第3話
その日は、あいつの足を念入りに洗った。あいつの足の指の間に自分の五本指を奥まで押し付けて、何度も何度も擦った。
その日は、背筋をつたう汗多かった。汗が重力に押し負けて加速するとき、急激に周辺の熱を奪って、その度、顔をしかめた。
その日は、夜に雨が降った。ずぶ濡れになるあたしを、あいつは不思議そうに見ていた。
その日は、気温が急に低くなって、なかなか融けなかった。あたしのまだらな模様と、あいつの白くうつくしい肌が境界線を作るのを思った。思ったあと、顔を押し付けたら、すぐ汚れは剥がれ、ヘドロはいつもよりぐずぐずになっていた。
その日は空一面に雲が敷かれていて、月は隠されてた。風の強い日で、雲の気色はころころ変わった。色の濃いところと密度の薄いところ、均一とグラデーション、それら変わるがわる月をかすめて、影絵を作っていた。影絵は川面に写し出され、浮かんだり、揺れたり、消えたりを繰り返し、玉が転がるように形を変えた。同じ形を見なかった。全て一度きりだ。…それくらい、風が強かった。
あいつは、目を奪われていた。足を肩幅に開いて立っている。強く握られたこぶしから血色が消えて、青紫の血管が薄く滲んでいる。風はあいつの黒髪を巻き上げて、その黒髪の舞う様が、海底を這うイソギンチャクに見えた。
視線の先に目をやると森がある。木々が緻密に重なり合っていて、風がなければ、葉にも枝にも気づけない。真黒い壁ほど深い森だ。向こう岸の針葉樹森が葉を揺らして、ざあざあ音を立てるのを食い入るように見ていた。
あたしはあいつの心に気づいた。まさかと思った。ありえないと思った。
あいつの頬が、真白い肌が、ああ、
言えない。あんな色の名前は、言えない。言っては、いけない。形容してはいけない。
その場に座り込んだ。月は完全に、雲の内に隠されていた。真黒い川は驚くほど大人しく、鯨の大群がひしめき合って泳いで、その背中だけが水面に表れているようだった。
…何か聞こえる。風と葉のこすれる音の間に、違うものが混じってる。川の中…?
音の方向に耳を近づけようとした時、目の前の水面がほうっと、光った。橙のバケツに青と紫を一滴ずつ垂らしたような色味だ。光の方へ身を乗り出すと、やっぱり人の声がする。笑い声、高い声、低い声、いろいろな話し声がする。内容までは汲み取れない、それでも声だとわかるくらいの大きさだ。
右手の中指で、そっと、光に触れてみようと思った。光に触れる一瞬前、風がびゅうっと吹き付けて、後ろに尻餅をついた。向き直った時、光も音も、消えて無くなっていた。雲は散り散りになって、月が煌々と、川面に照り付けていた。
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