死んでくれませんか

麻城すず

死んでくれませんか

「ね、いかがです?」


 今日初めて会った男は、人懐こい笑みを浮かべてそう問い掛けてきた。二十代後半くらいだろうか。長身で、細身。ヒョロヒョロとして頼りなさそうなんて思いながら眺める。


「そうね、それもいいかもしれないわ」


 肩に触れる髪を指ではじきながらわたしは答えた。どうでもよかった。初対面の男の非常識な提案をあっさり受け入れられるくらい、今のわたしは何もかもどうでもよかったのだ。


「嬉しいなぁ」


 座り込んだ床。足下に広がるのはただ闇だけで、男の背後も、わたしの周りも見渡す限り真っ暗だった。ただ、向かい合うお互いの体だけが、まるで発光しているように鮮明に見える。


「大抵僕が名乗ると皆さん驚かれるんですけどね。いや、ほんとラッキーです。あ、これにサインをお願いできます?」


 差し出された紙はA4大で、「契約履行確認届出書」と書いてあった。


「履行……? あら、これって契約が履行された確認で書くんじゃないの?」


「へ?」


 差し返された書類をまじまじと眺め「あらー」と間の抜けた声を上げると、鞄の中をゴソゴソ探り、別の書類を引っ張り出す。


「ごめんなさい。こっちですね。はい、契約確認書」


「あなた、いつもこんな調子なの?」


 悪びれた様子もなく、別の書類を出した男に呆れながら聞いた。手ぶらのわたしにペンを差し出すくらいすべきなのにそれすら気付いていない。企業の営業マンなら、恐らく成績は下の下だろう。


「いえ、いつもはもう少しちゃんとしてると思います。でも今回は浮かれちゃってて、つい」


「何にそんなに浮かれるの?」


 彼は、目をキラキラさせて身を乗り出す。


「だってユズルさん、僕のお願い聞いてくれるんでしょう? 今までの人はね、どんなになだめすかしても最後には怖じ気付いて拒否するんですもん。今日あなたに会えて本当に僕は神に感謝してるんですよ」


 変な言い方。


「あなたも神でしょう?」


「はあ、まあ神と言えば神ですけどね。死神には運命を操るなんて大それた力はないですから。僕らはただ、命の緒を手放そうとしている方にご提案をしているだけで」


「提案ねぇ」


 あ、これもお渡ししないと、とようやく差し出された郵便局のカウンターにでもありそうな軽くて安っぽいボールペンにますます評価が下がる。下の下、どころか下の下の下。


 少し震えていたせいで、書いたサインが曲がってしまったのがどうにも気に入らない。A型の習性か。大きな乱れは気にならないのに些細なことはやたらと気になる。


「綺麗な字ですね」


 その曲がった字を、心底感心したように眺める目の前の男を笑う事すら出来なかった。










「こんにちはー! 僕死神です」


 お風呂場で、服のまま頭からシャワーの湯を被りながらわたしは死にたいと考えていた。その時、この飄々とした男が呑気な声を上げて突然目の前に現れたのだ。


 三つになるかならないかの息子が息を引き取った四時間後の事だった。


 息子は急な心臓の病でこの世を去った。最初はただの熱から始まり、嘔吐、下痢の症状を併発。病院ではウイルス感染だと言われ、飲み薬を貰った。


 五日の間に四回病院に行った。医療機関も複数。症状に対する診断はあまりに軽く、私はそれを信用できなかった。薬の効きを待てぬほどの酷い状態で、過保護な親と思われようとも放って置く事など出来なかった。


 最後に行った病院の医師は厳しい顔で「脱水症状が酷い」と告げた。


「紹介状を書くから、このまま総合病院に行きなさい。急いで」


 真っ白な頭のまま、車を走らせた。総合病院では即入院となり、検査に半日。髄液の検査では、脱水症状のせいでろくに立つ事も出来なくなっていた息子が必死に泣き叫んでいて、わたしも待合室で一緒に泣いた。


 結局、原因はわからないまま入院となり、点滴で少し体力の戻ってきた息子は、今度は熱による幻覚に夜通しうなされた。


 どこにそんな力があるのかと思うほどに暴れ、悲痛な叫び声を上げる。


 くるな、やめて、ママどこ、いたい、あっちいけ。


 検査で苦しんだからか、押さえ付ける私も分らず、ただ逃れようと暴れ、唸り、そしてグッタリとなった。その度に呼んだ看護師は「お母さん頑張って、また見に来るからね」と言うばかり。わたし見に来て欲しかったわけじゃない、助けて欲しかった。この子の苦しみを何とかして欲しかったのに。


 翌日、小児科の先生からやはり原因はわからないと告げられた。


「今、この子の血液の状態はとても悪いんですね。血液製剤を使って乱れた成分を落ち着かせる処置をしたいんですが保護者の方のサインを頂かないといけないのでこちらを見て頂いて……」


 見せられた書類の内容に動揺している暇などなかった。血友病訴訟が頭を過ぎる。しかし今この子を助けるにはやるしかないのだ。


――この製剤の使用によって将来的に未知の病気を発症する可能性があります。


 その後、更に大きな小児専門病院に移された。そこで初めて心臓の病だと分かり、集中治療室での治療が始まった。そして、同時に最悪の場合についても説明された。


 集中治療室に入ると言う事は、症状が楽観出来ない状態だということ。今は安定していても、突然の急変も有り得る。心臓の状態の急変、それはそのまま死の宣告であった。


 集中治療室に入っている子供の家族の為の宿泊室。夫婦で泣いた。夫はわたしを責めたりはしなかったが、わたしは自分を責め続けた。一番近くにいたのに、ここまで悪かったことが分らなかったなんて。


 その病は、十万人に八人と言う比較的低い罹患率で、普通の町医者が目にする事は稀な為、多々流行性感冒という診断を下される事があるらしかった。それは一度帰宅した夫がネットで調べてくれた。


「だから分らなかったのはユズルのせいじゃないし、医者のせいでもない」


 問題は責任の所在ではない。息子が助かるかどうかだ。慣れない部屋でまんじりともせず夜を明かす、それが三日間続き四日目の早朝、室内の内線電話がけたたましい音を立てた。


『お子さんの容態が急変しました。今から人工心肺への緊急移行手術になります。早急に循環器科、第三手術室の前へいらしてください』


 わたし達がついた時、息子は麻酔により既に意識がなかった。


 説明を受ける私達の脇を運ばれていき、そのまま。そのまま、天へ召されたのだ。


 呆然とした面持ちだった夫、それでも立ち直りはわたしより早かった。動けない私を自宅へ運び、風呂を溜めてくれた。


「俺はもう一度病院に行って手続きしてくるから、ユズルは風呂に入ってゆっくり休んでろよ」


 彼の優しい気遣いをわたしは台無しにしようとしていた。わたしのために溜めた湯の側で私の遺体を見つけたら彼はどれだけの衝撃を受けるだろう。










「ユズルさーん、トリップしちゃってますね。やっぱりやめときましょうか?」


 目の前で手を振りながら男が言った。わたしはそれでも、まだ男の提案に乗るつもりだった。


「死にたいと思ってるんですよね。ならただの自殺はやめて、人の為に死んでくれませんか」


 体中びしょ濡れのわたしの前に突然現れた男は「僕、死神なんですけどね」と名前のわりには随分軽い様子で名乗った。


「ユズルさんがその剃刀を捨てて、僕の手で亡くなるだけでいいんですけど。そうすると僕は、本来ユズルさんが生きるはずの寿命を頂くことが出来るんです。で、それを他の方に差し上げることも出来るんですよね。差し当たって……、ユズルさんのご主人なんですが、あの方今日亡くなるんですよ。坊ちゃんの訃報にだいぶ動揺されているみたいでね、病院からの帰り道に単独ですが交通事故を起こされるんです。で、ポックリと」


 死の予告にしては、軽過ぎる。けれどまあいい。


「ね、いかがです? ただ死ぬよりは別の誰かに寿命を分けられるなんて建設的だと思いません?」


「ならあなたの手でわたしを殺して。彼を助けてくれるならいいわ」


 子供を亡くした上に、自分まで死ぬなんて彼はついていない。わたしより随分前向きに生きようとしているのに。彼は息子の死を受け入れ、わたしの面倒を見、これからの事で動き出した。その間わたしは? わたしはただ生理的欲求に従い呼吸を繰り返していただけ。未だにそれ以上のことをする気にならない。


 書類をクリアフォルダーに丁寧にしまい「じゃあ逝きますか」とにこやかに笑った男に恐怖など感じる訳がなかった。


「ではちょっと失礼して……、あ、言っときますけど他意はないですからね」


 わたしの胸、正確には心臓に手を置いて男はまた笑った。その瞬間、わたしの意識は途絶えた。痛みすら感じなかった。












キィィィィーー!


 急ブレーキに体が振られた。妻の声が聞こえた気がする。


 ああ、危なかった。俺が落ち着かなくてどうする。


 ハンドルに拳を叩き付け、必死に自分を戒める。危うくカーブを曲がり損ねるところであったが何とか無事に切り抜けた。


 息子が死んだなんて未だに実感が無いから冷静な振りが出来たが、妻のユズルの動揺は激しい。無理もない。ユズルはあの子の一番苦しんでいた姿を一人で見ていた。俺がただの風邪だろうと楽観し残業を繰り返していた間、彼女は不安に苛まれ続けていたはずだ。


 ユズルがショックを受けている分、俺がしっかりしなければ。悲しむのは全て終わってからだ。今嘆いていてもあの子は戻らない。


 薄情なお父さんだと思うか? ごめんな。でもお前を失って悲しんでいるお母さんを助けてやらなきゃ。それがお父さんの勤めだろう? お前も分ってくれるよな。


 三時間振りに戻った自宅はしんと静まり返っていた。ユズルは寝ているのだろうか。病院にいる間、彼女は一睡も出来ないようだった。その為に昼も夜もおぼつかない様子でいた。風呂に入って、気が抜けて眠れたのならばいいのだが。


 しかし、ベットルームに彼女の姿は無かった。


「ユズル?」


 シャワーが注ぎ湯気が濛々と立ち込める中に妻がいた。浴槽の縁に寄り掛かり横たわっている。寝ているのかと思った。随分すっきりとした顔だ。


「ユズ……」


 力の抜けた体はくったりとして、そして妙に重かった。熱いシャワーを浴び続けていた為か、温かくはあったけれど。


 床には剃刀が落ちている。だが外傷は見当たらない。


 俺は今混乱している。病院での息子の死よりも、ここに横たわる妻の状況に。


「おい、ユズル」


 彼女がどうなったのか分からなかった。いや、分っていた。ただ眠っているのなら、ここまで顔に注ぎ続ける湯に息も出来ずにもがくだろう。だが、最悪の考えに行き着くことはためらわれた。ほんの数時間前、俺は空ろな彼女を安心させようと力任せに抱き締め、その息遣いを胸に感じていたのだ。


「ユズル……、ユズ、ユズル!」


 顔を叩こうが、揺り動かそうが応えない。妻の胸に顔を寄せ、恐る恐る耳を当てた。


 どこだ、なぜ聞こえない。彼女の鼓動は。生の証しは。


 俺は狂ってしまったのか。息子の死に動揺し過ぎて妻の生命を見失うのか。


「あのー、ユズルさんなら先程亡くなられましたよ。あ、僕死神です。初めまして」


 長身で細身な男がニコニコと笑いながら話しかけて来た。こいつはいつからここにいた? 一体誰だ。何を言っている。そして気付く。俺とユズル、そして男を取り巻くのは浴室では無く、深い闇だということに。


「ユズルさんはですね、交通事故で亡くなるはずだったあなたの為に、寿命を寄付してくださったんですよ。お心当たりあるでしょう? 良かったですね」


「……何?」


「ですからね」


「ああ、いい。黙っていてくれ」


 不思議と疑う気にはならなかった。心当たりはある。カーブの直前、ユズルの声がした。それで俺は我に返り事故を免れたのだ。


「ユズルさん、あなたを前向きだとおっしゃってましたよ。何も出来ない自分より、あなたが生きていた方がいいと」


 馬鹿なことを。俺は前向きなんかじゃない。ただ必死なだけだ。愛する息子を失った今、家族の絆まで失う事を恐れてただ躍起になっているだけ。


 妻の死を疑う余地はもうなかった。大切な者を全て失った今、俺はどうすればいい。どうすれば。いや、どうにも出来ない。息子と妻を失った俺に何をしろというのだ。


 いっそのこと、俺もお前達と一緒に……!


 相変わらず動かない妻の傍らから感覚の覚束ない手で剃刀を拾い上げた時、男が口を開いた。


「ひとつ、ご提案なんですけどね。どうせ死ぬなら人の為に死んでくれませんか……」





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死んでくれませんか 麻城すず @suzuasa

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