ロナルド・ノックスは「キプロスの蜂」の夢を見たか
前回、「キプロスの蜂」はホームズものではないか、と書きました。
※※以下、コナン・ドイル著「ライオンのたてがみ」「まだらの紐」「曲がった男」「瀕死の探偵」、アントニー・ウィン著「キプロスの蜂」についての内容に言及します※※
アカニシンノカイ名義で、ホームズシリーズに登場するキャラクターをクイズ形式で紹介する企画も同時進行しているのですが、こちらでしばしば、ホームズものの軸は「過去から逃げようとする(追いかけてくる)人物」と「動物犯人もの」なのではないか、という主張を披露しています。「動物犯人もの」は「凶器としての動物」と言い換えることもできます。
そういう点では蜂毒とアレルギー反応、いわゆるアナフィラキシーショックをトリックにした「キプロスの蜂」は、成功した「ライオンのたてがみ」とも言えるのではないでしょうか。
ここで「ライオンのたてがみ」について、簡単に紹介します。ネタばらしの警告文の後の部分ですので、ほとんどのかたはご存じかと思いますが「知らないけれど、ネタばらしされてもいいから続きを読みたい」というかたもいらっしゃるでしょう。
「ライオンのたてがみ」という作品は、死に際の人物が《ライオンのたてがみ》と謎の言葉を残すという謎がメインです。《ライオンのたてがみ》の正体はクラゲ。姿形がライオンのたてがみに見えることから、死者は《ライオンのたてがみ》と言い残したわけです。
クラゲは大変、珍しいものであり、ある意味では《未発見の毒薬》です。これは《ノックスの十戒》に反します。「知ってるよ」というかたが多いかと思いますが、《ノックスの十戒》について書いておきます。
ロナルド・ノックスという作家が一九二八年に発表した《探偵小説十戒》で発表した十個のミステリの指針です。《べからず集》と表現したほうがわかりやすいかもしれません。
ノックスという作家の性格を考えると、巧緻なジョークという一面もありそうなのですが、フェアプレイを保証するという点で、一つの柱となりうるものです。具体的に紹介しましょう。
1、犯人は物語の当初に登場していなければならない。
2。、探偵方法に、超自然を用いてはならない。
3、犯行現場に、秘密の抜け穴・通路が二つ以上あってはならない。
4、未発見の毒薬、難解な科学的説明を要する機械を犯行に用いてはならない。
5、中国人を登場させてはならない。
6、探偵は、偶然や第六感によって事件を解決してはならない。
7、変装して登場人物を騙す場合を除き、探偵自身が犯人であってはならない。
8、探偵は、読者に提示していない手がかりによって解決してはならない。
9、サイドキックは、自分の判断を全て読者に知らせなければならない。
10、双子・一人二役は、あらかじめ読者に知らされなければならない。
この第四項に「ライオンのたてがみ」の犯人(?)のクラゲは該当します。
ホームズものの、それも、動物犯人ものの面白さは、博物学的な面白さというか、雑学を知る面白さというか、一昔前でいうトリビア、「へぇ」の面白さが大きいです。
具体的には、「ライオンのたてがみ」の毒クラゲ、「まだらの紐」のインドの毒蛇、凶器ではないですが「曲がった男」に出てくるマングースなどです。動物ではないですが「瀕死の探偵」の箱に仕掛けられた猛毒もこれに近いでしょう。
アナフィラキシーショックという「キプロスの蜂」で鍵となる現象は、今では幅広く知られていますが、もしかしたら、以前は医師と蜂に刺された人とその周囲の人、雑学好き、そして、ミステリファンが知っている豆知識だったのかもしれません。もちろん、ミステリ好きにとっての出典は「キプロスの蜂」になるでしょう。
ちなみに《アナフィラキシーショック》という単語は、「キプロスの蜂」の作中で一度も登場しません。医師である作者は知っていたかもしれませんが、使わなかったということは《読者層には伝わらない言葉》と判断されたと推測してもよさそうです。
ミステリ界隈でアナフィラキシーショックの知識が広まる一方で、「キプロスの蜂」という作品自体は、置いていかれた印象すらあります。
これを読んでいるかたのなかにも、アナフィラキシーショックにや、これを利用したミステリは知っていても「キプロスの蜂」の存在自体を知らなかったり、読んだことのないかたはいると思うのです。
このようにアナフィラキシーショックの知識は一般性を獲得しましたが、変なクラゲはいまだに変なクラゲのままです。もちろん、クラゲに刺されて大変なことになる、場合によっては死に至ることもあるという程度の知識は一般的かもしれませんが、あの変な名前のクラゲ(書いていて私も思い出せない)は、クイズのネタの範囲を脱していません。言い換えれば、きわめて《未発見の毒薬》に近しいものであり、ミステリのネタにするのはアンフェアのそしりを免れません。
その点、蜂毒とアナフィラキシーショックというものは、今ではミステリのネタを離れて、すっかり広範囲に知られた知識となっている印象があります。「キプロスの蜂」が成功した「ライオンのたてがみ」なのではないか、というのは、そういうことです。
もっとも、よくよく考えてみれば、発表当時はまだネットもなく、アナフィラキシーショックというものが、広く人々に知られていたとも思えないのです。当時の感覚からすれば《あまり知られていない豆知識を用いた情報が売り》の作品・トリックだったのかもしれません。
※※ここでネタばらしを含む部分、終わり※※
もしかすると「キプロスの蜂」を読んだノックスが「こういうのだよ、推理できなくて困るのはさ」と十戒の一つをつくったのではないかと想像すると、ついニヤニヤしてしまいます。「キプロスの蜂」の初出は一九二六年、短編集に収録されたのが翌一九二七年、そして、十戒は一九二八年。
近いだけにありえない話ではないなぁ、と妄想してしまうのです。
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