第三話 黒舌

─── 五ヶ月程前、アルフォンス達がアルカメリア冒険者ギルド本部に居た頃


 薄っすらと空が白んだ、青暗い森の表面を、霧が撫でて行く。

 森が抱き切れなくなった、白い結露の吐息は樹々の間を抜け、細くたおやかな腕のように村へと伸びていた。


 霧に包まれている村の至る所に、転々と橙色の光の揺らめきと、空へと登る黒い影が滲んでいる ───


 橙色の光は、炎であると、その瞬きから判別出来る。

 しかし、朝餉の炎にしては時間が早く、外で煮炊きする事は考えられない。

 ひゅう、と風が吹き、村の姿が一望出来た。


─── それがひとつの村の、最期の炎の揺らめきだと分かる


 焼け落ちた家屋の瓦礫を舐める残火、叩き潰されたような痕跡の数々、そして辺りを汚すドス黒い血液。


 その中心に蠢く、巨大な黒い影。


 タッセル北部、ブエラ王国に程近い森林地帯の村ピコラ。

 夜通し続いた、その村の惨劇が今、静かに終わろうとしていた。




 ※ 




─── ガッ、ブシッ! グチャッグチャッグチャ……


 霧の立ち込める村の片隅に、黒いシルエットが蠢めき、不快な音が延々と響いていた。

 他に動くものは、もう村には存在していない。

 ただ、少し離れた森の中で、その様子をジッと息を潜めて見つめる複数の眼があった。


「 ─── とうとう見つけたぞ……。

今はやっこさん、食事に夢中だ。本隊に至急応援を呼んで来い。

後の者はここでヤツを食い止める」


「「……ハッ!」」


 森の中を離れて行く、ふたつの足音が、あっという間に遠ざかる。

 辺りには肉を食み、骨を噛み砕き、嚥下する音が時折風に乗って流れて来た。


「いいな、絶対にひとりでは動くな。必ず三人一組で行動しろ。

アレは動きこそノロマだが、力と硬さは一級品。……再生力は正にバケモンだと聞いている」


「 ─── どこを狙えばいいんです? 先遣隊の与えた傷ってのが、どこにも見当たらないんですが……」


「さあな。それを聞く前に、帰還した生き残りは死んじまった。奴は俺達がここで消滅させる。

……それが叶わなくても、最低で弱点のひとつも見つけてやる、そこに命を賭けろ。

─── 警戒態勢」


「「「 ─── ハッ!」」」


 森の中に潜む十数の人影は、薄暗い樹々の間で白銀の兜を一斉に装着する。

 風向きが変わり、再び村は押し返した霧に覆われ、その黒い何かが揺れる影のみとなった。


 しん、と静寂が訪れる。

 森の中の一団は、速鳴りする胸の訴えをジッと押し殺して、オープンヘルムのバイザーの下から、鋭い眼差しで影を凝視していた ───



『 ─── 可愛いお顔だねぇ……もっと見えるように、怯えてくれないかぃ……?』



 あまりの静寂に、耳鳴りさえ感じていた彼らには、一瞬それが己の恐怖心の生み出した幻聴かと思えた。


 人の声、と言うにはどこか怪しげな、まるで別の生物が声マネをした時のような、感情を伴わない音の羅列。

 無言を貫くも、明らかに彼らの眼は、動揺に揺れている。


「 ─── あ、あ、ああ、あの……しょ、将校殿……」


「…………黙れ。臆するとは騎士の名折れ」


「ち、ちち、違い……ます。あ、あの、こここ、これ ─── 」


 カタカタと震える白銀の鎧の音、そして、ガチガチと鳴る軽く硬い音は、奥歯の音だろうか。

 この一団を統率していた将校は、溜息混じりに眼を閉じ、その若い騎士の方を振り向いた。


「……貴様も我らが教団の剣、極光星騎士団の一員であれば、魔物擬きのひとつやふた……」


「しょ……っ、しょう……こぉ……ッッッ」


 若い騎士は顔面蒼白でこちらに顔を向けていても、その黒目は限界まで真横に寄せられて、視界の脇に映るソレを必死で確認していた。

 振り返った将校も、ブラウンの豊かな口髭の両端を、アンバランスに持ち上げて眼を見開く。



『 ─── 可愛いお顔だねぇ……もっと見えるように、怯えてくれないかぃ……?』



 若い騎士の黒目が、右から左へと、まぶたの中でグルンと反対側に移動する。

 それと同時に、ミスリル製の強化オープンヘルムの左側頭部から、血飛沫と共に黒い何かが突き出した。


 若い騎士の顔の右側に、ピタリと張り付いた青白いもうひとつの顔。

 白髪混じりの、長い口髭の間から伸びた、黒い舌が騎士の頭を貫通して、溢れでた体液を舐め回している。

 その顔は、ニタニタと目尻にシワを寄せて、若い騎士を愛おしそうに見つめていた ───


「 ─── ち、散れッ! 全員広がって包囲ッ‼︎

誰でも構わん、三人一組でフォローし合え!

本隊が来るまで、我らで何が何でも、この悪魔をここに縫い留めるぞッ‼︎」


「「「 ─── ハッ!」」」


「見ろ! やはり体はノロマだ、村から首を伸ばしているに過ぎん! 首を斬り落とせッ‼︎」


─── ギィンッ、ガキッ、ギャンッ‼︎


 髭面の顔から伸びた、黒光りする首に、聖騎士達の刃が次々に襲い掛かる。

 しかし、その刃は食い込む事なく、森に火花を散らしていた。


「か、硬いッ‼︎ 漫然と剣を振るな!

魔力と闘気を練り上げろッ! 我らが聖剣に断てぬ魔はおらんのだ ─── 」


 次々に鼓舞し、号令を畳み掛ける将校を、髭面のに浮かぶ虚ろな眼が捕らえた。

 だらしなく宙にぶら下がった髭を、ニイッと笑って持ち上げ、長い舌をのたうつミミズのように踊らせる。


『 ─── か、カカか、か可愛いオお顔ダねぇ……モモももっとととト見えるように、おびおびおび怯えてくくくクれないかぃ……?』


「 ─── ッ⁉︎」


 将校の顔から血の気が失せた。

 髭面の顔、元ハンス・アーウィン公爵死刑囚の首はそのまま、彼の本体がドスドスとこちらに迫る音と、なぎ倒される樹々の重低音が響く。


 一時退却か、それとも誘き寄せながら、有利な地形まで移動するか……。

 森の中では騎士の装備では、立ち回りが効かない。

 特に俊敏な動きと、最大限の膂力を生み出すには、武器の大振りも必要である。


「 ─── クッ、引けッ!

森から出るぞ! ここでは満足に戦えん、引けッ!」


 全員が退却戦の為に、肉体強化と風魔術の付加を始めた時、強烈な光が森の中から発せられた ───



「おっらあああぁぁぁッ‼︎ 邪魔だどけェッ!」



 全身に黄金色の魔力を纏った、重鎧の男が高速で飛び込みながら、全体重を掛けて巨大なハルバードを、迫り来る元公爵の黒い本体に叩き込む。

 人間の作り出す音とは思えぬような、痛烈な破裂音と衝撃波をぶち上げて、元公爵の体が吹き飛ばされる。


「 ─── だ、団長⁉︎ チコ団長ッ‼︎

ほ、本隊が到着したのか……ッ‼︎」


「オラァッ、そいつらをオレの後ろに引かせろッ!

グズグズしてっと、テメェごとぶっ壊すぞゴラァッ‼︎」


「ひ……っ、は、はいッ!

─── 全員、団長の後ろに回れッ! 三人一組、横一列に陣を展開! ……お前ら『狂犬』の手下だって事をしっかり思い出せッ‼︎」


 生気をとり戻した将校をチラリと確認して、ハルバードを肩に担いだ男は笑う。


─── 極光星騎士団、第五師団団長、チコ・キャクタス


 平均よりやや小柄ながら、強烈な力押しと、一切加減の無い暴力で、圧倒的な戦歴を残して来た男。

 通称『狂犬チコ』は、ヘルムのフェイスガードを下ろして着面する。

 トレードマークのフルフェイスガードは、ブルドッグをモチーフにしたものである。


「 ─── 随分と歩き回らせてくれたもんだぜぇ……変態公爵さんよォッ!

とっととテメェをぶちのめして、家に帰らせろやドラァッ!

……お散歩行けなくて、が鬱病になったら、生きたまま拘束して拷問官送りにしてやっからなァ……ッ‼︎

ペルちゃんはなぁ、寂しがり屋なんだぞオラァッ‼︎」


 『狂おしい程に、愛犬のペルちゃん推し』


 略して『狂犬』チコ・キャクタスは、その帰宅への想いから、驚異的な戦果を上げ続ける男。

 同胞からそう恐れられ、また蔑まれる極光星騎士団切っての戦闘狂である ─── 。




 ※ 




 ってなぁ。

 周りにそう思わせて置くのが、オレに取っては丁度良い。


 ……いや、そうでもしねぇと、生きて行けねえ身の上ってのが本音かねぇ。

 『冤罪没落、キャクタス男爵家』の長男としてはな。


─── しっかし、なんだあのバケモンは?


 オレの全力の一発食らって、巨体ごと吹っ飛ばされたってのに、当たった所が凹んだだけじゃねぇか……。

 ひっくり返って、六本の赤ん坊みてえな真っ黒い足ジタバタして起き上がっただけだ。


 オイオイ、死ぬのは御免だぜ?

 なんたって、おふくろだけは幸せに最後を送って欲しいからよ、まだまだオレは死ねねえ……。


「………………」


 真っ黒焦げの芋みてえに不恰好な体をゴロンと返して起き上がる。

 体の下に赤ん坊みてえなブヨブヨの脚が六本、真ん中に太り切った大人の脚が一対。

 あのデブの脚だけで歩いてるのか……。


 体からは、ひょろ長い首が伸びて、髭も髪も伸ばしっぱなしの青白い顔。

 それ以外は真っ黒け、ガキの落書きかよ。


『 ─── 可愛いお顔だねぇ……もっと見えるように、怯えてくれないかぃ……?』


「クッセェ息吐いてんじゃねえぞコラァッ‼︎」


 家に帰りてぇ……。

 何言ってんだコイツ? スゲエおっかねえ!

 今まで見て来た魔物どもと何から何まで違うじゃねぇか……。


 だが、ビビったら負けだ。

 オレは『狂犬』、皆がそう言ってんのは知ってる。

 ……オレが恐怖なんて見せたら、誰も特別扱いはしてくれねえんだ。

 前に出ろ、頭を使え ─── !


─── パアアァァ……ンッ!


 背中の辺りから、急にデッケェ腕が生えて、振り下ろしやがった!

 何とか避けられたが、衝撃で意識が飛び掛ける。


 今まで通って来た街を、軒並み更地にして来たのは、このアホみてぇに強力な腕力か!

 大の大人くれえはありそうな手形の穴が開いて、地面にヒビが入ってやがる。

 その腕はだらしなくしぼんで、ズルズルと背中に戻っていった。


 野郎はアンバランスなデッケェ腕を振り回したからか、よろめいて尻餅をついてやがる。


─── やっぱ、使ってるのは、あの二本の脚だけか……!


 それに気がついた時、野郎の背中が蠢いて、針山みてぇに無数の腕が生えた ─── !


「おい、そこの! 槍を二本寄越せ!」


「 ─── え? で、でもこれは普通の武器ですよ……? コイツに普通の武器は効かないって報告が……」


「黙って寄越せ、死にてぇのかテメエッ‼︎

─── そしたら全員離れてろ、コイツはオレが喰うんだからよぉ……!」


 どいつもこいつも真っ白な顔しやがって、死人が出たら、もう一度キャクタス家を再興するのに邪魔になる。

 雑魚どもは引いてろってんだ。

 オレの隊から殉職は出させねえ……。


『 ……可愛いお顔 ─── 』


「オイッ! この変態ロリコン野郎ッ‼︎

テメェ、モニカ嬢に逃げられたんだってなあ? しかも『血飛沫聖女ソフィア』に、卵ブチ込まれたんだろ、ケツによお?

─── 大人のオンナに相手にされねえからって、ガキさらうたぁ情けねえ童貞野郎だなぁ」


 ニタニタしてた顔が、一瞬だけピクっと真顔になった。

 だが、すぐにまたヨダレ垂らしたニタニタ顔に戻る。


 記憶はカスがこびりついてるくらいか、んで、思考力はねえと見た。

 なら、その辺りを突いて行くしかねえな。


─── ズダダダダダダ……ッ‼︎


 細い腕がスコールみてぇに降り注ぐ。

 地面、岩、壁……そんなもん関係ねえとばかりに蜂の巣に仕上げていく。


 足を止めるなッ、回り込め!

 こいつはノータリン、力こそ悪夢みてえなもんだが、後先考える能力はねえはずだ!


─── ズダンッ! ズダダダンッ!


 攻撃を引き寄せながら、時計回りに走りこんで奴の向きを転回させる。

 二本のデブ脚で、やじろべえみてえな体を、ヨタヨタしながら捻るのを、ジッと見据える。


─── グラ……ッ


 攻撃に集中し過ぎだ、よちよちその場で足踏みしてた足が、つんのめって後ろにグラつく。

 黒い手の攻撃はまだ突き出されていたが、角度が変わってバラついた。


「うおらあああぁぁぁーッ‼︎」


 デブ脚のひとつ、その膝を狙って槍を投げる。

 鈍い音がして、穂先の半分までは突き刺さった。

 そこらの魔物なら貫通してるってえのに、何なんだこいつの硬さは!


 泣き言は言ってらんねえ、突き刺さったままの槍の石突きを蹴り込んで、地面に突き刺す。


『……グッオオオオォォォオッ‼︎』


 胴体に口がバックリ開いて、バカでけえ叫び声が上がった。

 あまりの爆音に、また意識が薄れかけたが、下唇を噛んだ痛みで堪える。


 バタバタと暴れるデブ脚、自由なもう一本には目もくれず、更にもう一本の槍を握りしめて、さっき突き刺した槍の近くに、全体重を掛けて地面まで貫き通した。


『グガアアアアアアッ! ウガアアアアアッ』


 暴れに暴れる腕が一本、オレの脇腹に打ち当たる。

 ミスリル製の強化鎧が、卵の殻みてえに難なく吹き飛んで、骨の砕ける嫌な音が腹の中に響いた。


 腹の内側に、硬い異物感がザリっと伝わる。

 こりゃあ、肋骨何本かイッたな……。


 意識がぶっ飛びそうだが、ここで気絶したらお終い、この村の皆様と仲良くあの世行きだ。

 歯ぁ食いしばって腹筋を固め、肺にかかる圧力を、勢いよく息を吐いて逃す。


「団長ッ‼︎ 援護しますッ!」


「チッ! 邪魔すんじゃねぇぞクソがッ!」


 遅えよ……やっと目の色戻りやがったなコイツらは。

 だぁからお坊ちゃんだらけの騎士団なんざ、信用なんねえんだっての。


 だが、オレの前で数人が連携して、飛び回る腕を剣で打ち落としてくれたのは、マジで救いだった。

 更に後衛から回復魔術が飛んで来て、腹の傷が癒されていく。


 完全回復なんざ待ってらんねえ、いつこの貫いた膝をぶっ千切って暴れ出すか分かんねえからな。


 ……オレはハルバードを握りしめた。

 全長2met、斧刃とピック、そして先には槍の穂先がついた、バカみてぇに重てえ相棒。


 人に努力は見せた事はねえ、オレは『狂犬』なんだ。

 生まれつきのバケモンじゃなきゃ、人の感心は惹けねぇもんだからな。

 毎日血反吐吐くまで振り込んだ、血尿出るまで突き込んだ。


─── この忌々しい髭面を、ぶった斬るくれえは、鍛え込んであんだよッ‼︎


「……ぅうおらあああぁぁぁぁぁッ‼︎」


 全身に強化魔術、魔力をありったけ注ぎ込んで、ハルバードの刃先を野郎の喉元にぶち込んだ ───


─── ズドンッ! ……ボトッ、ゴロゴロゴロ


『ウバアアアアアアアアアアアアッ‼︎』


 腹の大口からとんでもねえ叫び声。

 だが、これが奴の断末魔だったらしい。


 伸ばしかけていた大量の腕と、胴体から生えてた赤ん坊の六本脚が、みるみる萎びて胴体に吸い込まれて行く。

 全身をビクビクとのたうち回らせて、震えながら縮んでいく野郎の姿は、最後にガリガリにやせ細った、ただの人間の死体になった ───


「だ……団長。これ……ハンス・アーウィンですよ。の、乗り移られていたんでしょうか……」


「さあな、知らねえよ変態背教者の事なんざな……。

─── オレぁくたびれた、家に帰るぜ?

報告はテメェがやっとけ」


「……は、はいッ! お、お疲れ様でしたッ!

相変わらず、素晴らしい武勇の冴え、感服いたしましたッ!」


 そう言うのは要らねえんだよ。

 親父が冤罪で失った信用は、疑惑が晴れても戻りゃしねえ。

 オレのトコに嫁がせる家もねえだろ。


 オレの代で終わり、おふくろが死ぬまで、オレが金を稼いで安心させてやんなきゃよ。

 いつかまた、口が聞けるようになるかも知んねえしな……。


 あの日、オレは全てを失った。

 獄中で死んだ親父、心がぶっ壊れたおふくろ、代々の家と使用人達は奪われて。

 貴族同士のハメ合い、よくある話さ。


 信心? んなもんあるわきゃねーだろ。

 祈ったって、銅貨一枚、神さまは恵んでくれなかったぜ?

 この騎士団にだって、一体どれだけ殉教の志し持ってる奴がいるものか……。


 結局はお給金と、退役後のコネ作りだわな。

 ……まあ、この騎士団の上部に居た奴らが、その後どうなったのかってのは、秘匿されてっけどよ。

 よっぽどいー暮らししてんだろう。

 オレの退役まであと二年、おふくろが死ぬまでは、オレは『狂犬』の仮面を被るのさ。


─── 真面目に生きたって、全てを失う世の中だ


 全力でオレを受け入れてくれるのは、ペルちゃんくらいなもんだ。


「チコ団長、お、恐れながら帰還は少しお待ち下さい……!」


「あ?」


 立ち止まって聞き返しただけだ。

 それだけで後ろのがブルってんのが分かる。

 ……これもクソ溜めみてえなスラムに放り出された経験かね、弱え奴の気配は嫌っつー程分かんだよ。


「……何かあんのか?」


「あ、は、はいッ! も、申し訳ございませんッ‼︎」


「そー言うのはイイからよ、さっさと話せ」


 振り返ると、顔を真っ青にしたひよっ子が、恐る恐る口を開いた。


「げ、現在世界各地で、この度と同様の怪異が起きていると伝令が……

─── おそらく、元公爵と同様の魔物化が、街全体で発生しているとの事です」


「ハァ……。銀鳳セバスティアンは殉職、経典狂のラブリンちゃんは、ヴァレリー司教の護衛専任。……人材不足だねぇ、我が騎士団は。

─── わぁったよ、次はどこだ?」




 ※ ※ ※



─── 三ヶ月程前


 アルザス帝国に、本格的な雪の季節が訪れた。

 世間は年末の賑わいに、活気付いている頃のはずであるが、今年は少々様子が異なっている。


「「「エル・ラト教、バンザーイ! 極光星騎士団バンザーイッ‼︎」」」


 北アルザスと南アルザスの中程、ホドールの街にも雪がチラつき、人々が足早に行き交う中、雪に当たる事も厭わず歓声を上げる人々がいた。


 『栄光の道』の北端に当たるこの街は、数ヶ月前からシリル情勢を懸念した帝国により、閉鎖されたままだ。

 アルフォンス達がフィヨル港に向かった時も、この閉鎖によって更に南側の亜人の居住区である緑の帯(ランヤッド)経由を余儀なくされた。


 長引く貿易路の閉鎖に、苛立ちを抱えていた人々は、この二ヶ月程の間は、恐怖に怯えてくらしていたのだ。

 世界同時多発した『魔物化現象』である。


 タッセルに収監されていた死刑囚、ハンス・アーウィン元辺境公爵の事件は、わずかな時を置いて世界中で確認された。

 通常の武器や魔法がほとんど効かず、場所を選ばずに発生したこの事件は、世界を混乱に叩き落としたのである。


 突如として魔物化し、艶ひとつない炭のような体、そして舌先まで真っ黒な怪物……



─── 人々は『黒舌くろじた』と呼び、恐れた



 しかし、エル・ラト教教皇ヴィゴールと、アルザス帝国皇帝ハーリアの、迅速な対応の結果、極光星騎士団並びに帝国軍を派遣。

 約二ヶ月程度で、魔物化された者達の殲滅を終えようとしていた。


 世界は帝国とエル・ラト教、特に極光星騎士団の活躍に興奮し、近年稀に見るアルザスの評価高騰が起きている。

 ここホドールの街もまた、これまでの不満の反動か、その熱狂に酔いしれていた。


「いや〜、流石だよな教団は! また勢い付くんじゃないか?」


「教皇ヴィゴール聖下の御英断は素晴らしいね!

……ちょっと大人しいお方だと思っていたれど、歴代でもかなり評判をお上げになられたのではないか?」


 白い息を吐きながら、口々に交わされる言葉には、その熱狂とは逆に続く昨今の経済不況を忘れようとしているかのようであった。


─── そんな街中を、ひとり顔を伏せるようにして足早に歩くフード姿の人影があった


 その男は他の熱狂から逃げるように、街の繁華街から離れ、住宅街の外れの寂れた道を行く。


 辿り着いたのは、一軒の古い屋敷。

 かなりの年月を経たであろう、伝統的な豪造りの屋敷は、火が消えたように灯りがない。

 しかし、男がドアノッカーを打つなり、使用人が招き入れ、再び辺りは静まり返った。


「 ─── デューイ枢機卿代理……!

このような所まで、わざわざお越し頂き……」


「アルマス君。私はもう既に枢機卿代理の任は解かれたのだがね……?」


「も、もも、申し訳ございません!」


 タッセルで人身売買組織と繋がり、教団派のトニオ司教を陥れんとしたアルマス元司教。

 彼は金銭の受け渡しと、複数の行政関係への収賄容疑で司教職を解かれたものの、元々が上位貴族であったため、現在、在宅での起訴を待つ状態にあった。


 ここは彼の別邸のひとつであり、こうして少しでも刑を逃れんと、様々な人物を招いていたのである。


「 ─── こんな所まで来たのは他でもない。今回の件に関して、私と貴方とが、どんな関係であったかの口裏合わせをだね」


「……はい。それはもう、如何にすればデューイ司教にご迷惑が掛からないものかと……」


「よろしい。ひとつ私の言う通りに証言するのならば、貴方の罪が少しでも軽くなるよう、法相の知人に取り合っても良いと思っているのだ」


 デューイ司教の言葉に、アルマスは目の下をクマで真っ黒にした顔を綻ばせ、縋るような顔で頭を下げた。

 その頭頂部をデューイ司教は、汚物を見るような目で睨みつけ、咳払いをして話を続ける───


「証言の内容はだな……

─── うん? なんだか臭うな……」


「はい? 何か不快な臭いでも……あれ?

本当ですね……錆びのような……これは、もしや、血の……」


 その瞬間、一気に臭いが強まり、ふたりは強烈な吐気と耳鳴りに襲われ、這うように廊下に出る。

 しかし、助けを求めていた使用人も、ふたりと同じく口元を押さえて床に伏していた。


「……う、うぅ……ぐあっ」


「おえっ、おえええ……っ」


 臭いと耳鳴りが最高潮に達した時、彼らはドス黒い血の渦に飲まれたような錯覚に襲われた。


─── それが、彼らが人間として最後に感じた、この世の感覚だった




 ※ ※ ※




「申し上げます、ヴィゴール聖下……っ!

光超上級魔術による、街の閉鎖結界は成功しました。しかし、想像以上に乗っ取られた数が多く……。食い止めるには持って半日だと……」


 アルザス帝国領土に食い込むように位置する国、エル・ラト教の総本山ルミエラ市国。


「 ─── 分かりました。

結界は術者を集め、継続して結界を掛け続ける事は可能ですか?」


「は、はい……。ただ、閉鎖結界に要求される技術と魔力は桁違いに大きく、術者は現在六名。一度使用すれば、一週間は再使用に耐えぬ程に術者は消耗するかと」


「分かりました。つまり、最大で後三日程の猶予は稼げるのですね」


 教皇はあごを撫で、しばし思案する。


「─── しかし、これは困りましたね。

先のオウレン枢機卿の失脚から続いた、デューイ枢機卿代理の解任。

極光星騎士団の決定権を持てる枢機卿が、決まっておりません。

せめてデューイ司教がいて下さったら、急拵えで名前だけでも立てられたのですが……」


 アルマスが蟄居していたホドールの街は、これまでで最大級の『魔物化』に見舞われた。

 原因も正確な『魔物化』の数も不明である。


 周辺に逃げ延びたホドールの住人は居らず、またそこに訪れていた一部の人間も、音信不通のままであった。


─── 奇しくも、その中に今なお影響力の強い、帝国派司教デューイ・バルサムの名も含まれていたのである


 教皇の悩ましい溜息に、補佐役は額に汗を流した。

 枢機卿は単に全国の司教を統括するだけではなく、帝国から準兵団として認識されている極光星騎士団の最高責任者でもあるのだ。


 本来なら枢機卿の選定は、各司教および、内外の高位聖職者達の厳正な審査の上決定されるものである。

 それはエル・ラト教内に制定されている、教会法によって定められた、教皇と言えど逸脱は許されないもの。


 この教会法は、帝国との協議の結果定められた、言わばエル・ラト教が公国ルミエラ市国として独立しているための鉄の掟なのだ。


─── しかし、教会法にはもうひとつ、枢機卿選定の方法が記されていた


「…………国家及び、周辺国の動乱、災害時における、枢機卿以下、教団の各責任者の選定は、教皇の裁量にて選定。アルザス帝国皇帝の任命許可を得て、暫定的に任命する」


「は、はい。第七十二条三項、緊急時における特例措置法では、そ、そのように……」


 補佐役が唾を飲む音が響いた。

 枢機卿の権限はそれ程に高く、暫定的な任命となる特例措置であっても、教団内のパワーバランスに大きな影響を与える。


 彼が緊張するのも無理は無い。

 場合によっては教皇の進退に関わる、重大な決定に迫られているのだから。


「ハーリア陛下に任命許可の書面を……」


「 ─── ! し、して、その新枢機卿は、ど、どちらの者でありましょうか……?」


 教皇は肘をついた姿勢で顔の前に手を組み、穏やかに微笑んだ ─── 。


「……ヴァレリー司教を、枢機卿に任命します」


 補佐役の額から、大粒の汗がひとつ流れ落ちた。

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