ショップで販売されている武器は種々様々で、アサルトライフルやスナイパーライフルだけでも個性的な性能を与えられたモデルがあり、中にはナイフもあった。尤も、ナイフは一番高価なものを買っても気持ち射程距離が伸びるだけで、撃ち合いの約には立たない。それ以外にも、グレネードなど、投擲するタイプの爆弾。スモークグレネード、フラッシュバン(激しい閃光で、敵の視界を数秒間奪う爆弾)、クレイモアという地雷まで品揃えがある。

 紗和は、この大男は見てくれよりは良い人間なのかもしれないわ、と思い始めた。

 実際、クソロンゲは懇切丁寧だった。酔っ払っているから多少呂律が回らないものの、自分と同じゲーマーに対する親切心と親近感を、紗和に対して抱いていた。

 それから、クソロンゲはますますその気になって、離れた席を取っていたくせに、どかんと勝手に紗和の隣に座って、FCを起動した。こういう所が、クソロンゲが店員にクソロンゲと称される所以だった。

 クソロンゲは、昔使っていたFCのアカウント名とパスワードを忘れてしまっていたので、新しいアカウントを作ることにした。少し思い悩んでから、この間高梨に言われた「クソロンゲ」というあだ名を思い出して、面白がってそのままアカウント名とした。「クソロンゲ」の「クソ」の部分が不適切なアカウント名として引っかかったので、そこは「kusso」とした。そして、隣の紗和を見て、

「バアさん、俺にフレンド申請してよ」と言う。

 紗和には、なんのことだかさっぱり分からなかった。

 クソロンゲは、いつも隣り合ってプレイしていたから、てっきりバアさんと女の子は一緒にプレイしているものと思い込んでいた。

「なあに、それ?」と、紗和は尋ねた。

 クソロンゲは意外に思って、実際、いかにも意外そうに唇をひっくり返した。そして、隣に座る紗和の画面を見ると、本当にフレンドは居なかった。……尤も、フレンド申請の通知は一件あった……。ともかく、クソロンゲはフレンドを申請する方法と、フレンドになることによって得られるメリットなどを、紗和に教えてあげた。

 目新しいことにはおっつかない紗和だったが、クソロンゲの説明で、なんとかなんとか、フレンドになれば一緒に試合をすることも出来やすくなって、レベルという、アカウント名の横にくっついているやつも上がり易くなるのだということを理解した。

 そして、彼らは共に試合を始めた。紗和は目立つようなスコアではなかったし、クソロンゲはショットガンを持って無茶苦茶に敵に突っ込むから殆ど負けた。たまに、運良くエイムと敵の動きが噛み合って、連続キルをしたりすると、クソロンゲは大袈裟に喜んだ。紗和も、しばしば彼の荒唐無稽なプレイに吊られて動いた。

 反応速度が年相応である紗和は撃ち合いが弱かった。だが、勘が当たって敵の裏を取ったりすると、隣のクソロンゲは感心したように「やるなあ」と言った。紗和は、結構嬉しかった。

「そういえば、今日はあの女の子と一緒じゃないじゃんね」

「あすみちゃん?」

「あすみちゃんか。あの子、こないだちょっと見たけど滅茶苦茶上手くない?」

「そうねえ。ゲームで稼いでたっていうし」

 クソロンゲは驚いて、「えっ、プロ!?」と聞いた。

「ゲームのプロって、本当に居るの?」

「居るよ。日本ではどれくらい居るのか知らないけど、ゲームのプロっていったら、そりゃ凄い連中だよ」

 紗和には、今ひとつ「ゲームのプロ」というものの実在感が掴めなかった。

 ゲームで遊んでいるだけで、どうやったらお金が稼げるのだろう、と不思議に思った。


 *


久しぶりに顔を見せた甥の賢治が、「バイトはどう? 忙しい?」と紗和に尋ねた。

「忙しいときもあるけど、暇な時間の方が多いかもしれないね」と、お茶を入れながら紗和は答える。「バイトよりも、そこで知り合った子に教えて貰ったゲームが面白いのよ。最近は」

「ゲーム?」

 賢治は、近所にあるゲームセンターのメダルゲームのコーナーを想像した。そういえば、ああいうのってジジババに結構人気だったな、と思った。

 賢治も、昔はああいったゲームセンターで格闘ゲームに熱を上げた時期もあった。

「まあ、なんにせよ趣味が見つかって良かったよ」

 テレビドラマくらいしか趣味のない紗和は、賢治にとっては地獄のように味気ない生活をしているように見えていた。そのうち、万引きのスリルにでも目覚めるのじゃないかと、賢治は密かに心配していた。

「最近のゲームって、すっごく奥が深いのよ。賢ちゃんもそのうち始めてみたら?」

「奥、深いかなあ……」

 賢治は顎をさすって考え込む。

 メダルを入れる。メダルが出てくる。それ以外に何かあるのか?

「だって、あれでお金を稼ぐプロもいるのよ?」

「お金を稼ぐだって?」

 そういえば、賢治が中学生の頃、ゲームセンターよりも低いレートで、メダルと金銭を交換してくれるというメダルジジイの噂があった。行く先行く先のゲームセンターで出入り禁止になっていたらしく、その存在は賢治の耳に届く頃にはもはや伝説だった。

「プロねえ……」

 そりゃ名乗っちまえばプロだけどよ、と賢治は思った。

 

 *


 クソロンゲが紗和とフレンドになってから、ゲーム推奨PCブースでクソロンゲと居合わせたときには一緒に試合をすることが多くなった。クソロンゲとしても、いつもプレイしていたMOBAではプレイヤー全体の内、上位八パーセントに入るくらいにはやり込んでいたので、そろそろ新しい刺激が欲しい所だった。

 この頃、あすみは今までのようには勝てなくなっていた。彼女が主にプレイしているのは、紗和たちが「一般チャンネル」で遊んでいるのとはまた別の、「ランクマッチ」という試合だった。「ランクマッチ」をプレイするには、紗和とクソロンゲは、まだレベルが少し足りない。

「ランクマッチ」ではお互いのランクポイントを掛けての試合になる。ゲームモードは「デモリッション」という、いわばFSの公式ルールだった。このゲームモードではマップ上に二つのオブジェクトが規定の位置に設置され、チームはそれぞれ爆破と防衛の役割を担う。

 そして、なによりも重要なことだが、デモリッションでは一度死んだプレイヤーは復活しない。

 爆破をする側の勝利条件は、「二つのオブジェクトの内、どちらか一つでも爆破すること」であり、防衛側の勝利条件は「制限時間がゼロになるまで耐えること」。それに、どちらの側にも「敵チームを全滅させる」ことが勝利条件として加わるが、爆弾が既に設置されている場合に限り、防衛側は「爆弾を解除すること」という条件が他のどの勝利条件よりも優先される。

 チームデスマッチなどのような復活ありのルールとは違って、チームゲームとしての性質が格段に増す。ヘマをする味方にチャットで罵声が飛んでくることも、珍しいことではない。

 あすみは真剣勝負をしているのだった。負ければ少なからずプライドが傷ついたし、勝てば「一般チャンネル」のそれとは比べものにならないような優越感に満たされる。試合が始まる前はいつも緊張したし、試合を終えたあとは少し飲み物を飲んだりして興奮を静めた。

 だから、ここのところ紗和とクソロンゲが一緒になって遊んでいることは、息抜きの間に紗和の試合を観戦していたからすぐに分かった。

 キルログに味方の一人がショットガンで三人キルしたことが流れたりすると、スクリーンを隔てて向かいに座っているクソロンゲが立ち上がって、紗和に向かって親指を突き立てた。紗和はへにゃへにゃ笑った。

 よくもまあ、初心者部屋から抜け出すまで続いているもんだよ。と、コーヒーを飲みながらあすみは思う。

 けど、やっぱりプレイに関してはまだまだみたいだね。エイムは下手くそだし、何よりマウス感度が低すぎるから近距離の撃ち合いが弱いね。マップの位置取りは、悪くはないけれど……。それにしても、向かいに座っている変な男は一体何なんだ?

 あすみは眉を顰める。

 クソロンゲは、射程が極端に短いが当たれば一撃で死ぬナイフを振り回す敵を前にして、「不埒者ッ不埒者ッ」と、唇をひっくり返して我武者羅にショットガンを撃ちまくっていた。

 丁度試合を終えた紗和は、「あすみちゃんも、一緒に試合しない?」とあすみを誘った。

「しないよ。私、ガチ勢だから」

「ガチゼイ?」

 あすみはコーヒーを一口飲んで、

「つまり、真剣に勝敗を競っているってこと」と補足する。

 紗和は心外だという顔をして、「あら、私たちだって真剣勝負してるのよ」と反論した。

あすみは、少し目を見開いた。

 このバアさん、もしかすると負けず嫌いなのかな? と考えた。

「私からすれば遊びみたいなもんだよ」と、挑発するように、あすみは言った。

「……いつか、きっとあすみちゃんより上手になるわ」

 紗和は真剣な顔をして言った。確かに、あすみの見立て通り、紗和は気が弱い癖に負けず嫌いだった。

「オバさん。その頃には、FCのサービスは終わってるだろうね」

 あすみはそう言って、再び試合のマッチングを開始する。

「オバさんが私と試合して、もし、万が一オバさんが勝ったら……その時は、一緒に試合してもいいよ」

「あら。本気にするわよ」

 紗和は笑った。

 そのときは、あすみも珍しく笑っていた。


 高梨が一本目の煙草に火を付けたとき、丁度クソロンゲが喫煙室に入ってきたところだった。彼らは極簡素な挨拶を交わしてから、喫煙者独特の距離の近さで会話を始めた。

「あのオバさんすげーよ。案外ゲームの勘あるじゃんね」

「そういえば、最近FPSやってましたね」

 高梨は、スマートフォンを弄りながらクソロンゲの話し相手をする。

「MOBAはもう辞めたんですか?」

「や、一人の時はやってるけど。今シーズンの目標のランクはもう到達したし、もうすぐシーズン終わるからさ」

「よくやりますよね。つか、クソロンゲさん、仕事何やってんすか」

「仕事? ライターよ」

 クソロンゲはアメスピを一吸いする。

「ゲームライターよ。こんなナリだけどね」

 高梨は、クソロンゲが珍妙な格好をしている理由に納得がいった。

「ライターの癖してネカフェすか?」

「ネカフェの雰囲気が好きなんだよね。一応、家にもゲーミングPCあるんだけどね」

 それに、娘に煙たがられるからさ。とは言わなかった。

「高梨君も、一緒にFCやらね?」

「やりませんて」

 高梨はにべもない。

虚構の勝利に拘って、どうなるんだよ。と高梨は思う。

 クソロンゲも、しつこくは迫らなかった。


 *


 あすみの挑発を受けて以来、紗和はFCに真剣になり始めていた。まるで、囲碁に嵌まり始めた中学生の頃のような熱意が、彼女の中に溢れていた。

「もっと強くなりたいわ」

 紗和は呟く。

「ロンゲさん、私、どうやったらこのゲームもっと上手になると思う?」

 右隣に座っているクソロンゲは、

「バアさん、そんなにガチでこのゲームやってたの?」と、驚いて聞いた。

「だって、ゲームってそういうものでしょう」

「バアさん。そりゃあ色々よ。ただの遊びでゲームをする連中もいれば、リアルの人間関係の付き合いでしぶしぶプレイしている奴もいるだろうよ。勝ちに拘ってストイックにゲームを生活に取り入れる奴もいる。そして、そいつらは大抵仲が悪い……」

 丁度、彼らが待機している部屋に五人の敵プレイヤーが同時に入室してきた所だった。彼らの名前の横には、角括弧で囲われた三文字のアルファベットがくっついている。

「ほら、オバさん。丁度こういう連中だよ。名前の横にクランタグ付いてるでしょ」

 紗和は画面に顔を近づけて、敵チームのクランタグを見た。

「あら、全部おんなじのが付いてる」

「だから、こいつらはクランっていう同じ集まりのメンバーだってことじゃんね」

 その試合は「キャプチャーザフラッグ」という、復活はあるものの、「デモリッション」に次ぐほどチームプレイの重要度が高いゲームモードだった。

 そこで、紗和はチームとして試合をすることの強さを知らされることになった。……このルールではお互いの拠点に設置された旗があり、チームは敵の拠点にあるそれを自陣に持ってくることでポイントを獲得できるのだが、相手のチームは実に効率よくマップに展開していたのだった。三人から四人のプレイヤーがスナイパーライフルやアサルトライフルでマップ中央に前線を作り、最も撃ち合いに強いプレイヤーがサブマシンガンやショットガンで絶妙なタイミングでマップの横の細い路地を抜けてきて、紗和たちの旗を奪っていくのだった……尤も、殆ど知らない者同士で構成されていたことを考えると、紗和たちの大敗は仕方のないことだった。

 我ながら、試合とは言えない内容だわ。と、試合のリプレイを観ながら紗和は思う。

 味方のチームが、横から侵入してくるプレイヤーを退治しようと人員を割きすぎて、前線が崩壊した辺りで観戦を止めた。

 紗和は腕を組んで考える。

 クランねえ……。


 *


 高梨は、二年前から付き合ってる彼女の紹介で始めたオンラインRPGで、極低確率で出現するアイテムを探し求めていた。

 高梨自身、くだらねえことしてんなあ、と思いながら、今日も同じルーチンを始める。一応、高梨の家にもパソコンがあるのだが、家のパソコンではこのオンラインRPGをプレイするためのスペックが足りなかった。

 高梨には、このゲームの面白さがちっとも分からない。だが、とにかく彼女の奈緒がレアアイテムを収集することに必死であるらしいから、仕方が無くプレイしている。それでも、一年前に通信制に転校して、物理的に距離が離れた高梨にとっては、重要な繋がりではあった。

 そして、高梨は今日も同じボスを全く同じルーティンで倒すことに専念する。時間毎に復活する回数が決まっているので、合間には喫煙室で煙草を吸って過ごす。

 ほんとに落ちるのかよ。うさみみ……。

 もう半年だぜ?

 高梨は途方に暮れる。

「うさみみ」は、その愛嬌ある外見と強力な性能が相まって、ゲーム内では最も有名なレアドロップの装備品だった。うさみみを所持しているプレイヤーは極少数だったが、彼らは皆、羨望の眼差しで見られるのだった。

 喫煙室から戻るときに、高梨は一人でプレイしている紗和を見て、不思議に思った。

 あすみも、向こうの席で一人プレイしている。

 仲違いか?……そもそも、どういう関係なんだこいつら。と、高梨は眼を細める。

 

 一昨日あすみとシフトが被った紗和は、さっそくあすみに試合を挑んだのだった。

「あすみちゃん。来週末、一緒に試合をしましょう」

 そのとき、あすみは歯を食いしばって、肉の焦げがこびり付いたプレートをガシガシ擦っているところだった。蛇口から出るお湯が激しく流しを叩いていて、汗だくだった。

 接客がいつまで経っても上手くならないあすみは、この頃店長にこんな仕事ばかり言いつけられていた。

 紗和が後ろで何かを言っていることに気が付いたあすみは、蛇口のお湯を止めた。

「何か言った?」

 制服の袖で汗を拭いながら、あすみは言葉を投げつける。半袖の制服だから、一々二の腕を上げて額を擦っていた。

「来週末、私と試合をしましょう」

 暑さで頭がぼーっとしているあすみは、紗和が共闘しようと提案しているのかと思った。

「前にも言ったけど、私はただ遊ぶためにゲームをプレイしているんじゃない」

 冷たい言葉を言われても、気の弱い紗和は頑張って辛抱した。

「私、あすみちゃんに勝てると思うのよ」

 あすみは汗を拭う腕を止めて、おもむろに下ろした。そして、以前しつこくしてきたフリーターを睨んだときのように眼を細めて、

「言うじゃん」と、低い声で呟いた。


 あすみはいつも紗和より先にネットカフェに来店している。肩を並べて仲良く帰り道を歩いたことはない。そんな彼女たちがいつも並んで席に座っているのは、後から来た紗和が、敢えてあすみの隣の席を指定しているからだった。この頃は店員もそういうものだと思って、紗和が何も言わないうちにあすみの隣を取るようになっていた。あすみとしては、「また来たよ」と心の中で思っているものの、内心、このババアに親近感を抱いていることは認めざるを得ないところだった。

 そんなあすみが、敢えて紗和の試合に干渉しないようにしていたのは理由がある。

 あすみは、自分よりも下手くそな味方に口出しせざるをいられないゲーマーなのだった。

 中学、高校の時に出来たゲーマーの友人たちは、そんなあすみと一緒にプレイして、辟易していつしかゲームそのものから離れていってしまった。

 あれは、本当に悪いことをした。

 あすみは返す返す当時のことを反省する。

 下手でも、ゲームは楽めるだけで価値があるんだ。だって、娯楽なんだから。殺しても殺されても、勝っても負けてもフィクションなんだから。

 あすみは、挑戦を言いつけてから離れた席に座っている紗和をスクリーン越しにちらっと見る。紗和は一生懸命な顔で画面に向かっていた。

 だけど、そういうのは私のいないところでやって欲しいもんだ。

 あすみはため息を吐いた。


 クソロンゲは相変わらず紗和と試合をしていたが、残念ながら、クソロンゲには紗和をコーチングする程の実力は無かった。それに、紗和の年齢を考えると、反射速度がどう考えても致命的であることは彼が一番分かっていた。

 今のバアさんのプレイヤースキルだと、もしあすみちゃんの背後を取れたとしても、撃ち勝てるかどうか……。

 間に挟んだ休憩の時に、クソロンゲは喫煙室へ席を立つ。

 仕方ねえよ。オバさんなんだもん。

 彼は辛気くさい顔をして、アメスピの箱をとんとん叩く。

「だけど、あすみちゃんに負けたきり、バアさんがゲーム嫌いになりでもしたらちょっと可哀想じゃんね」

 スマートフォンを弄っていた高梨も多分に漏れず、あの二人が来週の土曜に決闘する約束を取り付けたことは聞き及んでいた。……ここの常連、特に喫煙室を利用する連中にとって、彼女たちは格好の噂の的だった。彼らにとっての情報供給源は、全く悪気のないクソロンゲだったのだが、クソロンゲ自身はそのことに気が付いていない。

「何をゲームの勝ち負けに拘っているんだか、俺には分かりませんがね」

「冷たいなあ。高梨君だってゲーマーじゃんか。君、俺よりここに入り浸ってるんじゃないの」

「俺は、彼女がうさみみ欲しいっつうから……」

 そこまで言って、高梨は「俺は必死こいてうさみみを探しているんだ」という事実に衝撃を受けた。

 そうか、……俺は、必死こいてうさみみを探していたのか……。

 高梨は、忸怩たる思いを振り払うかのように煙草を強く吸った。

「とにかく、俺は付き合いでやってるようなもんですから。ゲーマーでもなんでもないっすよ。あの、……うさみみ……を手に入れさえすれば、あのゲームだって辞めてやりますよ」

 クソロンゲは、紗和とあすみの決闘をどうにかうやむやに出来ないか思案しながら、「うさみみって、最高八十万行ったやつ? 高梨君もよくやるよねえ……」と呟いた。

 高梨は自分の耳を疑った。

「あれ八十万ゴールドぽっちで買えたのかよ!?」

 高梨は頭を抱えた。ゴールドというのはゲーム内通貨だが、キャラクターのレベルが上限に到達していた高梨にとっては、どうにか工面できなくもない金額だった。

 だが、クソロンゲは煙草の灰をちょこちょこ落としながら、

「いや、八十万円ね。界隈じゃ有名だよ、うさみみの最高取引金額って。まあ、RMTの市場には殆ど流れることなんてないらしいけどね」と、心ここにあらずといった調子で言った。

 RMTとは、リアルマネートレードの略であり、ゲーム内の通貨やアイテム、キャラクターなどを現実の通貨と交換する取引のことを指す。当然殆どのオンラインゲームでは禁止されており、RMTが発覚した場合は、即刻関与したアカウントが抹消される。

 高梨は、開いた口がしばらく塞がらなかった。

 うさみみが、八十万円……?

 そのうち煙草の火種がジーンズに落ちて、ようやく高梨は我に返った。


 紗和は、どうすればあすみに勝てるのか、考えた。

 少なくとも、普段のように「一般チャンネル」で纏まりのないチームで試合をすることは、勝利に寄与することは無さそうだと感じていた。

 そこで、紗和はどんな勝負事にも通用する上達方法を実践し始めた。

「オバさん何してんの?」

 喫煙室から戻ってきたクソロンゲは、腕を止めて画面を観ている紗和に尋ねた。

「上手い人の試合見てるのよ」

「ふーん」

 紗和は、FCの界隈では有名な、ゲーム配信者の動画を見ていた。それは、検索エンジンで「FC 上手い人 動画」で検索するとトップで出てきた動画だった。

「あれ、でもあすみちゃんとの試合って一対一じゃんね」

 ルールの取り決めは、ルールをカスタムした部屋を作って一対一となるが、一応公式のデモリッションに決まっている。

 クソロンゲは、そんなルールだから動画を見ることが良いことなのか、懐疑的だった。

 一撃で勝敗が別れるショットガンかスナイパーライフルを練習した方が、まだ良いんじゃないか?

 だが、どちらを使うにしても、特に反射神経を求められる武器であることに違いはない。

 やっぱり難しいかあ。

 クソロンゲはドレッドヘアーの頭を掻きむしる。ぽろぽろと机にフケが落ちた。

 それからも、紗和は上手い人の動画を見続けた。また、実際に自分でもデモリッションをプレイした。勿論、紗和の見た動画のようには上手くいかない。味方は勝手に動いて爆弾を敵陣で落とすし、挟み撃ちにしても焦って撃ち負けたりした。紗和だって、様々なヘマをした。

 そして、紗和は自分のリプレイを見直して、上手い人のプレイとの間にどんな差異があるのか、綿密に洗い出し始めた。違いというなら何もかもが違っていた。紗和は、どういう思考過程で彼らがマップ上を動いているのか不思議でたまらない。

 家に帰って、ドラマを見ながらも紗和の意識はFCのマップ上にあった。その日ネットカフェで見た上級者のリプレイの幾つかは、大筋の流れが頭の中に入っていた。

 まるで、囲碁の棋譜を追うように、紗和の脳内では再生される。

 ドラマの内容は、殆ど頭に入っていなかった。

 その晩、紗和は久しぶりに昔の夢を見た。

 雨の降る街……路上まではみ出した花屋の植木鉢……廃れた布団屋……階段を上がって入った碁会所……古びた換気扇から出て行く、煙草の煙……。

 そして、隅に座っている、中学生の頃の紗和。彼女は今、一人で盤上の白石と黒石を片付けている。……その眼には、涙さえ浮かべている……。

 あのときは、悔しかった。今では、もう思い出せない悔しさだけれど。

 それなのに、紗和は過去の自分に対して、なんだか豊かで、温かい気持ちを抱くのだった。それは言葉にできないような、あの頃の努力と情熱を、唯一知っている紗和にしか抱けないような気持ちだった。

 今度は、本物にしてあげるから。と、紗和は思う。

 本物の、勝負師に……。


 それからの紗和は、鬼気迫る勢いであすみに打ち勝つための特訓を行った。それはもう、引退を掛けた試合に挑むボクサーのようだった。実際、紗和にとっては殆どそんな心持ちだった。

「プライドを掛けた試合」なんて、一体紗和にとっては何年振りの出来事なのだろうか? 高校ではクラブ活動に入らず、職場では他人に無害であるように務め、今振り返ると実に平々凡々とした毎日だった。

 六十を迎えたこの年で、まさかこんなに夢中になれるものがあったとは!

 人生は、何があるか分からないわ。

 決戦の日が近づいて、些か緊張し始めていた。

 紗和は自分以外誰もいないマップで、爆弾を設置してから起爆するまでの時間、爆弾の解除に要する時間、それに、初期位置から特定の位置までの移動時間など、様々な時間を家から持ってきた古いストップウォッチで計測し始めた。

 できれば、クソロンゲには敵側の位置について、紗和が移動する間に敵はどのポジションまで移動できるのかを確認したかった。だが、その週は折り悪くクソロンゲの仕事が立て込んでおり、彼は家のパソコンでフケを飛ばしながら原稿を書き進めているところだった。……勿論、難しい時期の娘に鬱陶しがられながら。

 そんなわけで、紗和は複数あるマップの全てで、爆破側、防衛側と一々初期位置を変えて同じように計測していったのだった。計った時間は、これまた家から持ってきた古いノートとHBの鉛筆で書き記していった。

 今日はいつもの話し相手がいない高梨は、うさみみを探す合間には漫画を探しに席を立っていたのだが、同じ島のブースに座っていた紗和の画面を見ても、眼差しから伝わる真剣さは別として、彼女が何をしているのか見当が付かなかった。

 何も、高梨はFPSのことが全く分からないわけでもない。ましてや、FCなんて有名なタイトルは動画サイトでプレイの様子を見ていたこともあったから、若い彼はプレイもしていないのに勝手が分かっていた。

 それでも、高梨には紗和の考えている作戦はちっとも分からなかった。


 一方、あすみはいつものようにランクマッチで真剣勝負をしていた。だが、普段のようには集中力が中々定まらず、マップ上を迂闊に移動しては敵にキルされた。あすみを悩ませるのはもちろん週末の紗和との決闘で、そのことが考えの端に上がるたび、どんよりと気が重くなるようだった。

 問題は、おそらく私が圧勝することなんだよな。と、あすみはクソロンゲが抱えていたものと全く同じ心配をしている。

 あのバアさん、ゲーム辞めちゃうんじゃないかな。

 そうは思っても、あすみは全く手加減をする気が無いのだった。それは、あすみ自身のプライドが絶対に許さなかった。

 あすみとしては、複雑なところである。そうこう思っているうちに、またヘマをして死んだ。


 紗和が約束を取り付けたのは、土曜日だった。その日は紗和もあすみもシフトが入っていなくて、指定した時間は十八時だったから、紗和は早くから最終調整のためにネットカフェに来店した。

 あすみは、十二時頃までは自室の布団でゴロゴロしていて、下の階から聞こえてきた母親の声によってようやく起き出した。

 起床した直後のあすみは、癖毛が尋常じゃない跳ね方をしていて、とても見られた格好ではない。

 彼女は母親が見ている囲碁のタイトル戦の録画を一緒に見ながら、昼食を済ませた。そして、ぼんやりした眼でコーヒーを飲んだ後にようやくシャワーに入った。

 クソロンゲは、締め切りに追われていた原稿になんとか始末を付けたところだった。この週は風呂に入る暇もないくらい忙しかったから、彼はまずシャワーに入った。ただし、お湯に濡れたらドレッドが解れてしまうから、体しか洗わない。それから少し仮眠を取って、十六時頃、今日の決闘を見届けようと二番目にお気に入りのデスメタルバンドのTシャツに着替えた。そこで、娘の涼子が扉を開けて顔を見せた。

 涼子の顔色が悪いことに聡く気が付いたクソロンゲは、

「おい、風邪でも引いたのか?」と心配そうに尋ねた。

「うん……」

 涼子は、昼頃まではただ重たい生理が来たのだと思って、気持ちの悪さをこらえて勉強していた。しかし、気分はどんどんと悪化して、それはベッドに横になっても変わらなかった。むしろ、吐き気すら出てくる始末だった。この時になって、いよいよ涼子は風邪を引いたのだと確信した。

「風邪みたい」

 こうして、この日クソロンゲは決闘どころではなくなった。

 高梨は、いつものように朝から昼まではコンビニでバイトをしていた。ネットカフェに通うための金は、主にこのバイトの給料から出している。

 通信制高校に通っている高梨は、昼間はバイトの他には学校から課された課題に、結構真面目に取り組んでいる。大学進学なんて、希望のある進路を彼は本気にはしていない。だが、進学校に在籍していた頃の習慣を捨てきれないでいて、課題だけは、しっかりと、提出期限内に解決していた。

 そして、十四時頃からはもうネットカフェでじっくりとうさみみを探している。ゲームそのものはバカバカしいと思っているものの、ネットカフェの喫煙室で、常連たちとくだらない話をしている時間は正直救いに思っていた。


 あすみは丁度、十八時に来店した。噂を聞きつけた幾人かの常連は、煙草を吸ったり、読みもしないのに漫画本の背表紙を眺め回たりして、そわそわと落ち着きがなくゲーム推奨PCブースをうろつき回っていた。

 ブースに入ったあすみはその場の異様な雰囲気に気が付いた。

 どうも人の眼を集めているな、とあすみは思った。

 勿論、あすみも紗和もここに居ないクソロンゲを除いては、彼らとは会話をしたことも無い。

 見物人たちの、ブースの周りを疎らにうろちょろする渦中に紗和は座っていた。だが、当の紗和はそんなことには気が付かないでいる。

 あすみは紗和と簡素に打ち合わせした後、丁度、スクリーンを隔てた紗和の向かいの席に座った。そして、「プライベートマッチ」という、プレイヤーがルールをカスタムしたり、部屋に鍵を掛けて特定の人とのみ試合するための部屋を作った。紗和も練習にはこれを使っていた。

 そして、紗和が部屋に入ってくるのをしばらく待った。だが、三分くらい経っても紗和が入ってこない。そのうちスクリーンの向こうから「あすみちゃーん、どうやってやるのー?」と情けない声が聞こえてきた。

「真剣味に欠けるなあ……」

 あすみは呻きながらも、向かいの席に回って、結局部屋に入る操作をした。

 マップは、FCでは最もポピュラーな工場を模した所を選択した。マッチポイントは三点であり、先攻の紗和は爆弾をマップ上のオブジェクトに設置して、起爆まで爆弾を守り切ればマッチポイントを獲得、出来なければ、あすみのマッチポイントとなる。

「先攻後攻は?」あすみは尋ねる。

「じゃあ、私が先攻でよろしく」と紗和は答える。

 内心、その言葉を待っていたわ、と思っていた。

 試合が始まると、さっそく常連たちの眼はあすみの画面に集まった。あすみのような若い女も二人くらいは中に混じっていたが、殆どは芋臭い男だった。

 高梨は、多少試合の成り行きに興味を引かれたものの、丁度ボスに向かうため募集していたパーティーメンバーが揃ったところだったので、うさみみ探しに取りかかった。

 あすみは背後の方から伝わってくる息遣いを感じながら、紗和がどちらのオブジェクトを狙ってくるのか予想した。……オブジェクトはA、Bとアルファベットを振られていて、A地点は北東、B地点は北西に位置している。北側に初期位置がある防衛側は、当然オブジェクトに到達するのが爆破側よりも早いから、有利なポジションで待つことが出来る。

 ただし、これは一対一のデモリッションという、異色のルールだ。

 FCに始まるFPS(一人称シューティング)において「待つ」という戦法は絶対的な強さがあると考えられている。それなのに「防衛側」というものが成立しているのは、オブジェクトが二つあるからだ。

 防衛側には「相手を待てる」という優位性があり、爆破側には「一方的に爆破するオブジェクトを選択できる」という優位性がある。

 あすみは考える。

 例えば、防衛側がA地点に三人、B地点に二人布陣したとして、爆破側からすれば、手薄なB地点に五人の兵力をオールインする選択ができる。防衛側はどちらか片方に集結することで敵全員を迎え撃つことも出来るが、もちろんどちらかがフリーになるというリスクが伴うってことだ。

 あすみはさっそく南からの侵入経路が三つある広場に面したA地点で様子を窺う。当然、撃ち合いに有利となるポジションでアサルトライフルを構えている。あすみの使っているアサルトライフルは、武器種中では最も威力が高いものの、反動が強く取り回しの難しい、ピーキーな性能をした武器だった。

 デモリッションでは、互いのチームの優位性がバランス良く釣り合っていて、どちらを攻めるかは、所謂「駆け引き」が発生する部分だ。

 ……だから、本来人数差で優位を取ってくる爆破側のアドバンテージが存在しないこのルールでは、防衛側に有利が傾くはず。

 そのはずだ。

 あすみは、A地点でしばらく待ったあと、狙いはB地点かと思って、北側の通路になるダクトへ向かって走りだした。その途中にあすみの予想が当たって爆弾が設置された旨のアナウンスが流れた。


 紗和は、A地点よりも、屋内で入り組んだ地形のB地点に爆弾を設置した。

 取り敢えず、二分の一の勝負には勝ったわ。

 紗和は一人、ほっと息を吐く。それから居住まいを正して、

 後は、あすみちゃんをやっつけるだけだわ。と考える。丁度、北側の細いダクトの蓋が音を立てて外れた所だった。

 紗和には、元よりあすみと撃ち合うつもりは無い。

 高梨の座っている席は、丁度紗和の画面が遠目に見えるところだった。そして、画面の中で不思議なことをしている紗和を見て、高梨には彼女の腹の内が読めた。

 なるほど、そんな馬鹿な手があったとは。と、彼は納得して自分の画面に視線を戻す。


 北側のダクトから抜け出てきたあすみは、爆破地点を灰色の煙が覆っていることに気が付いた。紗和が投擲したスモークグレネードだった。所謂手榴弾の一種だが、この武器は相手に当ててもダメージが無い。煙が吹き出して、起爆地点周辺の視界を灰色の煙で覆うだけだった。

 それは突撃側が使うモンだろ……。

 あすみは心の中で紗和のプレイに突っ込みを入れる。

 確かに、スモークグレネードは公式大会でも大いに活躍している武器だった。チームメンバーが一斉にスモークグレネードを投擲して、視界を奪っている間にアクションを起こすことをセットプレイと言う。特に、デモリッションの爆破側のように、待っている敵に対して、敵の位置、若しくは自分の進行ルートにスモークグレネードを投擲する戦法は甚だ効果的だった。

 ただ、スモークグレネードは敵味方の区別無く視界を奪うから、使い方を熟知していないとチームメイトに野次を飛ばされることもある。

 この場合は、まさに自滅スモークだろ、とあすみは眉を顰める。

 辺りをクリアリング(周囲に敵が潜んでいないか確認すること)をしたところ、あすみは紗和が煙の中にいるであろうと見当を付けた。

 煙の中、私の足音に向かって、我武者羅にショットガンでも撃ってくるつもりかもしれない。……バアさんは何を考えているのか分からないわ。

 尤も、バアさんのプレイを見ていた限り、不意を打たれたって、頭に弾が当たらない限りは勝てると思うけれど。

 それでも、一応あすみは足音を殺して煙の中に入った。

 ヘッドホンから聞こえる周囲の音からは、紗和の足音が聞こえない。動いていないか、すり足でのろのろ移動しているか。

 周囲の物音に注意しながら、あすみは灰色の視界を歩いた。爆弾の設置位置は体で覚えていたから、そちらに近寄って爆弾が発する赤い光を探すだけだった。

 そのとき、いきなりあすみの画面のカメラがロングショットになって、灰色の煙だけが映り込んだ。

「は?」思わず、あすみは声をあげる。

 あすみの後ろで試合を観戦していた常連達にも何が起こったのか分からないようだった。カメラが一人称で無くなったということは、あすみが死んだということだ。

 あすみは、紗和にキルされていた。つまり、紗和はその試合に勝利した。

 地雷か……、あすみはそう思って、キルログを確認する。そこには、紗和があすみをナイフで殺したことが記されていた。

 射程距離は極短いが、一撃当たれば殺せるナイフ。

 そういうことか……。

 あすみは唖然としている。

 つまり、向かいに座っているババアは、煙の中摺り足で、文字通り闇雲にナイフを振りまくっていたのだった。

 この滑稽な戦法には、あすみ含む観戦している常連達も驚いた。続く試合では、あすみの後ろにいたギャラリーが、幾人か紗和の方に向かった。


 続くラウンドはA地点に爆弾を仕掛けに言ったあすみと紗和が、初っぱなから撃ち合った。紗和は毎秒のダメージが高いサブマシンガンを持っていたが、あすみはピーキーなアサルトライフルをかなり上手に使いこなしていて、紗和のサブマシンガンに被弾しながらも、一発目は紗和の胴に、二発目は上方に跳ねた反動をそのまま利用して、頭を打ち抜いた。それきりあすみは無駄弾を撃たない。

 常連はあすみのエイミング(相手を正確に狙う技術)に感嘆の声を漏らした。頭を撃ち抜かれて死んだ紗和にしても同じだった。

 やっぱりあすみちゃん、撃ち合いが強いわ……。

 紗和の心臓はどきどきしている。

 だけど、いくら撃ち合いに強くたって、戦略で捻じ伏せることは可能なはずだわ。


 三試合目、紗和は爆弾をA地点に仕掛けに行って運悪くあすみと出くわした。

 視界に入った瞬間にあすみは紗和に狙いを合わせて銃撃したが、二発胴に入ったところで際どく物陰に隠れられた。あすみの銃で胴に二発も命中すると、プレイヤーの体力は瀕死に陥る。その後、ナイフを警戒して丁寧にクリアリングをしているあすみを放って、紗和は急いでB地点に爆弾を仕掛けた。

 あすみは、紗和が先攻を取った理由に気付き始めていた。

 一見、一対一では優位に見える防衛側でも、一つ脆弱性がある。……それは、爆破側に爆弾を設置されたら、それまで味方だった制限時間が掌を返して、爆弾が爆発するまでの猶予という爆破側のアドバンテージに転化する。

 五対五の場合、爆弾が設置されたオブジェクトが分かっているから、オールインの勝負に持ち込んで、ともすれば爆弾解除をしにいく防衛側でも有利を取ることがあり得る。だが、一対一でそれはあり得ない。結局、設置さえすれば爆弾の解除を妨害する爆破側の完全な「待ち」が成立するのだった。

 そして、紗和が考えたスモークの中で我武者羅にナイフを振りまくる作戦は、その状況においてかなり有効に機能する。

 あすみの体感で、爆弾が設置されてから爆発するまでの時間はおよそ三十秒。スモークが煙を吹き出してから、その煙が持続する時間はたしか十五秒。そして、爆弾の解除に要する時間は五秒程度。実質、二十秒ほどの間、スモークとナイフだけで爆弾を守れることになる。これが五対五であれば、煙の中を複数人で撃ちまくるか、さもなければ爆弾を投げ込むところだ。

 あすみは、実際に煙の中にグレネードを投擲した。しかし、当てを外して紗和には当たらなかった。

「ちっ」あすみは舌打ちした。

 厄介な戦略を考えやがる。もし、私が煙の外から我武者羅に撃とうもんなら煙の中からは格好の的になる。無策で煙の中に入っていっても、このリコイル(発砲による反動)の大きいアサルトライフルでは、近寄ってくるナイフババアを仕留めきれる勝算は薄い。

 ならば……とあすみは武器をナイフに持ち替えて煙の中に突撃した。

 煙の中での斬り合いは、ギャラリーたちにも、紗和とあすみにすら何が起こっているのか分からなかった。互いがナイフを振る音がヘッドフォンを通して微かに聞こえてくるものの、動き回っている敵の位置を上手く斬ることは困難を極めた。下手に正面で向かい合うと相手のナイフがこちらに当たってしまうことも考えられる。

 だが、結局その闘いの勝敗は紗和に軍配が上がった。

 紗和が持っていたナイフは「マチェーテ」という、ナイフのくせにそれなりに高価な代物だが、射程距離はあすみが初期装備で持っている「サバイバルナイフ」に比べると格段に長かったのだ。

 まさかマッチポイントまで取られるとは……。

 あすみは、ヘッドホンを外して短い癖毛の頭に手櫛を差しながら思う。

 彼女が思い悩む時の癖だった。

 ババアが先攻を取っているということは、次のマッチに勝ったとしても最終戦となる五試合目には爆破側を取られることになる。

 とにかく、もう試合は落とせない。

 あすみにだって、試合に掛けているものはある。それは、今まで一人でプレイしてきて培った勘や経験への信頼……ゲーマーとしてのプライドと言えば、それまでだが。

 あすみにだって、並々ならぬ思いがある。FCで金を稼いでいたあすみが、チームにも入らないでプレイし続ける理由。

 あすみにとって、このルールで真剣勝負をするのは二度目だった。

 前の試合では、一度もラウンドを取れなかった。

「……勝ち続ければ……」

 あすみは、日頃から念じている言葉を、無意識に呟いていた。小さい声だったから、紗和にも、後ろで観戦している常連たちにも彼女が呟いた言葉が聞こえなかった。

 果たして、四試合目はあすみがマッチポイントを獲得した。広場に面したA地点に爆弾を解除しに来た紗和を、スモークを投げる暇も与えずに頭を撃ち抜いて殺した。


 最終戦となる五試合目、悩んだ末、あすみはショットガンを装備して出撃した。ナイフを振るってくる相手に対してはカウンターとなる武器種だったからだ。あすみはA地点に張ったが、彼女に取っては運悪く紗和がB地点に爆弾を設置した旨のアナウンスが聞こえた。だが、北側のダクトに位置取っていたあすみは、素早くB地点に移動することができた。

 これで、いよいよ勝負が分からなくなってきた。

 背後から、常連達が「俺なら……」から始まる彼らが考えた対策についての解説がヘッドホン越しにぼそぼそ聞こえ始めて、あすみはかなり腹が立った。

 紗和はまだスモークグレネードを温存しているようだった。B地点のオブジェクトからは、爆弾が発している小さな赤い光が、あすみの画面からはっきりと見えた。

 爆発するまであと何秒ある?

 あすみは瞬時に計算する。

 スモークの持続時間はおよそ十五秒、解除に要する時間は五秒、……ここまでの移動時間は、四秒くらいか。

 爆破まで、およそ二十五秒。

 そのとき、丁度紗和が投擲したスモークグレネードが音を上げて煙を吹き出し始めた所だった。

 あすみは、取り敢えず遠隔からグレネードを投擲した。爆破範囲に紗和がいたかどうかは分からないが、キルログに名前が流れてこないところを見ると殺し切れていないようだった。

 それから、あすみは煙の外からショットガンで適当に間隔をおいて射撃した。爆破までの時間は計測していなかったが、あすみは体内時計に自信があった。

 煙は必ず晴れる。それも、十秒ほどの猶予を残して。


 クソロンゲは、以前自分が風邪の時に世話になった病院を目指して運転している。あそこの病院は土曜診療もやっていたはずだ。

 娘の涼子は後部座席を倒して横になっていたが、クソロンゲの下手くそな運転のために余計気分が悪くなっている所だった。

 車は病院の入り口すぐ前の駐車スペースに乗り付けた。

 涼子は後部座席から、クソロンゲが運転席から転び落ちるように出て行く様子を見ていた。彼は病院のガラス扉に張り付いて「あれえーっ!?」と、無人の受付に向かって叫び声を上げた。

「だからこんな時間に診療やってる所ないってゆったじゃん!」

 涼子は、後部座席の窓からクソロンゲの背中に向かって叫んだ。頭がずしんと重くなって、熱を帯びた額を擦った。

「りょうこおっ」

 クソロンゲは娘が車に轢かれたような形相で後部座席に駆け寄る。

「だから、ただの風邪だって言ってるのに……」

「馬鹿お前、昔は風邪を拗らせて死んじゃうことだって、あったんだぞ!」

 涼子は顔を顰める。この分からず屋の父親に、風邪だけでなく生理のせいでこんなに体が怠いのだということを説明すると、今度は大学病院に連れて行かれるかも分からない。

「あのねえ、お父さん。現代は布団で横になって風邪を治すものなんだよ」

「けどよお、お前……」

 クソロンゲは唇をひっくり返して不安そうに汗をたらたら流す。

「あっ、そうだ!」

 クソロンゲは良いことを思いついた。


 B地点のオブジェクトを覆っていた煙が晴れた。

 あすみは、煙が薄れてきた瞬間を見計らって、爆弾に向かって走り出した。そのとき、視界が開けてきたオブジェクトの方から発砲音が聞こえ、あすみはとっさに近くの遮蔽物に身を隠した。

 紗和は、アサルトライフルを持っていた。あすみと紗和は、ギリギリアサルトライフルに有利が傾く距離にいる。

 時間がない、とあすみは思った。思った瞬間には、手元は動いている。

 それからの出来事は一瞬だった。

 遮蔽物から走り出てきたあすみに、紗和はアサルトライフルの弾を三発当てた。だが、あすみの体力は際どいところで削り切れず、あすみはそのままジャンプして紗和のエイムを切り抜けた。そして立体に加速する視界の中、ジャンプの最高地点で紗和の頭にエイムを一瞬合わせて、見事に撃ち抜いた。

 紗和の耳に、「やっば!」という、ギャラリーの叫び声がヘッドホン越しに聞こえた。紛れもないスーパープレイだ。

 爆破側のプレイヤーが全滅したとしてもこの試合は終わらない。

 防衛側は、爆弾を仕掛けられた場合「爆弾を解除すること」が全ての勝利条件より優先される。つまり、爆弾を解除しなければ防衛側の勝利とはならない。

 紗和も今のあすみのプレイにギョッとしたが、すぐにマウスを握る右手の横に置いたストップウォッチを確認して、タイマーを止めた。そして、爆破までの残り時間から勝敗を見極めた後は、ただあすみが爆弾の解除に取りかかるのを見届けるだけだった。


 試合が終わった後のゲーム推奨PCブースは静かだった。勝負を見届けた常連達も、各々の席に戻っていったり、喫煙室で観戦の興奮を冷ましたりしていた。

 紗和は席を立って向かいの席に回った。あすみは、呆然と試合のリザルトを見ていた。

 まるで、あの日の私みたいだわ。紗和は、彼女の隣に立って思う。

「あすみちゃん、やっぱりゲーム上手だわ」

 あすみは、俯いて、少しだけ紗和の方に顔を傾ける。

 紗和には、今のあすみの気持ちがよく分かる。

 かつては自分も味わった。こんなときに優しい言葉を掛けられたら、多分泣きたくなる。紗和は、この間夢で見た昔の自分に対するような、豊かで温かい気持ちを抱いていた。

 それは、勝者の余裕なのかもしれない。それでも、紗和は本心であすみの健闘を讃えていた。

「でも、エイムが上手いだけだといけないわ。しっかり作戦を練らなくちゃ」

「そんな……」

 あすみは呻く。

「……そんな説教を、するために……」

 低い声で呟いて、あすみは紗和を睨み付ける。

「このゲームをしているの……?」

「違うわ」

 紗和の眼は、連日の調整と先ほどまでの試合のためにしょぼしょぼしていて、いつもより細くなっている。

「だって私、勝負師ゲーマーだから」

 そのとき、やにわに「うさみみきたああ」という叫び声が聞こえて、紗和もあすみもびくんと体が跳ね上がる程驚いた。


 *


 クソロンゲは、ものすごい勢いでネットカフェに入ってきた。そのとき受付に居た店員は、「ゲッ、クソロンゲ」と思った。

紗和とあすみは、いきなり叫び声を上げた高梨を呆然と見ているところだった。

 クソロンゲは受付を無視して、そのままゲーム推奨PCブースに入り込むなり、

「バアさん!」と声を上げた。

 彼女たちは、これまたいきなり乱入してきたクソロンゲに視線を移した。

 クソロンゲは、一瞬決闘の結末がどうなったのか気になった。しかし、家で横になっている涼子の心配が勝った。

「バアさん、それにあすみちゃん。今すぐ一緒に来てくれ」

 そして、クソロンゲは息を吸い込んでからこう言うのだった。

「娘が危篤なんだ!」

 紗和は「大変だわ」と思った。

 あすみは「え、なんで?」と訝しんだ。

 それから彼女たちは顔を合わせて、とにかくクソロンゲに付いていくことに決めた。


 クソロンゲの住んでいるマンションには、彼の運転する車で七分ほど走ったところにあった。三人が涼子の部屋に入ったとき、丁度涼子は布団に吐瀉をしているところだった。

 昔、妹夫婦の事情で甥の賢治を預かったとき、紗和には、折り悪くインフルエンザに罹患した賢治を看病したことがある。そのときの経験や、自分が熱を出したときの体験が活きて、自然とその場を切り回すことになった。

 紗和はまず、吐瀉物で汚れた布団を除けながら「薬はもう飲んだの?」と、尋ねた。

 その質問には、口元を手で押さえていた涼子が首を振って答えた。

 それから、紗和はあすみに薬局で風邪薬と冷却シート、それにスポーツドリンクを幾つか買ってくるように頼んだ。クソロンゲには、汚れた布団をコインランドリーで洗濯してくるように言った。そして、自分は冷蔵庫に入っていたものを適当に使って、素朴な粥を作ることにした。

 薬局のビニール袋を提げて涼子の部屋に戻ってきたあすみは、部屋に涼子と自分しかいないことを確認すると、風邪薬の箱と、気を利かせて買ってきた生理痛に効く鎮痛薬の箱を袋から涼子に寄越した。

 涼子は、鎮痛薬を枕の下に押し込んで、

「風邪薬とかはそこの卓に置いといて下さい」と言った。

 布団で寝ている涼子から取り敢えず日本語が聞こえてきたので、あすみは、

「なんか、一緒に飲んじゃ駄目だって、薬局の人言ってたから。時間ずらせってさ」と忠告しておいた。

 それから、一応買ってきた生理用品を同じように涼子に渡してから、薬局のビニール袋を卓に置いて、部屋を出て行った。


 あすみはクソロンゲの家の狭い台所に行って、壁に寄りかかって短い癖毛に手櫛を差した。それから紗和に、

「あれが娘って」と話かけた。「まさか金髪碧眼の白人だとは思わなかったよ」

 紗和は眉を上げて、そうねえという顔をした。

「ほんとに血繋がってんのかな」

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