第五話 護りし者

─── 拠点をダルンに移して数日後の深夜


 ふとついた頬杖の手を、反射的に離した。

 あれだけ洗ったのに、まだ自分の手に血の臭いがついている気がして、吐気に襲われる。

 もう覚悟は決めたつもりなのに、こういうふとした瞬間に心は根を上げるもんだ……。


 まだ今日中に仕上げておかなきゃならない書状は多い。

 こうして気持ちが弱ると、何故こんな事をしているのかと弱音が喉元までやって来る。


─── でも、やるんだ……やらなきゃいけない


 この血の臭いは、もう現実のものかどうかもあやふやだ。

 日中に刻み込まれた罪の意識が、そう感じさせているのかも知れない。

 ……こういうのは魔術じゃ治せない。


「ダメだ、少し気分を変えよう」


 そう独り言を吐き出して、自分に言い聞かせる。

 アーシェ婆の魔術講座が佳境に入った頃は、よくこうして夜中まで術式の組立てとか、戦術を考えるのに根を詰めていたっけ……。

 今となっては遠い昔の、楽しい日々にも思えたりするから不思議だなぁ。

 あの時は死ぬ気で踏ん張り続けていたのに。


─── こういう時は、気を紛らわせる香木でも炊いて、少し休憩を取った方がいい


 ズダ袋の中の亜空間には、薬の材料から香薬の材料まで色々そろってる。

 いい香りを楽しんだ所で、この血生臭い自分を忘れられるかは分からないけど、在庫の棚を眺めるだけでも気分転換にはなるかも知れない。

 そう思って、ズダ袋の中の空間に入ってすぐの事だった。


「…………ッ‼︎」


 普段ならそんな棚の一部なんて、気にも止なかっただろうに、俺はその一角の光景を目にして立ち尽くしてしまった……



─── 雑然とした棚の中に、袋を抱えた『オニイチャ人形』が置かれていた



 最初は何でこんな物がここにあるのかと、ただ呆然としていた。

 でも、これは……『あの子の物』だと、そう認識してしまった瞬間、顔が頭に浮かんで喉の奥がキュッと締まった。

 この人形はあの子と共に、あの時マスラ海へと───


 ……今は見たくない、今は思い出したくない。

 そう思って目をそらそうとする俺を、ジッと何かを訴えるかのように、オニイチャ人形が見つめている気がする。


「…………」


 恐る恐る人形を取り出すと、ふわりと彼女の匂いがした。


 この部屋は時間経過から切り離されているけど、この人形が置かれたのは、最近なのだと直感する。

 そう言えば、アケル北部州ペリステムを奪還した後のささやかな祝勝会の時、彼女が何故か俺の部屋から出て来た ─── 。


 ……あの時に、これを……?


 人形は結構乱暴に扱われていた割に、綺麗に整えられていて、手で直したような跡がいくつかある。

 彼女なら奇跡を使えば元に戻せるだろうに、

面倒臭いのキライなクセに、思えばそういう大事な物への律儀さがあったな……。

 自分の残した跡とかを大切にする感じ。


 あの小さくて細い指で、これを直していたのだと思った瞬間から、体の震えが止まらなくなってしまった。



─── やっぱり見るんじゃ無かった



 まだ受け入れられない、まだ受け入れたくない……!


 そう思い直して、震える手で人形を戻そうとしたら何かに当たって、それらが崩れる音がした。

 人形が置かれていた場所、そこには六つの小さな綺麗な箱が転がっている。


─── これも彼女の物だろうか?


 あまり物を持ちたがらず、俗物的な物欲はほとんど無かった彼女には、少し不釣合いな意匠の箱だった。

 そう言えば、ある一時期『お駄賃』がブームだった時もあったけど……。


 見ているのが辛いのに、その箱がどうしても気になって、ひとつ手に取ってしまった。

 綺麗な装飾のついた蝶番ちょうつがいと、小さなフックで閉じられた宝箱のようなそれを、恐る恐る開けてみた……


「指輪……?」


 中にあったのは、絹であしらった台座に収まった、小さな宝石のついた指輪だった。

 貴金属には全くと言っていい程に興味のなかった彼女が?

 それを手に取り、リングの内側を見れば……



─── スタルジャ・ゴールマイン『永遠の愛を誓う』



 卓越した職人の技だろう、中央諸国の通用語の文字でそう刻印されていた。

 スタルジャの……指輪?


 でも、その名前には俺の姓ゴールマインが入っている。

 ハッとして他の箱も全て開けて確かめる。



─── ユニ・ゴールマイン『永遠の愛を誓う』


─── ソフィア・ゴールマイン『永遠の愛を誓う』


─── エリン・ゴールマイン『永遠の愛を誓う』


─── アルフォンス・ゴールマイン『永遠の愛を誓う』


─── ローゼン・ゴールマイン『永遠の愛を誓う』



 俺のを含め六つの箱それぞれに、同じデザインの指輪が収められていた。

 鈍い俺でも、本当は最初のスタルジャの指輪で思い至ってはいたけど、確かめなければ気が済まなかった……。


 いつだったか耳にした事がある。

 何処だかの国では、婚姻の証に夫婦がそれぞれ、お揃いの指輪を ───


─── もう止まらなかった


 『オニイチャ人形』が抱えていた白い袋の中も、俺は確かめる。

 中に入っていたのは、季節も地域もバラバラの花が『永久保存』の術を掛けられて、詰め込まれていた。

 それを目にした時、彼女が色んな所で遊びながら、花を摘んでいた光景が鮮明に頭を駆け巡る!



「……何でだよッ! 何でだよティフォッ!

─── どうして……

どうして、……無いんだよ……!」



 あいつ、たまに未来を見越したような言動があったけど、まさかこうなる事を ─── ⁉


 どんな思いで自分以外の婚約者の準備を進めていたのだろう?


 どんな思いで俺達の後姿を見てた?


 どんな思いで……俺を『婿殿』なんて呼んでた!


胸が詰まる、息を吐く事も出来なくて、頭の後ろがガンガン痛んだ……。



「う、ううっ……うわああああああああああッ」



 俺の目から、ずっとそれを忘れていた涙が、慟哭どうこくとなって溢れ出す。

 俺を支えてくれた『』が、いきなりあんなに可愛くなって、ずっと変わらずに俺を好いていてくれた。

 何故、俺はもっと早くに、ティフォの気持ちを受け入れてやれなかった……⁉︎

 俺はこんなにも深い愛を向けてくれたティフォに、見合う分の愛を返せていたか⁉︎


 エリンはどうだ?


 無口なクセに、いつも冷静で鋭い意見で俺を支えてくれていた……エリンは!

 不器用だって自分で言いながら、ユニの事を何より大事にして、俺を家族だと呼んでくれたエリンに……俺を好きだと言ってくれたエリンに。

 俺は何かを返せていたのか、俺は彼女達のように、全力で気持ちを伝えられただろうか?


 ティフォは何故、エリンの指輪を用意していた……?


 それは、エリンの不幸などティフォは一切疑う事なく、ただ彼女の幸せを願っていたからじゃ無いのか⁉︎


─── 誰にも届く事の無い亜空間、声にならない叫びは、涙が枯れ切るまで吐き出された


 そうして俺は、愛するティフォとエリンの死をようやく認識した。

 その日から、もう血の臭いは気にならなくなった ─── 。




 ※ 




 ガチガチと奥歯を鳴らし、汗に塗れた額に突き付けられた指を、老人は目で必死に追いながら小さく『やめ……やめ……』と呻くように鳴いている。

 

─── 『死ね』


 紅い瞳を細め、突き出した指が青白く光ると、老人の頭を雷撃が突き抜け、僧服の袖をひるがえして仰向けに倒れた。

 その後ろで腰を抜かしていた若い僧服の青年は、辺りに死をばらまいた白いシャツの背中を、涙に塗れた頰を吊り上げてにらみつける。


「し、司祭様に手を出すとは……ッ‼︎ ラミリア様の怒りを受け、地獄に堕ちるがいいこの悪魔めッ‼︎」


 突き出した手はガタガタと震えて、その手ににぶら下げた百合と陽光をかたどったロザリオが、チャリチャリとさえずっていた。

 白シャツの男は振り返る事もせずに、黒髪の頭をやや傾けて『死ね』と囁くように告げる。


─── 直後、若い僧侶の胸元で、それがラミリアの加護だと信ずる、光の魔力が集束して爆ぜた


 岩の点在する乾いた山の斜面に、手足を人形のように振り回されながら、転がり落ちてゆく。

 斜面の途中、頭を下にした彼の目は見開かれたまま、胸のトンネルから流れる朱が、灰色の砂利道に伸びていた。


「…………すまない」


 険しい山の頂上付近、その砂利と岩の灰色の世界に、倒れたむくろの白い僧服が点々と風になびいている。

 下から吹き上げる風に、濃厚な血の臭いが押し寄せ、彼の体にまとわりついた。


「……うん。分かってる……分かってるよ……。

─── だ……」


 風の音だけが響く山頂に、穏やかなその声が響いて消えた ─── 。




 ※ ※ ※




 テーブルに置かれた、鏡の如く磨き上げられた刀身は、もう結露を呼んで青白く光る事は無かった。


─── 宵闇露切如音無ノ太刀 胡蝶


 アルフォンスの旅立ちと共に、彼のほとばしる邪悪な魔力と闘気を力に変え、彼と対話を繰り返して来た愛刀は沈黙している。

 ふたつに折れた刃は、彼女の持つ再生能力では、もうどうしようも無かった。


「…………」


 哀しみに揺れる紅い瞳の先に並ぶ、ククリの双剣、槍、弓、斧、杖、ダガー。

 それらも皆、今は禍々しくも美しい妖気を発する事無く、ただ命を奪う道具としてそこにあった。


─── ソフィアとの契約が失われて以来、彼女達が彼の問い掛けに応えた事は無い


 そして、ソフィアの契約も未だに回復すらしていなかった。

 いや、彼の意思により、ソフィアとの契約の結び直しは、まだ延期されている。


 拠点に帰って来たアルフォンスは、それらの武器の手入れをして、ズダ袋に休ませた。

 そうして、ふうと溜息をつけば、落ち着くはずの心が再び揺れ出す。


 耳の奥に残った阿鼻叫喚の断末魔が、今日も量産した罪の意識を率いて湧き上がる。


─── 再び、血の臭いが漂い出した


 だが、それに心が掻き乱される事はもう無い。


 各地に届けるべき書状や書類の数々は、先程その全てをやり終えた。

 何も無い時間に手持ち無沙汰となったアルフォンスは、それらをリック達の使っている事務室へと運び、暗い廊下を歩く。


 ダルンの拠点は、周辺国の繋がりを強め、有事の際の様々な取り決めを締結するのに役立った。

 今後は少しずつその機能を高め、軍事的な視点から、より国交を強めるための中央諸国連合のような中枢都市となるだろう。

 すでに誰もが寝静まった建物内、その暗いロビーの窓から、アルフォンスはしばらくその風景を眺め、自室へと戻る。


「……あ」


「ああ……。眠れない……のかソフィ」


 階段の踊り場で、降りて来たソフィアと鉢合わせた。


「……はい。ちょっと嫌な夢を……見てしまって……」


「…………」


 ソフィアの寂しそうな声に、アルフォンスは何かを飲み込むような、やや苦し気な表情を浮かべた。


「…………」


「…………」


 ふたりの視線が重なり、しかしそれはお互いそっと、そらされる。


 ソフィアは葛藤していた。

 久しぶりに対面できた彼に、何かを話しかけたい、せめて声をかけたいと。

 だが、そのどれもが彼の『詮索』や『引き止め』になってしまいそうで言葉にきゅうした。



─── 信じてる



 ソフィアの胸にあるのは、ただその一点。

 それを言葉にすれば、思わぬ意味合いを持たせていまうかも知れない。

 もしかしたら、本当はここで彼の行なっている『何か』は、応援すべき事か、もしくは引き留める事が必要なのではないか?


 彼女が望むのは、彼と共に寄り添える未来であり、彼を支える事にある。

 だからこそ、放って置く事以外にも、最前は無いのかと揺れてしまう。


「あ、あの……」


 アルフォンスが歩き出そうとする気配を感じ、ソフィアは思わず声を出した。

 しかし、彼の顔をしっかりと見た瞬間、ソフィアは目を見開いた。


「 ─── えっ!? あ、アルくん⁉︎ 加護カードを、加護カードを確かめて下さい‼︎」


「…………え?」


 ソフィアが気がついたその変化に、しかしアルフォンスは怯えた色を、その目に宿して顔を背けた。

 加護カードを見れば、今の自分に与えられた加護を見る事となる。

 あの孤島での惨劇から、彼はそれを恐れて、それを目にしようとはしてこなかったのだ。


「……今は、ちょっと……」


 窓から差し込むわずかな月明かりが、彼の瞳の動揺を照らし出す……



─── ぎゅ……っ



 その時、ソフィアはアルフォンスの袖を掴み、グッと唇を噛み締めて俯いた。


「私は……あなたが苦しむことや、あなたを騙すことはしません。

あなたを支えることしか、しませんから……」


 その言葉に神気は乗せられていない。

 何か効果を狙っての言葉でも無く、ただただ彼を案じる彼女の本心でしか無い。

 だが、その声にアルフォンスは、心に枯渇している何かを、確実に満たされた気がした。


「……………………」


 アルフォンスは不安に揺れる手の平に、己の加護カードをズダ袋から喚び出した。

 踊り場に許された微かな光の中、彼の視線が戸惑いがちに、カードへと落とされた……



─── 【大いなる光と触手と補欠】



 大きく書き換えられた守護神の項目、そこにあった二文字に、アルフォンスは目を奪われた。


「しょ……触手……⁉︎

─── ティフォの加護が……‼︎」


 喉の奥が締め付けられ、アルフォンスは涙が込み上げる感覚に我に返る。

 思わず覗きかけたソフィアへの視線を外し、言い掛けた言葉を、手の平で口を塞いだ。


 そのまま無言で逃げるように階段を登る彼の背中を、ソフィアは困ったような表情で涙を浮かべて見つめていた。


─── その背中に背負った『何か』を、ソフィアはその時、少しだけ理解出来た気がした


 彼女は目をぎゅっとつぶり、それからフッと微笑むと、踊り場の小窓から夜空をしばらく眺めていた。


「……今は、補欠でも構いません」


 その呟いた声にはもう、怯えや不安は含まれてはいなかった。



 ※ ※ ※



─── ダルングスグル大草原北西部


 既に傾いた太陽は、広大な大地に黄色から橙色に変わりかけた光を投げ、一日の終わりを歌う鳥達の声が遠くに聞こえている。

 今日は午後から風が無く、だだっ広いダランの雄大で牧歌的な風景が、より穏やかにも見えた。


 ……その一角に立つ、アルフォンスの周辺を除いて。


 腰の高さまで伸びた草むらには、転々と広がる赤黒い絨毯と、草をなぎ倒して転がる白銀の鎧姿。

 草の緑に重なった濃い赤色の液体は、実際の色よりも黒く見せ、その異様さを浮き立たせていた。


 垂れ下がった細い草の先から、ポタポタと垂れる血の音と、風にそよぐ草原の音とが、その光景を非難するかのようにざわめいている。


─── たった今、命を落としたのは、祖国に向けて帰還中の帝国兵、およそ千人程


 アルフォンスは敗残兵の成れの果てをしばらく眺めると、何事かをポツリとつぶやいて左腕を上げた。


 最近までマドーラとフローラの白黒の籠手こてが着いていたその腕は、白に近い白銀の甲に肩まで覆われている。

 その腕が光り輝くと、草原の上を舞っていた、千にも及ぶ帝国兵の魂が吸い込まれてゆく。


─── 左腕を覆っている白銀の甲は、アネスのである


 ラミリアの加護を受け、そして今まで殺戮を繰り返し、その魂を収納して来た結果、今や彼の腕となっていた。

 既にこの『銀の手』に納めた魂の数は十万を軽く超えている。


 更にアルフォンスは術式を展開し、スタルジャやソフィアを保護していたのと同じ、隔離空間へとその遺体を収納した。


「…………痛かったよな、怖かったよな……。

ごめんな……しばらくはそうしててくれ皆んな」


 術式は確実に彼らの屍肉を集め終えるも、土に染み込み、早くも他の微生物達に侵食された血液は放置する。

 白いシャツを染め上げる返り血と、凶器となった四肢を滴る血は、清浄の魔術によって瞬時に清められて消えた。


─── 今日も終わった


 そう心の中で呟いたアルフォンスは、不意に眩暈めまいを感じ、その場に数歩よろめく。

 ザワザワと自分の内部に広がる闇の感覚に、彼はニコリと微笑み『いよいよ……か』と呟いて、意識を手放した。




 ※ 




『やあ、いらっしゃいアルフォンス。

一段と左腕が神々しくなったもんだね』


 穏やかで静かな声に、はたと気がつけば、目の前にはふたつの月の浮かぶ、明けぬ夜の世界が広がっている。

 足下には太い糸で組まれた、広大な蜘蛛の巣の足場が広がり、その先には切り立った岩がそびえていた。

 そんな世界の中、左腕の白い輝きをランタンのように掲げ、アルフォンスは立っていた。


「ようミトン。何日ぶりだったっけ?」


 そう言って顔を向けられた男は、上半身は人、下半身は蜘蛛の『アラクネ族』の姿をした元守護神ミトンである。

 彼はアルフォンスの質問に、くすぐったそうに笑った。


『さあ? 現実の時間の流れはちょっと分からないから。僕はこの世界を保つので精一杯だしね』


「そうだったな……。ありがとうな、この場所を創ってくれて」


 アルフォンスの言葉に、ミトンは更に表情を崩して、恥ずかしそうに鼻の頭を掻いている。


『やっぱり、君に会えて良かったよ。守護神だった頃の自分の喜びを、少し誇りに思えるからね……こちらこそありがとう。でも……

─── 今日で僕の仕事も終わりかな……?』


「……俺はお前に何を返してやれるんだろう」


『え? これこそが僕のお礼なんだから、そんな心配は無用だよ。

さあ行っておいで、彼が待っている』


 そう指を差した先に、アルフォンスは確かな気配を感じ取っていた。


「なぁ、ミトン。もし、この世界の存在が必要無くなったとしても、俺の中に残る気はないか?

俺の家族のひとりに、輪廻から外れた魂と同居してるのが居るんだ。ちゃんとした輪廻に帰れるまでってさ」


『…………考えて……おくよ。ありがとうアルフォンス、君のお役に立てたことを誇りに思ってる』


 アルフォンスは寂しそうに微笑んで、ふたつの月の間にそびえる岩へと歩き出す。


 初めてこの世界に来たのは、最初に勇者に敗北し、魔剣傷によって激しく幽星体アストラル・ボディを傷つけられた無意識の状態だった。


 ミトンはそのだいぶ前から、アルフォンスに加護を与え、そしてこの精神世界の一部に魂のまま暮らしている。

 それまでも何度か夢の中では会っていたというが、アルフォンスにはその記憶は一切残ってはいなかった。


─── アルフォンスが殺戮を始めてからは、数日おきにこうして会っている


 夢は深い所で見ている程、記憶には残らないものであるが、記憶に残るようになったのは、この世界が意識の浅瀬に浮上して来ている証だろう。

 ギシギシと蜘蛛の糸を軋ませて、先を急ぐ。


 ……そうして、彼は再会を望んだ相手と対峙した。



『…………やあ……アルフォンス』


「よお、アルファード」



 かつてのように無音の世界ではない。

 五歳の見た目よりも幼い彼の声は、どこかリディのように感情が希薄な響きを含む。


 アルフォンスはやや緊張していた。

 今まで殺戮を繰り返す度に、何度も彼の存在を近くに感じて来た。

 それももう、今日で終わりかも知れない。


『君とは……ここで話すのも……最後になる。……かな』


「ここで話すのは……な。俺達は俺でお前で、ひとつなんだから」


『ふふ、そうだね……。今日はボクのこと、残りを全部話すよ』


 ここまでの数回の対話で、アルファードは自分の多くの事を語って来た。

 そして、今日でその全てが語りつくされる。


─── 今から約三百年前、勇者の呪術に倒れた彼は、奥深くに突き刺さった術式の、自然消滅の為に封印された


 しかし、それは完全に時間を止めるものでは無く、アルフォンスの姉達と同じく、思念だけは活動をしていたのである。

 約三百年もの間、人との関わりを持たず、得られる知識はイングヴェイの語り掛けのみ。

 脳の成長と精神の成長は、大きくかけ離れてしまった。


 心に残された、あの日の恐怖や憎悪、そして深い悲しみが消える事もなく、負の感情に触れたまま過ごして来た。

 三歳足らずの子供が両親、祖父と姉ら家族から突然隔絶された絶望が続くというのは、一体どれ程のものだっただろうか……。


 イングヴェイ自身もその精神と肉体の開きを考え、語り掛けを幼児から青年期に合わせ、レベルを変えて行ったものの、アルファードのレスポンスは無く一方通行であった。

 話し手も聞き手も、その努力は相当なものであっただろう。


『……ボクの負の感情が……整理出来るようになったのは、封印が解けてから。

でも、三百年の負債は、ボクには大き過ぎた……』

 

「…………」


『ボクはその時不安に駆られたんだ、このまま心と体のズレたボクが、負の感情ばかりのボクが……魔王になれるのかな……って』


 いつからその使命を意識していたのかは分からない。

 ただ、そう語る彼の顔には、深い哀しみが彫り込まれている。


『二年が過ぎても……それが解消出来ずに、考えあぐねた時だったよ。

─── ボクが人界の適合者に選ばれるんだって、そんなが来たのは』


「選ばれる……予感⁉︎」


『ボクには……生まれつき……。

ううん、多分これは、ボクたちの家系に、極稀に現れる能力だと思うんだけどね……。

魔王として歩むための、すごく明確な直感が湧く力が……与えられてるんだ』


 思えば父オリアルの記憶に見たアルファードは、二〜三歳とは思えぬ冴えと行動が見られた。


 勇者が凶行に出る直前に、彼は術式の組み込まれた盾を、ふらつきながらも持って来ていた。

 加護を得た勇者が再び現れる直前には、目を覚まさぬ母親の前で、父親に魔王城からの脱出を示唆している。

 いや、アマーリエとの初対面では、二歳になる少し前だと言うのに、どこか彼女の存在をすでに把握していたような節すらあったのだ……。


『ボクはその時、最善の選択を……選んだ。

─── 負の感情と記憶を切り離して、肉体年齢の五歳の少年になるよう、心の奥底に自分を封印したんだよ』


「…………っ⁉︎ だから俺には、五歳以前の記憶が無かったのか……!」


 長年の疑問が解決されると同時に、アルフォンスにはひとつの恐怖がぶり返した。

 しかし、アルファードはそれを感じたのか、ハッキリと否定する。


『言っておくけど、君は作られた人格なんかじゃ……無いからね?

ボクの半分が君で、君の半分が……ボク。ボクたちが……健全に人界の適合者となるのに不要な記憶と感情を、ボクが隔離してただけだ』


「…………なんだか不思議な気分だよ、それって、別人って事じゃないか。

その……アルファードは、辛くは無かったのか……?」


『言ったろ? ボクは君で、ボクはボクたちが生きる為の……最善を選んだって。

─── 結果、君は極普通の子として里に行き、世界最高峰の教育を受け、世界最高峰の力を得られた』


 もし、アルファードのまま里に行っていたら、一体どれだけの成長があっただろうか?


 生まれながらの強者は、時にもろく呆気ない終わりを迎える事がある。

 それは七魔侯爵のロフォカロム達のように、そこに至るまでの綿密な基礎の積み重ねが抜け、思わぬ一手で簡単に崩される事があるからだ。

 一から積み重ねた者の力は、簡単には崩れない。

 完全なる契約を持つ勇者達と、互角に渡り合えたのは、アルファードの判断がその裏付けなのではないだろうか?


『君がボクで本当に良かったよ。君は記憶が無くたって、しっかりと……魔王たるにふさわしい心を育んで来たんだから』


「俺は……もう、用済みって事……か?」


 アルフォンスはアルファードの強靭な覚悟と、人智を超えた先見性に打ちのめされていた。

 消え入りそうに呟かれたその言葉に、アルファードはニコリと微笑んだ。


『 ─── 全く違う。

用済みなのは……ボクの方なんだよ』


「何故だッ‼︎ お前は三百年も魔王になる覚悟を持ち続けて、最善を尽くして来たんだろ⁉︎」


『ボクにあるのは、魔王たるに相応しい選択を、無意識の内に得られる能力だけさ……。これがボクたちに与えられた……能力なんだよ。

根拠も裏付けも無く、ただ魔王として最善の選択が浮かぶ……ボクはそれに従っただけ。

アルフォンス・ゴールマインとして歩み、ここまで人生を創り上げたのは君だよ。

……君こそが人界と魔界の適合者に相応しい』


「ま、待ってくれ! 俺達はこれからひとつになるんだろう?

そうしたらアルファード、お前は一体どうなるんだ⁉︎」


 アルファードはくすぐったそうに微笑んで、アルフォンスの目を見つめた。


『何も変わらない。ただ、ボクの記憶が君に受け継がれ、ボクは君に溶け込む。

こうして二度と話す事も無いだろうね、君の人格や心は何も変わらないよ?』


「それって……お前が消えるって事じゃないか!」


 アルファードは困った顔をして、優しく言い聞かせるように話す。


『……例えば君に、嫌な思い出があったとして、その出来事や気持ちを知っているからと言って、その時の人格に戻れたりするのかい?』


「…………!」


『君が……スタルジャを助けた時、その精神世界で人格や記憶と……対面したろ?

あれは全部彼女で、でも彼女じゃあない。彼女がスタルジャ足り得るのは、その時々を継いでいった……今現在の自我だ。

─── ボクたちの真の自我は君だよアルフォンス、ボクは昔の君でしかないんだ』


「…………で、でも……でも……ッ‼︎」


 アルファードはスッと前に出て、アルフォンスを抱き締めた。


『君は本当に優しいな……アルフォンス。昔の自分のために、泣くのかい?』


「俺は……お前を尊敬してるんだ。お前は俺の一番辛くて、キツイ事を……全部請負って、俺を守ってくれたんだ……。そんなお前が報われないのは……イヤだ!」


『ははは、報われるとか考えたことも無かったなぁ……。でも、そうだとしたら、たった今報われたよ。アルフォンス、君のお陰だ。

過去のボクたちを担う、本当のボク ─── 』


 しゃがみ込んで、アルファードにすがりつくアルフォンスの頭を小さな白い手が撫でる。


『ボクが抱えていた心の闇は、この数日間で君がすっかり消してくれた……。

君が正しい心で、ボクの代わりに起こしてくれた暴力は、三百年のくさびを……すっかり溶かしてくれたんだよ。

それはボクが……ずっと苦しんでいた重荷だった』


「……あの殺戮は、ラミリアからの依頼で動いてただけだ。お前のためじゃない……」


『フフフ、じゃあなんでボクの思い浮かべた破壊衝動を、出来る限りなぞってくれたの?

……自分に罪の意識を刻み込んで……大切な人たちから自分を遠ざけて、自分を追い込んでまでして……』


 自分に嘘は付けない。

 それをここで実感する事になるとは、アルフォンスは夢にも思わなかっただろう。


『さあ、君に全ての記憶と……

─── 魔王の意思を返そう』


「待って……くれ……嫌だ……」


『まだ分からないのかい?

君がさっき言ってくれたように、ボクも君を尊敬しているんだよアルフォンス。君はボクを守る為に現れてくれたボクだ。そして、理想のボクそのものだよ。

ボクは君自身、これは消えるんじゃない、将来の自分が理想の姿になる瞬間なんだ』


 額を合わせて、アルファードは優しい声でそう言った。


「…………」


『昔のボクを信じてよ。ボクの積み上げたものは、きっとボクたちの未来を良いものにする』


 理解は出来る、出来るが……理解したくない。

 でもそうしたくないと思うのは、過去の自分に失礼なのだと、ようやく覚悟を決めた。


「分かった……分かったよアルファード。

─── 俺が未来へお前を連れて行く」


『うん。頼むよボク ─── 』


 夜空に浮かんでいたふたつの月が、ゆっくりと近づき合ってゆく。

 その度に光が増して、暗闇の世界は白く明るく輝き始めた。


 意識が遠退く寸前に、向こうで両手を上げて微笑んでいるミトンと、耳元に顔を近づけて囁いたアルファードの声が確かに聞こえた。



─── 『君の背中は、過去のボクたちが支えているよ……』



 目覚めた時、アルフォンスは全ての記憶を取り戻していた。

 それは絶望的な辛い過去の記憶よりも、遥かに温かな家族の記憶が、彼を確かに充足させて余りあるものだった。


 この日を境に世界を騒がせていた『血塗られた失踪事件』は、突如終息する。

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