第2章 ラプターのGovernance
第7話 オニキス大理石のBoardroom
エルディンは人口約十六万八千人の大都市である。モルセイケン州の経済の中心であり、レン=デル・マイン王国の主要都市の一つであるが、外洋に面しており比較的独立性が高い。表向きレン=デル・マイン王に臣従する形をとる
これまでは争いとは縁のない平和な港町で積極的な重商主義政策を採用していたが、突如としてこの街を脅かす《ウォーバウンド》に対する対応を迫られることになった。政策の転換が急務だった。
エルディン市庁舎の五階にある重役会議室は南側に大きなガラス戸があり、夏の強い日差しが差し込んでいる。石畳の床には赤い絨毯が敷き詰められており、重厚感の溢れる天然のオニキス大理石のセンターテーブルが設置されている。その一番奥の上座には新しくエルディン公となったアレリオンが座しており、左右には他に五人の幹部が席に着いていた。ラプターの軍事顧問兼元帥となったガイエン卿、参謀参与となったマナドゥア、市議会議長のブレイリン、新たに港湾局と商工業局の局長に任命されたランディル、同じく新たに主計局の局長となったダルメールだ。
ブレイリンの顔には深く皺が彫り刻まれている。優にアレリオンの四倍は人生経験が豊富だろう。真っ白になった髪が肩まで伸びているが、頭頂部の毛髪は薄く、地肌が晒されている。彼は外洋交易船の造船所を営んでいるスプレトゥレ家の御曹司だったが、三十六歳の時にエルディンの政界に入って以来、政治一筋に生きている。老いてなおその眼光は鋭く、議員たちを取りまとめる政治力は絶大だ。
ランディルはエルディンを拠点としている貿易商で、市議会議員の一人だったが、アレリオンによって新たに港湾局と商工業局の局長に抜擢された。若く野心的であったが、時勢を読むことにも長けており、いち早くアレリオン支持に回った。事実前エルディン公ゲルコォルの死によってアレリオンに次ぐ利を得たのはこの男だ。裏社会を背景に持っていたセニカが姿を消した今、名実ともにエルディンの海運のトップの座に就いた。
ダルメールは金縁の丸眼鏡をかけた壮年の男だ。顎まで伸びたボリューミーなサイドバーンがもみあげと一体化している。金融業を営んでいた男だったが、彼もまたアレリオンに抜擢されて主計局の局長に就任した。
今まさにこの面々で第一回目の公府会議が始まった。
「先ずは予算だな。オレが見たところ、これまでのエルディンは平和ボケしていて軍事費の割合が極端に少なかった代わりに財政状況は非常に健全だ。セニカが消えた今、裏社会のパワーバランスを気にする必要もない。ノチア・ドミルを脱税の容疑で逮捕して奴の組織を解体させろ。脱税者は許さない、という姿勢を明確に打ち出した上で市民税を減税して消費を刺激する。一方でリュテリアに関税を撤廃させるよう働きかけて輸出業の増益も狙う。並行してセニカの密売ルートを根絶して港湾局を健全化させるんだ」
アレリオンは無感情で淡々と喋る。頭の中で複数の事柄に同時に思考を巡らせ集中している時の口調だ。
「仰せのままに。エルディン公。港湾局の健全化に向けた働きについては既に手を打ってあります」
ランディルがアレリオンを支持する。暫くはこの青年に大人しく付き従っていた方が得策だろう。ガイエン卿の後ろ盾がある以上、エルディンの良からぬ動きはすぐに彼に伝わるだろう。そう。真に恐るべきはガイエン卿なのだ。
「任せる、ランディル。ダルメールはどうかな」
「市民税を引き下げるのには賛同いたします。エルディン公のおっしゃる通り我らの財務状況は健全で、
白髪まじりのアッシュグレーの髪をしたダルメールがアレリオンの問いに回答する。この新しい若きエルディン公はこれまでの無能なエルディン公とは比較にならないほど扱いづらい。自分の意のままに操れるタイプではない。私が不正や過失を犯せば、躊躇なく懲戒処分を下すだろう。この男がどれほどのものか、まだ暫く様子を見る必要がある。
「では次だ。エルディンの失業率は1.6%程度だったな。失業者を雇い入れて、公共事業として早急に城壁の増築を進めるんだ。ハーフリングの工兵が組み立てる
「失業者対策と防衛対策としては非常に有用です」
ダルメールはまたもアレリオンを支持した。
「城壁の増築とともに兵舎と厩舎の拡張もしろ。ゆくゆく軍事費をGDP費の二十%近くまで引き上げる」
「二十%ですと!?」
アレリオンの突然の提案にダルメールは今度は細く鋭かった目を見開いて驚く。
「金が戦争を決める。いくら財政的に豊かであろうと、軍事力を持たなければ外圧に対する抑止にはならない。リスペリダル以北では軍事費十%は当然だし、バァルベロン州の都市は三十%を超える。経済力も軍事力も、全ては強圧的外交手段の一つでしかない。周辺の都市がエルディン経済圏に入って従属するか、それともオレたちと断絶するのか。盤上の右辺下、つまりモルセイケンはオレたちが抑える」
「しかし急激な軍拡は周囲の不安を煽りかねます。まさかレン=デル・マインから独立するおつもりか!?」
ブレイリンも驚きを隠せない。この若者は一体何を考えているのか。それが読めない。危険な人間だ。
「何もレン=デル・マインに反旗を翻そうとしているわけじゃない。だがいずれレン=デル・マイン王国が滅び去ることも想定しておく必要がある。だから国債も今のうちに少しずつ換金しておけ。でなければいつただの紙切れになるか分からないぞ」
「レ、レン=デル・マインが滅ぶなどと……。そこまで先をお見据えになられているとは! このダルメール、エルディン公の意、しかと承りました」
「ではそういうことだ。ブレイリン、ランディル、ダルメールは早速手配に回ってくれ。よろしく頼む」
「御意!」
ブレイリンたち三人は声を揃えて返事をすると、それぞれ課せられた仕事を果たすために会議室から退室した。
残ったガイエン卿はまるで成長した我が子を見るような目でアレリオンを見ている。
「よくやった。上出来だ。執政官、お前の才能を存分に活かせる職だな」
ガイエン卿は堂々たるエルディン公のデビューを飾ったアレリオンを手放しで褒め称えた。
「よしてください。ガイエン卿。この街の政治家や官僚に、今は戦時下だという意識を植え付ける必要があります。先日の勝利は既に過去のもの。魔女との戦いの幕開けに過ぎない」
「さて、ここからがラプターとしての本題というわけだな。聞かせてもらおうか、アレリオン」
それまで沈黙を守っていたマナドゥアがようやく重たい口を開いた。
「魔女の
「いや、聞いたことがないな。その女性がどうかしたのか」
ガイエン卿には心当たりがないようだが、全国を旅してきたマナドゥアはそうではなかった。
「エルフの女魔術師だ。リュテリアを拠点としているようだが、全国を転々と旅をしている。いつ何処に現れるかは誰にも想像が付かない。私も出会ったことはないが、風のように現れ、風のように消えていくと聞く」
「彼女は、魔女の軍隊が見せかけであることを看破して、ガイエン卿の勝利を確信していたようでした。それだけじゃない。アンセロッドの事も知っていた。オレは彼女が《影なし》なのではないかと疑ったんですが、影はちゃんとあった」
「《影なし》ではなくとも、《ウォーバウンド》の序列の上位にいる可能性は高いな」
ガイエン卿が頭を捻る。私にですら、魔女の組織一つ全容を把握し切れていない。レマリアのことも知らなかった。他の恐怖公の組織などさらに厚いベールに包まれている。そのような女がいたとしてもなんら不思議ではない。皮肉なことに私が《ウォーバウンド》だった事がその証左だ。誰が《ウォーバウンド》であったり、《ウォーバウンド》と繋がっていてもおかしくはないのだ。懸念材料の一つだな。
「ただ、オレたちの敵のようにも見えなかった。まぁ、オレの勘ですが」
「アンセロッドのことは恐怖公に対してはどの道既に情報を公開したのだから、存在を知られていることに関しては今は考えるのはよそう。ところで魔女との戦いに関してだったな。話を戻そう」
ガイエン卿が本来の議題へと軌道修正する。
「そうですね。神聖騎士のレマリアが魔女の手先に堕ちていたことは驚きでしたが、勝てない相手でもないと思った。ガイエン卿はいかがです?」
「通常の戦術が有効な相手であれば、事前準備と兵士の数、用兵術でなんとかなるだろう。だが魔女アンカリッサは魔術の達人だ。レマリアもただの騎士とは思えんし、他の直参も全く素生が知れない。我々も対策が必要となるだろう」
「オレたちは魔法に対しては無防備すぎる……。マナドゥアはいかがです?」
「扱う魔法が強大であればあるほど、その
「半農兵ならともかく、維持費の高い職業軍人を人海戦術に用いるなど論外ですよ。オレたちにはまだ足りないところがたくさんある。先ずは、魔女の魔法対策だ。オレたちも達人クラスの魔術師の協力を得たい。次にドレットとの通商強化だ。エルディンと友好的な集落を倍に増やして、巨人部隊を編成したい。巨人にしか扱えない
「ハーフリング族の行方だけは私にも分からん。ティルゲイア最大の謎の一つだ。もしかしたらもうこの大陸にはいないのかも知れん」
「そうですか……」
マナドゥアにすら分からないのであれば、きっと誰も知る者はいないだろう。
「では、軍務や、他の官僚たちへの睨みはガイエン卿に、人事についてはマナドゥアにお願いしたい。オレはラギに依頼して周辺都市の状況を把握して、外交政策を詰めておきます。よろしくお願いします」
「わかった。アレリオン、お前も少しは頭を休めておけ。あとで甘い菓子でも持って来させよう」
アレリオンはガイエン卿の配慮に礼をすると二人を見送った。こうしてアレリオンの執政官としての最初の重役会議は終了した。一人部屋に残ったアレリオンはさらに先を読み始める。
オレは魔女の駒じゃない。だが利害が一致している限りは積極的に敵に回す必要はもしかしたら無いのかも知れない。むしろオレが誰よりも血祭りにあげたい《影なし》は、暗黒騎士ラスゲイル、あいつだ。オレがモルセイケンを制圧し始めたら、あいつも動かざるを得ないだろう。次の狙いはあいつの
ん!? そうか! そういうことか! アンカリッサは何もかも知った上で、オレにラスゲイルを始末させようとしているんだ! ならば確かにこれまでの出来事が腑に落ちる。そして今のオレでは決して自分には勝てないという絶対的な自信があるんだ。だとすればオレの最初の相手はアンカリッサではなく、ラスゲイルになるかも知れない。
アレリオンは小刻みに身震いした。武者震いだ。父親に対する憎しみ、怒り、そして恨み。あいつを真っ先に血祭りにあげられるなら、オレの方こそ魔女を利用するのも悪くない。悪くないな。
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