新しい日常、にて 5

「あなたがここに来ているなんて思わなかったわ」

 あれから俺と会長は壁際で二人、手を伸ばせば届く距離にいる。

「俺こそ、驚きましたよ」

 まさか、うちの高校の生徒会長がいるなんて、と言う言葉は飲み込んだ。会長が視線で封じたからだ。マスク越しでも、そのキリッとした目つきが物を言う。

 一歩、会長がこちらに寄ってきた。俺はその分横にズレる。

「どうして逃げるのよ」

「や、まだ人との距離感に慣れなくって」

 俺が言い訳がましくそう言うと、会長はクスクスと笑った。こんな笑い方をする人なんだと初めて知った。

「おかしなことを言うのね」

 そう言って、今度は俺の真正面から近づいた。壁を背にしている俺は、どこにも逃げられない。

「数年前までは、こう言う距離で誰もが話していたじゃない」

 甘い香りが俺の鼻腔をくすぐった。思わず目を閉じてしまう。強く、その香りが頭を揺さぶった。採りたての果実のような、その匂い。

 数年前まで、女子と遊んでも男子と遊んでも、匂いは大体みんな同じだった。多分それは、疲れ果てるまで遊んでいた、汗の匂い。

 目を開けると、すぐ下に会長の顔。こんなに誰かに近づかれたのは久しぶりだ。その事で、さらに緊張してしまう。

 黒石だったら、あなたが美人だからドキドキしているんですよ、とでも言うのだろうか。

「部活、頑張ったんだね」

 多分、親しい友人や家族しか知らないであろうその口元。左下にホクロがあるんだな、とぼんやり思った。

「……臭いッスか」

 ううん、と会長は首を横に振った。こう言う匂いがわかるのも嬉しい事よ、と。

「パーソナル・マスクが出来てみんなに配られてから、日常でマスクを外す事ってなくなりましたからね」

 個人の顔に問題なくフィットし、着け心地の良さが追求されたマスクだ。

 炎天下の運動時につけていても、何もつけていないような快適性が、人間がマスクを外す理由を奪い去った。

「あなたは普段の生活で満足できてる?」

「…………」

「私には、足りない物が多すぎるのよ」

 例えば、と会長が続ける。

「人の温もりとか」

 会長の右手が、俺の左手を取る。思わぬことに、身体が固まる。その手の温かさと柔らかさが、俺の緊張をあばいてしまうことを恐れる。

 顔、手、

「熱があるの? 顔、赤いよ」

 空いている左手が、仮面を避けて俺のおでこに触れた。

 会長はここでの振る舞いに慣れている。翻弄されている俺を面白がっているようだ。それならそれでいいと思う自分と、少し悔しいと思う自分がいた。

 不意に、手を伸ばしてみる。

 会長は驚いたようだったが、俺の左手をその白い首筋に受け入れた。そして、

「あの時は手を差し伸べてくれなかったのに……」

 意地悪く、そう言う。

「ホントは……」

「ホントは?」

「ホントは、そうしたかったッスよ」

 新型ウイルスが蔓延した世界では、俺の周りには、見えない壁があるようなものだった。本当に壁があれば、もっとマシだったかもしれない。

 社会的距離ソーシャル・ディスタンスとも呼ばれるそれは、今ではもはや、モラルのように生活に浸透していた。

「あの時あなたは、どちらがわたしにとって善いことなのか、葛藤していたのよね」

「すみません」

「謝らなくてもいいわ。あなたにとって社会的な距離はもはや、道徳的距離モラル・ディスタンスなのね」

 急に視界が歪んだ。溢れる涙の理由が、悔しいからなのか恥ずかしいからなのか、俺にはわからない。

「ここでは、大丈夫よ」

 左手が後頭部に回され、引き寄せられる。

 人に話せないような秘密を共有して愉しむような、こんな、擬似的な恋愛に溺れてはいけない。そう自分に言い聞かせても、芽生えた感情にマスクをかけられない。甘い蜜に誘われる虫のように、本能のままに。

「今、わたしは満たされているって思うけど、あなたは?」

「俺は……」

 多分、俺と会長が来週から学校で出会っても、きっと何も変わることはないだろう。ここであったことは、全て日常生活においては夢か幻のようなものだ。

 会長。いつの日か俺は、太陽の下で、素顔のあなたと会えるでしょうか? 会って、あなたを満たせるでしょうか?

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Masquerade みずたまり @puddle-poodle

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