第9話 魔術博士のFirst Lesson
アンセロッドはアレリオンが用意したレディ・サイレンの公邸に招かれていた。今日から魔術の手解きを受ける。これまで守られてばかりだった。そしてそのために決して少なくない犠牲が生じた。自分の身は自分で守れるようになりたいし、私も誰かを守れる存在になりたい。もう足手まといは嫌。
レディ・サイレンの公邸は市庁舎から徒歩で南に十分程度の場所にあった。城壁に近く奥まっていて
「ご苦労様です。本日レディ・サイレンにお招き頂いているアンセロッドです。こちらは私の身辺警護を担当しているサー・デルコス」
「伺っております。お通り下さい」
守衛には既に話が通ってあって、アンセロッドとデルコスを館に通してくれた。その様子を中から見ていたレディ・サイレンが表に出てきてアンセロッドに歓迎の声を掛けた。
「こちらですよ、アンセロッド。お付きの騎士の方もどうぞ」
「ありがとうございます。レディ・サイレン」
屋敷の中は古びた外観以上に清潔感が保たれていた。サイレンは二人を玄関から入ってすぐの客間に招き入れた。
「さぁ、楽になさってください。今お茶を用意させます。リュテリアから大量に持ってきました。実は税関に引っかかってしまいましたよ」
サイレンが軽く冗談を言う。リュテリア産の紅茶は最高峰の銘柄だが、税関に引っかかってしまうほどの量って一体どれくらいだろう。アンセロッドには想像もつかない。
「お気遣いありがとうございます。エルディンの魔法対策にお忙しい中お時間頂きありがとうございます」
「貴女はエルディンと《ラプター》の命運を握っています。その貴女が魔力の使い方を学ぶ。それ自体が魔法対策にもなり得ます。口煩い参謀参与殿の戦略にも幅ができましょう」
マナドゥアに対して少し毒が含まれていたが、アンセロッドはレディ・サイレンの言葉一つ一つに頷いた。ほどなく使用人の女性が紅茶とお茶菓子を持って部屋に入ってきた。華奢だが、スッと背が高く凛とした女性だった。表情一つ変えずにティーセットをテーブルに並べる。
「今は私の身の回りのことを手伝って頂いておりますが、彼女とは古くからの付き合いでして、こう見えてもなかなかに腕っぷしが強いのですよ。いざと言う時には頼りになります」
「シルフィーヌと申します。お見知り置きを」
シルフィーヌと名乗った女性は整ってはいるが鋭い顔立ちの女性だった。特に瞳。鮮やかなピンクサファイヤの虹彩に、燃えるように赤いワインレッドの瞳孔がとても印象的だ。
しばらくレディ・サイレンやシルフィーヌからリュテリア滞在中の話を聞いていたが、半刻近く経つと話を切り上げてサイレンが立ち上がった。
「ではサー・デルコスはこちらでお待ちください。騎士殿には退屈かも知れませんが、シルフィーヌに話し相手をさせましょう」
「いえ、お気になさらず。お待ちしております」
サイレンはデルコスとシルフィーヌを残してアンセロッドを連れ出して二階にある小さな一室に移動した。四方の壁全体が黒いカーテンで覆われており、光が遮断され仄暗い。中に入ると一、二度程度の気温の差を感じた。特に家具などもなく、アンセロッドは床に敷かれた絨毯の上に座るようにとサイレンから手でジェスチャーされた。
「アンセロッド。この部屋に入って何か感じましたか?」
「少し気温が下がったように感じました」
「なるほど。そのように感じましたか。今、この部屋には人為的に圧縮したマナを充満させています。今朝から準備をしておりましたので、外気よりも少なくとも十倍は密度が濃くなっています。マナとは自然界に内在する生命エネルギーそのものです。もちろん貴女自身にもそのエネルギーが内在しています」
「私の中にそんなエネルギーが……」
「ですが個々に内在するエネルギーは微々たるものです。その力を操ることができたとしてもたかが知れています。大事なことは自然の中からその力を引き出すことです。そうすれば貴女の内に存在するマナの器を満たすことができる。マナを引き出し、体内で魔力に代謝して具現化する。基礎的な魔法の機序です。マナを引き出すことが得意なものもいれば、瞬間的に代謝できるものもいますし、具現化することが巧みなものもいます。それら全てが水準を満たせば、魔術の達人となれるでしょう。貴女にはその素質があります」
「私が満たせるでしょうか」
アンセロッドは自信なさげに答えた。レディ・サイレンの説いた基礎的な魔法の機序は途方もなく個の才能に依存するものではないかと思えたからだ。
「ええ、そのために私がこれから貴女を導きます。かつてファーレルが健在だった頃、エルフは魔術を体系化して学問として学んでいました。私は師範の資格と博士号を持っています。まさか今になって弟子を持つとは思いも寄りませんでしたが」
「エルフの魔術学ですか」
「そうです。今からこの部屋で香を炊きます。その香の成分が貴女の中枢神経に作用し、一時的にトランス状態となります。その時に体験した出来事を一つでも多く現実に持ち帰るのです。全てが現実とリンクしています。香で鋭敏となった感覚をさらに研ぎ澄まし、向き合い、持ち帰るのです。新しい感覚への目覚めをしっかりと心に焼き付けてください」
レディ・サイレンはそう説明しながら、部屋の中央で香を炊き始めた。微かに熱で視覚が揺らいでいる。無色無臭の煙でも起こっているのだろうか。
「リラックスして、なんなら横になってしまっても構いません。最初は恐怖感を伴うかもしれませんが、恐れずにその身を預けるのです。呼吸を乱さないように、リラック…………」
レディ・サイレンが話してる最中、アンセロッドは見る見るうちに意識が朦朧としていった。恐怖感は無かった。むしろ至福感を感じる。一瞬の内に視界が暗転した。まるで自分の深淵を覗いているかのような感覚に陥った。一寸の光も感じられない時間が数十秒流れた。徐々に光を取り戻すと、暗闇の中、一人の青年が近付いて来る。
(アレリオン!)
アレリオンよりやや大人びた印象の青年が胸に桜色の髪をした赤ん坊を抱いている。
(私⁉︎ ではこの青年がラスゲイル卿!)
在りし日のラスゲイル卿。若き日のガイエン卿。自分と瓜二つの少女エヲル。自力では呼び起こせなかったはずの記憶が断片的に次々と入れ替わる。改めて思い知らされる。ずっと守られてきた。ガイエン卿に。
ああ、私は! 私はあの日ラスゲイル卿に自分に与えられた力の一部を託した。自分の記憶の一部が吹き飛ぶほどの強大な力を。そのラスゲイル卿の訃報を耳にした時、私は全てを閉ざしてしまった。私にはあの方をお救いすることができなかった。私は自己暗示をかけて記憶を封じた。自分が潰れてしまってはまた数百年の時を要する可能性がある。私が、こんなこと私が終わらせなければいけない。
桜色の髪をした女剣士が漆黒の甲冑に身を包んだ騎士と刃を交えている。女剣士の身体能力は人間離れしており、漆黒の騎士ですら圧倒していた。だが甲冑の僅かな隙間をピンポイントで貫いても致命傷を与えることはできなかった。女剣士の呼吸が乱れている。体力を消耗している。一方で漆黒の騎士は全く息を切らしていなかった。やがて漆黒の騎士の鋭い突きがカウンター気味に女剣士の左胸を抉った。
(エヲル! エヲル! エヲルッ!!)
自分が知るはずのない記憶が拡大した意識に逆流して侵食する。脈打つ鼓動のように響き渡る花火の轟音と遠くから漂う火薬の匂い。星の瞬く夜の橋。アレリオンが私を見つめている。決して揺らぐことのない鋼鉄のように強固な意志。暖かい。そこにそっと手を伸ばして触れようとすると、アンセロッドの全身に万能感が走った。末端神経のさらにその先が世界と、宇宙と一体化している感覚。いくら引き出しても満たされることはない。
あの漆黒の騎士に一矢報いてやりたい! エヲルを殺したことは絶対に許さない!
アンセロッドは桜色の炎で燃え盛る光の矢をイメージすると、漆黒の騎士の存在を探知し始めた。
「……ロッド。アンセロッド!」
その時、レディ・サイレンの声が頭の中に響いた。どうして彼女がここに?
「アンセロッド! 戻りなさい! アンセロッド!」
レディ・サイレンの声は段々とはっきりとしていった。ふと我に帰ると、心配そうに見つめる彼女の顔が眼前にあった。
「レディ・サイレン! なぜ止めたのですか! 私はあの漆黒の騎士を燃やし尽くしてやりたかった!」
アンセロッドは声を荒げた。呼吸が乱れている。身体が汗ばんでいる。黒いカーテンに覆われた部屋は、先ほどよりも随分と暑く感じられた。
「アンセロッド、貴女がトランス状態に陥ってからどれだけの時間が流れたかわかりますか? 僅か十秒足らずです。貴女はその間に部屋に充満していたマナを全て魔力に代謝して、何者かを攻撃しようとしていました。漆黒の騎士と言いましたね」
「私はあの禍々しい騎士を消し飛ばすことができました! 本当です! エヲルの敵を撃ちたかった!」
興奮したアンセロッドの瞳から大粒の涙が溢れ出した。自分は無力じゃない。永久不滅の恐怖公たちに死すべき運命を決定づけることができる!
「アンセロッド、よくお聞きなさい。貴女はトランス状態に陥って一時的な万能感に満たされました。ですがそれは香の力によるものです。正しく力の使い方を学ばねばなりません。貴女にはまだその能力はありません。強大な魔力に魅入られてはなりません。決して冷静さを見失ってはいけません。でなければ身内を傷つけてしまいます。自身の自我と形状を保てずファーレン・ビーストのように変容してしまうかもしれません。私が止めなければ、サー・デルコスやシルフィーヌごとこの屋敷が炊き尽くされていたことでしょう。貴女には巧妙に姿を隠している恐怖公たちの正確な位置を探知する能力はありません。時間をかけて学ばねばなりません」
「レディ・サイレン、私は、私は」
レディ・サイレンは急に怯え出したアンセロッドを優しく抱き起こして諭した。アンセロッドの瞳孔の開き加減を確認しているようだった。
「アンセロッド。貴女のエクスタシスに私が立ち会えてよかった。大丈夫です。私が付いています。エヲルとおっしゃっていましたね。貴女の復讐は成し遂げられるでしょう。私が導いて見せます。安心してください、アンセロッド。私は貴女の味方です」
繋がっている。目に見えない自分の神経が世界と接続されている。その感覚が未だ残っている。マナへのチャネルを確保したんだ。いつか自力であの万能感を手にしてみせる。そして必ず報いを受けさせる。アンセロッドの心に灯った小さな火が瞬間的に勢いを増し、獄炎のように激しく燃え盛った。
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