証拠のかわりに引用します

 新年早々、更新が滞りました。なんらかの企画を毎日、更新するぞ、と意気込んでいたのは、たった十日前のことなのですが。十日間でなにがあったのか、というお話から今回は始めることにします。

 おいおい、「証拠のかわりに」の分析はどうしたんだ? というか、今回は作品そのものにあまり触れていないが大丈夫か?

 そんなかたもいらっしゃるかもしれません。一応、ご安心を。「証拠のかわりに」の話題に戻ってきますので。正確には前に取り上げたフェア・アンフェア問題に対するひとつの回答を示せるはずですので。

 この十日間になにをしていたかと言えば『十日間の不思議』(エラリイ・クイーン著/越前敏弥訳/ハヤカワ・ミステリ文庫)を読んでいたのです。主要登場人物がわずか四人というクイーンの傑作を新訳で再読して、小説としての面白さとミステリとの絡めかたを勉強しなおそうという狙いです。一月末〆切の江戸川乱歩賞の応募を前にして、面白い長編推理小説とはどういうものかをじっくり考えようというわけです。

 さきほど、新訳という単語が出ました。早川書房さんからは別訳のバージョンが出ており、ずいぶん前に筆者はそれを読んでいます。引っ張り出してきましたが青田勝さんの訳です。翻訳ミステリ好きにはお馴染みの名前です。

 奥付を確認しますと、旧訳は「昭和五十一年 四 月三十日 発行」とあります。ちなみに私が持っているのは「昭和六十二年十一月三十日 十四刷」。新訳は「二〇二一年二月 二十 日 印刷」で「二〇二一年二月二十五日 発行」。

 もちろん、作品は素晴らしかったのですが、今回はクイーンを論じる回ではありません。レックス・スタウトの「証拠のかわりに」です。では、なぜクイーンが出てくるのか。これは見逃せないというポイントが、新訳版の飯城勇三さんによる解説にあったからです。

「クイーン異形の傑作」と題された“エラリイ・クイーン研究家”飯城さんの解説は「その刊行」「その魅力」「その映画」「その来日」「その問題」と五つの柱で『十日間の不思議』を語っています。

 おっ、と身を乗り出したのは「その来日」の部分。飯城さんは「その来日」と「その問題」の間に「※注意!! ここから先は本篇読了後に呼んでください。」という注意喚起の一文を置いています。ですから「その来日」の部分をミステリ考察のために引用するのは問題ないと私は考えました。この先に引用をして飯城さんの分析を提示し、また私の考えも示します。事前情報なく『十日間の不思議』を味わいたいというかたは、今回の記事のこの先を読むのをやめることをおすすめします。




!!!!!注意 この先、エラリイ・クイーン『十日間の不思議』の内容に触れます。未読のかたはご注意ください!!!!!




(センシティブな部分、ここから)



 まず「その来日――誰の視点か」の一部を引用します。



 時代による違いについて、もう一つ。旧訳文庫版の解説で、探偵作家の鮎川哲也は、本作の一場面を「三人称の地の文に噓を書いているので“アンフェア”だ」と批判しています。しかし、その後、綾辻行人以降の新本格作家たちが叙述トリックを多用したため、叙述や視点に対する作者や読者の意識が高まりました。その結果、「三人称でも視点が作中人物にある場合は、作中人物がそう思い込んでいれば、事実と異なることを地の文に書いてもアンフェアにはならない」という考えも出てきたのです。そして、探偵クイーンものは、まさにこの形式に他なりません(レーンものはにより探偵視点では描きづらくなっていて、それが叙述上の問題を引き起こしていますが)。


『十日間の不思議』(エラリイ・クイーン著/越前敏弥訳/ハヤカワ・ミステリ文庫) P.499より



 肝となるのは「三人称でも視点が作中人物にある場合は、作中人物がそう思い込んでいれば、事実と異なることを地の文に書いてもアンフェアにはならない」です。

 詳しく書くと「証拠のかわりに」のネタばらしになってしまうので書きませんが、私がひっかかったのはまさしくその部分。よくよく考えれば、語り手のアーチー・グッドウィンは「あること」を勘違いしているだけで、それはアーチー・グッドウィンにとっては自然なことで噓ではないのです。事実と異なる情報かもしれませんが、意図的な噓ではないのです。

 このルールを適応しないと不可能犯罪もの、とりわけ密室ものの「本当は密室ではなかった」パターンの多くはアンフェアになってしまうでしょう。多くの作品で「地の文で“現場は密室だった”」といった表現が用いられているように思います。

 せっかくですので、旧訳文庫版での鮎川哲也さんの解説も引用してみます。ただ、こちらはネタばらしになるので、一部筆者が伏字にします。



 なお、わたしが不満を感じた記述上のミスについて触れておく。××××××シーンで作者が×××××を■■■■と書いているのは、クイーンらしくもないアンフェアな手法だ。その××は■■■■に××た×××××××だったのだから、どんな理由があろうとも、■■■■と書くことは許されない。


『十日間の不思議』(エラリイ・クイーン著/青田勝訳/ハヤカワ・ミステリ文庫) P.417より



 作品を読んでいないかたにはなんのこっちゃという意味不明な文章でしょうが、お許し下さい。これは作品を守るためにやっていることですから。『十日間の不思議』を読んでいても、どこの箇所が該当するのかわからないというかたはいらっしゃるでしょう。本格の鬼、鮎川先生は「どんな理由があろうと」「許されない」とされていますが、初読時、私はさほど気になりませんでした。今回の再読のときは「このシーンの描きかたで読者が騙されることはあるな」と感じたことも書いておきます。

 ただ、鮎川先生が解説のこの先の部分で指摘されているように、工夫して書くと不自然になる可能性が高く、「なぜそんな言葉を選んだ書きかたをするのか」という疑問を手がかりに謎が解かれてしまう危険性は高いように感じます。メタレベルで解かれてしまうことはクイーンにとってことだったのかもしれません。




(センシティブな部分、ここまで)



 いろいろとミステリや名探偵といったものを考えるヒントの詰まった作品ですので『十日間の不思議』はオススメしたいです。特にミステリそのものに興味があるというかたには強くオススメします。新訳版ならば容易に入手できるはずですし。

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