第18話 狡猾なBetrayer

 何処からとも無く現れた巨大な雨雲がモルセイケン州一帯を覆っていた。アーテンから少し離れたデパス天体観測所でも、夕立が雷の轟音を伴って滝のように絶え間なく空から降り注いでいる。大粒の雨がアンセロッドの隠れ住んでいる小屋を容赦なく叩き付けた。先ほど街まで出かけたデルコスも、この雨ではしばらくは帰って来ることができないだろう。

 アーテンでガイエン卿と合流した二人が、天体観測所の裏にある小屋に隠れ住むようになってから二週間が過ぎようとしていた。しかしどれだけ待っても、アンセロッドたちを逃がすために一人追っ手に立ち向かったエヲルは戻ってこなかった。アンセロッドとガイエンを小屋に残して、デルコスは毎日のようにエヲルを探しに出かけた。だが突き立てられていた一振りの剣以外に、現場には何の戦いの痕跡も残されていなかった。生々しい血痕が残ったままのその剣は、間違いなくあの日エオルが所持していた剣だった。エヲルが無事であることを信じたいが、この事実が何を意味しているかは、騎士であるデルコスとガイエン卿のほうがよくわかっていたのだろう。その日から二人は何かがおかしくなった。

 一体いつまで私はこんなことを続けるのだろう。物心ついたときからずっと何かに怯えたまま逃げてばかり。私だっておかしくなってしまいそうだわ。雨と雷がアンセロッドの心を余計に憂鬱とさせる。


「エヲル。エヲル、何処にいる? お客様が見えたよ。旅の方、さぞお疲れでしょう。どうぞ雨宿りをなさってください。歓迎いたします。エヲル、何処だ? お客様に、暖かいお茶を出して差し上げなさい」


 玄関のほうからガイエン卿のこもった声が聞こえてくると、アンセロッドは大きな溜め息をもらした。エヲルの死を悟ってからというもの、気の毒なガイエン卿はすっかりおかしくなってしまった。私のことをエヲルと呼ぶのはそれほど気にはならない。だがガイエン卿はあれからまったく睡眠を取っていない。アンセロッドの目には、ガイエン卿が寝ることを極度に恐れているように見えた。まるで約束された悪夢から必死に逃れようとしているかのように。ガイエン卿の身体が心配でならない。

 とにかくガイエン卿はきっとただお茶を飲みたいだけのだろう。アンセロッドはガイエン卿に聞こえるように「はい、ただいま」と力強く返事をすると、お茶の準備を始めた。


「エヲルは私の娘でしてね。少しおてんばが過ぎるところもありますが、今お茶を用意させます。さあ、腰を掛けて身体を休めてください。ところで失礼ですがどなたでしたかな? 最近歳のせいか物忘れが酷くなりまして。お恥ずかしい」


 ガイエンは相変わらず誰かと会話でもしているかのような口振りだ。雨が戸口を叩く音を、誰かがノックする音と間違えたのかしら? ドアが開いたような音は聞こえなかったけれど。あるいはここ数日の疲労が溜まって発熱してしまったのかもしれない。それとも本当に誰かそこにいるのかしら? アンセロッドはお茶を入れつつ、雨音というノイズを遮断しながらじっと玄関の話し声に聴覚を集中させた。すると確かにガイエン卿とは別の男の声が聞こえてきた。こんなときだけは母譲りの長い耳が役に立つ。


「久しく見ぬ間に随分と老け込んだようだな、サー・ガイエン・クイックブランド」


 それは静かで、だがツンと凍りつくような冷たい響きの声だった。


「お客人、どうされましたか? どうぞ遠慮なさらずにお掛けください。吟遊詩人の方とお見受けしましたが。娘は物語を聴くのが好きでしてね。もしあの子が振舞うお茶が、あなたの満足のいく出来でしたら、褒美に何か歌ってやってはもらえませんか? もちろんお礼は致します」


 吟遊詩人? ガイエン卿は一体誰と話しているの?


「ガイエン。哀れなやつめ。魔女の呪いにむしばまれ、そこまで狂ってしまったか? 娘をアーテンに呼び寄せたのはお前の仕業だな? 何を企んでいる。なぜ娘をアーテンに呼ぶ必要があった?」


 娘? 今、この男はエヲルでは無く、と呼んだ。そう直感したアンセロッドは、突如ガタガタと恐怖に身が震えだし、手に持っていたティーポットを落としてしまった。大きな雷鳴とともに男の声が小屋の中に轟いた。


「アンセロッドか!」


 ティーポットの割れる音に反応して振り返った銀髪のエルフは、部屋に入ろうとしていたアンセロッドを鋭く睨み付けた。かつては鮮やかな緑だったのであろうその瞳にはすでに輝きがなく、ミルクでも垂らしたかのように白く濁っていた。私のことを知っているかのような口振りのこの男も、やはり追っ手の一人なのだろうか? どうしよう!? デルコスは今日もエヲルを探索に向かったまま、まだ帰ってきていない。


「エヲル、せめてお客様の前では粗相のないようにと日頃から言っているだろう。困った子だ。お客人、申し訳ない。すぐに床を掃除させます」


 自分の質問を無視したガイエンの答えに、あからさまに不愉快そうな表情をしたそのエルフは、アンセロッドに向かって手を伸ばしたかと思うと、グッと彼女の腕を掴んで強引に引き寄せた。アンセロッドは身をよじって抵抗しようとしたが、この細身のエルフの力は予想以上に大きく、腕を堅く掴んだまま放そうとしない。そればかりか嫌がるアンセロッドを無理やりガイエンの正面に立たせると、身動きが取れぬよう彼女の背中で両腕を固めた。


「愚か者め!! よく見ろ! お前の娘にはこのような長い耳があったか!? 娘のことは何も聞かされていないのか!? エヲルならば、リオネル川を下ってリュテリアの河口付近で発見された。一週間以上も前の話だ。遺体は粗末な小船に納められていたが、川は大雨で水かさが増しており、誰もあの娘の遺体を引き上げてやることはできなんだ。今頃は波に流されて外洋をぷかぷかと浮いていることだろう。海鳥や魚に死肉を啄ばまれているかも知れん。無残なものだった。あの娘を手にかけたのは間違いなく《影無し》だ。なぜお前はアンセロッドをアーテンに移す必要があった!? 答えろ、ガイエン! お前はそのことすら忘れてしまったというのか!?」


 エルフが怒号のような声を上げて捲くし立てると、ガイエンは半分怯えながらおたおたとし始めた。この銀髪のエルフは何を言っているの? エヲルさんはどんな酷い殺され方をしたの!? ああ、私のせいでこんなことになってしまうなんて!!


「ど、どうかお許しを……。お許しください。娘の粗相は私からも深く謝罪いたします。それとも私があなた様のことを吟遊詩人とお呼びしたことに気を悪くされたのでしょうか。ああ、どうか、どうか娘からは手を離してやってください」


 一方エルフの眼とその声には軽蔑と感慨がこもっている。


「かつては誉れ高きレン=デル・マインの聖騎士の中でも、最高の地位にあったお前が……今はこれほどまでに落ちぶれ、浅ましく老いた姿を晒しているとはな。何もかも思い出せなくなったと言うのであれば、私がもう一度全てを教えてやろうか!? あいにく私は今のお前を治療してやる術など持ち合わせてはおらんが、お前の娘が何者であったかは既に掴んでいる。お前さえ良いのであれば、私はかまわんぞ。だがこの娘が私の話を聞いた後、お前を生かしておく補償はないがな」


「ああ、どうかお怒りをお静めくださいませ。話ならいくらでもお聴きいたします。ですからどうか娘から手をお離しください」


 エルフは、アンセロッドの手を話すと、ガイエンに詰め寄った。アンセロッドはエルフが背後にナイフを忍ばせているのを見たが、恐怖で何も喋ることができない。ああ、私が……、私のせいでまた不幸な人が増えてしまう……。


「ガイエン、貴様は私がアレリオンに父親の遺品を届けるために、数年ぶりにリスペリダルを訪れることを知っていて、《影なし》どもの注意を逸らすために私を囮に使った。あれほどまでに《ウォーバウンド》の動きを注視していたにもかかわらず、私の動きは奴らに筒抜けで、四方八方を取り囲まれていた! この裏切り者め! 全ては貴様が仕組んだことだったのだ! この娘を掌握するために!」


 この人は先ほどから何を言っているのかしら? 私をずっと邪悪なものたちから匿い続けてきてくれたガイエン卿が裏切り者ですって? だがアンセロッドが抱いた疑問は銀髪のエルフからすぐに返ってきた。


「貴様がこの娘を匿っていたのは、正義のためではない。メイディオルの魔王のためですらない。お前は魔女とエヲルのために我々を欺き続けていたのだ! 並の《ウォーバウンド》ですらその名を聞いて恐れおののく、彼奴らの首領の一人、恐怖公の直参、それが誉高きレン=デル・マインの聖騎士の頂点に立つサー・ガイエン・クイックブランド、貴様の正体だ! この裏切り者め!」


 マナドゥアの怒号が小さな小屋の中で鳴り響き続く。


「エヲルだと!? 今にしてみれば全て合点がいく。なぜ貴様の娘がアンセロッドに瓜二つなのか。 貴様はもう何十年も昔から闇に手を染め続けていた! 今となっては洗い清めることすら出来ぬほどどす黒くな! 貴様は魔女の指示に従い、《ウォーバウンド》どもを使ってラスゲイルが護送していたオーロリアの宝珠を強奪する手引きをした。奴に宝珠奪還の使命を与え、リスペリダルから遠ざけたのも貴様だ。そして貴様は奇跡を起こすことのできる宝珠の力を使って、アンセロッドのコピーを作り出した。死産したお前の娘、エヲルの代わりとしてだ! 愚か者めが! 貴様はずっと魔女に利用されていたのだ! あの娘は生まれたときからずっとあの女に支配され続けていた。あの哀れな娘には何一つ自由などなかった。 魔女の鎖につながれ、自分の意思では決して醒めることのできぬ永遠の夢の世界に幽閉されていたのだ! あの娘は、夢幻の世界で悪鬼によって徹底的に鍛え上げられた。魔女が魔王メイディオル・ドゥ=ローハンを打ち倒すための道具とするためだ。だがエオルは欠陥だった。姿かたちはアンセロッドにそっくりでも、あの娘には魔王を倒すことの出来る力は備わっていなかった。そのことに気付いた魔女は娘を夢の世界から解放する代わりにアンセロッドの身柄を改めて要求した。そうだな!?」


 それまで銀髪のエルフが一方的に捲し立てていたが、「メイディオル」という言葉を耳にした途端、ガイエンの目と雰囲気がガラリと変わった。


「なんてことを!! メイディ……。その名を口にしてはならん! 貴様はそれがどれほど危険なことか分かっていない! 御前様は全てを知っておられる。魔女ごときがたとえ切り札を手にしたとしても、黙って傍観されることだろう。むしろ御前様はそれを望んでおられる。アンセロッドが自分に立ち向かうのを待っておられるのだ……。既に新たな対戦相手が現れた。御前様はアンセロッドを彼の手に委ねるつもりだ」


「新しい対戦相手だと!? どうやら全てを忘れたわけではないようだな! 誰だ!? 答えろ、ガイエン!」


「貴様も知らぬうちに御前様の片棒を担がされたはずだ! 次の対戦相手は威勢のいい若者だ。だがすこぶる頭が切れる。生意気で、努力家で、無鉄砲で、だがずば抜けて器用で勇敢な若者だ! 私じゃない。私じゃあないぞ! お前が彼を御前様のゲームの場に引き釣りだしたのだ!」


「アレリオン? アレリオンのことか!?」


「何も知らぬ愚か者めが! なぜ黙って魔女に戦わせなかった! アンセロッドなどさっさとあの女にくれてやればよかった! 貴様のせいで私の娘が殺された! そればかりか貴様は息子同然のアレリオンまで危険に晒したのだ! 貴様もラスゲイルも無知の愚か者だ! 御前様を倒せるとでも思っているのか? 我々は全てあの方の駒に過ぎん。あの方の望むよう、この世を戦いという名の興奮と感動で満たしてやればよいのだ! 思う存分魔女に戦わせてやればよかった! 同士討ちだった! 私の計画を踏みにじりおって!」


 ガイエン卿の言葉にアンセロッドは身震いした。私に優しく、私を守り続けてきてくれたガイエン卿が、実は悪の手先だったと言うの!? とても信じられない。


 エルフとガイエンとの間にこれ以上ない険悪な雰囲気が漂う。


「盲目のエルフめ。愚かなエルフめ。お前は殺すぞ。お前だけは私の手で直に息の根を止めてやる。私も、アンセロッドも、アレリオンもその後すぐにエヲルの元に行く」


 ガイエンはテーブルに立てかけていた長剣を鞘から抜くと、その切っ先を盲目のエルフへと向けた。

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