第9話 淑女のPerfume
「レ、レディ・サイレン……! 一体いつからいらっしゃったんです?」
酒場の主人は呆気に取られていた。どうやらそのコインを投じたのはレディ・サイレンと呼ばれた、先ほどまで部屋の隅で一人カードを並べていた黒いドレスの女性らしかった。今までゼパム投げに夢中で気付かなかったが、目を合わせるどころかまともに顔を向けることすら出来ないほど美しい女性だ。長く艶やかな曲のないストレートのエーボンダークの黒髪に、宝石のように鮮やかなジェイドグリーンの瞳をしている。はじめは占い師の女かと思っていたが、黒のドレスには豪華な刺繍が施されていて思っていたよりも派手だった。確かに貴婦人という形容がよく似合う。
「どうやら勉強をさせられたのはお前達のほうだったようですね」
部屋の隅から一部始終を見ていたのであろうサイレンは薄っすらと笑みを浮かべて愉快そうにそう言い放った。サイレンはそれまでいた席から離れると、まるで他の男たちなどその場には存在していないかのように、まっすぐにアレリオンのところへやってきた。
「はじめまして。
「は、はじめまして、レディ・サイレン。オレはアレリオンです」
若い青年の口から自分に向けられた『レディ』という言葉を聞くと、サイレンは満足そうに目を細めてニコリと笑って見せた。まんざらでもない、といった感じだったが、サイレンは「レディは結構です。ただサイレンと呼んでください」と静かに言った。そして手でアレリオンに椅子に腰掛けるよう促す。アレリオンは男たちから金を巻き上げることに成功した以上、もうこの場には長居はしたくなかった。それに女、とりわけレディ・サイレンのように美しい女性とは、一緒にいるだけで息苦しさを感じる。しかしサイレンに無言で案内されると、まるで
「ゼパム投げの歴史はご存知?」
サイレンは足を組み終えると唐突に聞いてきた。
「い、いえ。あまり詳しくは……」
「ゼパム投げは元々人間の冒険者が仲間内で分配しきれない硬貨を賭けて争ったのが始まりなのだそうです。きっと一攫千金を手にした冒険者が、テーブルから溢れて床に零れ落ちたゼパムを見て、この競技を思いついたのかも知れませんね。それからというものゼパム投げは冒険者の間で大流行し、今では街の誰もが知っているほど広く大衆に浸透したゲームとなりました。ですが、ファルドレッド・サン=エセルビウスもミエリン・バルドゥサもレマリア・エル=ドゥリン・ベムゾディアも、あなたほど上手にはゼパムを投げることは出来ませんでしたよ」
サイレンはニコニコと嬉しそうな笑みを浮かべていた。そこで一旦言葉を止めて立ち上がると、何かを思いついたのか自分で弾き飛ばして床に散らばっていたコインを集めだした。アレリオンもすぐに立ち上がって彼女を手伝おうとしたが、サイレンから先ほどのように言葉には出さず、手の仕草だけで「結構です」という合図を送られると、持ち上げかけた腰を再び同じ椅子の上に下ろすしかなかった。
床からコインを何枚か拾い上げたサイレンは、それを左の手の平にきれいに並べて乗せた。そして間髪入れずに一度にそれらを全て放り投げた。
「よく見ていてください」
コインは空中を舞いながら八方に散らばり、一斉に空いたテーブルの上に落下した。アレリオンの
う、嘘だろ!? アレリオンは度肝を抜かれた。ゼパム投げならば誰にも負けないと思っていた。最初にサイレンが見せた技も、どのようにして投げたのか想像はつく。練習すれば自分でもどうにかやれそうだ。しかしこんな技はあり得ない! 人生をかけて
「今回は先ほどとは違って魔法の力を借りました。もちろんゼパム投げの練習でもありますけれど。これは自分のコンセントレーションを高め魔力を二十五枚のコインに均一に付与する練習でもあるのです。水滴が水面に落ちる瞬間をイメージしてください。水滴がまるで水面から生えた宝冠のように均一に跳ねるのです。それと同じことです。ゼパム投げの
サイレンはそう言って首から提げたネックレスを手にとって見せた。鎖の先には女神オーロリアらしき女性と貴族のレリーフが施された銀色の硬貨が繋がれていた。
「これはかつての州都ファーレルで鋳造された硬貨です。時のバルシエル公ブロイアン陛下の即位二十周年を記念して二千枚だけ作られました。しかしそのほとんどがファーレルと共に失われてしまいました。今となってはとても希少価値の高いものです。わたくしは幼少の頃、父からもらったこのコインを使ってマナを操る訓練をしました。もちろん、ゼパム投げの練習も兼ねてですけれど。子供の頃鍛錬に使っていた九枚の硬貨のうちの一枚を、私自身も今もこうして肌身離さず持っています。初心を忘れないためです。残りはかつての
アレリオンはサイレンの口から自分の名前が呼ばれただけで顔が真っ赤になった。だがそれだけでは済まされなかった。サイレンは音を立てずにそっと立ち上がるとゆっくりとアレリオンの方へ寄ってきたのだ。サイレンが近づくにつれて甘いほのかなカシスの香りとオークモスの香り漂ってきた。その香りはアレリオンの全身を強張らせる。
――――そういえば昨日は風呂にも入れなかった。もしかしたらオレは臭っているんじゃないか? レディ・サイレンはオレの臭いを嗅いで嫌な顔はしないだろうか。ああ、ちくしょう。なんだってこんなことに!
サイレンはどこからか自分が首から提げているメダリオンと同じものを取り出すと、アレリオンの首に掛けてやった。サイレンにはこの青年をからかうつもりは毛頭無かったが、白く細長い指がアレリオンの首に触れると、彼が極度に緊張しているのがすぐに分かった。まるで電気が身体の内部を走ったかのようにビクッと震えたからだ。サイレンは少し腰を屈めて、小振りで整った口元をアレリオンの耳に寄せた。そして少しだけ茶目っ気を含めて静かに言った。
「最後の一枚をあなたに差し上げます。あなたならば最初に
そんな、受け取れません! アレリオンはすぐさまそう言ってメダルを返すつもりだったが、緊張のあまり言葉にならなかった。耳元にサイレンの吐息の感覚が残ったままだ。一度深呼吸をして自分を落ち着かせる必要があった。
「レディ・サイレン。お気持ちはとてもありがたいですが、こんな高価なものを受け取ることは出来ません!」
アレリオンはこれ以上じっとしていることが出来ず、立ち上がってそう言い直した。言葉を声に出すのに多少勢いをつけて口調を強めなくてはならなかった。そうでなければ母親にきつく叱られて、今にも泣き出しそうな小さな男の子のように、情けない声を上げてしまっていただろう。だが、自分が大声を上げてレディ・サイレンを拒絶した、そのようには見られたくはなかった。返事が無いのでアレリオンは心配になってそっと振り向いた。しかしサイレンの影は跡形も無く、そこにはただ朝露に濡れる森の木々が発するような、ほのかな心地よい香りだけが漂っていた。
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