アリスと仲良しですか?

 前回、「いかれたお茶会の冒険」という短編は日本できちんと評価されていないのではないか、と書きました。そう案じた理由を書いていきます。

 この作品は大きく三つの読者グループが存在する、と考えます。まず「ミステリが好き」、次に「アリスの物語に詳しい」、最後に「ミステリが好きでアリスの物語にも詳しい」。マトリックスで考えると第四のグリッド「ミステリが好きでもなくアリスの物語にも詳しくない」が存在しますが、そこに分類される人々はそもそも「いかれたお茶会の冒険」を読むことは少ないでしょうし、評価云々という行為はしないはずですので、ここに属する層はこの議論では除外します。

 一番、幸福な読み方・読まれ方は「ミステリが好きでアリスの物語にも詳しい」タイプでしょう。このグループはアリスの物語とミステリ的趣向の融合をきちんと評価できるからです。他の二つのグループですと、融合という技術点の高さに対する評価軸がきちんと成立しない可能性があります。まさしく筆者がそうで、アリスの物語に通じていないため、単にミステリ的なことでしか評価ができないのです。

 クイーンという作家が「傑作がいくらでもある」とんでもない作家というのも問題です。ミステリマニア度が高くなればなるほど、クイーンのミステリ技術の高さを知ることになります。「いかれたお茶会の冒険」は「アリスの物語と絡めて優れたミステリを書く」という高度な挑戦をしているがゆえに制約は多くなります。制約のないほうがハイレベルな作品ができるとまでは言いませんが、「アリスとリンクさせる」ことで生じる不自由はあるはずです。

 単純に「手がかりと論理的な推理」という観点からクイーンの短編を評価すれば、「ガラスの丸天井付き時計の冒険」や「がらんどう竜の冒険」といったもののほうが「いかれたお茶会の冒険」よりも上だと感じます。中編ですが「神の灯」の完成度は圧倒的です。

 他にハイレベルな作品が目白押しなだけに、アリスに詳しくないと評価できない部分のある「いかれたお茶会の冒険」はどうしても分が悪い。実は「手がかりと論理的な推理」だけを切り取っても「いかれたお茶会の冒険」はハイクオリティなのですが、どうしてもそこが見えにくくなっているきらいはあります。アリスの部分が邪魔に思える読者もいるでしょう。

 ただやはり、この作品はアリス抜きでは語れません。なぜならば、謎と推理の物語のなかの推理が論理的であることが美しくて価値があるのではなく、推理が美しい物語の一片となっている驚きに価値がある作品だと感じるからです。

 ネタばらしを避けるためにあいまいな書き方になりました。私にとってクイーンは筋道が美しく通っていることに驚く作家のようです。

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