やつらはばかさ

「完全犯罪」全体を通して、推理小説というものに対する批判精神のようなものを感じます。

 のっけから「世界で最も偉大なこの探偵は」(p.345)と始まります。この後の展開を考えると、非常に示唆的です。

 ここだけではなく、端々に「おや、これはもしかして」と感じる記述があるのです。

 たとえば、《完全な探偵方法がどの程度まで可能なものなのか、その限界を試してみたい》(p.346)という部分。《探偵方法》を《探偵小説》あるいは《推理小説》と言い換えると、どうなるか。

 完全な探偵小説がどの程度まで可能なものなのか、その限界を試してみたい。

 この「完全犯罪」という短編がそんな実験にも思えるのです。


「二流品はたしかにありがたくないからな。でも、それさえ最悪のものじゃないよ。考えてみたまえ、毎日行われている犯罪は、たいてい三流か、四流か、いや何流かわからぬようなものばかりじゃないか。〈クラシック〉といわれる名画だって、よく見ると、色調も線もくずれたひどいものがある。にせものもあれば、へたなつぎはぎ仕事もある、それと同じだよ」(P.346)


 これは犯罪についての発言なのですが、実際の犯罪ではなく、架空の犯罪、すなわち架空の犯罪を描く物語、推理小説としてとらえると、どうでしょう。

 日々、出版されるミステリは、たいてい三流か、四流、いや何流かわからぬようなものばかり、古典と呼ばれる名作にもトリックもプロットもひどいものがある。

 そんな批判に読めないでしょうか。

 まだあります。《想像力と変化が欠けている。おそかれ早かれ、彼らが行き詰まってしまうのは、いつも同じことしかくり返せない弱点のため》は、「もう新しいトリックなどはできない」となる探偵小説の未来を予見しているようでもあります。

《反復は愚鈍の証拠》《愚鈍は、だれかも言ったように、一つの許しがたい罪悪》と指摘せずにいられぬほど、当時のミステリ界は同工異曲の機械的トリックばかり描かれていたのかもしれません。

 犯罪の実行者、ミステリ作家は《たいていばかだからね》(P.346)と言っているようにも聞こえます。それ以上に響くは、次の箇所です。

《ばかだよ! むろん、やつらはばかさ。でもわかっているだろうね、きみはそいつらを今まで、ずいぶん弁護してきたんだぜ》(P.346)。


 ここの《きみ》とは「完全犯罪」で名探偵の友人である弁護士ヘアのこと。《やつら》《そいつら》を推理小説家に言い換えると、彼らを弁護するのは評論家ということになります。

 空想に空想を重ねた推論で恐縮ですが、暗に作家も悪いが評論家も悪いとチクッとやっているようです。

 探偵のパートナーが医師ではなく、弁護士なのは周到な計算とするのは、あまりに私の性格が歪みすぎでしょうか。

 作者のベン・レイ・レドマンは評論家でもあります。批判の矛先を自分たちにも向けているところに、フェアプレイの精神のようなものも感じます。

 意地悪な見方をすれば、「そうは言うけど、そういうお前らはどうなんだよ」という作家側からの予想される反論すら、先回りして巧みに防御しているようでもあります。

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