フィクション
みとけん
プロローグ
紗和は人生で一度、「これは本物だ」と思わされる勝負師に出会ったことがある。
中学生の頃の紗和は囲碁にのめり込んでいた。所属していたクラブ活動の中でも負け無しで、地区大会でも結果を残していた。あくまで冗談の領域ではあったが、顧問には将来は女性棋士だと持て囃されていた。紗和は適当に笑って流すポーズこそしていたものの、内心、悪い気はしていなかった。気も弱く、運動も勉強も得意ではないが、彼女はこういった知略を必要とする勝負には絶対の自信があった。しかも、自信を支える程の努力を、紗和はしていた。
ある日、顧問の紹介で同年代の少女が紗和の前に現れた。彼女は院生という、ありていに言えばプロの卵だった。顧問は紗和の棋力を量るため、ひいてはプロの世界に通用するかを確かめるために、彼女を呼んだらしかった。
初めは、置き石というハンディギャップを二子付ける四子局を打った。対面する院生は、紗和によく似た雰囲気で気弱そうだったが、眼光には今まで見たことのないような鋭さがあった。
それでも、院生が投了して紗和は二子局に勝利した。
続けて、院生側のハンディギャップを二つ減らした二子局を行ったが、これもまた紗和の勝利で終わった。今度は辛い勝利だった。
普段の活動では和気藹々としている美術予備室は、俄然熱気が高まる。紗和が、院生に勝利するかもしれない。
紗和はかつてなく緊張した。地区大会の決勝でも緊張はしたが、それでも相手は自分と同じ水準に位置する一人だったに過ぎない。だが、今は違う。
相手は院生だ。もし勝利すれば、自分には「素質」や「才能」があることが裏付けられることになる。……それは、紗和の今までの努力に、絶対的に報いる事実だ……。紗和は平常心を取り戻そうと、今まで囲碁に費やした時間を思った。だが、それによってますます緊張することになった。
一方、ちらりと見た対面の顔からは、平静以外の感情は全く読み取ることができなかった。
ハンディギャップを無くした一局はそれまでの対局よりも膨大な時間が掛かった。掛かった時間の大半は、紗和の長考によるものだったが、夢中で対局していた紗和はそのことに気が付かなかった。
顧問と部活のメンバーが固唾を飲んで勝負を見守る中、差し込んでいた日はいつの間にか赤みを増して、美術予備室の中に置いてあるトルソーやキャンパスから深い影が伸び始めた。一年の女の子が部屋の暗さにハッと気が付いて、部屋の電気を付けた。
盤面は、紗和にさえ優劣がはっきりとは分からないくらいに拮抗していた。戦局が煮詰まり、お互いが獲得した地を数える段になる。
紗和は、院生に二目勝っていた。が、
「コミで私の負け」と、院生は呟いた。
コミとは、先着する黒番が持つ有利を見込んだ囲碁のルールであり、つまり、後攻の紗和は六目半のアドバンテージを持っていたということを示している。
「負けました」と、院生は頭を垂れた。
*
その晩、紗和は興奮と嬉しさで寝付けなかった。同じアマチュアでも、遙か高みにいると思っていた院生に勝利を収めた。この成功体験は、自分の後々の人生を変える出来事だと信じた。
興奮は、朝起きても、真面目に授業を受けている間にも覚めることはなかった。休み時間には数少ないクラブ活動のメンバーが紗和の所へやってきて、昨日の勝負について色々話した。普段クラスで目立つことのない紗和は大いに照れた。
その日はクラブ活動もなかったので、教室から真っ直ぐに玄関口へ向かう。
廊下の窓から見えるグラウンドには雨がしとしと降っていた。
傘を差してから校門に出たところで、少し離れた所の木の陰から自分に向けられている視線があることに、紗和は気が付いた。視線の主は、昨日対局した院生だった。今日は近所では見覚えのない学校の制服を着ている。眉に掛かる位の長さで切りそろえた前髪の下の眼は、確かに、紗和を見ていた。
「付いてきて」と、気弱そうな見た目からは想像出来ないような言葉の温度で、院生は紗和に言った。
紗和は院生と、雨の降る街を歩いた。このとき、紗和は初めて院生が少し奇妙な歩き方をしていることに気が付いた。一歩踏み出すたびに、妙に左肩が上下している。紗和の視線に気が付いた院生は立ち止まって、
「内反足なの」
と、呟いて、左ひざを手のひらで擦った。その足に関する説明はそれきりだった。
しばらく院生は、紗和も見知っている商店街の賑やかな通りを歩いていたのだが、乱雑に並べられた植木鉢が路上まではみ出している花屋がある角を曲がってからは、どんどんと見知らぬ風景が広がり始めた。
院生は寂れたような布団屋を過ぎて、すぐ隣のビルにいきなり入っていった。ビルの看板にはポップな字体で「囲碁クラブ」と書いてあった。
碁会所。と、紗和は思った。院生の方を見ると、ずんずんビルの階段を上っているところだったので、慌てて彼女も中に入った。
碁会所には老人ばかりがいた。皆一様にちんと静まって囲碁を打っていたが、紗和には、丁度中学校の数学の教師のように厳めしい面をしている人が多いように見えた。それに、雨が降っているからか窓は閉まっていて、フロアに充満する煙草の煙は、一つの換気扇からしか出て行っていなかった。
老人たちは入り口に現れた二人の中学生女子に好奇の目線を向けた。それは一瞬の出来事だったが、紗和はすくみ上がってしまった。
院生は入り口近くのカウンターでさっさと二人分の席料を支払って、空いている席に座ってしまった。紗和も、遅れて、小走りで後を追った。
院生が何の説明もしないので、おっかなびっくり対面する席に座ったら、院生は直ちに黒石を置いた。囲碁には先攻後攻を取り決めるためのやり取りは存在するのだが、たまたま座った席の側に黒石があったという理由で彼女が先行を取ったらしかった。多少雰囲気に呑まれながらも、紗和も白石を置き始めた。
つまり、リベンジなのか。と、紗和は思った。
対面する院生の顔は、昨日会ったように平静そのものだったが、瞳は前回以上にぎらぎら光っていた。
初めは雰囲気に慣れない紗和だったが、手を重ねるうちに勝負に没頭し初めて、彼女たちは周りの風景の一部になった。それでも、彼女たちの盤面には周りの老人たちの碁盤には無い、真剣さが垣間見えるようだった。
その局は、序盤に精彩を欠いた紗和が投了して敗北した。
大会などでも、紗和にはこういった傾向があった。一戦目で当たる相手と水を空けている場合にはそれでも中押しで勝つことがあったが、集中力を極めるまでに猛者と当たった場合には、かなり際どい勝負も過去何度かあった。敗北したことも、あった。
「石を取り替えましょう」と、盤上の石を片付けながら紗和は言った。院生は頷いた。
そして、碁笥を盤上で取り替えて、今度は紗和の先攻となった。
……今度は、いつも通りで……。内心で呟いた紗和だったが、またしても投了して敗北した。紗和には、盤上の出来事が、何がなんだか分からなかった。
正確には、紗和は何がなんだか分からないうちに負けるような打ち手ではない。分からないのは、中盤以降、立体的な陣地を作っていた紗和の黒が、どの手で崩されたのか、ということだ。それははっきりと実力差がある打ち方のように思った。
一晩のうちに、対面する院生に何があったのか?
紗和は相手が空恐ろしくなった。あの後、自分が家に帰って、夕飯を食べて風呂に入って寝ていたうちに、院生は確実に紗和の上を行く実力を付けていた。
そんな効率の良い努力が、人間に出来るのか?
紗和の頭の中には、そんな考えが渦巻き始める。対面する院生は、何も言わない。だが、紗和の了承も得ていないのに、盤上に黒石を二子、自らに対するハンディギャップとして置いた。その二子局も、紗和はあっさり敗北した。
続けて院生側がハンディギャップを増やした三子局も紗和は敗北し、続く四子局でようやく紗和は勝利した。だが、全く嬉しくなかった。
すっかり日も暮れている。雨も止んでいる。
終局した盤上を呆然と見ている紗和を残して、院生は、左肩を大きく上下させる歩き方で碁会所を出て行った。
「あの女の子強かったなあ」と、後ろから声を掛けられて、紗和の集中力はようやく静まった。後ろを振り向くと、年寄りの男が二人立っていた。
「でも、君も強いよ。うん」老人は顎をさすりながら言った。入った時には恐ろしく感じた彼らだったが、こうして声を聞くと、如何にも優しげで、どうしてか紗和には泣きそうになるほどだった。
紗和は、盤上に残った白石と黒石を一人で片付ける。その様を他人の目からどういう風に見えるのかを想像したら、惨めで、悔しかった。
家に帰る道すがら、紗和は考える。
昨日までは、私の方が強かったのに。
だが、今日感じた実力差は、如何ともしがたい。とも思う。
結局、才能なのか。と自分に言い聞かせるように考える。
才能。……強いだけじゃない、強くなるための、本物の、才能……。
思い煩い始めると、布団に横になっても収まらず、とうとう紗和はあまりの悔しさに枕を濡らした。彼女の頭の片隅には、内反足の勝負師が強烈にこびりついた。
*
あれから数十年後、予想だにしない再会をするまで内反足の院生と会うことは二度となかった。紗和は中学を卒業するまで囲碁を続けて、その後も大会で好成績を収めた。だが、あの雨の碁会所での対局以来、どこか囲碁に対する熱を失ったようだった。そして、中学校を卒業すると同時に紗和は囲碁を辞めた。
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