あと5分

麻城すず

あと5分

「あと5分早ければ、或いは」


 医師の言葉をぼんやり聞いた。


 5分。たった5分のことなのに。


 私は夕維ゆいの最後の瞬間を目の前に見ながら「あと5分」の意味を噛み締めた。












 ここに来るまでの記憶は酷く曖昧で、これが現実なのかどうかすら今の私には分からない。


 ただ分かっているのは、いつもと同じ学校からの帰り道、夕維が神無山かむなやまへ行こうと言ったことだけだ。


 神無山という場所は、普段ろくに人の出入りもない神社がポツンとある、山とは言ってもその実ただの小高い丘のことだった。この山は鬱蒼と木々が茂り、昼間でも薄暗く気味が悪い。そのうえ入口、つまり神社へ続く石の階段の両脇に立つ御神木にはしめ縄が巻かれ、容易に人が立ち入れないような空気を醸し出していた。


 夕維はいつでも突拍子がなくて、例えば学校へ行く途中に「喉が乾いた」という理由で二駅先にあるフレッシュジュースを飲ませるスタンドに目的地を変えたり、休みの日の朝早く突然うちにやってきて、「東京に遊びに行くよ」と私を強引に引っ張り出したりするような(東京までは新幹線でも三時間はかかるのでとても電車賃が出せずその時は断念した)よく言えば無邪気、悪く言えばわがままな性格で、小学三年生の頃から八年目の付き合いになる私でもたまに辟易することがあった。それでも明るく元気な夕維を私は親友として愛してはいたのだが。


「ねえ、智香ちか。神無山行こうよ」


 朝からシトシトと雨が降っていて地面はぬかるみ、靴が汚れると文句を言いながら数歩前を歩いていた夕維が、本当に突然、思いついたように言って、私はまた始まったと呆れを隠しもせず「嫌」と答えた。


「あそこはそれこそドロドロじゃない。ジメジメしているし、こんな日に行くような場所じゃないわ」


「怖いんでしょ」


 挑むような言葉に柄にも無くムッとする。


「何が」


「あそこ、出るって噂じゃない。こんな薄暗い雨の日は特に」


「知らない」


「嘘よ」


 夕維は長く艶のある黒髪をかき上げると上目遣いにこっちを見た。そして私と視線が絡むと、にやりと嫌な笑いを浮かべる。


「智香、話があるのよ。誰にも聞かれたくない話。でもあんたには聞いて欲しくてたまらないの」


「別にあんなところじゃなくたって……」


「やっぱり怖いんだ」


 普段から振り回されることは多いけれど、今日のように嫌な気分になったことはない。


 消極的な私は、積極的で物怖じしない夕維に依存する部分も多かったし、大抵のことは、だから不快だと考えたことすら無かった。けれどもそれは、いつだって夕維の言葉や態度に悪意がなかったからだ。


 なのに今日は何故かいつもと同じに見える笑いが妙に気持ちの悪いものに感じる。


「ねぇ、智香。いつも私の言うこと聞いてくれるじゃない、なんでも」


 唇の端をつり上げたまま夕維は言う。大きくぱっちりとした目を惜しげもなく細めて。


 言いなりになっていたつもりはない。さっきのように嫌なことは嫌だと言うし、たまたまそういう事が少ないくらいに夕維とは気が合っていただけだ。けれど夕維はそうではなく、私のことをただ言いなりになる腰巾着としか思っていないということなのか。


「ねぇ、智香」


 再び、促すように口を開く夕維の笑いを目にした時、私は抵抗を止めた。


 霊だのなんだの、くだらない。別にそんなものを信じちゃいない。私はただ、こんな雨の日にぬかるむ場所を歩いて靴を汚したくないだけ。付き合えば満足するなら、それでいいだろう。


 私は夕維より先に、しめ縄をくぐっていった。










 そう、ここからだ。


 ここから私の記憶は、酷く色褪せ、ぼやけている。


 長い階段は普段から重い湿気に濡れていて、至る所が苔むしておりこんな雨の日には容易に歩く事もできない。それを私達はずっと無言で登っていった。


 いつもと同じように、夕維が前で私が後ろ。


 滑りもせずになんとか登り切り、薄汚れ、長い間手入れをされた様子もない小さな社の軒先に立ち、ホッと一息ついた夕維が傘を畳んだのに倣って私もまた傘を下ろす。


 雨はまだ止まないどころか本降りになる気配を見せてきた。


「ここ、なにが奉ってあるか知ってる?」


 問いに首を横に振ると、夕維は「みずがみ様よ」と言う。


「水神様はね、ずっと昔好きだった男に裏切られた女が化身したものなんだって。会いに来ると約束した男を今日みたいな雨の中ずっと待ち続けて、ここで石になってしまったの。それ以来、ここに参ると奇妙なことが起きるようになった」


「奇妙なこと?」


 非現実的なものを信じてはいなかったものの、少し気味悪くなって社に預けていた背中を離す。夕維は私のその行為を見てまたあのニヤリとした笑みを浮かべる。


「二人で来ると、離れ離れ。三者で来ると一人がはぐれ、四人で来ると二人が帰らぬ」


 歌うように節をつけたその言葉は、この空間の気味悪さを増長させる気がして、私は雨に濡れたせいではなく身震いした。


「もったいぶらないで」


「つまりね、ここは縁切り神社なのよ。水神様は来るはずの男を待っていてね、だから二人で来ると嫉妬して引き離そうとするんですって。三人だと、一人を自分の元に連れて帰って満足するから、二人は無事に帰れるの。四人だと二対二に別れてしまうんだけど、二人は無事に帰れて、もう二人はずっとこの山を彷徨う事になるそうよ。まだこない男を捜させるんだって」


「意味が分からないわ」


 そのいわれの意味も分からなければ、夕維が私をここに連れて来た理由も分からない。私はとにかく、その気味悪さから逃れたい一心で、傘を差しなおし「帰ろう」と言って社から少し離れた。


「ねぇ、佐伯を知ってる?」


 背中にかけられた初めて聞く名前。首を傾げていると「好きなの」と夕維は私を見詰める。見詰めると言うよりは、睨み付けたと言った方が正しいだろう。


「そう、でもそんな話なら家ででも話せば良いじゃない。なんでわざわざこんなところで……」


「分からないの?」


 夕維は雨に濡れることを厭わず、一歩、社の軒から足を出す。ゆっくり、私の方に向かって。


「佐伯には、私結構頑張ってたのよね。本気で好きになったの初めてだし」


「うん」


 なんとなく、夕維から遠ざかるように後ろに下がる。追うように足を進める夕維。私達の距離は一定のまま。


「でもね。佐伯のやつ、なんて言ったと思う? 夕維といつも一緒にいる子のことが気になってるって。取り持ってくれないって、私にそんなこと言うのよ」


「一緒って私……?」


「そうよ智香、あんたよ。だからここに連れて来たの。私の目の前から消えて欲しいの。水神様にお願いをしにきたのよ」


 長い付き合いだけれど、夕維のこんな表情は初めてだった。興奮により血走った目。紅潮する頬。そして憎悪に燃える瞳。


「元々あんたなんか好きじゃなかった。ただ、私の言う事には大抵逆らわないじゃない? だから一緒にいたの。好きなもの真似したり、常に側に付きまとって私が他の子と話していれば必ず割り込んでくるし、はっきり言って鬱陶しかった。その上佐伯まで……、最悪よあんたは」


 好きなものが一緒だった。好みが似ていた。そのくらい気が合う友達だと思っていた。それは私の独り善がりだったのか。そう思った途端、ショックよりはその身勝手な理由に怒りが芽生えた。


 佐伯? そんな人私は知らない。結局ただの嫉妬じゃない。


 それでも私はそれを言葉には出来なかった。代わりに口をついて出たのは。


「私は夕維のこと好きだった」


 親友として、一番近くで長い時を過ごしたのは、確かに夕維だけだったから。


「私はあんたが大嫌いよ」


 夕維が憎々しげにそんな言葉を放った時、突然社の扉が開いた。勢い良く、バンと大きな音を立てて。


 そして中から何本もの手が伸びて来たのが見えて、恐怖に引きつる夕維の体を後ろから押さえ付けた。


 ――お前様、お前様。私は貴方をお慕いしたのに、お前様は私を棄てるの――


 声、とは違う、なにが風のうねりのように聞こえた言葉は悲痛な叫びを伴って。


 バシャンと派手な水音に、失っていた我を取り戻した私の目の前には、足下の水溜まりに顔を突っ込み、暴れもがく夕維の姿。背後から伸びる、無数の透けるような青白い手に押さえ付けられて顔を背けることの出来ない夕維の。


 ――可哀相に、私と同じ。ええ、ええ、貴女の望むように。憎いこやつを道連れに――


 もう手は見えなかった。ただ夕維がもがく様が、私の目にまるで映画のワンシーンでも見るかのように映し出されていた。体が動かない、動かすことが出来ない、そして。


「私はあんたが大嫌いよ」


 私の口をついて出た言葉は確かに夕維が言った言葉で、しかし私の意思ではなかった。


 ――言っておやりよ、憎いお人に。ええ、ええ。そうよ、私だって――


 なにをいっているの、ちがう。にくくない、わたしは、わたしは、ゆいは。


「ち、が。違う。夕維は違う!」 


 出した声が合図だったかのように動かせなかった体が動いて、もう足掻く力も無い夕維を私は抱き起こした。


 ほんの僅か、たかだか10cmほどの深さのぬかるみは、それでも夕維の呼吸を奪うには充分で、弛緩した体を横たえ私は麻痺した思考を必死に呼び戻し、震えながら人工呼吸を試みる。鼻をつまみ、口を重ね、息を吹き込み。ああ、分からない。これがあっているのかどうか。だって夕維が動かない。息を吹き込み、吹き込み、吹き込み、吹き込み、吹き込み、戻ってきて、吹き込み、吹き込み、吹き込み、ああ心臓、そうか、マッサージを、でもわからない、息を、息を、どうしたら、どうしたらいいの。


 ――無駄よ、私を棄てる者への制裁はもう済んだ――


 背中に冷たい手が触れた。耳元に感じる息遣い。誰かが、誰かか、確かに、そこに、まだ私達を見ている。


「ひぃっ!」


 ぐったりとした夕維を背負うことも出来ず、私は必死に抱き上げ、後はもう一目散に社を後にした。轟々と吹き荒れる風の音に、女の甲高い笑い声が混じっていた気がしたが、よく分からない。










 気がついたら、神無山から1キロほども離れた病院の前に立っていた。


 夕維はすぐさま院内に運びこまれ処置を受けたが、慌ただしい処置室から出てきた医師は、沈痛な面持ちで「あと5分早ければ、或いは」と言ったきり、口を閉ざした。


 あの5分間。


 体を動かすことも出来ず、ただ夕維が苦しむ様を眺めていたあの時、私は何を思っていたのか。夕維を憎いと思うその憎悪が私の体を縛りつけたのだとしたら。


 霞みがかかる記憶の中、そんな感情があったのかすらも曖昧で。


 夕維の死後処置が行われる室内から出た時、


「清水夕維さんを運ばれたのはあなたですね? お話を聞かせて頂きたいのですが」


 廊下で待ち構えていたのか、申し訳なさそうに黒い表紙の手帳を開いて見せる年配の男性に私は頷いた。


 私にはあの手が現実が、それとも私の願望だったのか分からない。ただ分かるのは神無山には神が無いということだけ。あそこにいるのは神様なんかじゃない。神様なんかじゃなくて、怨みに狂う醜い女。


 ――お前だって、私と何も違わなかろう――


 耳元で囁く声に私はそうねと相槌を打つ。


 目の前に立つ刑事さんは、それに奇妙な顔をして、手帳に何かを書き込んだ。


 気狂いだとでも思われたのか。


 そうに違いない。私はきっと気狂いなのだろうと自分でも思う。


 だって感じる息遣いは間違なく耳元で、囁きかけるその声は、嘲るように悪意をまとって。あるはずがない。そんなもの、感じるはずが無いのに。


 夕維を失った今でさえ、誘うように鷹揚のない声が繰り返し繰り返し私の思考を冒していく。


 ――私はあんたが大嫌いよ――


 時折混じる笑い声に、つられるように私も笑った。


 何もかも、もうどうでもいいことなのだと、そんな虚無感に身を任せて。

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あと5分 麻城すず @suzuasa

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