第4話

その日は真っ暗闇、お風呂場の、不透明なすりガラスの戸を外側から見つめていた。見つめても見つめてもガラス戸はガラス戸で、凹凸も奥行きもなく、ただ、真っ黒だった。なのにぐんぐん引きずり込まれる感じがして、終いには、埃まみれの床に尻もちをついて、キスするみたいな距離間で、戸と向かい合っていた。

 ふと、右腕に感じた、瑠璃色のイソギンチャクの触手が、対岸から伸びてきて、その一点が、 黒点模様の触手が伸びてくる中で、たった一点がさきがけに、私の右腕に触れてきて、あっと思うと、花が咲いたように自然な生命力でもって、何本も何本も対岸から光のように伸びてきて、腕や足、ときおり頬にも、這っては、私の体を通過した。源流を分ける、乾いた岩のように、私だけはその流れに呑まれず、けれども流れの中にいる。流れの中に入れど、自分だけは異質で、決して交われない、繋がれない。感覚は掴めれど、


 星が瞬いた。人の手のひらの輪郭が戸の内側から突然現れて、と同時にばちんと大きな音がした。


 あいつが、浴槽の中から、出てきたんだ。自分一人で!


 戸を開くと、鋭い匂いが鼻を刺す。壁や床に飛び散ったヘドロが悪臭を放ってる。あいつの影も形もわからない。ヘドロに身体中を覆われ、一際大きい塊になっている。妙に水気を帯び、ところどころでろでろ、灼熱で原型を失いかけたゼリーのようだ。これは、ヘドロ同士が結合する寸前の形態。

 もう一刻の猶予もない。あたしは肌着も下着も脱いで、全身をあいつに押し付けた。阻む、ヘドロに押し付けた。冷気が素肌を包む。あたしは待った。待っても待っても、汚れの冷たさは変わらなかった。力を込めて抱きしめても、吐息を吹きかけても、凍て付く温度は何ら変わらない。祈るしかなかった。あたしは死んでもいい。この冷たさに、やられてもいい。どうか、どうか。あたしはいつも無力だ。この命しか、持っているものがない。祈るしか、いつも、生きる道は、ない。いつも。あいつがいなくなってしまえば。

 あいつの頬の部分を強く擦った。強く、磨くように擦った。冷気の膜が溶け消えて、温度が変わる。セメントのような感触、いつもの感触になった。

 顔のヘドロを取り切ったとき、あいつは目を開かなかった。体が綺麗になるまで、あいつは目覚めない。そんなことはわかっている。

 足のヘドロを剥いでいる最中、右の膝小僧のあたりに、蛇の舌ほどの赤色が、ちらと見えた気がした。綺麗になった膝小僧に、針の穴ほどの傷も跡もなかった。だが、ヘドロを刮いでいるとき、確かに鮮明な赤色が、毒蛇が毒牙を向ける時に見せる赤色を、この目に捉えた。信じたくなかった。

 あいつが目を開けた。星は見えなかった。一つも、一つの光線も、粒子さえ、瞳に飛び込んでこなかった。どんなに覗きこんで、目を見開いても、見つけられない。それでもあいつは、肩をくすめて、笑顔を向けて見せた。

 何も言えなくなった。ただただ震えて、2人抱き合って、赤子のように黒髪に顔を埋めていた。


 目が覚めたら、布団の中だった。黒い肌着が背中にべったり張り付いて、もう夜が明ける。

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