第八話 七魔侯爵セィパルネ

─── やや遡り、セィパルネの水柱に、閉じ込められた直後


「うーん、流石に水の七魔侯爵。水の操作と威力は、半端じゃないなぁ」


 俺は激流の中で、術式を高速展開させ、周囲の水を弾いていた。

 水自体にセィパルネの魔力が施されていて、中で結界を張れないように、妨害する術式が組み込まれている。

 結界もダメ、転位魔術もダメ。

 ただ、苦肉の策で術の分解を試みてみたら、案外いけてしまった。


「ロフォカロムもそうだったけど……。ちょっと魔力に頼り過ぎなんだよなぁ、こいつら。

術式も練られてはいるけど、ガサツだし」


 このまますぐに分解し切ってもいいけど、そうしたらセィパルネも、次撃ってくるだろうしなぁ。

 俺の周囲に出来た空間の脇を、ズタズタにされた魔獣が、成す術なく水流の中をすっ飛んで行くのが見えた。


『『パパァ〜っ☆』』


 と、左腕の籠手が、状況にそぐわぬ抜けた声で話しかけてくる。


「おう、マドーラにフローラ。また七魔侯爵だよ。今度は水だってよ。

─── もしかして、この次のも闘いになんのかねぇ」


『うはw パパ、もう次かんがえてるー☆』


『水の人、無視とか、辛辣ゥー☆』


「お前らだって、ケラケラ笑ってんじゃねーか。

しかし、どうしたもんかね。ロフォカロムの時と違って、現実だからな。

殺すのはまずいが、中途半端な手加減は流石に危険だしなぁ……」


 魔公爵は乗り移って、ずっと生きてるとは聞いたけど、肉体が滅んだらどうなるのか。

 災害を管理してるとか言ってたし、タイムラグとかあったらどうしよう……。

 ロフォカロムに聞いておくんだったな。


『ねえパパ、ロフォ……ロフ……ちっ。……羽ロウソクからの贈物、使わないのー?』


『あレ、使えば濡れ女くらイ、イチコロだヨー?』


「濡れ女って、地方の昔話じゃねぇんだから。

─── うん? ロフォカロムからの……? なんだそりゃ」


 別になんももらってないんだが、魔導人形姉妹はウキウキした様子だ。


『メニュー表で、さっき見つけたのー☆』


『メニュー表ニ、なんかあったノー☆』


『『じゃ、私たちが使ってあげる〜♪』』


 セィパルネの水、分解するので忙しいんだけどな……とか思ってたら、籠手が勝手に俺の左腕を持ち上げた。


『『日照ひでれー☆』』


「ひ、ひで?」


 魔力とも、奇跡とも違う、なんらかの力が働いた。


─── シュウゥゥゥ……ッ‼︎


 途端に、俺の周囲の水が消えて、空間がぽっかりと広がった。

 なんだか嫌な予感がして、加護カードを取り出してみた。



◽️アルフォンス・ゴールマイン


守護神【光輝く無数の触手とヘタレ聖女】


加護【光輝く無数の触手とヘタレ聖女】


特殊加護

事象操作【斬る】【掌握】

肉体変化【触手たくさん】

触手操作【淫獣さん】【一人上手】

蜘蛛使役【蜘蛛の王】

光ノ加護【光在れ】

自然操作【日照り神】←New!



 ……日照ひでり神??


「ロフォカロムの野郎ッ、余計な事しやがって……!」


 日照りを起こす勇者とか、聞いた事ねえ!

 また悪役比率が上がっちゃったじゃねーか! ずっと気になってんだけど【一人上手】は消えてくんねえかなあッ!

 【淫獣さん】もだけどなぁッ!


 確かロフォカロムの力って【ヘーゲナの炎】とかって、かっこいい名前の加護じゃなかったっけ⁉ またバグッてんのかよ!


「とは言え……今この加護は、頼もし過ぎるくらいだな」


『『あいつの水、全部消しちゃうー?』』


「 ─── いや、こっちも水で対抗して、完全に力を認めさせる。話くらいは、ちゃんとして欲しいしな。

その前に……この水柱をぶっ壊す。力を貸してくれ、マドーラ、フローラ」


 中級魔術までなら、コントロールした上で、本気が出せる。

 上級魔術だと、ふたりが焼き切れるし、おそらくセパルの街まで崩壊してしまうだろう。

 まずはこの水の猛威を、出来る限り派手に無力化したい所だ。


 ふたりに語りかけ、術式のイメージを、明確に思い浮かべた ─── 。


「 ─── 【氷結波レウ・トン】」


 白い波動が広がり、猛烈な水流が、一瞬にして氷ついていく。




 ※ ※ ※




 呆然とするセィパルネの前で、アルフォンスは一言『邪魔だな』とつぶやき、氷柱に触れる。

 それだけで巨大な氷が、水へと戻り、河へと落ちていく。


 熱を奪い、凍りつかせる術式を、逆に発動させたのだ。

 その手際の鮮やかさに、セィパルネはジリッと後退あとずさる。


「 ─── ずいぶんと殺したもんだな……」


 アルフォンスの下に広がる河には、ヴィニルに暮らす水棲生物や、魔獣の死体がおびただしい数で浮かんでいた。

 爆発的な水圧の変化で、目を回しているだけのものもあれば、黒い霧となって散る魔物の姿もある。


 それを眺めて呟いたアルフォンスから、突如、鋭利な刃物の如き殺気が、セィパルネに向けて放たれた ───


「グッ⁉︎、な、何だと言うのだ、その凶悪な魔力は……ッ!」


「 ─── てめぇ、食べ物は大事にしろって、教わんなかったのかッ! コラァッ‼︎」


「……ひぃッ⁉︎」


 アルフォンスから垂れ流された、ドス黒い魔力が水面に触れると、そこに浮かぶ死体の数々がビクビクとうごめき出す。

 強烈な負のエネルギーが、死に掛けた魔獣や水棲生物達のアンデッド化を引き起こしていた。


「こんだけありゃあ、何日食っていけると思ってるッ!

─── ロフォカロムもそうだったが、お前ら周り考えずに、バカスカやり過ぎなんだ!

ちったぁ、周りの迷惑考えろッ‼︎」


 髑髏どくろの眼窩が、ギラリと紅く光り、口からは呼気と共に炎がチラついた。


 その左腕の籠手からは『パパのキレ所、分かんな〜い☆』と、きゃっきゃっする声が響いている。

 ……普段あまり怒りを露わにしない者程、そのエネルギーは高く、そして怒りの理屈は一般とズレ易いものである。


「力ってのは、デカけりゃいいってもんじゃねえ! 有効に、的確に、狙い澄ましてつかえやゴラァッ‼︎」


 アルフォンスが珍しく、怒りに震えていた。

 それは足元に浮かんだ、巻き添えの魔獣達の姿を見て、彼の幼い頃の修行が思い起こされたせいかも知れない。


「食うつもりも、活用する気もねえなら、無駄に殺すんじゃねぇッ!

魔獣に勝てずに、飢えるひもじさを知らねえな? ナイフ一本で、魔獣だらけの森に放り込まれる、そんな子供の気持ち考えた事あんのかボケェッ!」


「 ─── し、知らぬわそんなことッ!

それに……ぼ、ぼけ……ッ⁉︎ ボケとはなんだ!

我に向かって、説法垂れるとは思い上がりもはなはだだし……」


 言い掛けた瞬間、髑髏のあごが、クイっと持ち上がる。


─── 直後、セィパルネの周囲の空気が、激しく回転する細い水の輪となって、彼女を縛り上げた


 必死に振り解こうとするも、アルフォンスの眼前から放たれた、水の矢がセィパルネの肩を貫いた。

 更に彼女の真上に現れた、ひと抱え程の水の球体が、水の矢に気を取られた彼女へと直撃する。


 水球は恐ろしい密度で、彼女の体を押し潰し、猛烈な勢いで河へとねじり込む。


─── ダッパァ……ンッ!


 派手な水飛沫を上げ、沈み込んだ彼女の体は、直ぐさま上空に飛び上がる。


「この『海皇』セィパルネに、水で挑むとは愚かな! そんなもの、この我には通用せんわッ! くらえぇッ‼︎」


 怒りに空気すら震えさせ、圧縮された水の刃を、セィパルネは狂ったように乱れ打つ。


「ここは河ですぅーっ! 皇とか言われても、ピンと来ないんですぅーっ!

それに通用してんじゃねえか、肩血だらけだぞオラァッ‼︎」


『『アハハ、パパこころせまーい♪』』


 アルフォンスはロフォカロムの加護を使う事なく、セィパルネの水の刃の術式を、上書きする事で無力化していた。


 彼がいきり立っているのは、幼少期の辛い過去を思い出しただけではない。

 思い上がりで、話を聞かない相手が、単に苦手だと言う所もあった。

 ……ある種、これも里の師匠達の、実直な人柄の中で、育ったせいもあるのかも知れない。


 ある意味で育つ環境が悪く、またある意味で育つ環境に恵まれた、彼ならではの怒りである。


「ん、オニイチャが、子供みたいにキレてる」


「……あんな姿、初めて見たわ」


「くすっ、ちょっと可愛いの♪」


「ふおおっ、あれはレアですよ!」


「…………何やってんだアイツら」


 少し離れた所で、婚約者四人とロジオンが、ふたりの闘いを見守っていた。

 アルフォンスが転位させられた当初は、怒り狂っていたソフィアも、今はニコニコと我が子の成長を見守るかのように微笑んですらいる。


 それ程、アルフォンスとセィパルネの格の違いは、明白であった。


「たまにはイイんじゃないですかね♪ アルくんは普段から冷静です。

戦闘に感情は邪魔になりますけど、闘いに思いを込めるのは、成長につながりますし」


「ん、オニイチャは、ダグ爺たちに、そうしこまれた。最近、ちょっとオニイチャ、凹んでたから、ちょーどイイ。

ロフォ……ロフ? ちっ! ……はねロウソクとたたかって、本気出せるよーになったし、また強くなる」


「ロフォカロムな。

……オレがアルフォンスの闘いを、この目でちゃんと見るのは、初めてだが……な。

─── あいつ、大魔導師どころの騒ぎじゃないぞ? 何で海皇の水魔術を、ああも簡単に制圧できるんだ⁉︎」


 ロジオンが瞠目どうもくする先から、アルフォンスの術式書き換えの速度が、更に上がっていく。


 セィパルネの術式の癖を見抜き、書き換える箇所を確定した段階から、上書きする術式のテンプレート化。

 彼女の水の刃に、判子を押すように無力化していた流れを、さらに先回りして水が集まる端から水蒸気へと置き換える。


─── そして、とうとう、セィパルネの体から、魔力が発せられる瞬間を捕らえるまでに到達した


 ロフォカロムが、魂を媒体に炎を操っていたように、セィパルネもそうして水を起こしている。

 魂にイメージされた段階で、外に術を起こす先から、アルフォンスは乗っ取っていた。


 術を発動した瞬間、セィパルネは自らの水魔術で、至近距離から撃ち抜かれた ─── 。


「……グッ、ああぅ……ッ!

貴様、貴様ぁぁッ! 何なんだ、何なんだこれは、ズルいぞッ⁉︎」


 全身をズタボロにされ、露わになった肌を隠しながら、セィパルネは屈辱に耳まで染め上げて叫ぶ。


「……高レベルの魔術師との闘い、やった事ないのか。

この程度、まだまだ生温い書き換えだが。これならとある田舎の婆さんの方が、遥かにおっかなかったぜ?

─── 俺の本気が見たかったんじゃないのか」


 セィパルネは強い。


 人界の魔術師団や、宮廷魔術師にとっては、まさに天災を相手にするようなものだろう。

 それ程に彼女の扱う水の力は、その質も量も人智を遥かに超えた、正に神業である。


 これまでの悠久の時の中で、彼女の水の力を、真っ向から出し抜いて見せた存在など、あった試しがなかったのだ。

 それだけでも驚愕に値するというのに、アルフォンス自身の攻撃は、未だほとんどまともに繰り出されてすらいない。


「……黙れ、このバケモノめがッ!

我の怒りに触れたこと、後悔して死ぬがいい!」


 セィパルネの放つ術式に、変化が現れると、周囲一帯の空気が冷たく重く張り詰めた。

 まるで海中に引きずり込まれたように、空気がまとわり付いて、動きを封じる。


 空気は濃密な魔力が込められ、河の遥か上空まで、薄っすらと光る術式に埋められていた。

 その湿気た魔力には、水柱の時と同じく、転位や結界などの対処が、禁じられる術式が込められている。

 はだけた胸元を押さえながら、彼女は腕を大きく振り払う。


「 ─── 【大海嘯だいかいしょう】……!」


 大河の水位がぐんと下がる。

 直後、遥か河下から、地響きが伝わり、周辺から鳥達の騒いで逃げるざわめきが始まった。




 ※ ※ ※




 筋力を強化して、爪に魔術を付与して、近づくのが面倒な相手は魔術印で一掃する。

 つい最近まで、あたしにとっての魔術とは、肉体強化の延長線上でしかなかった。


─── それは、魔術印に頼って、術式の知識を諦めていたから


 それが、ユニと【従動解放リンク】を考え出してから、術式の知識が不可欠になった。

 最初は、自分のおばかちゃん加減に、酷く落ち込んだりもしたにゃ……。


 でも、今まで魔術印を使って、戦闘を繰り返していたことが、術式を肌で感じていたのだとも分かった。


─── 術式が見える


 セィパルネとかいうあの女は、とんでもない術式の制御を、息をするようにやってのけている。

 多分、あれはひとつひとつ、その場で考えてなんかいない。


 感覚的に覚えてる術式の塊を、その場その場で的確に放り込んでいるんだ。

 その判断があまりにも速くて、傍目には魔術を起こしてるようにすら、見えないと思う。


「 ─── 【大海嘯】……!」


 彼女の声が通るより先に、河全体が青白い術式の津波に、一瞬で埋め尽くされた。


 範囲は河の見渡す限りの先、水面の真上に向かって、セパルの街の建物より高く。

 河の上に巨大なウワバミが、ぴったりと乗っているような状態。

 術式の光に覆われて、河の中は、逃げ場すら見えない。


 ……アル様はいつも言う。


 『術式を覚えるなら、実戦に勝るものはない』と。

 それは、魔術は起こしてナンボじゃなくて、相手に完全に叩き込むまでが、大事なのだからと教えてくれた。

 上級者同士の魔術の戦いは、術式をいかに触らせないかだとも。


─── アル様の術式の書き換え速度は、神懸かってる


 あの術式の書き換えは、もう魔術を操っているようには見えなかった。

 あれはまるで、魔術王国ローデルハットで見かけた、算術の天才が演算を書き込むような、もはや曲芸……。


 書き込む文字列の光が、芸の域にあるとすら思える。

 それが分かるようになっただけでも、あたしは成長したのだと、誇りに思えていた。


─── でも、あれは流石に無理だ……


 あたしたちが船で上って来た、遥か向こうの空が、白い壁に覆われた。


 『大海嘯』 ─── 。


 海嘯は元々、月の満ちた時に起こる、海からの逆流だとあの淫魔は言ってたけど……。

 あれは……逆流なんてもんじゃない


 海が陸にのし上がる。

 そんな悪夢が、この河の上だけで起こるなんて、誰が想像するもんか。


─── 流石に……こんなのはアル様でも……


 濁流の山が迫る度に、地響きが激しく、圧力が上がって耳鳴りがする。


 アル様は微動だにしていない。

 髑髏の兜の下は、一体どんな顔をしているのか……。

 思わず飛び出そうとしたあたしの前には、ティフォ様の手が突き出された。


 見ればティフォ様も、ソフィも、ただジッとアル様を見つめている。


 ……これは信頼? それとも、アル様が魔王になるために、越えなきゃいけない壁だから?

 焦って混乱しているあたしには、ふたりの表情から、その考えは読めなかった。


「 ─── エリンちゃん、ユニちゃん。落ち着いて、よく見ていた方がいいですよ」


「…………え?」


 私と同じで不安そうに、ソフィを見上げていたユニが、アル様に振り返る。

 ……アル様がゆっくりと腕を上げ、セィパルネを指差した。


─── その直後、河全体を覆う、巨大な水の山脈が、アル様を直撃した


 盛り上がった海嘯は、セパルのどの建物より高く、遥か遠くから押し寄せている。

 泥を巻き上げた濁流は、大陸が激突して来たようにしか、見えなかった。

 

 そんな馬鹿げた大災害だというのに、土手にいる私たちには、水しぶきのひとつも飛んで来ない。


 完全な制御、全く無駄のない破壊。

 あたしはただ、呆然とするしか無かった。


─── アル様が居なくなる……


 そう絶望した時、あたしはその光景を目にして、頭の中が真っ白になってしまった。

 何が起きたのか、全く理解が出来なかった。


「…………な、波が止まった……の?」


 ユニの上擦うわずった声で我に返る。


 ティフォ様とソフィは、その光景をやっぱりジッと見つめているだけだ。

 流石のロジオンも、口を開けっぱなしで、立ち尽くしていた。


─── 大海嘯……いや、この絶望的な津波は、セパルの街の水門の直前で、ピタリと止まっていた


 水の揺らめきひとつなく、時間が止められたかのように、尾根のような水の塊が留まっている。

 汚泥を含んだ濁流が、黄昏たそがれ前の日射しを遮って、大きな影を作っていた。


 世界の仕組みが、まるであべこべにされたかのような光景に、夢でも見ているのかとただ呆然とする……。


「 ─── もぉ〜っ! わたくしだけ置いて転位するとか、酷すぎじゃなくて?」


 ヒルデリンガが上空から現れ、腰をくねらせて歩きながら、ソフィに近づいた。

 そう言えば、彼女の姿は見かけてなかった。


「……あなたが居たら、きゃーきゃーうるさそうだったんで、切り捨てただけです♪

─── それより静かに。今、すごくいい所なので、見逃したくないんですよ」


「…………! これは……数十万年に一度の、演算ショーですわねっ⁉︎

…………闇神おんしんアーシェスでも、降臨されたのかしら……?」


「ん。だまれ、いんらん。を見逃す」


 闇神アーシェス? アル様に魔術の智恵を授けた、師匠の名前だ。

 ……え? その師匠が来たの……?

 それに術式?


 困惑するあたしの目の前で、セィパルネの編み出した水が、唐突に消え去った。


 そこにあったのは ─── 、


─── 青白い鬼火を、無数にまとわりつかせる、漆黒の鎧姿


 そして、その姿に茫然自失となった、セィパルネの姿が対峙していた。


 ……あたしはやっぱり『おばかちゃん』だ。

 視界が晴れて、初めてあたしは、ティフォ様とソフィの言っていた意味を理解した。


─── アル様を中心に、大河の水全てを、青白い術式が覆っていたのだ


 彼の周囲に流れていた、魔術文字の羅列が、その締めのつづりを映して消える。


「…………な、なにが起きた……? なにを……した」


 セィパルネの喉から、かすれた声が呻きのように漏れると、アル様は掲げていた腕を下ろした。


「 ─── てめぇ、性懲りも無く、また無駄な殺生を……。

いいか、よく聞け。『食べ物は大事にしろ』だ」


「……⁉︎ こ、この後に及んで、また訳の分からぬことを……ッ!」


 『かちん』と音が聞こえた気がした。

 髑髏の兜が小首を傾げると、再び腕を前に伸ばして、手の平を上に向ける。


「まだ話も聞けねえか……。

─── 分かった。黙らせてやる」


「「「 ─── ッ⁉︎」」」


 アル様から、膨大な魔力が放出された。

 これは……水の魔術の気配?

 いや、こんな禍々しい水属性の術なんて、聞いたことがない。


 お腹の奥底から、あたしの体が震えだす。

 怖い? 圧倒された?


 ……いや、これは本能が、彼の力に畏怖いふしているのだと、そう脳裏に答えが浮かぶ。

 そして、それは殺意を向けられているセィパルネも、同じだった。


「 ─── ま……魔王……ッ」


 セィパルネの口から、搾り出された言葉に、あたしは思わず唾を飲み込んだ。

 アル様の魔力が、最高潮に達した時、彼の手の平に変化が訪れる。


─── 手の平から真っ黒い水が滴り落ち、水面にポタポタと、波紋を描いている


 水面は無風の水たまりのように、ただ静かに波紋を広げていた。

 直後、ものすごい速さで、河の水が真っ黒に染め上げられてゆく……!


 それは一瞬で広がり、光ひとつ無い闇へと、全ての水を塗り潰す。

 そして、セパルの街のてっぺんからも、黒い水が溢れて、白い街を黒く蹂躙じゅうりん

 水の都が、地獄の沼のような光景と化していた。


「 や、やめ……! ま、街には……手を」


「心配すんな。てめえの水の権限を、塗り替えただけだ。

……大体、お前だって、自分の街を巻き込むつもりだっただろうが……ッ!」


「ま、街に被害は出さん! あの街はそうできておる! 我の【大海嘯】だって、そう最初から仕込んでおるわッ!」


「 ─── だとしてもだ。この馬鹿騒ぎで、街で働く者達の時間を、一体どれだけ奪ったと思うんだ?」


 働く者達の時間?


 ……ああ、確かに。

 こんな騒動が起きたら、生活の再開なんて、すぐに出来るはずもないもの。

 あれだけの、大規模な大波が来る恐怖は、結構長いこと抜けないんじゃないかしら。


 少なくとも、あたしだったら引越すわね。


「き、貴様には、関係がない ───ッ! 」


「あー、切れた。切れちまったよ俺。話聞かない奴ニガテなんだよッ‼︎」


「な……ッ⁉︎」


 致命的に合わない相手って、たまにいるわ。

 確かにあの女は、ちょっと、だいぶ、かなり気に入らないけど……。

 何に焦っているのか、いちいちアル様と噛み合っていないのね。


 今は少し、あの女に同情してしまう。

 それくらい、アル様の禍々しい魔力が、更に大きく上乗せされたのだから ─── 。


「……話はここまでだ七魔侯爵。

弱者の不安を、思い知れ……!」


 アル様はすうっと息を吸って、黒い水の滴る手の平を、グッと握りしめた。


「 ─── 【隆水波ドゥル・スウェル】」


 言霊の直後、セィパルネの周囲の空気が、黒く染まりながら、一気に押し寄せた。

 必死に水の術式を書き換えて抵抗しようとするセィパルネが、何ひとつ成果を得られぬ絶望の顔で、呑み込まれてゆく光景が目に焼き付いた。


 球状の結界を作り出し、あの女を完全に、世界から切り離している。

 その漆黒の球体の中から、天をつんざく衝撃音が上がり、表面に電光を走らせて波打つ。


─── 二度、三度、それを繰り返した後、黒い結界が消えて、何かが吹っ飛んでいった


 数秒後、それが水門に激突して、一部分を破壊した。

 吹き飛んでいたのが、セィパルネの体だと、その時ようやく分かった。




 ※ ※ ※




 暗闇だ ─── 。

 天も地も無い、暗闇の空間に我は居た。


 我の耳に残っていたのは、あの『どうせクソ生意気なボンボン』と予言者に言わしめた、次期魔王の青二才の言霊だ。


─── 【隆水波ドゥル・スウェル】だと?


 ただの中級水属性魔術ではないか。

 精々が、水で敵を吹き飛ばし、陸で溺れさせる程度の児戯じぎのはず ─── 。


 最初に見かけた時、魔力もほとんど感じ取れず、ただの人間だと思っていた。

 それがクヌルギアス家の血筋だと分かり、正体を暴いても、単に脆弱だからこそ魔力を隠蔽いんぺいしきれていたのだと、そう思い込んだ。


 先代魔王のフォーネウスは、稀代の強者であったが、今のオリアルは『沈黙の魔王』だ。

 てっきり、その息子もかだと、見下していた。


─── それがどうしてこうなった……?


 大海嘯の術式はおろか、水そのものの制御まで奪われ、泡沫のように弾けて消えた。


 そして今だ。

 暗闇に囚われ、それが水の術式を利用した結界だと解っても、手の施しようがない。

 最早術式などという、人の紡ぎ出した事象などではない、完全なる世界の理。


 まるで隔離世界に引きずり込まれたかのように、この術式の世界は別次元を創り出している。

 いや、その認識すら間違いだと、それも直ぐに解った。


─── 強烈な水の気配


 結界の大きさは、小さな部屋程度。

 だと言うのに、迫り来る水の気配は、我の大海嘯と同じかそれ以上……!


 結界も防御魔術も使えぬ、無力な小娘と化した自分に気がつき、心臓に冷水を浴びたような感覚が、ゾクリと込み上げた。


─── そこにあの魔力、まるで先代と比肩する、邪神の如き凶悪さ


 こんなことがあり得るのか……?

 いや、あり得るのだろう。


 あの者が見せた術式の数々は、まさに神の御業としか言いようが無かった。

 ……契約前の半熟魔王に、なぜあれだけの力があると言うのか!


─── 思わず『魔王』だと、口をついて出る程に、我は屈服させられたのだ


 ……ああ、聞こえる。

 終わりの音が近づいて来た。


 これが中級魔術だと? 

 こんなもの、守護神クラスの精霊神の使う、超上級か、神聖級の超自然的悪夢だ。


 ふふ、あー、笑えて来た。

 確かアマーリエは、こうも言っておったな。



─── 『やっぱ、怪我させたらぶっ飛ばす。でも、闘えよ! わかったかコラァッ!』



 『怪我させたら』だと?

 どうやってアレに、傷のひとつもつけろと言うのか……。


 ぶっ、ふふふ……っ!

 ムリだわバカ! 見ろ、木っ端の如く吹き飛ばされる我の姿をッ‼︎


 いや、黒い結界に激突して、落ちる所を二撃、三撃。


 あははは、己の骨が砕ける音を聞くなど、誕生以来初ではないか!

 意識? 痛覚? そんなもの、一撃目で剥離しとるわ!


 恐怖もクソもなく『わぁー、我の体もみくちゃ』って、肉体から離れた魂で、実況するしかないとは……。


 そこで現実の情報すら切り離され、真の暗闇に包まれた。

 音も無く、温度も無く、己の形すら分からぬ。


 死とは、これほどに唐突に、叶えられるのか。

 生とは、これほどに唐突に、断ち切られるのか。


─── アルファード殿下か、ちゃんと話せば良かったと、後悔しても今更遅い……


 次に逢えるのは、いつになるのだろうか。

 これ程の圧倒的な力の差が、この世に存在するとは、まことに貴重な体験であった。


 彼は魔王となろう。

 それも絶対的な存在として、魔界に君臨するだろう。

 ……闘えてよかった。

 再び合間見える時は、魔界の者の掟にならい、我もかしずくとしよう。


 ロフォカロムめ、真っ先にそれをするとは、どこまでもズルイ奴だな……。


─── ブツリと何かが切れる音を最後に、そこで意識が途絶えた

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