第2話

 早生わせほたるという、いかにも早死にしそうな名前の転校生がやって来たのは、高校二年生の春のことだった。

 四月になると、学校まで続く長い坂に桜の花は咲ききって、ひらひらひらひら、薄桃色の柔い花弁が散り降っていた。僕は教室に持っていく表情について思いを巡らせつつ、ただぼんやりと歩いていた。

 もう見慣れた昇降口、一階の自販機、事務室横の古い電話、それから階段。廊下の喧騒を抜ける。

 そうしてたどり着いた去年とは違う教室で始業のチャイムが鳴った後、彼女は、担任の先生と一緒に現れた。

 みんなの視線を一手に引き受け、それでも彼女はまったく緊張した素振りを見せなかった。先生に自己紹介を要求されると、実に自然な動きで口角を持ち上げる。そうして、

「はじめまして!今日からみんなと一緒のクラスに入る、早生ほたると言います。せっかちなのは生まれつきで、今もみんなと話してみたくてうずうずしてます。一緒に最高の思い出を作りましょう!青春万歳!」

 と、まあ、ちょっと頭の足りない子みたいな挨拶をしたのだった。

 しかし、彼女の堂々とした態度によるのだろうか、マイナスな感じは一切受けなかったし、それはクラスのみんなも同じだったのだろう、くすくすと笑い声さえ聞こえてきた。つられて僕も笑顔をつくった。たぶんみんなよりワンテンポ遅れた。

 ボブカットの似合う、活発な女の子。

 この時点で僕は、彼女と関わることはないだろうと決め込んでいた。

 彼女は早生という名字によって、一番大きい出席番号を割り当てられ、僕の対角線上にある一番後ろの席に着いた。これは、ちょっと羨ましいと思った。僕のは廊下側の最前席という、たぶん五番目くらいに居心地の悪い場所だから。

 それからというもの、僕らは、まったく対極的な過ごし方をしていた。というのはつまり、彼女は多くの友人をつくり、僕は数人に愛想笑いを振り撒くだけだった。

 だから僕らには、なんらの接点もなかった。互いを認知しているだけの他人に他ならない。

 別に不思議なことじゃない。ありふれた、学校での人間関係。

 そんな、当然のように守られるはずの平凡で常識的な均衡は、ひと月ほど続いた。

 しかし五月の連休明け、それは唐突に壊れた。

 僕は連休最終日に風邪をひき、翌日、学校を休んだ。昼には熱も下がっていたが、遅刻してまで登校する気力はなく、しかし半分ズル休みをしてしまったような格好がどうにも気になっていた。一種の防衛本能としての義務感。

 それを紛らわすために、僕は少しだけ残っていた宿題に取り掛かった──のだけど、なんとも間抜けなことに、英語のプリントを学校に置き忘れてしまっていた。我ながらぼんやりしている。

 頭を抱えるがどうにもならず、葛藤の末、不器用な僕は義務感に惨敗する。詮方なく、みんなが下校した頃合いを見計らって学校へ向かった。

 西陽が射し込む教室に、人は居なかった。僕は少し安堵して、いつも通りに入ってすぐの席に近づき、机に手を突っ込んだ。

 そうして、英語のプリントだと思って引っ張り出した紙を見るまで、僕は、連休明けに行われたはずの席替えの存在を完全に失念していた。

 僕の右手は、他人の進路希望調査の用紙をつかんでいたのだった。

 あっ、と思って、けれども引っ張り出した紙を、机に戻すことはできなかった。というのは、その内容があまりにも突飛だったから。

 まさに我が目を疑った。

『天国』

 第一希望の欄に、妙に丸っこくて可愛らしい文字で、そんなことが書かれてあった。しかもボールペンで。ふざけているとしか思えなかった。

「なんだこれ…」思わず呟いてから、ようやく、持ち主の名を確認した。早生、ほたる。え、早生さん?なんで?

 兎にも角にも見られてはまずいと気づいた僕は、すぐさま紙を戻そうとした──が、手遅れだった。

「何してんの?」

 友達に挨拶するような気楽な声に、僕は文字通り飛び上がって驚いた。後ろの席を軽く蹴ってしまって、ガタンと机が鳴る。

 彼女は入り口のドアにもたれかかって、楽しげに僕を眺めていた。まったく何を考えているんだか判らなかったが、とりあえず、怒ってはいないようだった。むしろ嬉しそうにもみえる。

 僕の心臓は激しい運動を除いて、ほとんど暴れることがない。

 けれどこの時ばかりは、きわめて煩かった。

 意図せず、ネズミが猫を噛んでしまった。間抜けなことに間違えて、である。過去のあれこれが脳裏にフラッシュバックを誘発して、呼吸が浅くなる。

 謝らなきゃ。

「あ、あの、早生さん、これは、間違えて」

「うん」

「ほら、今日僕休んでたから、席替えあったの忘れてて」

「うん」

「それで、これ、見ちゃった…ごめんなさい」

「うん」

 あれぇ、やっぱり怒ってらっしゃる?

 なんだか背中に冷たいものを感じる。実に珍しいことだった。こんなに動揺できる自分に驚く。

 彼女は表情を動かさない。ずっと、楽しげな笑みを浮かべたままだ。

 もう一回、ごめんなさいを繰り返そうと思ったけれど、彼女が謝罪を求めている気もしなくて、口を噤んだ。僕はそれ以上、どうやって自分の立場を被捕食者から生産者に戻せばいいのか、ちっとも思いつけなかった。

 と、ここでようやく、彼女は口をひらいた。やはり、とても楽しそうな声音で。

「あのさ」

「うん?」

「それ、ホントだって言ったら、どうする?」

「それって」僕は右手の紙を掲げた。「これのこと?」

「そうだよ」

「ええと…自殺したいの?」

 素直な疑問を口にすると、彼女はくすくす笑って首を振った。

「違うよ。私が、高校を卒業できないまま、死んじゃうってこと」

 音波としては正確に僕の耳を刺激した彼女の言葉は、けど、にわかには信じがたいものだった。

 僕はほとんど絶句しかける。

 頭の隅っこで、彼女はふざけているだけなのかもしれない、とも考えた。

「…病気なの?」

 真相を確かめるために放った問に、しかし彼女はハッキリと答える。

「うん。余命は、あと半年くらいかな」

 なんでもないような、まるで決まりきった週末の予定を話すみたいに、彼女はとんでもないことを平然とかした。

 とてもとても、信じられるはずもなく。

「…冗談でしょう?」

「私、笑えない冗談は言わない主義なんだ」

「笑ってるじゃん」

「そんなに信じられない?」

「そりゃそうだよ。とても死にそうにはみえないし」

 余命わずかな人間が転校してくるだなんていう発想が、そもそも無かった。なにせ、生きる場所を変えるということは、未来のある人間がすることだとばかり思っていた。

「死にかけの人間が、いつも病院にいるとは限らないでしょ?」

「まあ、そうだけどさ…」

 僕が往生際悪く疑うからか、彼女は少しだけ唇を尖らせた。

「そんなに信じられないのなら、証拠見せたげよっか」

「証拠?」

「ついてきて」

 戸惑う僕に構わず、彼女は回れ右して教室を出る。仕方なく、僕も後に続いた。

 連れて行かれたのは、物理の先生たちが待機している職員室。ノックすると、中から担任の先生の声が聞こえた。

 彼女が先にドアを開ける。

「先生」

「あ、早生さん。どうしたの?」

「青井くんが私をいじめるんです」

 バカなんじゃないだろうか。

 彼女は先生の困り顔にも動じず、相変わらず楽しそうに笑っている。

 ふざける彼女に代わって、僕は単刀直入に切り出した。

「彼女は、何か病気を患っているんですか?その、…命に関わるような」

 普段なら絶対に発音しないような日本語で、僕の声は自分でも予想外なほど尻すぼみに鳴った。

 言い終わってから、ようやっと、僕は先生の顔を見た。先生は、先刻さっきよりもっと困ったような顔をしていた。それで、というわけでも無いけど、僕は目を逸らした。たぶん先生は彼女に目配せした、と思う。

 一呼吸おいて、先生は低い声で答える。

「生徒たちには内緒にしてほしいって、言われてたんだけどね。そうなの。早生さんは、とても難しい病気と闘ってる」

 患っているではなく闘っていると言ったのは、誰に対する気遣いだったのか判らないけど、その言葉が嘘でないことは明らかだった。

 彼女は先生の気遣いをはね除けて、あははっと声を弾ませる。

「泥々の負け試合ですけどね」

 先生の顔が引きつったのが判った。

 なんだか見ていられなくて、僕は「わかりました、ありがとうございます」と早口に言うと、踵を返す。そのまま職員室を出ると、彼女もついてきて、僕と並んだ。

「信じてくれた?」

「…まあね」

「よかったよかった」

 何が良いのか知らないが、彼女は上機嫌に言った。僕は何も応えずに、昇降口へ向かう。

「帰るの?」

「うん」

「そっかあ。じゃあ私も帰ろ」

 それっきり、彼女はまったく違う話題を持ち出した。

「先生ってさ、いつも笑ってて優しくて、いい人だよね」

「どうだろ、僕には苦しそうにもみえるけど」

「苦しそうって、どのへんが?」

「生徒に気を遣いすぎてる、ような気がする」

「えー、ひねくれすぎじゃないの?」

 笑顔はコミュニケーションの道具だと信じてやまない僕は、あんなふうにニコニコしている人をみると、少し寂しい気持ちになる。この人はどれだけ心を殺しているんだろうかと、いらぬ想像をしてしまう。

 でも、まあ。

「そうかもしれない」

「そうなんだ」

「うん、まあね」

 僕が素っ気なく頷くと、「ふーん」と言って、彼女は唐突に手を打った。

「あ、そうだ。青井くん、自己紹介してよ」

「…新手のいじめ?」

「違うよぉ。私、青井くんのことぜんぜん知らないからさ」

 まあ当然である。しかし、これから関わることもないだろうに、僕のことなんか聞いてどうするのだろう。この頃は未だ彼女のことをよく知らなかったので、ごく単純に不思議だった。

 彼女は屈託のない笑みを浮かべて、僕の顔を覗き込んでくる。とてもとても、悪意があるとも思えない表情に、僕は目を逸らした。

 一呼吸おいて、仕方なく、話してもいいと思われる自分の事柄について、話してもいいと思われる話し方で話した。趣味は読書、好きなものは動物と果物、苦手な科目は物理、得意な科目は国語。たまに訊かれるけど、身長は百九十センチ──とか、そんなものども。

 異常にみえないように、正常に聞こえるように。恐ろしいとまでは言わないけど、自分のことを話すのは、いつだって少し緊張する。

「これでいい?」

 と、僕は当たり前に彼女が頷くものだと思っていて確認した。ところが彼女は「ダメだよ。それはもう聞いたから」とくる。

 始業式の日に、僕は同じ内容を話していたのだった。

 憶えていたのか。まずもってそれに驚く。

「じゃあ、何を話せばいいの?」

「青井くんっていう人を知りたいの」

「さっきのとは違うの?」

「だって、それは、なんて言うのかなぁ、…説明なんだよ。私が聞きたいのは、青井くんに関する描写なの」

 まるで小説の話でもしているみたいだ。というかそもそも、現実において人間が人間を感じるために必要なのは、客観的な説明文じゃないんだろうか。

「…よく解らないな」

「んー、まあ、君の人となりを話してほしいんだよ」

 人となり。性格のことだろうか。

 僕は他人をプラスにもマイナスにも想わないタイプの人間だけど、不可思議にも、彼女とは馬が合いそうにないということを予感していた。草食動物が教わらずとも肉食動物を恐れるのに似ているかもしれない。

 この子は、根本的に僕とは違う生き物みたいだ。

 いつぶりだか忘れたが、僕は少し苛立っていた。

 だからちょっと、話してもいいと思われる枠組みを超えて口を滑らせた。

「根暗で陰キャで、ぼっちってとこかな」

 これで満足だろうと思って、ちらと横を見遣る。彼女と目があった──その瞳は露骨に不機嫌そうだった。さっきまで笑ってたのに。

「根暗も陰キャもぼっちも、説明だよ。そんなのじゃ人間は解らない」

 僕がいえた義理では決してないのだけれども、彼女はちょっと頭がおかしいんじゃないかと思った。もしかすると病気が影響しているのかもしれない。

「どうすれば満足なのさ」苛立ちを隠そうともせずに、とうとう僕は言い放った。彼女はくるっと表情を変えて穏やかに微笑むと、人差し指を立てる。

「そうだね、例えば、最近読んだ本とか、観た映画とか、美味しかった料理とか、そういう感想を、詳しく」

「それを早く言ってよ」

 判るわけがない。どうやら彼女と僕では、自己紹介の定義に大きな開きがあるみたいだった。僕のと彼女のとで、より常識と良識に親しいのがどちらなのかは知らないけれど。

 ともあれ、僕は最近読んだ本について思いだす。数冊のなかから、一つ、わりとメジャーな小説を選んだ。奇しくもそれは、難病の女の子が病気ではなくて事故で死んでしまう話だった。

 僕がタイトルを告げると、彼女は「読んだことある!」と食いついた。これ幸いと、僕は感想を述べる。至って普通のことを、というのはつまり、本の帯とか通販サイトのレビューとか、そういうところに書かれてあろうようなことを話した──つもりだったのだけど、彼女はニヤニヤと気味の悪い笑みを浮かべて、ほんのり頬を染める。

「やー、意外とロマンチストなんだね」

「そんなこと言った?」

「私にはそう聞こえたから」

「なんて理不尽な」

「特定の解釈を要求する権利を、発話者は持ってないんだよ」

「は?」

「言葉の意味は聞き手が決めるってこと。だから、話すときは気をつけなきゃいけない」

 暴論だと思う。

 でも、あながち否定できる話じゃなかった。そんな権利が認められるのなら、ケンカやイジメはもっと減るのかもしれない。

 やっぱり会話は苦手だ。やるせなく、口を噤む。

 いつもと同じはずの廊下は随分と長く感じられた。ようやっとたどり着いた昇降口で靴を履き替えて、駐輪場へ歩く。

「青井くん、家、どっち?」

 腰を折ってローファーに指を引っ掛けながら訊いた彼女は「こっち」と僕が指差した方向を見て、「あら、反対か」と呟いた。

 長い下り坂に並んで自転車を押し歩き、僕らは校門の前で立ち止まる。西茜が彼女の背後から射して、アスファルトに長い影が落ちていた。

「青…やっぱ凪くんって呼んでいい?」

「ええ、なんで」

「ヤなの?」

「そうじゃないけど…ほら、名前で呼ぶのって仲の良い友達じゃない?特に男女だとさ」

「むー、凪くんは私と仲良くしたくないの?」

「そういうワケじゃないけどね、なんていうか、あらぬ誤解を受けたら、僕も君も面白くないでしょう?」

「誤解ってどんな?」

 人を心底ムカつかせるような顔で、彼女はくすくす笑った。

「…少なくとも、君の友達は驚くだろうね。なんで青井なんかと、ってさ」

「どうでもいいよ、そんなの」

「どうして、そんなに」

「私ね、二人称が好きじゃないんだよ。君とかお前とか、私は私なのに」

 そんなの、指しているものを違えないなら何だっていいような気がする。客観的な間違いが無ければ、現実は廻るから。

 しかしそれを言うと、彼女が僕をどう呼ぼうが、僕にはどうだっていいことになってしまう。

「…いいよ、好きに呼べば」

「ほんと?やったやった。じゃあ、凪くんもほたるって呼んでいいからね」

 思わず苦笑してしまう。

 悪意もなければ他意もないのだろう。彼女のことをよく知りもしないのに、それは正しいように思われた。とりあえず、方々からヘイトを買いそうなので彼女の提案は却下だ。

 彼女は笑みを深くしてから、首を十五度くらい左へ傾ける。

「今日のことは、秘密にしてね」

 そのまま、なんだか子供じみた所作で人差し指を唇にあてた。

「いいけど…」

 だったらどうして、僕に話したんだろう。

 まったく判らなかった。しかし、その疑問を口にする前に、彼女は全然違うことを言いだす。

「スマホ持ってる?」

「持ってるけど」

「かして」

 断る理由もなかったので、ポケットから取り出したスマホを手渡す。彼女は手慣れた様子で操作してから、僕に返してくれた。そして何も言わないまま、自転車に跨った。

「じゃあ、また明日ね」

「あ、うん」

 颯爽と帰っていく彼女の後ろ姿を見送って、僕も自転車に乗った。夕方の穏やかな風を切りながら、ゆっくりと家へ帰る。

 脳裏では、あの『天国』の文字を思い出していた。

 よく解らない人だ。

 そんな調子だったから、僕が肝心の忘れ物をまたしても忘れてしまったのに気づいたのは、部屋着に着替えてからだった。自分の馬鹿さ加減に呆れながら、スマホを確認する。見慣れない人物からメッセージが届いていた。

「明日、昼休みに食堂で待ってる」

 たったそれだけ。

 いったいどうして、僕なんかに興味を持ったのか。

 解りやしないけど、いま、僕がそれを問い詰めることは、ひどく無益で無粋なことのように思われた。僕らの出会いは、きっとただの偶然なんだから。

「わかった」と、僕もそれだけの返事をして、夕食のために一階の台所へ向かった。


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せっかちな彼女の幸福な人生 不朽林檎 @forget_me_not

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