ミステリではアリバイのあるやつが怪しい


 前回は寄り道して「歌う白骨」について書きました。「なぜ(日本における)倒叙ものの代表格(刑事コロンボと古畑任三郎)が二つとも映像作品なのか」話を戻します。

 仮説、その2。コロンボ型の倒叙とは違う形で倒叙ものが成立しており、コロンボ型を強く必要としなかった。コロンボ型とは異なる形態で倒叙があったが、一見そうとは見えないため、あまり倒叙として認識されていない。

 そんなものがあるのか、と疑問にお感じのかたも多いかと思いますが、アリバイ崩しものは倒叙の一種とみなすことも可能ではないでしょうか。

 犯行そのものは描かれず、一見、普通に誰が犯人なのかという謎で物語を牽引していくように見えますが、多くの長編アリバイものは、途中からアリバイのある(ように思える)人物のアリバイを崩していくことになります。

 もし、国産もののアリバイテーマ作品の冒頭に犯行シーンを加えれば、コロンボ型になります。一方、コロンボ型の基本パターンの途中から展開されるコロンボが登場人物の一人(犯人)を怪しいと思い、無実を主張する犯人をあの手この手で追いつめていく流れはアリバイ崩しでも見られるものです。

 アリバイものの場合は、犯人を守っている偽装がアリバイというだけで、コロンボの場合は犯人を守っている偽装が、事故や第三者の犯行も含まれ、より広範囲にわたっているというだけで、本質的な登場人物の一人(犯人)を怪しいと思い、無実を主張する犯人をあの手この手で追いつめていく部分は変わりません。

 実際にコロンボにもアリバイ崩しやアリバイトリックを用いた作品はみられます。ただ、アリバイ崩しを主軸にした作品は多くはないためか、コロンボにアリバイのイメージは強くありません。

 これはコロンボがテレビシリーズであるために、同じパターンが続くのを嫌ったということもあるのでしょう。

いや、日本の二時間サスペンスなんて毎週のごとくアリバイものをやっていた、それも曜日を変えて違う局で二時間ドラマの枠があったから、二週間に六回もアリバイ崩しを見せられたぞ、という反論は当然あるでしょう。

 テレビシリーズとはいえ、コロンボが毎週放映ではなかったため、製作期間をとることができたという事情が大きいのでしょう。

 また日本の場合は、鉄道をはじめとした公共交通機関が予定通り正確に運行されているため、アリバイ工作に使いやすいという事情があるのでしょう。テレビ業界に関して言えば、二時間サスペンスというコンテンツに紀行ものの要素を加味するために、鉄道や旅客機での移動を伴う作品が適していたという背景もありそうです。

 二時間サスペンスとミステリについてもう少し書きたいところではありますが、このへんにしておきます。

 次回から「ギルバート・マレル卿の絵」を取り上げます。

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