第22話
泰明や昌克を遥かに超える速さに、楓は少しも反応できなかった。
まったく捉えられないほどの勢いで、拳が彼女の側頭部へ叩き込まれ、凄絶なまでの打撃音が響き渡る。
頭蓋骨を粉砕され、激しく出血したことを悟りつつ、楓は殴り飛ばされた。
軌道上のカプセルを次々と破壊しながら超高速で宙を舞い、数十メートル横の床へ落ちる。
大量の鮮血をまき散らして何度も転がり、壁にぶつかってようやく止まると、彼女は床に手をついて上半身を起こした。
間を置かず、両足へ力を込めて立つ。
流れ出る鮮血が首や肩を濡らし、床に落ちていく。
楓は今にも意識を失ってしまいそうな激痛に呻き、側頭部を押さえ、よろめいた。
「うっ……う……!」
しかしすぐに激痛は消えた。
粉砕された頭蓋骨が完治して、出血も止まったのである。
おまけに、先ほどよりも肉体の調子が良くなった。
恐るべきは魔王の力だ。
これがなければ、今の一撃で確実に死んでいた。
(強い……!)
実力差は圧倒的と言えよう。
やはり魔王の力が頼りだが、神威と同等の強さを得るまでに何度攻撃を受ける必要があるのか。
生半可な回数ではないはずだ。
あれほどの攻撃で再生強化を果たした後だというのに、まだ神威には遠く及ばないとはっきり分かってしまう。
さらに、魔王の力自体が不完全というのも致命的だ。
このままでは、神威の強さへ届く前に限界を迎えるだろう。
(どう……戦うべきか)
必死に考えている間に、楓は呼吸を整え、神威の方へ向き直った。
すぐ追撃してくると思っていたが、予想は外れたようだ。
神威は数十メートルの距離を一気に詰めたりせず、悠然と立っており、隙もまったくない。
これほど圧倒的な実力を持ちながら、油断とは無縁らしい。
「楓!」
神威は唐突に、叫んだ。
「今から面白い技を見せてやる!」
直後に彼は不敵な笑みを浮かべ、片腕を大きく引いた。
その動きを見て、楓は困惑してしまう。
まだ両者の間には数十メートルの距離があり、パンチなど届くはずがないからだ。
手に何かを持っていて、それを投げようとしているようにも見えない。
(何をするつもりなの……?)
分からないが、何らかの方法で攻撃を仕掛けようとしていることは確かだろう。
咄嗟にそう判断して動こうとした瞬間。
楓の全身を強烈な衝撃が襲い、雷鳴のような轟音が響いた。
彼女は高速で吹っ飛ばされ、背中から壁に激突。
コンクリートがクレーター状に深々と陥没し、破片が無数に飛び散った。
凄まじい衝撃で地下研究所全体が揺れ、楓の肉体は壁にめり込んでしまう。
「あっ……ぁ……!」
それでも楓は生きている。
息が詰まり、壁の中で全身から激しく出血しながらも、死んでいない。
「うっ……!」
楓は呻き声を上げつつ、何とか壁から出ようとする。
衝撃で脳が激しく揺れたため、すぐには動けない。
全身の裂傷からは次々と鮮血が流れ出し、服と床が染まっていく。
さらに背中と腰の骨に亀裂が入ったようで、その部分が酷く痛むが、それも数秒間だけのこと。
裂傷は全て高速で塞がり、それに伴って出血も止まった。
最後に骨も完治し、激痛が消える。
「……」
楓は軽く頭を振りながら起き上がると、壁の中から出て思った。
(あんなに離れているのに私を吹っ飛ばした……何て拳圧……!)
圧倒的破壊力。
何度も受けていれば、それだけで不完全な魔王の力は限界を迎えるだろう。
(でも……封じる手段がないわけじゃない)
今の技には、明確な予備動作が存在する。
片腕を大きく引いてから前方に突き出すというのは、あまりにも隙だらけだ。
相手の間合いでそんな悠長なことをしていたら、間違いなく拳圧を飛ばす前に攻撃される。
(あれは遠くにいる相手にしか使えない技)
懐へ入って超接近戦に徹すれば、神威もあの技を使うことはできないはずだ。
もちろん、拳圧を封じただけで勝てるなら苦労はないが、悩んでいる暇もない。
気持ちを奮い立たせ、コンクリートの床を力強く蹴り砕いて駆け出す楓。
その動きは今までよりも、格段に速い。
瞬時に数十メートルの距離を詰め、拳に突進の勢いと体重をしっかり乗せて殴りかかった。
渾身のパンチが超高速で流麗な直線を描き、正確に神威の胸部へと迫る。
しかし当たらなかった。
拳が触れる寸前に、神威の姿が一瞬で視界から消えたのである。
今の楓でもまったく捉えられないほど、速く動いたのだ。
パンチは神威の残像を突き破り、風切り音を響かせるのみ。
(消えた……!)
楓が驚き、心の中で叫んだ瞬間。
背後から神威の声が聞こえてきた。
「こっちだ」
「!?」
反射的に振り向きながら、楓は素早く回し蹴りを放つ。
それを神威は片手で簡単に掴み止めると、間を置かず彼女の全身を持ち上げ、凄まじい勢いで床へ叩きつけた。
鳴り響く轟音。
頑丈なコンクリートの床が、直径十数メートルに渡って粉砕され、破片と粉塵が衝撃波で周囲にまき散らされていく。
「うっ……がっ……!」
無論、こんな攻撃を受けて無事でいられるはずがない。
楓は全身に激しい裂傷を負って出血し、小刻みに震えている。
それだけではない。
吐き気と激痛に耐えられず、おびただしい量の鮮血を口から床へぶちまけた。
「ぐっ……ごほっ……!」
彼女は口の周囲を濡らしつつ、せき込んだ。
凄惨な裂傷は魔王の力によって数秒で塞がり、激痛が消え、出血も止まったが立ち上がれない。
神威に片足を掴まれたままだからだ。
(それでも……!)
反撃できないわけではない。
楓は掴まれていない方の足で神威の手首を狙った。
仰向けで繰り出したにしては速い蹴りだ。
狙いも正確だが、当たる寸前に神威は足から手を離し、腕を引いた。
楓の蹴りは空振りしてしまい、風切り音を響かせる。
すかさず彼女は足を下ろして立ち上がり、構え直した。
そんな楓を見て、神威は言う。
「まだその目は力を失っていないな。大したものだ」
「……」
楓は鋭い目つきで黙り込んでいる。
言葉を返す余裕などないのだ。
神威は二メートル以上もある筋肉質の巨体だが、外見に反して動きや反応は恐ろしく速い。
先ほども、楓は拳や足をかすらせることさえできなかった。
このまま攻撃を続けていても永遠に当てられないだろう。
(何とか当てる方法を考えないと……!)
しかし思い浮かばない。
五感、身体能力、格闘技術、実戦経験。
いずれも神威の方が圧倒的に上だ。
どうすれば、攻撃を当てられるのか。
真剣な表情で考えていると、不意に神威が口を開いた。
「少し方法を変えてみるか」
言い終えるなり、彼は動いた。
瞬時に楓の懐へ飛び込み、恐ろしい速さで組み付いたのだ。
「くっ……!」
楓は両肘と脇腹を正面から締め上げられ、何とか振りほどこうと必死にもがいた。
だが、神威の圧倒的な怪力には対抗できず、ほとんど動けない。
「私の締め技は強烈だぞ。物質なら何であろうと締め潰せる」
言いながらも神威は力を込めてきた。
両肘と脇腹が少しずつ陥没し、骨格がきしんでいく。
恐ろしい怪力で圧迫され、内臓にも激痛が走り始める。
「うぅっ……あぁっ……!」
あまりに凄まじい激痛で呻く楓。
口内は大量の鮮血で溢れ、次々とこぼれる。
服を伝わって床へ落ち、濡らしていく。
「くっ……!」
楓は壮絶な激痛に耐えながら必死にもがくが、拘束は少しも緩まない。
それどころか、強まる一方だ。
やがて両肘と脇腹の骨を粉砕されてしまい、激痛が急激に増した。
「!?」
楓は両目を見開き、声にならない悲鳴を上げる。
もちろん負傷は超高速で完治し、そのたびに身体能力や肉体強度が上がっていく。
しかし精神は別である。
圧倒的な怪力で締め付けられ、肉体が破壊と再生を何度も繰り返しているのだ。
こんな状況で、いつまでも正気を保っていられるわけがない。
不完全な魔王の力と、精神の疲弊が限界を迎えるのも時間の問題と言えよう。
「考え直せ、楓。カプセルに入って完全覚醒し、魔王として過激派の旗頭となることを承諾すれば、すぐに拘束を解いてやるぞ」
「断る……!」
「まだ言うか!」
叫びながら、神威は締め付ける力をさらに強めてきた。
「これだけ圧倒されていても屈しないとはな……その精神力には感服するぞ……!」
嘘ではないだろう。
声には賞賛と尊敬の念が込められている。
「だがその精神力も永遠に保てるわけではあるまい。それにこの状況を一体どうするつもりだ?」
「……」
神威の問いに楓は答えない。
いや、何か言葉を口にする余裕がないのだ。
破壊と再生の繰り返しに耐えるだけで、精一杯になりつつある。
そんな楓に構わず、神威は続けた。
「お前が旗頭となれば、もはや誰も過激派にかなわない。共存派も屈し、人間社会の支配を成し遂げられる」
「人間社会の……支配」
「そうだ。魔物を迫害して怯えさせてきた人間達が、魔物に怯えて暮らすことになるのだ」
そうなったら、終わりだ。
人間と魔物が対等の立場で暮らしていける社会を作るという理想は、完全に失われてしまう。
(何とかしないと……何とか……!)
しかしこの状況で逆転の方法などあるのか。
打撃を叩き込もうにも、両肘と脇腹を強烈に締め上げられた状態では難しい。
ならば踵で足の甲を踏みつけ、拘束を緩ませることはできるだろうか。
咄嗟に実行しようとするが、できなかった。
逆に神威の方が、両踵で楓の足の甲を強く踏みつけたのだ。
「!」
足の甲の骨が砕け散り、少なくない量の鮮血が飛び散る。
激痛で楓は顔をしかめた。
どうやら踵で攻撃してくることは、神威の想定内だったらしい。
「油断も隙もならん奴だな。だが、そろそろ限界が近いのではないか、楓?」
「……」
「この短時間で何度も多大なダメージを受け、何度も急激な再生強化を繰り返したのだからな」
図星だ。
既に足の甲の怪我は完治したものの、顔色が非常に悪い。
理由は簡単。
度重なる負傷で体内から失われた血液の復元が、遅くなっているからだ。
魔王の力が弱まりつつあることを、楓は実感していた。
「もう諦めろ、楓」
「いいえ」
顔面蒼白になりながらも楓は言った。
「私は……勝ってみせる……!」
「その顔で言っても説得力はないな」
だが言葉の内容に反し、口調に嘲笑や優越の感情は皆無。
ここまで楓を追い詰めていても、油断していないのだ。
(何か……方法は……!)
様々な打開策を必死に考えていく楓。
やがて、あることを思いついた。
(名案どころか……無謀としか言えない作戦だけど)
もう時間がない。
覚悟を決めると同時に、楓は全身の力を抜いた。
直後。
いきなり抵抗をやめたことで楓の両肘が即座に潰れ、ちぎれる。
一瞬だが、拘束する腕と彼女の脇腹の間に、小さな隙間が発生した。
その機会を逃さず、楓は屈み込んだ。
これで、上半身は拘束から解放されたことになる。
「なっ……!?」
まさか両腕を捨ててまで脱出するとは思わなかったのだろう。
神威は驚き、棒立ちになった。
十分の一秒にも満たない間ではあるが、このレベルの戦いでは致命的な隙。
楓は両腕の再生を待たず、即座に片足の膝を全力で突き上げた。
踏みつけられている状態でそんなことをしたために、甲の部分がちぎれてしまったが、何とかその激痛にも耐える。
苦しみながら放った攻撃は、今まで繰り出してきた中で最も速い。
しかも神威は、常軌を逸した脱出方法に驚いた直後なのだ。
これでは回避できるはずもなく、膝蹴りは彼の脇腹に深々とめり込み、凄まじい轟音を響かせた。
「うぐっ……!?」
神威は鮮血を吐き出して呻き、よろめいた。
それでも素早く体勢を整え、拳を突き出したのは見事だと言える。
しかし、今まで見せてきた動きよりも圧倒的に遅い。
上半身を横へ傾け、パンチを回避し、鳴り響く風切り音を聞きながら楓は思った。
(今が最大の好機……!)
感触から、先ほどの膝蹴りが神威の肋骨を砕き、内臓まで衝撃が浸透したことが分かる。
決してダメージは軽くないだろう。
だが、それは楓も同じである。
魔王の力が弱まった影響で両腕の再生が遅く、まだ元に戻っておらず、出血も止まっていない。
この機会を逃せば、勝機はない。
楓は残された力を振り絞り、再び膝蹴りを神威の脇腹、しかもまったく位置へ打ち込んだ。
「ぐはっ……!」
轟音と、神威の壮絶な呻き声が同時に響き渡る。
激しく吐血して一瞬よろめくも、すぐに彼は体勢を整え、反撃のパンチを繰り出してきた。
肋骨を粉砕され、直後にまったく同じ位置へ膝蹴りを受けたのに、だ。
信じ難い体力である。
楓は回避できず顔面を殴られ、呻いて鼻血を出しつつも必死に踏ん張り、三度目の膝蹴りを神威の脇腹へ叩き込んだ。
「うっ……おぉぉっ……!」
神威は呻いて大量の鮮血を吐き、大きくよろめいた。
それでもまだ倒れず反撃してきたが、既に彼の動きは達也と同じ程度にまで鈍ってしまっている。
見切ることは難しくない。
突き出された拳を屈み込んで空振りさせると、楓は最後の力を振り絞って、神威の脇腹へ膝をめり込ませた。
「……」
既に限界を迎えていたのだろう。
呻き声を発することもなく、神威は白目を剥いて仰向けに倒れ込んだ。
楓は荒い呼吸をしながら、無言でそれを眺める。
立ち上がってくるかもしれないと思ったからだが、神威は少しも動く様子がない。
完全に意識を失ったようだ。
(勝った……!)
そう認識すると、楓は力が抜けて気が緩んだ。
同時に、呻いてしまう。
今まで我慢できていた激痛に、耐えられなくなってきたのだ。
(両腕と足の甲は……何とか再生できて……出血も止まったみたいだけど)
全身に走る激痛は消えず、失われた血液も戻っていないようだ。
不完全な魔王の力が停止しかけている。
意識が遠のきそうになるが、ここで倒れるわけにはいかない。
(昌克さんと……時雨さんを……助けに行かないと……!)
その執念で楓は倒れることなく踏みとどまり、上への階段めがけて歩き出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます