寛容さと持続可能性と
フェアかアンフェアか。
尖った作品の一部に宿命のようについてまわる問題です。ミステリ史に残る論争を巻き起こしたのはクリスティのアレです。本当は作品名も隠したいところですが、話を進めるうえではそういうわけにもいかないので原題を書いておきます。“The Murder of Roger Ackroyd”です。そうです、アクロイドです。スミルノ博士……じゃなかった、シェパード医師の手記です。
発表は1926年。この作品に対する反論というわけでもないでしょうが“The Murder of Roger Ackroyd”をアンフェアであるとしたヴァン・ダインは1928年の「推理小説作法の二十則」を発表しています。
「証拠のかわりに」は1946年の作品。著者のレックス・スタウトは幼少期からミステリを読んできたということですので、おそらく“The Murder of Roger Ackroyd”も知っていることでしょう。読んではいなくても、知ってはいるでしょう。 おそらくはフェア・アンフェア論争についても見聞きしており、独自の見解も持っていたと想像できます。なにしろ、ワトソン女性説を訴える論文を発表するほどですから。論文の発表は1941年のことですから、1946年の「証拠のかわりに」を書くうえでは、ミステリにおけるフェア・アンフェア問題については自分なりのスタンスをもっていたと思われます。
多少、アンフェアでもかまわないだろうという立場だった可能性もありますが、筆者個人としてはなんとなく「この書き方はフェアである」として「証拠のかわりに」を書いたように感じます。
地の文で噓を書いてはならない。
このルールは新本格以降の日本において厳しく運用されているように思います。背景には新本格(この言葉もミステリ史に何回も登場し、いろいろな意味があるのですが今回は細かいことには触れません)ムーブメントの初期の中心軸となった作家の多くが大学のミステリ研究会出身で、在学中に「犯人当て」に親しんできたということがあるかもしれません。
犯人当てミステリというのは、どうしてもフェアであることが求められます。一方でいろいろな作品が書かれていくうちにあらゆるパターンがやりつくされ、ルールの盲点というか、ギリギリなところを攻めざるをえなくなります。結果として、後で検証した際には「フェア」と判定せざるを得ないようなテクニカルな書き方が発展してきて、どうしてもフェア・アンフェア問題には厳しくなってきたのかもしれません。
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