侵食される世界 2
駅の近くにある住宅街は、区画整理で新たに出来た新住宅街、そして一つ道を隔てたところには昭和の雰囲気を残した趣のある家が立ち並ぶ旧住宅街がある。
今、誠が走っているのは新住宅街だがこの辺りはほとんど来たことがないので土地勘がない。土曜日の朝だからか人通りもない道を誠はゆっくりと通り抜けていく。
頼りにしていた音は途絶えているが、チクチクと肌を刺す感覚は未だ続いていた。
(メイリルはここら辺にいるのか?)
自信のないまま時折、行き止まりに阻まれながらも少しずつ北上していく。頭の中の地図ではそろそろ持山町の北西エリアに来ているはずだ。このまま道なりに行けば線路にぶつかり、そこから更に北に行くには高架橋を渡るかトンネルを潜るかしかないのだが、誠はその場所を知らなかった。
(とりあえず線路沿いに走っていけばどこかにあるだろ)
だが、その僅かな考え事をしていた時間が再び誠の運命を分けることになった。
何か薄い膜を突き破るような感覚に驚いて誠は急ブレーキをかける。不注意で猫でもひいてしまったのかと思ったのだ。
だが、すぐに誠はそうではない事を悟る。
ついさっきまで、自分は夏空の下で自転車を走らせていたはずだ。
なのに、その空はまるで血に染まったかのように紅い。その空の色を映すかのように街並みも赤く染まっている。
先ほどまでチクチクと刺すような肌を刺す感覚は、はっきりと寒気となり誠は身を震わせた。
(何が……、あれは!?)
どこまでも続く紅い空を見て誠は言葉を失う。真上に輝く太陽だと思った物、だが、それは太陽ではない。不気味に明暗を繰り返す直径十メートル大の光球は紅い光を放ち空と地上を同じ色に染め上げている。
(紅い……太陽?メイリルの話に出てたアレか!?)
メイリルの世界に現れ巣を作り上げた話を誠は思い出した。その話の中に空に浮かぶ赤い太陽の事も。
ただならぬ雰囲気に気圧され自転車をバックさせようとするが、すぐに後輪が柔らかい壁のようなものにぶつかってしまった。自転車を降りて誠は直に触ってみるが、まるでエアークッションのようだ。柔らかく弾力があるのだが、しかし決して通れない。向こうに先ほどまでいた普通の街並みが水面のように揺れて映っているのに決して辿り着くことはできない。
(進むしかないか……)
震える足でなんとか自転車に跨り、なんどかペダルを踏み損ねつつも自転車はゆっくりと進み始めた。
頬に当たる風も寒く感じるのはきっと気のせいではない。実際にこの空間の環境は外とは違っているのだ。さきほどまでは鬱陶しいとしか感じなかった汗が冷たく体温を奪う。寒いというほどではないがじわじわと熱を奪われていくような不安が襲ってくる。
どこを進めばいいかは分からないまま、適当に角を曲がると人の後ろ姿が見えた。自分以外の人がいた事に喜びと安堵感を得て、急いで近くに走り寄って声をかけた。
「あの、すみません!ここで一体何が……。あの、聞いて、いま……す?うわぁ!」
話しかけても反応がないので前に回り込んだ誠は驚きで自転車から落ちそうになった。その人、年は二十代くらいのエプロン姿の女性は彫像のように固まっていた。瞬きもせず呼吸もしていない。かといって血色は良く死んでいるようにも見えない。まるで時間だけ止められているようだ。
「ちょっと失礼します……」
恐る恐る女性の手をつついてみるがマネキンのように固い。それに周囲を見ればおかしい物は沢山ある。
他人の迷惑を考えず道路の狭い道路の中央で立ち往生している車、電線に止まったまま身動ぎしないカラス、そして、空に浮かんで動かない物体はスズメだろうか?
「本当に時間が止まっているのか?ハハ、なんだよ、これ。なんでこんな事が起こるんだよ」
頭がおかしくなりそうだった。この理不尽な状況に対して喜怒哀楽、どの感情を表すべき分からず、渇いた笑いしか出てこない。
何をすればいいのか考える事も出来ず茫然としている誠の耳にまたあの音が聞こえてきた。次いで爆発音が止まっている世界に鳴り響き地面を揺らす。
「今度は何だよ!?」
地面に転んだ誠が顔を上げると、五メートルはある翅を広げて飛ぶ巨大な蛾が燃えながら、誠の五十メートル前に転がり落ちた。
黒い体に、黒い翅には血管のように紅い線が放射状に走り明暗を繰り返している。そして、なにより不気味な輝く紅い目に射竦められ誠の体は動かなくなる。
体を燃やしていた炎は消え焦げた体から黒い煙が噴き出す。だが不自然な事にその煙は空に昇っては行かず傷口を覆うように広がっていく。
(煙じゃない。あれで傷を治しているのか?)
しばらくすると煙は新たな体組織の一部となり傷があった場所は完璧に修復されてしまった。体の半分に負っていた火傷を僅か数秒で再生させた怪物が、ゆっくりと翅を動かし空へと飛びたとうした。
「逃がさない!氷導の七、
聞き覚えのある声と共に、巨大蝶の上に八本の氷で出来た円錐型の槍が現れ、次々と降り注ぐ。次々と体に、頭に、翅に刺さるとそこを起点に氷結させていく。だが、氷の槍の一本が翅を突き破り誠の近くに落ちて砕け散った。
「うわっ!」
「へ?マ、マコト!?どうしてこんなところにいるの!?」
「メイリルこそ、なんで黙ってこんな場所にいるんだよ!」
砕けた氷の破片で頬が切れたのにも気づかず誠は屋根に立つメイリルに言い返す。つい誠が強い口調で言い返してしまったのは無事を確認できた安堵感の裏返しだった。
「な、なんでって、それは危険だから……。って、マコト、すぐにそこから離れて!」
メイリルの警告と被せるように今までよりも強くあの音が頭に響く。同時に虫の知らせも過去最高の警告を発している。
「音の正体はコイツだったのか。でも、なんで……」
「なにブツブツ言っているの!早く、急いで!」
何が起こるか分からないが、とんでもないことが起こる予感だけはする。誠は自転車に跨り氷漬けになって地面に転がっている巨大蝶の脇を通り過ぎる。
通り過ぎる瞬間に誠は見てしまった。頭に氷の槍を受けた巨大蝶の紅い目が燃えるように輝くのを。その体の震えが大きくなるたびに覆っている氷が解けていく。
「角を曲がって!塀に隠れて!」
そういってメイリルも昇っていた家の屋根から飛び降りた。
そして、誠が角を曲がった所で、後方で光の柱が立ち上り、突如吹き荒れた暴風に誠は自転車ごと前方に投げ出された。
「マコト、生きてるよね!?死んでないよね!?」
「あちこち痛いけど生きているよ」
走り寄ってきたメイリルに誠はなんとか返事をする。痛みがあるというのは生きている証拠だろう。地面に転がった時に一瞬強烈な光を見たせいで視界はぼやけているが体の痛みは我慢できない程ではない。仰向けに倒れていた体を起こそうとすると誠の頬に温かい水滴が落ちてきた。
「そんな泣かなくても……」
「だって、だって……!」
視力が回復してきて最初に見えたのはメイリルの泣き顔だった。こんな時、マンガなどのかっこいい主人公なら涙を拭ってあげるとか頭を撫でたりして慰めるのだろうが、女子との接触経験皆無の誠にそんなことが出来る訳もなく。
「ほら、もう立てるから平気……」
「思いっきりふらついているじゃない!」
体の方も痛いことは痛いのだが、それ以上に頭痛が酷い。頭の中で何かが暴れまわっている様だ。どうやら虫の知らせが極まってくるとこういう風になるらしい。
だが、それでもなんとか自分の足で立って見せる。痛くて、怖くて、頭の中はぐしゃぐしゃで強張った笑みしか出来ないが、それでも笑ってみせる。
何も出来なのなら、せめて負担にならないようにする。それが、ちっぽけな咲村誠の男としての意地だった。
「辛ければ薬、色々あるけど何か使う?」
「いや、大丈夫。それより、まだマズイ状況なんじゃ?」
「うん、そろそろ動き出すかな。マコト、そこの塀に隠れていて。大丈夫、時が止まって外部から影響を与えることは出来ないから絶対に壊せないから」
アリエントを手にメイリルは前に進み出る。よくみれば服のあちこちが焦げ穴が開いている。頬にも擦り傷の跡が残っており彼女が今まで戦っていたのが良く分かった。
曲がり角の向こうにあった光の柱は徐々に色褪せ消えていく。
「アレがアギト……なのか?」
「うん、間違いない。しかも、コイツは私たちの世界から来た奴らだよ。大きさは全然違うけど、あの虫は見たことがある。本当はもっと綺麗な色合いをしているんだけどね……」
バサッ、バサッと翼を動かし巨大蝶が空へ急上昇する。さっきまで翅だったものが動物的な翼に変わっている。しかも体は虫のままのためアンバランスで歪、見ているだけで不快にさせるおぞましさである。更に体のあちこちから白い光が噴き出しているのがなんとも不気味だ。
「再生と同時に防御も考慮したってところかな。来るよ、頭引っ込めて!」
僅かな睨み合いの後、先に動いたのはアギトだ。蜜を吸うのに使う口吻を鞭のようにしならせてメイリルを打ち据えようとする。
上空から放たれたその一撃を右へ一歩ステップして避けたメイリルが叫ぶ。
「炎導ノ八、
アギトに向けられた『アリエント』の先端から直径三メートルはある炎の大玉が放たれる。そしてその火球が空中で八つに分裂、アギトの上下左右から逃げ場のない攻撃が襲う。
そのメイリルの攻撃に対してアギトが体を縦回転させ体から伸びたいくつもの光が刃となって炎を全て両断した。
「光の剣?……こいつの持っている物って!」
回転しながら上空から突っ込んできたアギトを魔術を用いたハイジャンプでかわす。アギトの光の刃が地面や塀にぶつかり耳障りな甲高い音と火花を撒き散らす。
「うわっ!」
誠の隠れている場所すれすれにアギトが通過していったが刃がぶつかったはずの塀は傷一つついてはいない。
一方、標的を見失ったアギトが胴体脇に生やした爬虫類系の足を地面に叩きつけて回転と勢いを無理やり止めた。そして胴体を傾け漏れる光をビームにして着地をしたメイリルに放つ。
「光導の七、
アギトのビームとメイリルの光の盾が空中で激突した。閃光があたりを包み込み紅い世界が白く染め直されるが、それも一瞬。メイリルの盾は健在なのに対してアギトのビームは霧散した。
(やっぱりコイツも、弱い!)
誠の目には、メイリルがまるで歴戦の戦士のように見えているが、実際には彼女にそれほど精神的な余裕はない。そもそも戦闘経験だって今までの人生で数えるほどしかないし、完全に一人で戦っているのも初めてなのだ。学院で魔物を相手にした戦闘研修はあったが、先生や先輩に守られての『戦いの空気』を感じるだけのものだったので実戦への不安は相当にあった。しかし。
(魔物との戦闘研修なんて何の役に立つのかと思っていたけど結構役に立つもんだね!)
アギトの気配を追って、この結界内に誘いこまれた時は死を覚悟したが、交戦したアギトの強さは実際に見た物、そして話しに聞いていた物と比べて遥かに弱かった。多少服を傷めただけで肉体にはダメージを負っていないのがその証拠だ。
(なんだろう、こいつら酷く弱っているけど……)
動きに精彩はなく、繰り出される攻撃は弱弱しく、アギトの代名詞とも言えた無数の軍勢も今の所五匹しか見ていないし、その全てはすでにメイリルが倒していた。
高ランク七~九の魔術ですら傷一つ付けられないと言われたアギトが簡単に倒せてしまう。
(コイツが弱いのか、それともチキュウに何か秘密がある?でも、今は!)
弱いとはいえ五分以上に戦えているのはアリエントを介して魔術を展開しているからで普通に戦えばやはりメイリルは勝てないだろう。それに、攻撃も直撃すればただでは済まない威力のものばかりだ。
だからこそ、手早く決着を付けなければならない。後ろには守るべきパートナーがいる。そのメイリルの決意に答えるようにアリエントの宝玉『世界の理ルールオブルール』が輝きを増していく。そして、メイリルは数多ある魔法の術式の一つを選択し、その通りに術式を展開する。
「ここが周囲の被害を気にしないでいい空間でよかった。思いっきり力を振るえるからね!魔力最大放出!術式展開!!」
アリエントから光の粒子が放出され風がメイリルを中心に吹きすさぶ。
生やした足を体内に取り込み空へ逃れようとするアギトの真上に直径十メートルを超える六芒星の魔法陣が紅い空を覆いつくすように展開する。
「天に撃たれ塵芥と成り果てよ!来たれ、神の
魔法陣から一本の柱のような雷がまっすぐにアギトを飲み込み、わずかに宙に浮いていた体を地面へと叩き落とす。翼は溶け落ち体も焼け落ちた。だがボロボロになった頭、そこに輝く紅いい瞳は未だにギラギラと輝やきメイリルから視線を外そうとしない。体中から黒煙をだし再生を試みるが、それよりもメイリルの呼び出した雷の破壊速度が勝る。
そして、後ろから顔だけを出していた誠はアギトの体の中に瞳と同じ色をもつ不気味な宝石を見る。大きさは人間の頭大、それが心臓が脈を打つように明滅を繰り返しているのである。
「あれが、核。アギトの心臓!」
「そうだよ。そして、これで終わりだぁ!!」
神の雷が収束して核に止めの一撃を加えると中心に向けてヒビが入り始め、そしてバキンと乾いた音を立てて砕け空気に溶けるように消えていった。
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