第11話 十五夜月のDance in the Dark
マナドゥアは何かを言いかけたが、言葉を濁してアレリオンを急かした。その時、アレリオンが手に持っていたカンテラの光の届かない闇の向こうで、馬の嘶きらしき声が辺り一帯に響き渡った。その声に呼応するかのように、四方八方から次々と怪物たちのけたたましい咆哮が上がる。その声を聞いてマナドゥアの顔が見る見るうちに青ざめていった。
「あの
馬の蹄が力強く浅い砂を踏みつける音がはっきりとアレリオンの耳にも届いた。その音はだんだんと大きくなり、真っ直ぐにこちらへと向かっている。そしてそれは火の玉のような速さであっという間に、マナドゥアに言われるがまま逃げようとしていたアレリオンの視界にも入り込んできた。それはまるで暗黒の塊だった。アレリオンは夜の闇よりもさらに暗いその正体を凝視してしまった。
「見るな! 見てはいかん!」
マナドゥアの声が聞こえた気がしたが、既に遅かった。暗黒の甲冑を全身に
馬が再び大きな声を上げて
今すぐにでも背を向けて逃げ出したい。しかしそんな自分の意思とは真逆に、黒い甲冑の騎手から目を背けることすら出来なかった。甲冑の中身はまるで深淵のような暗闇が広がっていた。ただ一つ、微かに赤く光るあのおぞましい眼光だけが、かろうじてアレリオンに甲冑の中に何者かが存在しているのだということを感じさせた。
その光を見てしまったアレリオンはまるで動けなかった。恐怖に身体が震えることも無い。逃げ出そうという意思すら既に消えてしまった。脳が筋肉を動かすことを拒否している。黙ってこのまま死を受け入れろ、そう言っているのだ。抵抗することすら許さず、見ただけで生を諦めさせるほどのいまだかつて無い恐怖だった。そしてもはや死だけがその恐怖から解放される唯一の術なのだと理解した。ああ、オレは死ぬ。オレは死ぬんだ……。
そのとき、リュートを激しくかき鳴らす音が耳に入った。その音を聞いたアレリオンは、身体から抜けかけた魂を引き戻されたかのようにはっとして我に返った。
「小僧! 気をしっかり持て、小僧! 奴の狙いは私だ。瞳を閉じたまま後ろを向け! 奴を視界に入れるな! そしてそのまま振り返らずにリュテリアまで走るのだ!」
マナドゥアは振り向いて何か呪文のようなものを呟くと、突き飛ばすようにしてアレリオンの背を強く押した。すると驚くことに潮風が一斉にアレリオンの背を押し始めたのだ。風の翼を得たアレリオンは廃墟の隙間を潜り抜けて西へと走った。背後から接近していた怪物たちもアレリオンに追いつくことは出来なかった。
「さあ、来るがいい。《影なし》とそれに付き従うものどもよ! 貴様らを暗黒の――――」
アレリオンの背後からはいつか聞いた、殺気を帯びたマナドゥアの声が聞こえてきた。しかしマナドゥアの言葉はすぐに何十体もの怪物の不気味な呻き声によってかき消されていった。そしてそれも大きな爆音と共に叫び声へと変わっていく。アレリオンは遠のくその声の中に、マナドゥアの声も含まれていたような気がした。
時折砂に足を取られながらもアレリオンは必死に走り続けた。あんな数の化け物が相手では、さすがのマナドゥアも無事ではいられまい。だがオレにはどうすることも出来ない。
《影なし》。確かにマナドゥアはそう言っていた。アレリオンはその言葉を自ら発すると、ようやく抱いていた違和感の正体に気が付いた。
―――そうだ、あいつには影が無かった。夜とはいえ、月の光は確かにオレとマナドゥアの影を砂の上に映し出していた。だがあいつにはその影が無かった! ああ、神よ! あんたを信じているわけじゃないが、あんたはあんな化け物まで生み出しちまったって言うのか!
アレリオンは息を切らしながらもなんとかリュテリアにほど近いヴァレリア修道院近くまで逃げてきた。もう少しだ。リオネル川さえ越えればさすがに安心だろう。アレリオンは一度立ち止まると膝に手を突いて呼吸を整えようとした。後ろからオレを追ってくる気配は無い。自分の安全は確保された。アレリオンはそう思った。だがマナドゥアはどうする? 見殺しか? あの人から聞きたいことはまだ山ほどある。
アレリオンがどうすべきか悩んでいると前方から近づいてくる影があった。カンテラの明かりが自分のほうへ近づいてくる。それはどうやら冒険者らしかった。それも一人ではない。ああ、渡りに船とはこのことか!
相手もいち早くアレリオンを見つけたみたいで、仲間内でなにやら話をしている。アレリオンはその声に確かに聞き覚えがあった。三日前にバーで一緒になった男たちだ。あの時はゼパム投げのカモにしたが、こういう状況で遭遇してみると、実際にかなりの実力者揃いであるように見え、なんとも頼もしく思えた。
「あ、あ! どうか助けてください! オレです、アレリオンです! 東の劇場跡で化け物に襲われたんです!」
アレリオンは恥を忍んで何とか助けを求めた。確かに先日は無礼を働いた。詫びの一つや二つは入れねばなるまい。それでも助けてもらえるのであれば、出来る限りのことはしよう。だがアレリオンのそんな甘い希望は一瞬にして打ち砕かれた。
「ああ、そうだろうな。だから我々はここで待っていたのだよ。ここで待っていればいずれお前が逃げてくると思っていた」
男が歪んだ笑みを浮かべる。その表情を見てアレリオンは血の気が引いていった。とても危険な匂いがする。オレが逃げてくる、だと? こいつらはオレが襲われたことを知っていたというのか!?
――――《ウォーバウンド》。その時マナドゥアの残した言葉が頭によぎった。奴らは群集の中に紛れ込む、と。
「お前があの女から銀のコインを受け取っているところはしっかりと見ていたぞ。お前はそれがなんだか知っているのか? それを古銭商にでも売り払えば、我々四人は数年遊んで暮らせる」
男の一人が静かに剣を鞘から抜き放つと、それを合図に他の三人も武器を抜いた。
「先に言っておくが命乞いなら無駄だ。私たちが聞きたいのは命乞いではなくて、お前の甘美な断末魔なのだからな。くくく、人殺しはゼパム投げよりも楽しい。お前にも最後にその楽しさを存分に教えてやろう」
この連中がマナドゥアの言う《ウォーバウンド》なのかどうかは分からない。だがアレリオンの考えが正しければ、冒険者に扮した殺人者集団であることには間違いなかった。先日男が酒場で見せびらかしていた財宝を思い出した。今思えばあれも他の冒険者たちを殺害して強奪したものだったのかも知れない。オレもこいつらの餌食になるのか? 冗談じゃない! 生きてやる。オレはこんなところで死ぬために冒険の旅に出たんじゃない!
男たちが相当手練れのものであることは確かだった。しかし少なくとも人間ではある。妙なことにアレリオンはそのことに一種の安堵を感じていた。先ほどの黒騎士は存在そのものが恐怖だった。今はそれとは別の、とはいっても死に直面した恐怖を少なからず感じてはいるものの、まだ冷静さまでは失われていない。アレリオンは男の言葉を聞き流して、必死に隙を探ることが出来た。
「まずは手だ。ゼパムを投げられなければ、彼岸で
男は芝居がかった台詞を言い終えると、ついに斬りかかってきた。宣言通り明確にアレリオンの右手を狙ってくる。しかしそれが逆にアレリオンには助けとなった。二度目の男の突きは電光石火ともいえる鋭い一撃だったが、動きが読めたためかろうじて避けることが出来た。
「おい、今のを見たか!? 小僧はあれをかわしたぞ!」
他の男たちは戦いの様子を見ながらやたらと愉快そうに笑っている。ありがたいことに、どうやら高みの見物を決め込んでいるようで、今のところは手を貸すつもりは無いらしい。アレリオンは崩れた姿勢をすぐに直して、隠し持っている短刀にそっと手を伸ばした。そして他の三人から距離をとって彼らの間合いから外れると、アレリオンは目の前の男の動きに集中した。
だがその時、東のほうから突風が吹いたかと思うと、上空から小さな石が降ってきた。その石はアレリオンから9メートルほど離れた波打ち際近くの砂の上にぽとりと落ちた。その場にいた人間が一瞬その石に注意を奪われる。次の瞬間、巨大な白い影が男の一人に襲い掛かった。不意をつかれた男はたじろいで後ろに下がる。無数の白い羽根が当たり一面に飛び散っていた。
「ええい。何だ、今のは!? くそっ、叩き落とせ!」
あれは、マナドゥアが連れていた白いオウギワシだ! だとすれば、先ほどの石もただの石ではないのかもしれない。そう考えるとアレリオンはそれが何であるかを瞬間的に察知した。
―――転移石! それはアレリオンの願望でもあった。だが今はそれにすがるしかない。マナドゥアは確か荷物の中にいくつかルーン文字の刻まれた転移石らしきものを持ち歩いていた。それを《グリード》に持たせてオレの元に届けさせたのではないか!? だとすればマナドゥアも無事だろうか? いや、《グリード》に石を運ばせたということは無事でもないのかもしれない。とにかく今はあの石をこの手にしなければ! もたもたしていたら波にさらわれてしまいかねない。だが、もしあの石が転移石では無かったら? そんなこと考えたくは無いが、そのときはオレの運はそこまでということだ。アレリオンは意を決すると一目散に走った。
「石だ! 小僧が石を拾うぞ!」
男たちは《グリード》の襲撃に手こずっていたが、その声に反応した男の一人が、薄手の
背を向けていたアレリオンには、たとえ後ろから迫る何かに感づいていたとしても、全てを避けきることは不可能だった。アレリオンは頭と胸だけは守ろうと咄嗟に身を屈めて石に飛びついた。そして肩が外れようかというほど目一杯に右腕を伸ばした。急所さえ外せば!
ナイフがアレリオンを捕らえる。一本は左の肩に深々と突き刺さった。さらに一本が左の太股の肉をえぐり取っていった。もう一本は帽子をかすめてアレリオンの頭上を越えていった。まさに間一髪だった。ナイフを投げた男は悔しそうに「チッ」と大きく舌打ちした。
波打ち際に倒れこんだアレリオンの手の中には、《グリード》の落とした石がしっかりと握られていた。残された力で、石の形状を確認するかのように親指で表面をなぞってみた。ルーンが刻まれている。どこに通じているかはわからないが、間違いなく転移石だ。アレリオンは
左肩と左の太股に生暖かい感触があり、波が打ち寄せてアレリオンの身体を濡らす度に激しい激痛が走った。そして引いていく波はまるで赤い絵の具を溶かしたように真っ赤な色に染まっていた。
To be continued...
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます