第六話 遡上

 魔大陸は北緯が高く、人界より寒くなるはずだが、そうじゃない。

 現に今、人界では一番寒い、冬真っ只中だと言うのに、これはまるで春の陽気だ。


 魔界には暦の上の四季はないらしい。

 もちろん太陽の位置の関係で、一年を通して多少の温度差は起こるが、雪が降るほど冷えず、うだるような暑さもない。


 いや、正しくは地域によって違うらしいが、少なくともこのロフォカロム魔侯爵領に、厳しい夏も冬も訪れる事はないと言う。


 諸説あるらしいが、分かりやすいのは地熱説で、地下に高いエネルギー層があって、地の底から温められているとか。

 そして、一番魔界で一般的な説は、マナの循環による温暖な層が、大気に形成されているからだ、というものだ。

 この層が温室の役割を果たしている。


 地熱の高い地域は暑く、マナの大気層の薄い地域は寒くなる。

 魔大陸内に、地域によって四季が決まっているようなものなのだそうだ。


「 ─── 水の都セパルまでは、ここと気候はあんまり変りませんわ。

その先のパルモル平野は、ちょっと暑いの。

私は寒いよりは暑い方が好き……。

冷たいモノよりは、トロけるように熱いモノの方が、興味がありますのよ……♡」


「そうか、教えてくれてありがとう。

魔界の気候って面白いんだな。だから市場にあった食材も、多種多様だったのか」


「食材……そうね。おくちに入れるモノですもの、たくさんある中から、一番イイの、選びたいですわね……♡」


 ふわっとした、くしゅくしゅの白に近い白金の髪を、細くしなやかな指先で、スッとかき上げながら淫魔が言う。


「ん? まあ、食材はちゃんとしたもん揃えといた方が、メニューの幅も広がるな」


 テキトーに返したら、瞬間移動したヒルデリンガが、俺の腕に絡みついた。

 二の腕にたわわな重量物が、確かな反発力を持って、腕の形にたゆんでいる。


「んもぅ〜☆ そーゆうんじゃなくてぇ……。

そうね、知識とけーけんも、ちゃあんとしたのがあった方がイイかも♡

─── ねえ、おねーさんが、教えてアゲr」


「ええ、ぜひ教えていただきたいですね。

貴女がアルくんに、イタそうとしていることを。一体ナニを教えようってんですかね、クソ淫魔じゃなくて、ヒルデリンガさん……?」


「ふふっ、ソフィアさん?

アナタじゃ一万年がんばっても、扱えない蜜技ですわ。

いいですこと? 使わぬ器官は、無いも同じ。そんなことでは、あっくんのあっくんが、さぞかし……。

はぁ、これ程近くにいる女子がそこに思い到らぬなどなげかわしい。……あっくんがおいたわしい」


 あっくんて誰だよ。

 赤豹姉妹は『み、蜜技……』と、顔を赤らめて唾を呑んだ。


「ん、使わぬきかん……オニイチャ、きかんって、どー書くの?」


「って、ティフォちゃん! 何をメモってるんですか!

ダメですよ、こんなエロ女に毒されてしまっては、ただのエロ触手になっちゃいますよ⁉︎」


「…………何やってんだお前ら」


 ロジオンのため息混じりの声が、虚しく風で流れていく。

 水龍船の上では、ソフィアの黄金色の神気と、ヒルデリンガの紫のオーラがしのぎを削っていた。


─── 今は次の都市、セィパルネ七魔侯爵領『水の都セパル』を目指し、河を北上中だ


 ロフォカロム達と別れ、フォカロムの街の中を流れている、ヴィニル運河の支流を進む。

 この先で魔界でも一〜二位を争う大河、ヴィニル運河と合流し、二日程で水の都セパルに到着する予定だ。


 遡上中のこの船は、クマミミ商会の持っていた水龍の曳く船と似たもので、ヒルデリンガが手配してくれた。

 ヒルデリンガは魔大陸の旅の間、俺達のガイドとして、ロフォカロムに同行を勧められた。


 最初に会った時は、落ち着き過ぎてて、気怠そうにすら見えた彼女だったが……。

 何故こうなったのかは、フォカロムの街を出る二日ほど前まで遡る ─── 。




 ※ 




 魔公爵邸に数日滞在し、次の都市への出発の準備が整ったこの日、ロフォカロムに俺達は集められた。


「ロジオンが居りゃあ、大丈夫だとは思うんだけどさ。この二十年で様変わりした所もあるし、おれの息のかかった、いいガイド紹介すンよ♪」


「そいつは、信用出来るのか?」


「もち。生きてる時間は、おれとタメ張る、魔界のベテランだし?

実力もハンパないぜ♪

それに、おれには絶対、逆らえないかんね、アイツ。

─── おおい、入って来いよ〜!」


 扉が開いて入って来たのは、フォカロム港に着いた時、街を案内してくれたヒルデリンガだった。

 淫魔族は吸精で若返るせいか、長寿命な者が多いとは聞くけど、魔公爵のフォカロムと並ぶ年齢だったとは……。

 確かに彼女は妙に落ち着いてたし、魔力も隠してはいるけど、えらい凶悪なもんを持ってたもんなぁ。


「 ─── どうも……初めましてって……

あら、アナタたちのことだったのね?」


「お、なんだよヒルデ、もう知り合いだったのか。そんなら話がはえーわ。

ちょっとガイドしてやってくんない?

アスタリア高原の『灰村』まで」


「ずいぶん遠くまで行くのねぇ。大丈夫なのかしら、この子たち」


 彼女が現れた時点で、ソフィアは早くも沸騰しかけていたが、今の言葉で赤豹姉妹まで、目がオラつき始めてしまった……。


「あン? オメー、先輩に舐めた口聞いてっと、不敬罪で単純労働の刑にすっぞ?」


「ああ……それは止してちょうだい。穴掘ってまた埋めるとか、あれは病むのよ色々と……」


「つーか、先輩はおれより強えーぞ?」


 彼女は、驚いた顔で俺に振り返る。

 そうしてしばらく見つめられていた。


「そんな……嘘でしょう?

そんな人間が居て、たまりますか」


「マジもマジ、大マジだ。このおれが、先輩の炎魔術に倒されたんだぜ?」


「 ─── えっ? それって……」


 ヒルデリンガが弾けたように、俺に振り返った瞬間、ロフォカロムが俺に魔力を飛ばした。

 初めて会った時と同じく、俺の魔力が膨れ上がり、隠蔽いんぺいしていた角が露わになる。


「おいッ! ロフォカロムッ! アルフォンスの正体は伏せろと ─── 」


「大丈夫、大丈夫〜♪  ─── ほらっ」


 そう言って指をパチンと弾くと、ヒルデリンガの首に、紅い炎の輪が現れた。


「奴隷紋……⁉︎」


「そ、やんごとなき事情でさ、こいつとは奴隷契約結んでっから、おれの意思に反することしたら即死☆

てゆーか、それ以前にこいつは……」


 その瞬間、ヒルデリンガの眼が紫色に光ると、着ていたゆったり目の清楚な服が、淫魔のイメージそのままのハードな姿へと早変わりした。


「 ─── ヤダ……すっごく、すっごく、おっきい……です(角が)」


「うっ。こいつ……何いってんだ……?」


「まおーさまーっ♡」


─── ビッシィ……


 婚約者連合が動くより速く、俺に飛び掛かろうとしたヒルデリンガの首に、ピンと張った光の鎖が現れる。

 『うげぇ』とカエルの潰れるような呻きを上げて、彼女の体がバックドロップ気味に、後方へと叩きつけられた。


「すてい、ステイだぞー? ヒルデリンガ、おめー先輩に手ェ出したら、そこのおねーさんたちに殺されっぞ」


「まおーさまーっ♡ まおーさまーっ♡」


「聞いてねえ……」


「ほら、見ての通り、生粋の魔王さまフェチだかんな♪」


「いや、困る!」



─── 数分後



「アルファード殿下、先ほどは大変お見苦しい醜態を……どうかお許しくださいませ」


「落ち着いてなによりだ。で、君がガイド役になるのか……?」


「もちろん! 喜んで! よしなによしなに!」


 飛びつこうとして、また光の鎖で『ぐえ』ってる。

 ……本当に大丈夫なのかこいつ。


「心配ないって先輩。こいつ、おれ以上の『先代魔王派』だから☆

それに先輩の誕生披露式典の時、こいつも先輩に会ってるんだぜ」


「俺の生まれた時……?」


「はい! わたくし、あの時にあなた様をお抱きしましたの!

あの時から、素質は感じられておりましたが……。

─── これほどの、立派な御姿に……あふぅ」

 

 どうやら彼女は元々、魔界では有名な人物だったらしい。

 俺が生まれて数日後、魔王城で開かれたお披露目式典にも呼ばれ、俺を抱っこしてくれたのだそうだ。


「なんだって、そんな有名人の君が、ロフォカロムの奴隷に?」


「……お恥ずかしい話なのですが、借金ですの」


「こいつさぁ、ちょっとヤバい人の吸精しちゃってさぁ。その奥方がマジ切れってね☆

莫大な慰謝料を吹っかけられてやんのw」

 

「「「うわぁ……」」」


 彼女はテヘヘと笑い、懐かしそうな顔をして、語り出した。


「あれは恋でしたわ……。それがまさか、世の姿を忍んだ、高貴なお方だったとは。

よく調べもせずに、まあ、淫魔としてわたくしの手落ちですわね。

でも、その時の慰謝料は完済しましたのよ?」


「それで、なんで奴隷に」


「それは……」


「こいつ、完済するまで、吸精自粛してたらしいんだけどさぁ。

よりにもよって、今度はその息子さんを、毒牙にかけてやんの♪」


「「「うわぁ……」」」


 んで、魔界裁判で『単純労働の刑、五カ年』と、完済した慰謝料の倍額が科せられた。


「……だって、あの方に似ていたから、かれてしまって。

ご子息だと気がついたのは、私兵がなだれ込んで来た時でしたのよ……。

枕元にあのお方の奥方様と、ご子息の御婚約者様が、鬼の形相で立ってたのは、今でも夢に見ますわねぇ……」


「「「うわぁ……」」」


「その借金を、おれが肩代わり。代わりに奴隷契約して、おれの仕事を色々やってもらってたんだー☆」


「流石に、二度目ともなると、就職先もございませんでしたもので。テヘヘ☆」


 意外なことに、彼女に課せられる仕事には、事細かく料金が設定されていて、結構ちゃんとしているようだった。

 奴隷契約は、一応逃げないようにと、本人から進んで結んだらしい。


「こー見えて、こいつ『原初の魔性』って、淫魔の始祖みたいな魔物だかんね。

闘わせたらバカ強えし、魔界の有力者たちに顔がきくから、役に立つと思うよー☆」


「アルファード殿下、不束者ふつつかものではありますが、末永くよろしくお願いいたしますわ」


「……え? ガイドの間だけだよな?」


 あまりの事に呆然として、我に返ったのは、奴隷契約の連名権利者にされた後だった。


 ソフィア達が抗議したが、時すでに遅し。

 彼女がガイド役になる契約が、しっかりと刻まれてしまっていた、その後だった。




 ※ 




 磨かれた黒曜石のような、細く湾曲した角。

 くしゅくしゅと柔らかくカールした、白に近い白金の長い髪に片目を隠した、薄紫の瞳。


 露出度の高い衣装は、白い柔肌をより蠱惑的こわくてきに魅せる、黒くつややかな材質。

 まさに男を狂わせ、最期の一滴まで搾り尽くす、サキュバスのイメージそのまま。


 そのヒルデリンガが、正座してニコニコしながら、ソフィアの説教を聞き流している。


「一週間以内なら、返品可能とかないんですかねぇ……」


「まあまあ、ソフィちゃん。わたくし、結構役立ちますのよ? 慌てない慌てない〜♪」


 俺はユニとふたりで、河岸の風景を眺めながら、時折手を振ってくる人々にお返しするしかなかった。


「わぁー、今度は下半身が鹿さんの人なの。ツノも大っきいの」


「獣人とは違うんだろうな。ほんと、魔界は人種に溢れてるよな」


「うん、獣人族じゃないみたい。あ、手を振り返してくれたの♪ おーい」


「 ─── あれは、ファウヌ族ですわ。元はかなり神聖な種族でしたけど、四千年前の魔神戦争で、呪いを受けてしまいましたの。

魔力をほとんど失って、一時は激減しておりましたわ」


「うおっ⁉︎ ヒルデリンガいつの間に!」


 真後ろで聞こえた声に振り返ったら、唇を奪われそうな至近距離に、彼女の顔があった。


「ヒルデリンガなんて、長ったらしい他人行儀な呼び方は結構ですわ。ヒルデって呼んでくださいまし……♡」


 彼女の指先が、俺の胸元をツツっとなぞって、妖艶ようえんな笑みを浮かべる。

 憂いを帯びた瞳が妖しく光り、俺の目を真っ直ぐに見つめた。


「お、おう。今度からそう呼ぶわ」


「……ああっ! ファウヌの人が大変ニャっ!」


─── ドボン……ッ


 振り返った直後、河岸でにこやかに手を振っていた、半獣人の男が水柱を上げて落水していた。


「あら……。また失敗かしら? もう少し、出力を上げないとダメなのかしらね……」


「なんの話だ? もしかして、ヒルデが今なにか……」


「ホホホ。なんでもございませんのよ。きっとわたくしに見惚れて、足を滑らせたのでしょう♪

─── そんなことより、もう一度『ヒルデ』とお呼びになってくださいまし……♡」


 また彼女の瞳が光った。


「わっ、お魚さんたちが、すっごい跳ねてるよ! 網、網が欲しいのニャ!」


─── バシャバシャバシャ……!


 なんかデカい魚が一斉にジャンプして、船の腹にびたんびたんと、打ち付けていた。


「主人から、アルくんには手を出すなと、言われてたんじゃないんですか?

なに【魅了テンダーション】使ってんですか、このエロモップ!」


「なんのことですの? それにわたくしからおイタはダメでも、あっくんからだったら、わたくし拒否出来ませんのよ?」


「さっきからアルくんに、連続空振りじゃないですか……」


「それなのですわ。

なんだって、あのお方には、わたくしの魔力が届かないのか……。

─── 嗚呼っ、燃えてしまいますわぁ☆」


「やっぱ【魅了テンダーション】使ってたんじゃないですか!

オラッ、神妙になさいエロモップ! 修正して差し上げます‼︎」


 ソフィアに引きずられて、ヒルデがまた向こうに連れて行かれた。

 魚とファウヌ族の男は、船を泳いで追っていたが、やがて置いて行かれた。


「うん? アル様どうかしたの?」


 うわぁ……。

 ユニ、こうして改めて見ると、やっぱクソ可愛いなちくしょう。


 あれ? ユニってこんなに唇ツヤツヤだったっけ?

 あれれ……? ユニって、こんなにメリハリきいた、女の体だったっけ……!


「アル様ぁ?」


「んなっ! ふぐっ、な、なんでもない!」


 ヤバい……。

 ずっと耐えてたけど、ヒルデの【魅了】と【催淫】は、下半身に直撃だ……ッ!

 だいたい、なんなのあの胸、ゲル状なの?

 なんで仕草が一々えろいのあの人!


 あ、サキュバスだからか。

 いや、解決になってねーぞ⁉︎ だいぶ混乱してるな俺……。


「ん、オニイチャ。ティフォが鎮めてアゲよっか?」


「 ─── ぬぐっ、ティフォ、今俺の前に立つな……! おねがい、立たないで……?」


 あれ? でもなんか、ティフォを見て、大人ティフォ思い出したら、落ち着いて来たぞ?


 あー、アレの方が格段にヤバいもんな……。

 ティフォに【魅了】使われたら、俺、即オチじゃねえか。


「ん、そーいうのは、しないよ? オニイチャがオッケーになるまでは、がまんする」


「し、思考を読むなッ! ん? 『なるまでは』って事は……。

……つ、つまり、そうなった時は……?」


「もう、オニイチャなら、どうにだってヘベレケ」


 そう言って、悪戯っぽく舌を出して笑うティフォも、少し頰が紅い。

 ……あ、これはこれでヤバい……!


「ロジオン、俺ちょっと船体で寝て来るわ」


「船酔いか? ほれ、乾燥ハーブだ、これでも噛んで休んどけ。まだ先は長いからな」


 “世の中に、男しか居なければ、男は神の如き生活をしただろう”


 そんな詩を読んだ事があったけど、今の煩悩バンバンな俺は、痛い程よくわかる。


 『可愛い』は、恐ろしい ───




 ※ ※ ※




 フォカロムから進んだ船は、ヴィニル運河へと無事合流。

 あまりにも河幅が広くて、最初は海かと思ったくらいだった。


 流れは非常に穏やかで、ただ静かに景色だけが流れて行く、雄大なヴィニルの姿。

 その遠く河岸に見える景色は、人界と大きく違うわけではないのに、異国情緒を感じるものがある。


─── ただ、広い河を挟んで、両側に延々と続く、牧歌的な風景はすぐに飽きてしまった


 大河ヴィニルは、時折大きな氾濫を起こすため、この辺りの河べりに民家は皆無だ。

 やや濁った薄緑色の河と、両岸の緑、上に広がる青い空だけが、延々と続くのだから仕方がない。


 そんな中、エリンから合成魔術の術式のコツを聞かれ、教える事にした。


「……ああ、そっか! なるほど、なるほどだわアル様!

だから合成魔術のつづりは、魔術発動の順番とは違うのね!」


「そうそう。発動の順番に唱えて行くんじゃなくて、必要な術式を並べてから、それぞれに順番を刻んでおくんだよ。

そうじゃないと、下地に必要な魔術が不安定になりやすいからな」


 エリンは、ソフィアとティフォ、そして夜に現れるローゼンオオコウモリから、術式の基本を教わっている。


 魔術印の新技法【従動解放リンク】を編み出して以来、彼女は黙々と新らしい魔術印の研究を続けていた。

 彼女は、銀細工を得意とする、元々器用な赤豹族だけあって、緻密な術式の設計が合っていたようだ。


 ただ、魔術の合成となると、独特な組み立て方があって、そこにつまずいていた。


 俺も合成魔術の術式は、アーシェ婆道場と、セラ婆道場のふたつで挫折しかけたからな。

 この辺りの知識は、かなり自信がある。


 ソフィア達の『術式講座』を受けていた彼女は、乾いた砂のように、あっという間に知識を飲み込んでいた ─── 。


「ああ、あーあー、ホントだ!

見て見てアル様ッ! あははっ、ほらすごい☆」


 エリンが大はしゃぎで、河の水面に稲妻の嵐を起こしたり、発生させた霧を爆発に変換させている。


 普段寡黙なエリンが、ピョコピョコ跳ねながら、合成魔術を連発してる。

 うーん、こういう表情も新鮮だなぁと、思わず感じ入ってしまうが、水面には気絶した大量の魚が浮いていた。


「やった! やったぁ〜っ! これでまた強くなれるにゃん☆」


「わっ、お姉ちゃんすごいニャ‼︎ 後でユニにも教えるニャ⁉︎」


「すごいですエリンちゃん! まだ魔術講座はじめて十日くらいですよ⁉︎

もうそこらの国の魔術師団くらい、一瞬で血だるまじゃないですかコレ!」


「ホントっ⁉︎ そ、そうかにゃあ〜☆

えへへ、ソフィと皆んなのおかげにゃ♪」


 最近、エリンもユニも、語尾の猫っぽさをあまり抑えなくなっている。

 『否定派』を恐れぬ、自信がついて来たとみて良いのだろうか。


 今更ながら『猫耳、しっぽ、語尾のにゃあ』の三大要素が、俺の中で静かにヒットしていた。

 ……くそう、ヒルデの淫魔魅了セットに、俺の心が揺れやすくなっているのか⁉︎


 はしゃぎ回る彼女の尻尾に、目を奪われそうになるのをこらえ、空を仰ぎ見るしかなかった。


 ロジオンが近づいて来て、エリンに教えた内容を、レポートにしろと言う。

 てっきり、彼も合成魔術に、興味を惹かれたのかと思いきや『ノウハウ本でギルドの収益にする』と金の匂いを漂わせていた。


 そんなこんなで、ヴィニル運河の旅は、のんびりと続いていく ─── 。

 



 ※ 




「よーう! あんたらセパルを遡上して来たんかー?

お疲れさん、魔物多くて大変だったろーっ?」


 河の上に広がる都市に着いた。

 その入口となる巨大な水門は、上がっている扉体ひたいと、下がったままの柵の二重構造だ。


 これ程に大きな水門は今までに見た事がない。

 思わず見上げていたら、水門の上の監視塔から、軽鎧姿の魔人族の男が大声で話しかけて来た。

 

「いーや、特に戦闘にもならなかったぞ!

この辺は、最近荒れてるのかーっ?」


「下流はここ数日、落ち着いてんなぁーっ!

街抜けてくつもりなら、上流は気をつけろよーっ!

街には滞在かーっ? 通過かーっ?」


「滞在だーっ!」


「んならなぁーっ、今、柵開けっから、ちっと進んだ先の、船着場まで進めー!

─── 『水の都セパル』によーこそーっ♪」


 重苦しい音がして、下がっていた鉄の巨大な柵が、引き揚げられていく。


「……物々しい設備だな」


「セパルの暮らしは、水害と水棲魔獣との、闘いなのですわ。

潮の満ち引きで水位が上がったり、海嘯かいしょうが起こる時は、水門を閉じますの。

水棲魔獣が発生した時は、柵で侵入を防ぐ、そんな感じですわね」


「海嘯?」


「海の水位が上がった時、河が逆流する現象ですわ。

……まあ、一般的にはその認識でイイのですけどね。このセィパルネ魔侯爵領では、ちょっとまた意味合いが、変わってたりもしますわね」


 水門の柵が開き切ると、係員が小さなボートで誘導をしてくれる。


 水門の先には、位置をずらして、もう一つ水門が設けられていた。

 セパルの防壁は、三重になっているらしい。


 そのどれもが、街に使われている灰色の素材『ヒード凝固土』のようだが、所々に強度を上げる巨大な支柱のような構造が設けられている。

 ヒルデ曰く、ヒード凝固土の材質も、見た目は同じだが補助剤で補強された、特別製なのだそうだ。


「「「 ─── ‼︎」」」


 最後の水門を抜けた時、俺達は思わず息を飲んだ。


 白で統一された、高い建造物が建ち並ぶ、水面から生えたような都市。

 建物には角がなく、河の流れに対して沿うように歪んだ、薄い楕円の構造になっている。


 その流線的な建物で構築された白い街には、最も高い場所から、下に向かって水が流れ落ちていた。


「不思議な光景でしょう?

初めて見る方は、皆さん驚きますわ。

この街は時折、とても大きな海嘯が起きますのよ。その時、水圧を逃すように、ああして平べったい構造にしているそうですの」


「……あんな高いとこまで、波が来るってことなの?」


「ええ。まあ、滅多に起きないんですけど、起きてしまうと、少なくともあの高さまでは、到達しますわね」


「でも、あれだけ高いと、フォカロムとかも危なくないの?」

 

「……ここだけですわ。ここで起こる海嘯は、特殊ですの」


 そんな事を聞いてるうちに、船着場に到着して、水の都セパルに上陸した。

 近づいて来た業者に金を支払うと、水龍は船から外され、預かり場へと連れて行かれた。

 滞在する期間、水龍の世話をしてくれるらしい。


 次の街は陸路になるから、水龍はどうするのかと聞いたら、自分でフォカロムまで帰ってくれると言う。

 他の龍種も、これくらい協力関係を作れたらいいのになと、感心してしまった。


「せっかくですもの、この街をゆっくり楽しまれてはいかがです?

わたくし、先にセィパルネ閣下に、接見の申し入れしておきますわよ」


 流石はロフォカロム推薦のガイドだ。

 街での注意点と、合流場所の説明をささっと済ませ、ヒルデは街中へと消えて行った。


「オレも顔を出しておきたい所がある。後で合流場所には行くが、遅くなるようだったら、先に宿に行っててくれ。

なんかあったら、念話で頼む」


 そう言って、ロジオンも何処かへ行ってしまった。


 何処かで休憩するかと、婚約者連合に尋ねたが、それよりも街を見て回りたいと声を揃えて言う。

 俺達五人は、ヒルデが勧めてくれた移動手段で、観光する事にした。


「おや、初めて見る種族だねぇ!

移動ならウチのゴンドラにしときなよ、腕の良い船頭そろえてるぜ!

……え? ヒルデリンガ嬢の連れだって⁉︎

がはははっ、ならウチで決まりだ、任せておけって」


 セパル内は道が細く入り組んでいて、初心者は直ぐに迷子になると言う。

 また、高低差が激しく、階段や坂が多いため、人々はゴンドラと呼ばれる船を利用するそうだ。

 街中に張り巡らされた水路には、そこかしこにゴンドラの営業所が、軒を連ねていた。


「観光かい? まとめて乗ってくれるんだったら、お安くしとくよ!

本当ならひとり五千ギリムだけど、五人で二万ギリムだ。どうだい?」


 『ギリム』は魔界の通貨だ。

 五千ギリムだと、人界でいう銀貨一枚って所だろう。(※銀貨一枚=約五千円、1ギリム=1円)


「ああ、ぜひ頼むよ。ん……と、これが二枚だな」


「あいよっ! そんじゃあ、そっちのゴンドラに乗ってくれ。今船頭を呼んでくる」


 魔界に来て驚いた事のひとつは、普及している通貨に、紙幣と呼ばれる紙の通貨があった事だ。

 それも、千ギリム、五千ギリム、一万ギリム、十万ギリムと、大きな額でまとまっている。


 聞いた時は驚いたが、紙幣を見て、すぐに納得もした。

 紙の質もそうだが、印刷技術と偽造防止の術式に、とんでもなく高度な技術が使われている。


 これなら嵩張かさばらないし、釣銭も複雑にならずに済む。

 人界でも、一時実験的に取り入れた国があったが、紙幣の偽造が相次いで断念したらしい。

 まあ、良心の問題と言うよりは、偽造防止の為の技術が追いついていない事が原因だろう。

 

「へえ〜、ゴンドラって、水龍がモチーフなんですかね♪」


 ソフィアが楽しげに言って、目の前に繋がれた、細長く反り返った、笹舟のようなボートに乗り込んだ。

 基本は二〜三人乗りのゴンドラばかりだが、指定されたものは、五人で乗ってもゆったりな大きさのものだった。

 

「おまっとさん。美しいセパルの街並みに見惚れて、落っこちなさんなよ〜!

そんじゃ、いってらっしゃ〜い」


 ゴンドラの前と後ろに、長いオールを持った、船頭がふたり乗り込んだ。


 黒いローブのような、丈の長い衣装を着て、頭には道化師のような、きらびやかな装飾のついた帽子。

 顔には目元を覆う仮面を着けている。


「 ─── ようこそ、水の都セパルへ。

いくら美しい人を見つけても、身を乗り出さないようお気をつけ下さい。

濡らすのは枕だけで、ご満足いただきますよう……。

では、ご案内いたしましょう」


 滑らかな口上に、キザったらしくも、ユーモアのある所作。

 そして、ゴンドラは口上以上に、スルスルと滑らかに進み出した ───

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