エキセントリックな名探偵とは違う意味で奇妙な人々
いわゆる「奇妙な味」と名探偵ものを比較して、いろいろと考えているうちに一つの仮説を思いつきました。結果として、この仮説はすぐに「違うな」となるのですが、少し書いておきたいと思います。
その仮説とは《「奇妙な味」ものに登場する人物はあからさまに変な人はいないのではないか》というもの。
そんなことはないのです。ウォルポールの「銀の仮面」の美青年も、ダンセイニの「二壜のソース」の木を伐る男も、ダールの「南から来た男」のライター男も充分に変な人です。
ああいった変な連中が身近にいるのではないか、という居心地の悪さこそ「奇妙な味」のミステリアスさの一つです。居心地の悪さというか据わりの悪さというか。
エキセントリックな名探偵のいない「リアル」に近い世界観のフィクションで「現実にはいないけれども、いるかもしれない人により、起こりようがない」出来事が起きる。このあたりが「奇妙な味」ものに共通するような気がするのです。
でも、よく考えるとそっくりそのままの形ではなくても似たようなことは起きているのではないか。もっと言えば、自分の身に降りかかってくるのではないかというふんわりした恐怖に「奇妙な味」もののルーツがあるように感じます。
この「黄色いなめくじ」の序盤では、妹を死なせようとした少年の理解できない怖さ、子どもというものに対する異物感みたいなものが「奇妙な味」の風味を醸し出しているように思います。こんな気持ち悪い子どもいないよな、というよりも「いてほしくないよな」という子どもは無垢なものという無根拠な妄信と、子ども信仰を否定せざるをえない自分への嫌悪感みたいなものが「黄色いなめくじ」の序盤の空気を形成しているのではないでしょうか。
おそらく作者は筆者のように「奇妙な味」とはなにか、と考えていたわけではないでしょう。ですので、この作品にはミステリのパズル性を排除し、独特な味わいを作品に付与しようという狙いではないはずです。ナチュラルに人間を描いているという点では、『世界推理短編傑作集』第一巻の頃の時代のミステリに近いのかもしれません。
黄金期、1930年代というのは決してパズルに特化された時代ではないのです。
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