第六話 ただいま
─── ダラングスグル共和国ツェツァルサガト
アケル『聖教戦争』終結以後、周辺諸国の国交中枢都市になりつつある街、その中でも最も大きな建物の正式名称は、まだ決まっていない。
だがここに集まる人々は、全ての窓口となっているこの建物を『南諸国連合』と呼んでいた。
この世界マールダーで最も力を持つ『中央諸国連合』と対を成す存在になると、誰もがそう予感していたのだ。
─── その建物の前に今、ひとりの男が立っている
通りすがりの諸国の人々、ギルド関係者、軍人、獣人達はその姿に足を止めて、彼を眺めて集まり出している。
黒髪に紅い瞳、上背は一般的な者よりも頭ひとつ分はありそうなその姿は、ただでさえ目立つ。
……だがそれが全てではない。
この街に南部の力を集め、中央諸国に比肩するだけの、新たな勢力としてバランスを取るべく声を発した男。
そして、類い稀な戦術、魔術の叡智で、南部諸国を牽引する英雄 ─── 。
アルフォンス・ゴールマインが、南諸国連合の正門前に立っていた。
『会長』や『ルーキー』など囁かれる呼び名の中には『悪魔騎士』や『ミナミの帝王』、『下町の破壊神』など、今回の聖教戦争で新たに増えたものも含まれている。
……と、アルフォンスは胸いっぱいに息を吸い込み、建物に向かって突如吠えた。
「 ─── ただいまァッ‼︎」
両肘を後ろに引いて絞り出した大声に、集まっていた人々はビクリと縮み上がる。
そんな事はお構い無しに、アルフォンスは再び胸を膨らませて、反り返るように叫んだ。
「 ─── たッだいまああぁぁーッ‼︎」
大男が街中で突然叫ぶなど、眉をひそめるちょっとした事案ではあるが、人々はその姿に目を奪われた。
白いシャツに夕陽を浴び、黒髪の先を赤く輝かせながら、爽快極まる気分を全身で表す男の姿から、歓喜と高揚感が伝播する ─── 。
─── パタン……ッ!
三度目の『ただいま』が終わる直前、建物の上の階の部屋の窓が、勢い良く閉じられる音がした。
それから間も無く、正面玄関のドアがバカンと押し開かれて、白金の長い髪を揺らして走る女性がアルフォンスの胸に飛び込んだ ───
「おかえりなさい……!
おかえり、アルくん ─── ‼︎」
「……ただいまソフィ‼︎ ただいま!」
他に言葉も無く、ソフィアはアルフォンスの胸に頰を埋め、居ても立っても居られない様子で顔をグリグリと押し付けながら、何度も何度も『おかえり』と繰り返した。
アルフォンスも『ただいま』を繰り返し、ソフィアを強く抱き締める。
やがてふたりの勢いが治った頃、アルフォンスは囁くように呟いた。
「もう、全部終わった。俺は人界でも魔界でも『アル』なんだ ─── 」
「…………はい。私の……大切な人も『アル』ですよ」
そう言って再び抱き締め合った後、アルフォンスはソフィアの膝の後ろに腕を通し、抱きかかえると建物に向かって歩き出す。
見守っていた人々は、何が起きたのかさっぱり分からずとも、気がつけば拍手で見送っていた。
そうして『南の英雄は帰宅も豪快だな』と、己も晴れやかな気持ちで巣へと戻るのだった。
※
自室までソフィアをお姫様抱っこで連れて行き扉を閉めても、彼女は俺の首から腕を離さず、そのまま口づけを交わした。
今までの時間を取り戻すように、想いを絡ませたその余韻をひいて、彼女と見つめ合う。
ベッドに座らせて自分もその隣に座り、まずは彼女の手を取って謝罪した。
「今までごめん! アルファードとしっかり向き合う為に、退路を全て断ってでも、彼と見つめ合いたかったんだ……。
─── それがソフィとの契約に、必要だと分かったから」
「お話は出来たんですか……?」
「ああ、おかげで全部聞いて、記憶も力も全て取り戻せたよ。
……君との
ソフィアは少し恥ずかしそうに、頰を染めて
長いまつ毛が、薄っすらと涙で濡れて光っている。
「俺と君との契約が上手く行かなかったのは、俺のせいかも知れない。
……俺の中には魔界の適合者としての俺と、人界の適合者としての俺が、別れもしなければ、ひとつにもならずに存在してたから」
そして、俺の中には三百年分の憎悪が渦巻いて、人界どころでも魔界どころでもない、切迫した
それ程の強大な負のエネルギーがあれば、神との契約くらい、歪ませられたかも知れない。
「……だから今なら……!」
そう見解を告げると、ソフィアは小さく首をふった。
「それは私も同じです ─── 」
彼女はリディとの闘いの中で気がついた事があったという。
『私はまだ、オルネアの化身として中途半端だったんです』と、苦笑しながら俺の目を見つめた。
「私は……私は世界なんかより、あなたが大事。あなたさえいれば、私は世界なんて要らない……。
でも、それではただの
そう言って、少し困ったように眉を下げ、涙に濡れた目を細めて微笑む。
「あなたを支える全ての人、あなたが気にかける全ての人を救わなければ、あなたを支えることにはならないんだよね。そして……
─── 私は人界の調律神オルネアなの」
彼女の口調はいつもの敬語では無くなっていた。
その声に含まれる言霊と神気の高さは、彼女が彼女自身として語っているのだと、ハッキリ伝わってくる。
いつもと違う表情、いつもと違う口調、ただそれだけ。
それなのに新鮮な発見と、彼女が女神である前に、一人の女性なのだと改めて実感させられた。
「私は……この世界が好き。
それは……面倒な人も多いけど、実は面倒な中にもいい人がいると、最初に教えてくれたのはギルドで出会ったみんな。
……そしてあなたと再会して、もっと好きになってしまった。
あなたとあなたの居る、この世界を ─── 」
フフフと笑う彼女の顔は、慈愛に満ちた優しいものだけど、どこか寂しそうにも見えた。
「世界とあなたを比べたら、やっぱりあなたを選ぶ……。
でも、スタちゃんの『背中を支える』って言葉と、リディの使命感から……ね、たくさん教えられたの」
そして、彼女は俺の手を握ると、覚悟を決めたように、深く息を吸って宣言した。
「 ─── 私、人々へ愛を向ける神になる」
「ソフィア……」
凛とした表情、そのの頰には、涙が溢れて伝っている。
「……だって、あなたが一番大事だから。
あなたを支えるために、私は世界を救う……。
世界があなたを幸せにできるように、私は世界を調律する ─── !」
そうして俺の目を見つめた後、握った俺の手に視線を落として、フフフと小さく笑った。
「これでも……神の覚悟としては、煩悩に満ちてるよね……。でもね、感情を与えられた初めての化身としては、上出来かなぁって」
喋り方、仕草、そしてその本心。
彼女を未だかつて無く近くに感じられて、思わず抱き締めた ─── 。
「うん。凄い、凄いよ俺の女神さま……」
そうとしか言えなかったけど、彼女は『えへへ』と笑って、少し泣いた。
その背中をトントンとさすりながら、しばらくそうしてから、俺は彼女に小さな箱を渡した。
「 ─── これ……は?」
箱の中に収められていた指輪を取り出して、彼女はポツリと
この指輪はただの指輪じゃない。
ティフォから託された、幸せになるための、誓いの指輪なんだ。
そう教えると、ソフィアは泣きながら、でも微笑もうと必死に口元に力を入れて、噛み締めるように見つめていた。
しばらく泣いて、愛おしそうに指輪を見つめて、彼女はコクンとうなずく。
その指輪を受け取り、彼女の右手を差し出させて、ずっと前から決めていた言葉を告げた。
「俺の……『お嫁さん』になってよソフィ。
─── 永遠に一緒にいて欲しい」
あの日、彼女から求められた言葉を、その通りに返して、彼女を見つめた。
少し震えてる、涙が頰をひとつまたひとつと流れて、でも花が咲いたように笑って答えた。
「 ─── はい」
ソフィアの薬指に指輪をはめる。
そっと慎重に、彼女の一生をこれで共に歩む最初なのだと思うと、指が震えそうになった。
彼女はそれをただジッと、見逃さないようにして見つめていた。
─── 指輪がしっかりと収まった時、彼女は笑いながら泣いて、指輪の着いた手を眺めていた
抱き着いたり、指輪を眺めたり、俺の胸に頭を預けたり、忙しなく噛み締めてくれる姿に、どうしようもなく有り難くて、その姿が愛おしくなる。
「…………ソフィア、君が欲しい」
抱いた肩越しにそう告げる。
心の中では『イヤッ』って跳ね除けられたらどうしようかと、ビックビクだ……。
と、彼女は俺の腕を取って体を離す。
『そ、そそ、そうだよね……まだ早いよね……ははは』と、調子こいた自分にちょっと涙ぐんだ時、彼女は『おほん』と咳払いをした。
怒られるのかと、縮こまりかける。
ソフィアは真っ赤になりつつも、姿勢を正して座り直し、静かに……
─── 『はい……。もらって下さい、アルくん』と囁いた
※ ※ ※
ふと目を醒ますと、視線の先にある鎧戸の隙間から、青い光が見えた。
明方かと寝惚けた私の背中に、これ以上ない温もりが感じられて寝返りを打つ。
すうすうと眠る彼の横顔。
そっと胸板に手を乗せて見れば、この逞しい体にいつも守られ、そして昨夜は初めて彼に全てを任せたのだと思い出して胸が熱くなる。
─── こんな日が来るなんて思いもしなかった
初めてだった私は必死過ぎて、夢だったんじゃないかと思うくらい、舞い上がっちゃったから……なんだかふわふわ。
でも、こうして肌を重ねると少しずつ思い出して、私に残る痛みがなんなのか実感がふつふつと沸いて来る ─── 。
「……かわいいなぁ」
きっと彼が起きている時にそんなことを言ったら、困った顔をするんだろう。
男の人ならカッコいいって言われたいんだろうなぁ。
……でもかわいいんだから仕方ない。
大好きだからか、もう『なんでこんな人が存在するの』って、ちょっと頭おかしくなる。
「……あ〜ぁ、
彼との最初の出逢い。
私だけの思い出に抱きしめていこうって思ってたのになぁ。
ちょっと私の恥ずかしくて、情け無い思い出だから ─── 。
※
─── 十五年前
「…………目覚めなさい。そして、あなたの使命を探すのです…………」
ボヤンとした微睡みの中、私はこの世界で初めての自我を持った。
大きな本体の光、そこから流れ込む様々な記憶が、私に考える力と使命感を刻み込んでゆく。
「あなたはこれから、人界に転生し、人々の手に余り出した、世のうねりを正しにゆくのです。
─── ごめんなさいね。何をすべきか、いつすべきか、それをあなたに教える事は許されません。
その目で見、感じたままに成す事が、人と同じくして運命を背負う人界の調律者たる存在なのですから……」
「……はい」
「鉄の掟『天界は人界に触らず』は、絶対なのです。
あなたは私の化身。調律の神オルネアの現し身として、人界の運命を担う適合者を見つけ、その加護を与えなさい」
「……はい」
そこまでは、私の思考は使命のために生きることのみが全てだと、そう信じるというか、それしか無かったと思う。
代々の前任者たちの記憶もそうだったから。
「……地上は魂の修練の場。天界とは違い、様々な苦難が待ち受けています。
辛い思いもするでしょう、しかし、そうした生命の歩みを知る事も私たちの役目なのです」
「……はい」
「 ─── あなたは……そうですね『ソフィア』と名付けましょう。
ソフィア、オルネアの化身よ、行きな……
あら? ちょっとすみませんね、上司から念話が……」
本体の声が1オクターブ高くなって、あわあわしながら話しているのが聴こえて来た。
「はあっ⁉︎ ちょ、クソじょ……ラミリア様、今更なにをおっしゃりやがってんですか⁉︎
もう送り出すとこだったんですってば! はい、はい、はい……はあっ⁉︎
ちょっ、寝言は寝て言えって……あ、スンマセン言い過ぎました……チッ!」
「…………」
ラミリア様と言えば光の神、直属の上司である時の神エイラの更に上司。
そう記憶を掘り起こせば、すぐさま『ああ、なるほど、これがウザイと言うものか』と理解した。
そんな事を考えいたら、オルネアはこう言った。
「…………ソフィアちゃん、感情いる?」
「……はい」
「クソがね……うう゛んっ! あー、あー、あー、ラミリア様がね、次の化身には感情を持たせろって……いきなりはキツイよね、それでもやる?」
「……はい」
「そう─── じゃ、感情入れとくわ」
感情なんて特にいらないけど、別にどうだって良かった。
それに本体の上司の上司の命令なら、聞くしかないじゃない?
そう思った瞬間、私の胸の辺りにモヤモヤと黒いものが渦巻いた気がした。
これが感情なのかと気づいて間も無く、一気に私の中で暴れ出す。
「はぁ……クソ。ああ、ごめんね⁉︎ もう良くわかんねえから、行って来て! なんとかなるでしょ。
─── いってら、ばいちゃ☆」
私に生まれた感情が、最初に何かを投げかけたのはこの時。
『いや、責任もてよクソが』と、初めて悪態をつこうとした瞬間に床が抜けて、私は中指を立てたまま地上に落とされた……。
─── 何で人類救わなきゃいけないんですか?
いやいや、魂の修行の場なら、自分らで何とかすりゃ良いじゃないですか!
大体、今まで調律が必要になった原因のほとんどが、一部人類の欲がきっかけですよ?
謙虚に生きましょうよ謙虚に、他を蹴落として踏ん反りかえった結果だっての……。
……『感情』がガッシガシ仕事する。
歴代前任者たちの、怒りや悲しみ、疑問、そして適合者に恨まれたやるせない気持ちが膨れ上がっていた。
「あー、こりゃあ歴代の化身には、感情いらなかったはずですわぁ……」
そんなふうに
大地に広がる緑、遥か向こうに霞む海、この星の雄々しい活力が生み出した地形。
降り注ぐ太陽の光が、それらの息吹を現すように
─── 地上とは、なんて美しいのだろう
ここに広がる風景は、そのほとんどが生命の営みによって創られた、必然と偶然の歴史なのだと心が震えた。
前任者たちもこの風景を見て来たはずなのに、こうして胸を震わせたという記憶は無い。
喜怒哀楽、感情は膨大な記憶を鮮明に色付け、ひとつひとつが再インデックスされてゆく。
今はまだ、ただの光の塊に過ぎない私は、肉体を得た時、一体何を思うのだろう……。
肉体は足枷……脆く死の時限を抱えた苦の先に、得られる光が何なのか期待と不安が入れ混じる。
─── 心動かされた者に姿を合わせて、化身の肉体は創られる
こんなに人々に対してヤメタラァなのに、果たして私は、人類なんかに心動かされるのだろうか……?
そんなことにすら不安が湧いたり、期待が膨らんだり、景色に感動したり。
裏では前任者たちの記憶を、思い出しては一喜一憂していたりと、感情とはこんなにも忙しいものなの?
……いや、今さっき芽生えた感覚に、まだ馴染んでいないだけ。
しばらくの間は、誰とも会わないであろう森の中にでも降りて、ゆっくりしよう。
こんな不安定な状態じゃあ、どんな人に心動かされてしまうのか、分かりはしないもの。
森なら誰にも会わないだろうし……
─── ところがどっこい、森って賑やかなのですね♪
リスさんは卑怯なほど可愛いし、母グマの後を必死に追いかける子グマさんは残虐非道の可愛さだし、キツネさんは神の悪戯としか思えない可愛さ。
心惹かれまくりじゃあないですか!
目まぐるしく変わる私の姿、その度に『もうこれで良いんじゃないですかね』とうっとり。
ただ、神の化身だからか、どんな動物になっても私の毛は純白から白金一色で、ちょっと可愛さが半減してしまっているのが悲しい。
─── ガササ……ッ
そんな風に遊ん……感情が馴染むのを待っていた時、近くの茂みが揺れて、何かが近づいてくる気配を感じた。
「わあ〜、次はどんな動物さんで ─── ⁉︎」
「グルゥ……ウゴフッ、ゴフ……ッ」
確か『トロル』だったか、腕の長い二足歩行の猿のような低級な魔物が、鼻をクンクンと鳴らして現れた。
犬と猿の間のような顔、毛むくじゃらのその魔物の情報が、頭の中をよぎる。
─── 弱いけど、繁殖力は旺盛で、別種であっても
そう思って、いつでも逃げられる体勢に入っていた私の目は、ソレに気がついてしまった。
……ビンッビンじゃないですかッ!!
三十六計逃げるに如かず!
背後に『ウホォッ♪』みたいな、生理的に受け付けない声を聞きながら、私は森の中を一目散に逃げ出した。
もう光の体ではないせいか、飛ぶことが出来ず、自分の足で逃げるしかない。
ああ、なんて肉体とは面倒なものなのか!
ドスドスと二本の足をバタつかせ、長くて邪魔な二本の腕を振り ───
……鹿さんって、二足歩行でしたっけ?
─── 気がつけば私は、白い体毛に覆われたトロルとなっていた
はあっ⁉︎ 『心動かされた』って、動揺も含まれるんですか⁉︎
慌てふためいた私は、判断力が鈍っていたのでしょうね……。
『早く人に会わねば!』の一心で、そのまま人里まで降りてしまった ─── 。
「グルゥ……ヤッパリ……ヒトナド……。
スクウヒツヨウ……ナシ……デスヨ……」
散々な目に遭いました。
農具を持った村人たちに追いかけられ、再び逃げ込んだ森に、弓を持った人々が集まり……。
数日かけて逃げ惑った末に、人の入って来ない森深くまで至ったと安心すれば、今度は魔物たちに襲われる。
一度激しく動揺した私の体は、まだ不安定だというのに、トロルから一向に変化しようとはしなかった。
背中に受けた矢傷が痛む……。
不安定な体は、奇跡を起こせるほど神気を集められずに、回復すら出来ない。
血が失われたせいか、フラつく。
……こんな形で死んでしまったら、最低な化身ですよホント。
人を救うどころか、人を嫌って魔物になり、人に殺されるなんて……。
死んでたまるか!
そう強く気を保とうと、フラッとしかけた足を踏ん張ろうと……
─── バキバキバキバキ……!
突然私の体は天地が逆さになり、視界が真っ暗になった。
『落とし穴』
穴の底に叩きつけられて意識を失う寸前に、私は人の作った罠に落ちたのだと悟った。
─── チュン……チュンチュン、チチチ……
小鳥のさえずる声が聞こえた。
薄っすらと目を開けてみれば、朝日に輝く木漏れ日が、穴の底から見えている。
背中の傷はまだ痛むものの、寝たのが良かったのか、血は止まっているようだ。
穴の高さは私の背より少し深いか、これくらいなら頑張ればなんとかなるかも知れない。
そう思って立ち上がろうとしたら、左足の激痛で再び転んでしまった。
足の骨が折れている。
穴に落ちた時の姿勢が良くなかったのだろうか……。
「グゥ……マズイ……デス……ネ」
これが人の作った罠だというのは明白、つまりしばらくしたら、私は人に捕らえられてしまう。
どのみち、ここを何とか抜け出しても、この足ではろくに歩けない。
また魔物や魔獣に追いかけられたら、今度こそ終わり……。
それにしても、なぜこんな深い森に人の罠なんて……?
人々が追うのを諦めた、この魔物だらけの深い森に、一体誰がこんなものを作ったと言うのだろうか。
……ぶるっ。
血を失い過ぎたのだろう、不安と飢えと寒さに、意識が遠のくのに、気を失うこともなかった。
こんな終わり方、イヤだなぁ……。
何かが頰を伝っていた。
それが前任者たちの記憶にない、『涙』と言うものだと知って驚く。
……ああ、魔物の体も、涙を流すのですね。
その叙情的な感傷が、私にあきらめの心をもたらした。
─── パラ……パラパラ……
そうしてしばらく
重たい頭を上げて、穴の上を見た時、私はハッとした。
人間の……子供? いや、あの額に光っている紫の小さな角は……『魔族』⁉︎
なぜ、こんな所に魔族の子が?
幻覚でも見ているのかと、呆然としていたら、その子は紅い瞳の目をパチクリさせて、走り去ってしまった。
─── まずい……罠を見に来たと言うことは、大人を呼びに行かれたのかも
穴の上から槍で突かれるのでしょうか?
また弓でも使うのでしょうか?
それとも引っ張り出されて
激しく脈打つ鼓動に、喉の奥まで震えていた。
これで確実に殺されるんだ……私。
─── たたたたたっ
ほら、またさっきの子の足音が戻って来た。
きっとその親を連れて来たに違いない。
そして穴の淵にその子が立った。
「グルゥ……ギャオウ……ギャウッ‼︎」
でも、その子は眉ひとつ動かさずに、私を真っ直ぐに見下ろしている。
脇には大きな籠、もう片方の脇には長い棒のような物を引きずって来たのが分かった。
……槍かな? 私、子供に殺されちゃうんだ。
─── パラパラ……ズララァ……ガッ!
土を落としながら、上から何かが差し込まれた。
思わずつぶっていた目を、恐る恐る開くと、そこには竹で組まれた
子供はこっちをジッと見て、目が合うと小さくあごで『上がれ』とやったように見えた。
─── いやいや、いやいやいや、騙されんぞ⁉︎
こんな美味い話があるわけないじゃないですか!
上がった所をブッス〜ってやるんでしょ⁉︎
もしくは縄でふんじばって、市中引き回しですか⁉︎
「グルゥ……ワ、ワタシハ……マモノ……デスヨ〜? タ、タベラレマセン……ヨ〜?」
「…………あがらない……の?」
紅い瞳の少年は、小首を傾げて静かに言った。
その声には感情が希薄で、何を考えているのか分からない。
とは言え、チャンスと言えばチャンス。
梯子に寄ろうと立ち上がりかけたら、足に激痛が走って転んでしまった。
そうだった、余りのことに足の怪我を忘れていましたね……。
この梯子を上がれたって、もう逃げられない。
─── ギシ……ギ、ギシ……
梯子が軋む音がして、見上げてみればその子供が降りて来ていた。
この子を食べて力でもつけ……いやいや、魔物じゃないんですから、そんなことしたって……。
うう……もう諦めてされるがままになるしかありませんね……。
あ、食べると言えば、私ずっとお腹が空いたままでした。
一度くらい、美味しい料理と言うものを食べてみたかったなぁ……。
「……あし……ケガしてる」
「……グゥ」
目の前に立った子供は、下から見てた印象以上に幼い子供だった。
人間で言うところの四〜五才くらいでしょうか。
その子が腕を上げたのを、ビクッとして背中を向けた。
魔力の高まりを感じたからだ。
きっと攻撃魔術を放って……
「 ─── 【
背中に温かなものを感じる。
それは血の巡りを高め、冷え切った体に熱感をもたらすと、背中の矢傷の痛みが消えた。
「……エ? カイフク……?」
「……うごかないで。かいふくまじゅつは、はじめて……だから。ボク、うまくない」
彼はそう言って、私の折れた足の近くに手を伸ばすと、再び回復魔術をかけてくれた。
「……ムエイショウ……? アナタ……マジュツシノ……コ?」
「ううん。みたことある……だけ」
は? 魔族って生まれながらに魔術とか使えるんでしたっけ?
魔界の知識がほとんどと言っていい程に無いから、正常な判断が付かない。
でも、私の傷は確かに治っていたし、疲労も回復していた。
「……もうだいじょうぶ。たって」
彼は私に手を差し伸べている。
魔物を前に、堂々としたものだった。
「ワタシガ……コワクナイ……ノ」
むしろ、私の方が今、彼に怯えてすらいた。
人界で出会った人々は皆、私の姿を見て攻撃して来たし、前任者の記憶でも人は魔物と相容れぬ存在。
いや、意味なく他の命を奪える、残酷な存在なのだから……。
「……かなしそうだから、こわくない」
「カナシソウ……ワタシガ……?」
この子は何を言っているのだろう。
悲しそうに見えたから、助けてくれると言うのだろうか。
いや、自分が襲われるとは考えなかったのだろうか?
狐につままれたような気持ちで、恐る恐る手を差し出すと、彼は私が立つのを手伝ってくれた。
「……あし、もう、だいじょうぶそう……だね」
そう言って彼は梯子を登って行ってしまう。
私は慌ててその梯子が倒れないように押さえて、彼が登り切った所で、私も梯子を登った。
頭の中は真っ白だけど、せめてお礼くらいは言わなくちゃと、彼に一歩歩み出たら
籠にはパンや果物なんかの、食べ物が入っている。
「おなか……へってそうだった……から」
「……ドウシテ……ドウシテ……。
ワタシヲ…………タスケルノ……デスカ……」
胸に何かが込み上げて、息が苦しい。
この感情が何なのか分からない。
助かって嬉しいはずなのに、なぜこんなにも心が重くなるのか……?
「 ─── きみは……ひつようなひと。せかいにひつような……ひとだとおもった」
その言葉に驚愕すると共に、私の中に激情が溢れた。
「……ワ、ワタシハ……ヒトビトヲ……
スクウ……キニハ……ナレナイ……!」
子供相手に何を言っているのだろう。
彼がどんなつもりで私を『世界に必要』と言ったのか分からないのに、自分の使命への不満をぶつけてしまった。
未だ感情があることに慣れていない。
ううん、私は記憶があると言うだけで、生まれたばかりの子供となんら変わらないのかも知れない……。
『孤独』
この世に何もすがるものを持たない自分の弱さに気がついて、心が小さくしぼんでゆく。
「……トモダチ……いないの?」
「…………」
ザクッと
「たいせつな……ひと。たすけたいひとがいたら、きっとすくいたくなる……。
─── ボクが……そうだったから」
悲しみと憂いを帯びた紅い瞳が、寂しげに細めたまぶたの中で揺れる。
こんな小さな子が、こんな表情をするなんて、一体どんな人生を過ごして来たのか。
声に感情を感じさせなかった理由は、そこにあるのかも知れない。
見た目は子供でも、まるで中身は別物のような、ゾッとするほどの深みが瞳の奥に感じられる。
私はその美しさに見惚れていた ─── 。
「……ともだちに……なろう」
彼の差し出した手は、この世界で初めての安らぎを与えてくれた。
小さな手が、おずおずと差し出した私の褐色のゴツゴツした手を掴む。
初めての握手は、人の温もりと柔らかさ、そして確かな力を感じさせる。
その時、彼の空気に変化が訪れた。
年相応に見せない重苦しい何かが消え去り、知的でミステリアスだった瞳が、急にキラキラと輝きを見せた。
「え……? なにこれ! か、かわいい……っ」
「ふぇッ……⁉︎」
いや、こっちのセリフですよ、急に可愛らしい表情を浮かべられたから、ドキッとしちゃったじゃないですか……。
思わず伏せた視線の先に、確かに彼と繋いだ私の手がある……
─── あれ? 毛がない……?
慌てて自分の頰に手を当ててみれば、プニュンとした柔らかで瑞々しい肌、そしてサラサラとした白金の髪が腕を撫でた。
彼の瞳に映る私の姿は、人間の女の子そのものだった ───
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