第十四話 ハンネス・オルフェダリア

「 ─── なるほどなぁ……。おめえスゲエ目に合ってたんだなぁアルよぉ……。うぅ、へぐぅ」


 ランヴァルドは泣き上戸だった。

 エルフの人らが酒に弱いのは知っていたけど、彼の場合はキャラ的にイケんのかと思ったらそうじゃあなかった。

 ハンネスの手記を途中まで読み上げ、色々と話している内にまた時間が遅くなった辺りで家政婦長ミルザが酒を振る舞い、今に至る。


「うっふぁ〜っ、スタちゃんいいにほい〜♡」


「ちょ……テレーズさん……くすぐったいw」


 気の毒になる程に真っ赤になったテレーズが、スタルジャの首元に鼻を擦り付けて、フガフガしている。

 テレーズは酒乱だった。


「しっかし、同じ適合者でもえらい違いなんだな……。

ハンネスはよ、最初っからバケモンみてえな強さだったぜ? いや、アルも相当にバケモンだったとは思うが、加護受けてからの変化に差があり過ぎんだろ」


「ハンネスは最初から普通に契約出来たんだもんなぁ。俺は魔王の性質だったり、色々あってまだ完全な契約じゃないんだよ」


 向こうではスタルジャに絡みつくテレーズを引っぺがそうとするソフィアと、ロジオンを膝で寝かせたまま、酔ったヒルデの恋バナを聞かされている姉さん。

 ランヴァルドは真っ赤な顔でふうと溜息をついて、腕組みをした。


「あいつは最初、剣の持ち方すら知らなくてな。王室から呼び出された時、最初に頼まれたのは『剣を教えてやれ』だったんだぜ? せめて民衆の前で形になるようにってな」


「あー、そうなるよなぁ……」


「で、最初に素質見ようとしたらよ……

─── 俺、負けちった☆」


「……⁉︎ ランヴァルドは八極流開祖だったんだよな⁉︎」


「それをいわねぇでくれ……うぅっ」


 かなりの接戦ではあったらしい。

 ただ、ハンネスに与えられた加護は人智を遥かに超えたレベルで、剣の技量の差は、その強化された身体能力だけででも埋められていたそうだ。


「取り敢えず、剣の型は教えてな。それからすぐにお仕事だ。最初は『盗賊団を討伐』だの『魔物を討伐』だの、人里に近い場所での指令が続いてた」


「……民間への周知か」


「ああ、いくつかこなした辺りで、名乗ってもねえのに『勇者ハンネス様だ!』みてーなのが増えてな。さくらも混じってたんだろうけどよ、えれえ興奮で歓迎されたぜ。

で、段々と指令内容も難易度を増した頃に、人員が増やされたんだ」


 そこで追加されたメンバーが、冒険家テレーズ・マルティネスと、回復系魔術の得意なカルラ・オストランドだった。


「カルラの生まれは手記にあった通りだ。性格はとにかく明るくて、さっぱりしてたな。

まだあるのか知らねえが、有名な神学院の魔術科の主席だったらしくてよ、回復系魔術は結構なモンだったぜ」


「……今伝わってる勇者伝だと、カルラは人界の裏切り者にされてるよ」


「はあっ⁉︎ あいつ結構一般人助けてたぞ? それこそハンネスを知らねえ奴らには、聖女さまみてえな扱い受けてたんだ!」


「代わりに『聖女シルヴィア』がその役にされてる」


「シル……ヴィア……シルヴィア…………

─── ああ、なんか急に同行させられたギャル居たけど……アレがか⁉︎」


 奇跡の聖女もランヴァルドに取っては、それくらい印象の薄い人物だったらしい。

 現代の勇者伝から、シルヴィア・ラウロールの描かれた人となりをさらっと聞かせると、彼は頭を抱えた。


「やる気ねえし、ギャアギャアうるせえから、いくつめかの街の宿に置いてったぜ? うわぁ、教皇の孫娘だったのかよ……!」


「それすら知らないくらいの関わりだったのか……」


「正直……顔もあんまし憶えてねえ」


「…………」


 もう既に勇者伝への憧れなんか無いけども、完全に一国の作り上げた、単なるプロパガンダだったんだなぁと改めて思う。

 ハンネスが帝国に処刑されそうになったのは、本当に用済みになったからだろう。

 もし、途中でハンネスが倒れても、シレっと他の誰かを勇者に仕立て上げていたのかも知れない。


「まあ、そのなんとかロールってのはもういいや。

とにかくだ、ハンネス自身も剣の使い方だの、戦いの基本だのは流石に憶えていったぜ。それだけ多く戦わされたからな。

……ただなんて言うのかねえ、虚ろなんだよなぁ」


「虚ろ?」


「あいつは普段はオドオドして、人との会話もまともに出来ねえ奴だった。だが、目標を与えられりゃあ、おっそろしいくらいに強えし迷いがねえんだ。

それでもなぁ……

─── 自分のためじゃねえって言うのかね?

アルザス王に褒められるためって言えば近いのかも知んねえが……うーん」


 言いたい事はわかる。

 『自己評価が低い』んだろう。

 勇者として時の人になっても、彼はそれが変えられずに、他人から認められる事でしか自己実現が無かったようだ。

 それは何千何万という民衆からでは無く、自分を採点出来るであろう、力のある存在に依存していたのではないだろうか。


「 ─── それとな、アイツはどーにも『痛み』に鈍いんだよ」


「痛み? 痛覚の事か? それとも心の?」


「両方だ。心身の痛覚が異様に鈍い。

そのせいかねぇ、普段はいじいじしてんだけど目標が定まって闘うとなると、自分もそうだが相手の痛みや苦しみに対してなんの遠慮もねえんだ。

巷では勇者だの英雄だの、正義の味方みたいに持ち上げられててもな、近くにいる俺達にゃあ魔物みてえにも見えてたぜ……」


「…………確かに『勇者』ていう先入観が無く、近くでその人となりを知っていたら、怪物にしか見えないかも知れないな」


 自分で痛みを知らない者は、他者が感じる痛みだって、知らないのかも知れない。


 調律者としての加護『オルネアの聖騎士』は、絶大な力を得られる。

 それはまだ完全で無い状態の俺だって、ひしひしと感じているくらいだ。

 だが、その強大な力だって、使用目的がズレていたら、単なる異常戦力。

 使い手の人間性も大きく物を言うだろう。


 手記にあった生い立ちから考えると、本当に痛覚がないんじゃなくて、多分『痛み』に対する概念が吹っ飛んじゃってるんじゃないだろうかと、そんな風にも思えた。

 父親の存在を必要以上に大きく捉えているのに、でもそれをおかしいとは思っていない様子だったし。

 父親の敷いた『ルール』が、命と同じくらい重たかったのだろうか……?


 マルコⅡ世に従っていたのも、父親を守る為なのか、それとも父親に迷惑を掛けない為なのか。

 カルラを守る為だと言う線もあるのかな?


「で、何年か世界を回って、ハンネスも剣士として形になって来た頃、王から勅命だ。

─── 魔王を倒せってよ」


「……無謀としか思えないな。本気だったのか?」


 七魔侯爵セィパルネから聞いた話によれば、かつて二千年前の魔王エリゴールは、人界の最強軍事国家を一夜にして滅ぼしている。

 いくらハンネスが完全なる契約者だったとしても敵うかどうか、いや、それどころか本拠地の魔界へと、わずか五人で挑ませようとしていたわけだ。

 圧倒的強者である魔族の国家に、たったそれだけの戦力で……。


「さあ? 久々にアルザスに呼び戻されたと思ったらよ、グレアレス宮殿でセレモニー開かれてな。

そこで演説の後に『この勇者ハンネスが、人類と魔族との悠久の闘いを終わらせるであろう』とか言い出してよぉ」


 寝耳に水なんてもんじゃない。

 でも何の事前説明もないまま、いきなり国民の前で『こいつが魔王を倒す』とか王に言われたら、断るなんてまず無理だろうなぁ。

 なんも知らない民衆も、そりゃあノリノリだっただろうし。


「俺は親父から魔界の話は聞いてたからよ。何でアルザスがそんなに魔族にこだわんのか、さっぱり分からなかったぜ。テレーズは『世界からの徴収金がどーの』とか言ってたけどよ」


「……そこは今も変わらないんだな」


「そう言えば、ハンネスとカルラの関係はどうだったんですか?

あのクソおんな……リディとハンネスの関係は、決して良好には見えなかったんですがそちらは……」


 何故かテレーズをおんぶしたソフィアが、首筋をハアハアされながら問う。


「……ハンネスとカルラねえ。俺はあんましそーいうのに敏感じゃねえから、なんとも言えねえがな。

─── 少なくともカルラにその気は、あー全く無かったと思うぜ?」


「え? ハンネスは『すごく大事な人』みたいに言ってたけど……。片想いだったのか」


「ハンネスはまず自分から喋る奴じゃなかった。ぶつぶつオドオドしててな。独り言ばっかりだった。

カルラに促されれば喋るんだけどよ、それも幼馴染の呼吸ってより、介護してるみてえなとこあったぜ?」


「カルラとの依存関係……ですか。クソおんな……リディとは共依存ぽいですけどね」


 共依存。

 依存されている側も、それを切る事が出来ず、依存されている状態に依存する。

 問題児の母親がぶっ壊れるやつだな。

 ……言い得て妙だ。


 カルラとハンネスの関係も、運命を分かち合うにしては微妙だな。

 カルラのオストランド家は、ハンネスの家に代々使えた家だったようだが、カルラ自身はどうだったかは分からない。

 ハンネスの手記の内容だと、仲が良いような印象も受けたけど、違うのか……。


「……かるらぁ? あのコはねぇ、お家を出るつもりらったみたいよ〜?

だから、ハンネスには、とりあえず気ぃ使ってるだけだったみたい〜♪」


 テレーズが真っ赤な顔を上げて、ソフィアの背中から答えた。


「え? あ、でも娘なんだもんな。どちらにしろ結婚するとか、将来的にはオストランド家出る事にはなったか」


「そこらの話は、手記に書いてある。

─── ちと、気持ちのいい話じゃねえから、それは明日でいいだろアル?」


「ん? ああ、そうだな……」


 正直、ここまででもお腹いっぱいだ。

 みんな酒で乱れ始めたし、そろそろお開きかと思ったら、ロジオンが起き出してまた飲み出した。

 ランヴァルドはそれに触発されたのか、ロジオンの隣にどっかり座って、何やら話し込むと、わんわん泣いたりしていた。



「……ずっとこうしていられたらいいのにね」



 ロジオンへの膝枕から解放された姉さんが、俺の隣でポツリと言った。

 その言葉にグッと胸が苦しくなる。


 姉さん達に残された時間は、もう少ない……。


「あ、ごめんねアル。そういうつもりじゃないの。すごく楽しくて」


「うん。こうして話せる日が来ただけでも俺は……」


 やっぱりまだ姉さんと話すと、心が揺らいでしまう。

 鼻がつんとして、言葉を飲み込むと、姉さんは俺の前に立った。



「 ─── おかえり、アル」



 改めて言われた、家族の言葉。

 俺は気を抜いたら嗚咽おえつになってしまいそうな、喉に込み上げる圧迫感をグッと堪えて、微笑み返した。



「ただいま。姉さん ─── 」




 ※ ※ ※




─── 何が起きたのかさっぱりだ


 僕がと闘いに魔界へ行く?

 それも魔族と魔物の総大将の『魔王』を倒せだって?


 その時は混乱に混乱を重ねて、僕はもう何がなんだか分からなくなってしまったよ。

 だいたい僕を適合者に無理矢理仕立てた理由は、『人類を魔族から守る』とか言ってたけど、魔族なんか一度も見たことないんだよ?



『とにかく落ち着いて。……そうだ、日記でも書いてみたらいいんじゃない?

毎日の事じゃなくて、幼い頃からの思い浮かぶ事とかを少しずつ』



 カルラがそう言ったから、こうして手記を書き始めた。

 最初はこんな事してみたって、何にもならないと思ったけど、中々どうして落ち着くものだね。

 カルラは魔術学校で、瞑想を深める為にこれをやって居たと言うのだから正しいのだろう。


 思い返してみれば、僕はちゃんと間違えないように生きて来たんだと、読み返してみたらそう分かって安心した。




 ※ 




 今日僕は人生で初めて、自分で考えて正しい事をした。

 父様に自分の意見を話したのは、生まれて初めての事だったんだ。

 今でも胸がドキドキしたままだ!


 王都で魔界行きを押し付けられてから数日。

 父様に呼び出されて久しぶりに帰った。


『でかした! これで我がオルフェダリア家は、安泰だぞハンネス!』


 父様は上機嫌だった。

 ずいぶんと周りから褒め称えられたらしい。

 兄様まで優しかったのは、すごく驚いた。


 僕の名前を珍しくたくさん呼んでくれて、途中何度も心が離れて、自分が自分じゃ無いように感じてしまったくらいだ。

 ……でも、いつになく饒舌な父様は、急にバカな事を言い出したんだよ。


『これも朗報だぞ! 何とな、何と……

あのボトルゴード家から、お前に次女を引き合わせたいとの申し出があったのだ!』


 ボトルゴード家は、確かアルザス王家の内、現王様の血筋アスティローズ家に使える、高位貴族だ。

 古くから続く名門のボトルゴード家が、僕と繋がりを持ちたいと、政略結婚を持ち掛けてきたんだよ。


 でも僕の将来は決まってるよね。


『父様、それは残念です……ね。

だだだ、だって……僕は……カルラと……』


『カルラ? ああ、オストランドの小娘か。今はアレと旅をしているのだったな。

残念? 何を言うのだハンネス。カルラはオストランド家には戻らんし、戻ったとしても結婚するのはエル・ラト司教か、アルザス中央部貴族のどれかだ。

─── お前はこのオルフェダリアの為に、ボトルゴード家と血の繋がりを作る、そうでなくては何の為に生まれて来たのか分からん』


 父様はそう言って笑っていた。

 後で分かった事だけど、僕はこの時、生まれて初めて『腑が煮えくり返る』という感情を知った。


『父様は間違ってる! 僕はカルラとずっと一緒にいて、ずっと……!』


『バカを言うな。オストランドに娘はアレだけだ。女子を政略に使わぬ貴族がどこにあるか。

お前もようやく人間らしくなったものだな! この私に意見するなど、考えられなかった事だ』


 カルラが僕以外と結婚?

 僕はその時初めて、自分がカルラとずっと一緒にいるのが当たり前な事で、でも結婚とか将来をどうするかを考えていなかった事に気がついた。

 それがまた、僕の内臓の奥深くに、くつくつとした煮えたぎる何かを生み出して、下半身に滾るむず痒い膨張をもたらしていたよ。


 父様のわらい声がぐるぐると頭の周りにまとわりついた。

 僕の視界はグニャリと歪みながら、目元を赤らめて大口を開ける父様の顔に、埋め尽くされていた。



『 ─── だが、お前は私の言う事を聞いて居れば良い……。お前の正解は、この世に私しか存在しないのだ』



 父様は間違えた。

 世界にあるルールを、目先の欲で見誤ったんだ。


 僕とカルラがずっと一緒にいて、父様はそれを喜び、ずっと正しい事を示してくれるのが世界のルール。

 そんな簡単な事を間違えるなんて、いくらなんでも許せないよね。


 どうすれば父様が正しい父様に戻るのか。

 父様の嗤い声を必死に振り払うように、僕は頭を掻きむしって考えたよ。


『……あ、そうか。父様は正しくて、僕はずっと言う通りにしていればいいんだもんね!』


『その通りだ。それ以外に何があると……』


『ずっと正しい父様でいるのは、そりゃあ難しいよね! なぁんだ、こんな簡単な事だったんじゃないか♪』


『何を言って……お前……』


 父様の言葉の続きは、コポコポ音がするだけで、何を言いたいのか分からなかった。

 でも、これで良いんだよ。



─── これで永遠に父様は間違えない



 僕の中には父様のルールがたくさんあるからね、年老いてそれらを間違えちゃう父様なんて、僕の世界のルールが歪んでしまうじゃない?

 もう父様のルールは、僕にとっては世界そのものなんだよ。


『お疲れ様、父様。これでもう、僕は揺るがない人生を進めるんだね』


 ヌルヌルと滑る父様の胸骨の内側に、確かな生命を主張する、ブルッブルッと震える熱い塊があった。

 それを握り締めて、一思いに潰す。


『……が……ぽ……ぶぶぶ……』


 もう声じゃなくて、ただ息が漏れて、音が出てるだけ。

 不思議だよね、生が終わる瞬間て、何故だか分かるんだよ。


 もの言う存在が、ただの肉に変わる。


 それだけなのに、何度見てもこの瞬間は、何か胸に迫るものがあるよね。

 そして、僕の胸を高揚させているのは、そんな父様の肉体の変化だけじゃない。


─── 父様は今、永遠に正しい僕だけの父様になったんだよ!


 そうして気がついたら、自分が大笑いしている事に気がついた。

 辺りは酷く血の臭いが充満していて、流石にゲップが出そうになった。


『ハンネス。ここは焼き尽くします。出ましょう』


 いつの間に来てたんだろうね、リディは服にたくさんの血を浴びて立っていた。

 見れば使用人達がみんな倒れてた。


 僕はうっかり者だよね。

 僕のしたことは正しくても、これを他の人がみたらうるさく騒ぎそうだ!

 確かにリディのやってる通りにしておかないと、面倒臭い事になってたかも知れない。


『ハンネス……あなたは何も……間違えては……いない……』


『うん!』


 生まれて初めてじゃないかな?

 あんなに胸を張って人に返事を出来たのは。

 その後、リディは屋敷を焼き尽くして、街の目撃者達の記憶を消してくれたらしい。

 今はオルフェダリア家とその周辺の家は、魔族に襲われたって事になってるんだって。


 なんでそんな周りくどい言い方にするのかな。


 でも、父様はもう永遠だ。

 後はカルラとずっと一緒に居られるようにすれば、僕はもう無敵だ!




 ※ ※ ※




「父親を……ッ! 殺したのかッ⁉︎」


 思わず大声を出していた。

 俺にとって父親とは、父オリアルであり、養父イングヴェイであり、ダグ爺であり、ガセ爺だ。

 その誰もが尊敬に値する存在だし、間違える事だって、それは父達を構成する深みだと思っている。

 あまりにも俺とかけ離れたハンネスの思想に、頭の中が掻き回されたようだった。


「狂ってる……としか言いようが無いわね。

何度かそんな事を感じた事はあったけど、これ程だったとは流石に……」


 テレーズの呻きに、皆がうつむいて考え込んでしまった。


 昨日から一夜明けて、姉さんやランヴァルド達の様子をローゼンが細かく調べ、昼を挟んでまたハンネスの手記を検めていた所だ。

 家政婦長ミルザが淹れてくれた紅茶は、とっくのとうに冷め切って、テーブルの上に並んでいる。

 スタルジャがそのカップに伸ばしかけた手を戻して、息苦しそうにつぶやく。


「最後の……リディが言った『間違えてはいない』って、ハンネスは絶対ズレて受け止めてるよね……?」


「そうでしょうね。私から見ても、あの二人は調律者と適合者の純粋な関係には思えませんでした。

─── 今の彼らの目標には、これ以上無いほどに、噛み合ったズレだとも言えますが……」


「「「…………」」」


 ショックで何も言えない所に、ソフィアの的確な鋭い指摘、もう唸るしか無い。

 と、良い意味で空気を読まない女神ソフィアは、更にテレーズに向けて口を開いた。


「ここに出て来たハンネスの政略結婚の相手『ボトルゴード家』とは、預言者ジョルジュの家名ですね?」


「アルザス貴族は皆、それぞれに花の名前を持つの。それらは分家する時には、新たな家名が与えられるのよ。同じ名字は重ならないように出来ている。血統の由緒を保つ為らしいけど、被る事はあり得ないわ。

─── おそらく、そのジョルジュの家名でしょうね」


「だとすれば……。ボトルゴード家は、今はもうこの世に存在しない家名です」


「え? ソフィなんか知ってるのか?」


「もし別の家名だったら話がややこしくなるので黙っていましたが、確か現アルザス帝国皇帝ハーリアが、後継争いの際に取り潰した相手、そこに使えて居たのがボトルゴード家でした。

─── ハーリア即位の際、真っ先に一族郎党が処刑されています」


「 ─── !」


 だとすると、ハーリアは政敵を単に皆殺しにする愚帝か、それとも何かを潰した賢帝か。

 ……何にしても情報がなさ過ぎる。


「な? あんまり気持ちの良いもんじゃ無かっただろ。人の頭ん中覗くってのは、あんまし良い趣味じゃねえのは確かだがよ。それにしたって、こんだけズレてっとな、こっちまでおかしくなっちまう」


 ランヴァルドはこの手記を持ったまま、三百年間封印され続け、なんとも言えない気持ちになったらしい。

 内容もそうだけど、これだけの狂気が詰まったものが、自分と共にあった事が受け入れ難いんだそうだ。


「 ─── ハンネスの実家がどうなったか、ランヴァルド、あなたは知っていたの?」


「いいや、なんも聞いてねぇ。テレーズが知らねえってんなら、誰にも話して無かったんじゃねえか?」


 ハンネスの生家であるオルフェダリア家は、聖魔大戦中に没落してしまったとされている。

 いくつか説はあったが、魔族に襲われ、ハンネス不在の最中に壊滅したと言うのが有名だった。

 その他には『裏切り者カルラ』のオストランド一族が処刑され、その責任を取って家柄を捨てたともされている。


 ……手記の内容が確かならば、ハンネスの手によって当主は殺され、おそらくその時にその兄もリディに始末されたのだろう。

 そして、隠蔽のためにハンネスの生まれた街は取り潰された。


 後世に伝えられているオルフェダリア家の末路を聞いて、ランヴァルドとテレーズはアルザスの情報操作に舌を巻いていた。


「……ハンネスさんと初めてお会いした時には、もう親殺しをしていたのですね……」


「…………」


 姉さんの顔色が悪い。

 ロジオンが心配そうにしている。

 姉さんにとっては、ハンネスは一度は憧れた存在で、祖父の仇であり、父さんと母さんを刃に掛けた敵でもある。


「ごめんなさい……。頭を切り替えなくちゃいけないのに、なんだか楽しかった頃のハンネスさんが、その裏で……と思うと。もう何をどこまで信じればいいのか……」


「…………信じればいい」


 ポツリと呟いたロジオンの言葉に、思わず驚いてしまった。

 彼にとってもハンネスとは『魔王さん一家』の仇で、強い憎しみを抱いていたはずだ。


「楽しかったのなら、それは糧になる思い出だ。それは取り戻せるものでは無くても、心の片隅に置いて置けば、生きる力になる。

……断罪はする、それだけだ」


「……そう……だね。

罪は償ってもらわなきゃ……

ハンネスさんのためにもならないよね……」

 

 ロジオンはクヌルギアス家と連絡が途絶えた三百年間、爺さんの願いの通りに魔界縁の者達を保護しようとして来た。

 その彼の心を照らして来たのは、魔界で過ごした時間だったのだろう。


 そして、姉さんにとっても、楽しい思い出が支えになったのは、同じだったはずだ。

 ハンネスへの憎悪はあっても、それが姉さんに取って拠り所となる記憶なら……。

 ただ、下手に口にするのははばかられた。

 ……姉さんも深く傷を負っているのだから。


「姫さんもお疲れだ、今日はこれくらいにしておくか?」


 ランヴァルドがそう言って手記を閉じる。


「いいえ、ランヴァルドさん。続けて下さい。

私たちは出来る限り、先の事を考えるべきだから」


 姉さんの言葉に、ランヴァルドとテレーズは目を見合わせ、くすっと笑った。


「相変わらず強えなぁ姫さんは。よし、んじゃあと一息だ。

ここからは魔界行きの話だが、多分オリアル殿下から聞いた以上の、大した事は書かれてねえだろ。

問題はだな……」


 そう言って再び手記を数ページ進めて、ランヴァルドはスゥッと鼻から息を吸い込んだ。



「 ─── カルラが捕らえられてから……だな」


 いよいよ手記の内容は、あの魔王城での悲劇の裏側へと迫る。

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