第十四話 精神世界

 私は走った。

 何がなんだか分からないが、再び査問委員会に走り、はるばるタッセルから訪れていた証人ふたりを求めて。


 開口一番『 走 る な 』とかなり怖い顔で言われたが、私は聖騎士団、負けないぞ!

 メモを渡したら、顔色を変えてバタバタと慌ただしくなり、証人ふたりが拘束されて連れて来られた。


 私は走って、証人の男ふたりを抱え、執務室に戻る。


「ゼェッ、ゼェ、ゼェ……ッ!」


「すごい! 男ふたりを抱えて、ここまで走ったのですか⁉︎ ここ三階ですよッ⁉︎」


 だって、拘束されてんだもん、こいつら。

 肩と小脇に抱えて、全力疾走したせいか、ふたりはグッタリしていた。


「ふ……はは。これでも聖騎士団、体の頑丈さはゼェ、ゼェ……。ただ、最近……運動不そ」


「─── はるばるタッセルからご足労頂き、ありがとうございます。

失礼とは思いますが、あなた方のご出身は?」


(スルーされた……⁉︎)


 証人の男ふたりは、不貞腐ふてくされた様子で『タッセル』だと答えた。


「重ね重ね失礼ですが、よく教団の出頭要請に応じられましたね」


「そろそろ足を洗おうって思ってたんだ……」


「そうだったんですねぇ。それで出頭に応じて、ここに保護される形を選んだと。無駄のない良い判断です。

では、保護をするにも、戸籍を移さなければなりませんね。加護カードを確認させていただいても?」


 成人の儀は教会で行われ、加護カードの内容と共に戸籍に登録されるもの。

 生まれを特定するには、加護カードから帳簿を遡るのが一番だ。


 彼は証人を疑っている?

 しかし、彼らは何らおくする事なく、加護カードを提示した。


「ふむ……。なるほど、ありがとうございました。では、戸籍移動のため、タッセルの方の抹消をいたしましょう。─── ラブリンさん」


─── ま……また……⁉︎


 私は走った。

 何がなんだか分からないが、何の所縁もないタッセルの奴隷商のために、戸籍管理部へと彼らの戸籍照会と移動手続きの為に。


 ここでも『走るな』と注意されかけたが、慌しさに余裕をなくした私の『面倒くせぇ』のつぶやきに、何かを察してくれたのか応じてくれた。


 照会と移動登録は一瞬だった。

 確かにあのふたりの戸籍はタッセルにあり、氏名と住所、加護カードの内容は一致している。


 私は走って、再び執務室に戻る。


「あはは♪ 速い速い!

滞りなく、彼らの戸籍照合と移動手続きは完了したのですね?」


「ゲホッ、ゼェ、ゼェ……ゲホッ(コクン)」


「そういえばラブリンさん。あなたは【天秤の戦乙女リリファス】の加護をお持ちでしたね?

一応なんですが、彼らの加護をご確認いただけますか?」


「…………? ぜぇはぁ、ぜはぁ……(コクン)」


「「─── !」」


 私が聖騎士団に入団できた要素のひとつは、【天秤の戦乙女リリファス】の加護【天恵の眼(カハナロゥド)】だ。


 この加護があれば、誰の加護でも読み取る事ができ、戦闘には大きく有利に働いてくれた。

 ……アルフォンスの加護を読んだ時は、流石に笑ったが。


 ただこれ、結構疲れるのだ。


「─── んん? これは……お前達の持っている加護カードの内容と、違うではないか……?」


「ば……馬鹿言うんじゃねえッ! その女がデタラメ言ってやがんだ!」


「……彼女が嘘をつく必要がどこに? 加護カードの偽造・偽証は罪が重い、加護を使った証言ですから、虚偽であった場合は彼女の罪が問われてしまいます。

─── トニオ司教とは別件の、あなた方ふたりの戸籍に関して、何故そんな嘘をつくというのでしょう?」


 ふたりの顔色が、どんどん悪くなっていく。


 それはそうだ、加護カードの偽造は重罪。

 教会の信用をおとしめるからな。


 加護カードの内容が間違っていたのなら、まだ何かの間違いがあり得るかも知れないが、名前と住所の登録内容まで一致していたとなれば……偽装だったのは明白だ!


 彼らは元々、なんら罪を問われる側ではなかったのに、ここに来て加護カード偽装の罪が問われてしまった。


「─── ああ、もしかして、あなた方が嘘をついているので、他人に対してもそう発想してしまったのでしょうかね」


「「─── ッ‼︎」」


「ラブリンさん。彼らの本名と加護は確認出来ましたね? もうひとっ走り、正しい情報で彼らの戸籍照合を」


 私は走った。

 乾いた前歯に上唇がくっついて不快だが、とにかく走った。


 戸籍管理部の担当は『またアンタか』と、眼でそう言ってるが、知ったことか。

 照合も一瞬で済み、私はその内容の書かれた証明書を持って、また走った。


 私は走って、執務室に戻る。


「すごい、さっきより速くないですか?」


「……だんだん走るのが、フワァって気持ちよくなって……。いや、なんでもありません。こちらをどうぞ……フーッ、フーッ」


 彼は笑いを噛み殺しながら、戸籍証明書を手に取って、にこりと笑った。


「おや? あなた方はタッセルではなく、ここアルザスの生まれではありませんか。

……んー、確かこの地名は、あなたの別邸がある場所でしたね。

─── アルマス・コーリオプシス司教」


「い……ば、や、くっ! ぐ、偶然だッ‼︎

そ、そんなもの、偶然に決まってるッ‼︎」


「あー、私はただ、あなたの別邸と近いですねと申し上げただけですが……。

その反応は何とも、焦り過ぎでは? ああ、ご自身が疑われているとお思いなのですね。

では、ご安心していただきましょう。

─── 監査部の皆さん、この一年半のアルマス司教の、行動記録の調査をご提案いたします」


「な……ッ! そんなッ⁉︎」


「清廉潔白を証明出来るのです。やっておいて損は無いのでは? ……真に潔白ならですが」


 アルマス司教の顔には、滝のような汗が流れ、床に滴り落ちている。

 その様子をヴァレリー司教は、ニコニコしたまま、ただ眺めていた。


「デュ、デューイ枢機卿代理……!」


「……あなたの潔白証明でしょう。お受けしなさい……アルマス君。

では、私はこれで失礼しますよ」


 足速に去っていく、デューイ枢機卿代理の足音、アルマス司教は監査部の人間に囲まれて、うなだれて部屋を出ていった。


「……ヴァレリー司教。その机から一歩も動かずに、あなたはこの窮地を……。

─── 見事です」


「あははは、内心ドキドキでしたよ?

それにラブリンさんがいなかったら、証明できるものは、非常に少なかった。ありがとうございます」


「私は……ただ、出来ることをやったまでです」


「はい。私もなのです。以前申し上げましたでしょう? 功を焦る者は、ふとした事で覆されるもの、出来ることを積み上げたものは盤石です。

─── さて、お仕事を続け……いや、まずはお茶にしましょうか」


 そう言って、彼は今日初めて椅子から立ち上がった。

 重大な局面で、一度も腰を上げなかった男が、お茶を淹れるためだけに立ち上がる。


「うお─── ッ!」


 そして盛大に、アルマス司教の脂汗に足を取られ、脇腹から床に叩きつけられた。

 ドフゥンと鈍い音がして、こっちの心臓が止まりかけたわッ!


「ヴァ、ヴァレリー司教⁉︎ だ、大丈夫ですかッ⁉︎」


「ぐふ……っ、つ、つはは。何のこれしき。

全ては、ラミリア様の思召し……」


 そこに横たわる優男は、いつもの『たんぽぽ侯』と称される、ぽやぽやした雰囲気の笑顔で弱々しく笑っている。

 ああ、いつものかと溜息をつき、私はこの飛切りキレ者で強く、ひ弱な男に手を差し出して苦笑するしかなかった。


 ……ふふ、にもこんな弱い所、あったりするのだろうか?


─── 数日後、トニオ司教への嫌疑は晴れ、査問委員会から、アルマス司教の更迭こうてつの報せが入った




 ※ ※ ※




 ふと目が醒めると、閉め切っていたはずの部屋に、風が吹いている。

 頰をでる、柔らかな感覚に、目が覚めたのだろうか。


 カーテンが微かに揺れている。

 真冬の夜風にしては、冷たくもなく、むしろほんのりと温かくさえ感じた。


「…………?」


 窓を確認しようと寝ぼけ眼で立ち上がり、カーテンを開けて見たが窓は、開いてなどいなかった。


 窓の向こうには、大粒の雪がしんしんと振り続けているのが見えている。

 しばらくその風景に見惚れて、さっきまでの風は何だったのかと、首を傾げた。


 ……まあ、寝ぼけていたのだろう。

 この地方には珍しく、本格的に積もった雪のせいだろうか。

 潮騒しおさいの音すら吸い込んで、耳鳴りがする程の静寂が、辺りを包んでいた。


─── キシ……ッ


 寝台に戻り、腰を乗せた時の小さな軋みが、夢では無いのだとハッキリさせる。

 仰向けで枕に頭を預け、もう一度目をつぶった時、足元が沈み込むのを感じた。


─── キシ……キシ……キシ……


 気のせいじゃ無い。

 気配も何も無いのに、何かが俺の足先から這って、顔に向かって来る。

 だが、体は何かが切れたように、全く動かなくなっていた─── 。


「─── だ、誰だ……ッ⁉︎」


 雪明りの薄っすらとした闇の中で、それは俺の体を這い上がり、俺を見下ろす─── 。


「あろ。ローゼンちゃんなのですよ☆」


「ばッ、何して……いや、その格好はヤバイだろ……ッ」


 普段のお下げ髪を真っ直ぐに下ろした、栗色の長くサラサラとした髪が、四つん這いの彼女の胸元を隠している。

 情熱的に大きく開かれた青い瞳、上気して薄っすらと染まった頰、つややかな薄桃色の唇。

 いたずらっぽい笑みを浮かべる口からは、ちらりと白い牙が見えていた。


 身につけているのは、シースルーのネグリジェのみ、下は履いているのかすら分からない。


「何って……ダーさんに、お呼ばれされたから、来たですよ? 『今夜、俺のとこへ来い』って、アレは……ときめいたのです♡」


「ぬ、ぬむぅ……(そう言わせたんじゃん)」


 ローゼンに『アルファードと向き合う手伝いをしてくれ』と頼んだところ、そう言わされた。

 多分、彼女にしか出来ない事だから仕方なく……。

 本人はすごく嬉しそうだったが、婚約者連合の視線が怖くて、そういうノリはやめて欲しいと切に思った次第だ。


「……で、こ、これはどういうつもりかな?

何でこんな真夜中に……っていうかね、動けねえんだけどさぁ……?」


「ふっふーん、真夜中なのは、皆さんが寝静まってるからなのです。

ダーさんは本能的に、皆さんを気遣ってしまいますからね」


「こ、この金縛りと、君の……か、格好は?」


「てへっ、これは大事なことなのですよ。

─── なんせ、これから数万年ぶりに、ですからね〜♪」


─── ヴァンパイアする……? あッ、完全に忘れてた! こいつヴァンパイアのプロトタイプだったわ!


「お、俺を吸血鬼にするもりか……ッ⁉︎」


「うーん、それも永遠にご一緒出来るので、魅力的ではあるのですが、ダーさんが下僕になるんじゃ虚しいだけなのです。…………今回は、血液だけ頂くですよ〜」


 やや呼吸荒く、俺の上に四つん這いになった彼女は、恍惚の混じった興奮が見てとれる。


 どうやら真祖以上のヴァンパイアは、ただ血を吸っただけでは、相手を吸血鬼にはしないらしい。

 『そうしようとすれば出来る』のだそうだ、便利だね。


「─── で、何で俺の血が必要なんだよ?」


「血は生命の源、記憶や思考はもちろん、魂の情報も含まれてるですよ。

それを私が得られれば、ダーさんが『アルファードだーさん』と向き合っている間、魔力とか感情の暴発を制御してあげられるです♡

鬼族の妖術を使う時と同じく、ダーさんはひたすらに、内の存在に集中すればいーのです」


 思わず『おおっ、そんな方法が‼︎』と声が出そうになるのを、彼女の人差し指が唇に当てられて黙らされた。


「しぃ〜なのです。寝静まった皆さんを、さらに深い眠りに落としてるとは言え、女神ふたりに守護神クラスのネコちゃんたち。

ダーさんの強い感情で、抵抗力の強い彼女たちは、起きてしまうかもですよ……クスクス」


 悪戯っぽく笑いながら、彼女は俺の唇をつんつんして、その指を自分の唇に当てた。

 ……なんか今夜のローゼンは、ゾッとするほどに綺麗で、魅了されてしまいそうな危うさがある。


 彼女は唇に押し当てていた指を離し、妖艶ようえんに微笑むと宙に掲げた。


─── 【絶対なる箱庭アルジェ・ガルデ


 膨大な術式が流れ、仄かな光が、俺達のいる寝台をすっぽりと覆う。

 これ、結界なのか……? 魔力も何もかも、完全に遮断されてる─── ⁉︎


「ダーさんの魔力の暴発もヤバイですが、私もちょっとヤバそうなのです。結界だけは、ガチで厳重なのにしとくのです」


「え……。君まで魔力を放出するのか⁉︎」


「なに言ってるですか。これからヴァンパイアが血を飲むですよ?

それも純潔そのもの。魔力もべらぼーに上質で大量な、超優良物件をゲットするですよ?

─── た ぎ る に き ま っ て る で す」


「……だ、大丈夫なのかなぁ、飲ませちゃって……(うぅ、童貞がバレた)」


「って、ダーさんもさっきから……ずいぶんとたぎってるですけどね♡」


 金縛りにされたままで、体感覚が薄いから気がつかなかった……。

 薄着っていうか、むしろ着てる意味があるのかすら疑問な格好の彼女が、俺の上にまたがってるワケでしてな。


 それも初めて見る彼女の妖艶な表情に、終始ドキドキしっぱなしな上、腰をくねくねよく動かすんですわ。

 ……うん。これ絶対、履 い て な い。


 アルフォンスは、とっくの昔に、ゴールマイン。


 顔が動かせないから、せめてもと目をそらすと、くすくすと彼女は笑った。


「……じゃあ、始めるですかね。

ちょっとチクッてするですけど、男のコだから大丈夫ですよね♡」


「へ? あ! うぅぅ─── 」


 今までで最大級のエロティックな微笑み。

 いや、もうこれエロだ、この人えっちだ。


 彼女の体が俺の上にゆっくりと押し当てられ、さらりと鼻先に流れた髪から、甘美な香りが漂う。

 シャツの上から押し当てられた、彼女の豊満な膨らみの先に、つんと感じる蠱惑的な抵抗感。


 口づけをするような距離に顔が寄った時、微笑んでいた唇を戸惑わせると、青い瞳が妖しく光る紅い瞳へと変化した。

 髪を耳にかき上げ目を細め、何かを頬張るように口を開け─── 、



─── 俺の首に、牙を突き立てた



「くっ……あ、うぁ……っ」


「ん♡ んっ、んっ、んん……っ♡ 

─── ちゅ、こくっ、こくん……っ」


 痛みはすぐに消えた。

 血が吸われているのは、そこに密着した彼女の口の動きで、何となく分かる。

 そこから自分の中の、何か温かいエネルギーのようなものが、流れ出る薄っすらとした感覚。


 恐怖心や不快感は無い。

 ただ、その……信じられないくらい、キモチイイ。


 耳元で囁くように聞こえる、こくんこくんと鳴る彼女の喉と、喘ぎにも似た小さく甘いうめき。

 金縛りにされてなかったら、俺、正直どこまで理性が保てたか分からない。

 ……そんな、自分が自分じゃ無くなってしまいそうな不安感だけが、胸の奥で何かと綱引きしていた。


「─── ん……っ♡ こくん」


 やがて彼女の唇が離れ、俺に跨ったまま上体を起こすと、目を閉じたまま髪をかき上げた。

 顔に張り付いた数本の髪の毛に構わず、彼女は俺の血に濡れた唇に指を這わせ、恍惚の表情でのけぞった。


 俺はただそれを呆然と見上げ、離れた体温に言いようのない寂しさを感じ、彼女の恍惚に見惚れていた─── 。


─── ……ドックン……ッ‼︎


 世界が揺れた。

 その衝撃に、ようやく我に返るが、今度は目の前の存在に圧倒されてしまった。


 上を見上げた彼女の肢体が、仄かに瞬く紅い光に覆われ、その奥底から押し潰されんばかりの魔力が噴き出している。

 それはどんどん勢いを増し、俺はただ息を止めて、へし折れないように耐えるしかなかった。



─── 『プロトタイプにだけは挑むな』



 その言葉の意味が、まだまだ俺は分かっていたつもりなだけだったようだ。

 こんなもの、星のエネルギーそのものじゃないか……!


 これだけの力を持つ存在が必要だったとは、太古の世界は、一体何だったと言うのか。


「……ふふふ…… お い し い ……」


 彼女が、恐ろしい。

 だが、この力を持って生み落とされた彼女は、どれほど孤独を味わって来たのだろう。


 『人と関わりたくない』と言った彼女の本心が、その孤独の裏返しだったんじゃないかと思えた。


 それと同時に、今目の前で貪欲に俺の血を吸収しようとしている彼女に、何か生物としての健気けなげさのようなものを感じてしまった。


─── 不死の王、永遠の夜、闇の散歩者


 ヴァンパイアと呼ばれ、アンデッドの最上位だと言われているが、多分それは誤りだ。

 ブラド神族─── 彼らは、血を求めるアンデッドなどでは無く、捕食したエネルギーと魂の記憶を背負って生きる、れっきとした人族なんだ。

 その凶暴なまでの生命の美に、ただ茫然と目を奪われていた─── 。


 と、いつの間にか彼女の魔力は鎮まり、何処か寂しげな表情で、俺を見下ろしている。

 

「─── 私が……怖いです?」


「うん? ……怖いよ、これだけ圧倒されたら、そりゃあ怖いさ」


「…………そう……ですよね……」


「でも、それ以上に─── 」


 荒々しい海のように、空を覆う雷光のように、恐ろしさの後ろにある美しさ。

 言葉は悪いかも知れないが、深い自然の中で野生生物を見た時の、研ぎ澄まされた輝き。


 そんな事を感じていた。


「純粋な種族の原点っていうのかな?

生きる力とか、そういう強さの持つ美しさを感じて、思わず見惚れたよ」


 魅了されているのだろうか。

 思った事が、口をついて自然に出てしまった。


「─── ああ……あなたは……」


 血の記憶で、思考を読まれちゃったのかな?

 彼女の瞳からは、紅い光が消えて、深い海のような青へと戻っていた。


 ……傷つけてしまっただろうか。

 最近俺は、人を傷つけてばかりだ……。

 人を守れない、人との関係を守れない。

 その恐怖が俺の根底にあるのだと、同時にまざまざと理解して、心が小さくなる。



─── ちゅっ



 突然、唇を奪われた。

 小さく冷えた心の感覚が、その温かさにこじ開けられた気がする。

 目の前には、いつもの柔らかな表情に戻った、彼女の顔が微笑んでいた。


「ホントにあなたは、ダーさんなのです。

ごあんしんあれなのです。今は別に【魅了テンダーション】とか、使ってないのです。あなたの本心を、あなたの口で告白してくれたのです。

─── ローゼンは、長い長い孤独を、埋められてしまったですよ……♡」


 猛烈に恥ずかしい─── !

 俺、かなりくっさい事、口走ってたよな⁉︎

 ……しかも、俺の思考丸わかりなんだよな。


「あ、でもダーさんはひとつ勘違いしてるですよ?」


「え、な、なに?」


 再び唇を重ねられた。

 今度は情熱的な、求めるような口吻。


「……ノリとかじゃなくて、思い込みとかでもなくて。

─── 本当にあなたをです」


 その言葉が俺の心の中の何かを、引きずり出してしまった。

 胸が高鳴り、ローゼンの目に釘付けになる。


 ……が、その時、彼女の表情が微かに歪んだ。


「─── クッ、これはヤンチャなのです。ダーさん、よく人の身でこの衝動を抑えて来れた……ですね」


「衝動……?」


「ダーさんの血に入ってた、アルファードだーさんの、たぎるようなですよ」


 破壊欲求……?

 いや、むしろ今まで何処か本気を出さないように、ブレーキが掛かってたくらいだが。

 ……もしかして、本能的に俺はアルファードを抑え続けていたのか……?


「さて、ダーさんとも繋がれて、準備は万端。

─── 会いに行くですよ、昔のダーさんに」


 ローゼンは俺の胸に手を添えて、何かを送り込んでいるようだ。

 体の隅々まで行き渡る、強力な安心感の中、俺は自然と術の導入へと意識が持っていかれていた。




 ※ ※ ※




 視覚、聴覚が脳内の闇に押し消され、俺は白昼夢のような、イメージの世界へと没頭していた。

 そこにあるのは、以前鬼族の祭りで陥った、自分の中で巨大な闇が突き上げてくる世界だ。


 またあの時のように、体の奥底から魔力が怒涛のように噴出されるが、それを青白く光る黒いいばらの蔦が隙間なく覆って防ぐ。


─── 大丈夫なのです。このローゼンが守ってるですから、安心して集中するですよ〜♪


『ああ、すごいよローゼン。この安心感は勇気が出る……』


 背後には彼女の気配がある。

 この精神世界は無音の闇だが、彼女の声だけは、脳内に直接響いていた。


─── どうなっても大丈夫


 俺が何者にもなる事はない、この安心感が暗示のように、深く意識を向ける後押しをしてくれている。

 鬼族の里で、プラグマゥとの闘いで、乗っ取られると感じた恐怖はもう無い。


 巨大な闇の中心に、意識を向けていると、勝手に体がそっちへと進んでいるのを感じた。

 闇はより暗く、質量すら感じる魔力の中へと、どんどん進んで行く。

 そして、突如、視界がひらけた。



─── ふたつの巨大な満月が浮かんでいる



 足下には蜘蛛の巣で作られた、長い吊橋のような道が、ちょうど月と月の真ん中に伸びていた。


 ……ふたつの月、蜘蛛の巣。

 俺はここに何度も来た事がある。

 いつだったか思い出せないのに、この異様にハッキリとした既視感は、何なのだろう。

 俺の深層心理の心象風景だからなのか?


 ローゼンの気配と体温は、俺の中にしっかりと息づいている。

 しばらく眺めていたら、この風景への感情の揺れも治って、心が平坦になってきた。


─── 蜘蛛の巣を、一歩踏み出す


 キシキシと太い糸の軋む振動が、足裏を通して伝わるが、やはり音はしない。


『……この世界、音が無い……のか』


─── んー、まだダーさんに恐怖心があるですね。初体験なので、仕方のないことなのです


 そういうものか。

 一歩進み出せば、勢いがつくもので、俺は続けて吊橋を渡っていく。


 現実の風景とは違うのか、月は少し進むだけでも大きくなり、実際の月とは遠近感が違うのが分かる。

 その違和感に気を取られているものの、心は概ね平静を保てていた。


 しかし、何故月がふたつなのだろう。


─── ひとつは俺、もうひとつはアルファード


 急にそんな荒唐無稽こうとうむけいな言葉が頭をよぎると、ストンと腑に落ちてしまう。

 この言葉は、以前に誰かから聞いた事があったんじゃないかと思っても、この風景を知る者は俺の他にはいないはずだ。


 フッと頭に浮かぶ事が、一瞬の内に複数の記憶に繋がりかけるが、考え自体はまとまらない。

 浮かんでは消え、浮かんでは消え。

 瞑想をしている時の、導入部分の心のさざ波に似ている。


─── そうして色々な発想を受け流して歩いていたら、目の前にそれは佇んでいた


 年は四〜五歳、黒く艶やかな髪に、紫水晶の小さな角。

 ぽてっとした唇に、あどけない頰、そしてそこにある深淵を覗いているような紅い瞳。


 ……年相応なのは見た目の要素だけだ。

 数百年を生き抜いた、怪物の如き圧倒的な存在感、それでいてはかない空気をまとった少年。



─── アルファード・ディリアス・クヌルギアス



 本当の俺……いや、失われた記憶以前の頃の俺がいた。


 彼はただジッと、俺の目を射抜くように見つめて、何を思うのか。

 初めて父さんのいる部屋に入った時以上、いや、下手をすればローゼンにも匹敵する、絶対的な魔力と覇気を噴き出していた。

 そして、心臓をえぐり取られるような、冷たい殺意の波動が、表情と共に表に出ている。


 ……あのプラグマゥが、赤児の手を捻るより易く、簡単にあしらわれたはずだ。


 魔王─── 。

 紛れも無く魔王を継ぐ、絶対王者の血。


─── これ程とは……。ダーさん、大丈夫ですか⁉︎ 危ないと思ったらすぐに……


『いや、いい。大丈夫─── 』


 更に近づくと、アルファードは口を動かして、何かを一言二言つぶやいたようだ。

 その瞬間に、彼の周りには膨大な黒い魔力の渦が現れ、俺の足を阻む。


 ……だが、俺はそれに全力で抗って、彼の元へと進んだ。

 これは拒絶じゃない、彼の感情が揺れただけ。

 それでも高波のような、猛烈な圧力が、押し寄せている。


 そうして、彼の目前まで辿り着く。

 顔の印象は大分違うが、父さんの記憶に見た、俺の幼少期そのもの。


─── この精神世界で、一目見た時からわかっていた……彼は紛れも無く俺だ


 怒り、憎しみ、哀しみ。

 三百年近く前、勇者に全てを奪われた子供は、あの時からずっとここで、それらに囚われ続けていたのだ……。

 俺の代わりに─── 。


『─── ……ごめんな……。ありがとうな、アルファード』


 思わず彼を抱き締めて、言い知れぬ感情に喉を詰まらせながら、俺はそう言わざるを得なかった。


 どれほど、そうしていただろう。

 この無音の世界で、俺の声が彼に届いたのかも分からないが、静かに彼は抱かれるままにしている。


─── トン……トン……トン……


 抱き締める俺の脇に、彼の小さな手が戸惑うように伸びて、ぽんぽんと微かに叩く。

 言葉は通じない、でも、これだけでも色んな事が伝わって来る。


 彼は、幼い俺は……悪感情と、魔王の継承する強大な力の門をしてくれていたんだ─── !


 俺はあの後、安全に生きながら伸び伸びと……。

 いや、一般人に比べれば、修羅のような生活だったワケだけども。

 少なくとも彼のお陰で今の俺があり、代わりに彼は、進む事の出来ないこの世界に留まった。


『……なぁ、アルファード。俺はどうしたらいい? 俺はお前に何を……』


 彼の肩を抱いたまま、顔を見合わせる。

 やはり、負の感情に呑まれたままの表情で、心をえぐられるような、本能的に震えを呼ぶ殺意すらまとっている。

 ……だが、彼は静かに目をつぶり、無音の中で唇を動かした。



─── ま っ て る



 彼は俺を押し出すように、魔力を急激に膨れさせると、世界を再び闇に塗り替えた。

 その濃密な魔力に触れた時、俺は勇者に植えつけられた精神的外傷トラウマが、何処から来たのかをはっきりと理解した───

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