第十二話 偽物

 甘い芳香が、薄い月夜の暗闇に立ち込め、潮の香りを掻き消した。

 ジリジリと距離を測るように、アルフォンスの周りを、黒装束の影が囲いこむ。


─── ヒィィ……ィィ……ン


 垂らした前髪で右眼を覆った、狐目の男の両手では、しのび泣くような刃の共鳴が続いている。

 手の平に握るナックルの先に伸びる、人の頭ほどの長さの薄い諸刃は、一部ノコギリのようなギザギザの溝が彫り込まれていた。


(足運び、気配、武器の形状……。暗殺者、間諜かんちょうの類いか……?)


 コートの袖に隠す、暗器のような両手の得物、そして傷口を広げやすい加工。

 刃物そのもので殺す目的ではなく、速度と取り回し重視で傷をつけるのが狙いだと、そうアルフォンスは読んだ。

 ほぼ、毒なり呪術なりが仕込まれていると、考えた方が賢明だろう。


「仕事熱心な兄ちゃんだな。まさか海岸で、ずっと俺が来るのを待ってたのか?」


 アルフォンスの言葉に、灰色狐はくすくすと、八重歯をのぞかせて笑う。


「─── まさか。あなたが自分から近づいてくるとは、全く思いもしませんでしたよ♪

近々、そちらにお邪魔する予定でしたけどね。予定が繰り上がって、僕も驚きでした」


「へえ……。じゃあ、あの金髪の旦那もか?」


「あはっ、彼は全く関係ありませんよぉ~!

悪人なら幾らでも巻き込みますけど、振る舞い酒を頂いた善人は流石にね、僕の美学に反しちゃいますから断言しときます」


「だろうな。お仲間だったとしたら、茶番に過ぎる」


 酔った演技、急な予定変更での仲間の配置、そして実行するための土地設定。

 黒装束の面々からも、相当に高い練度がうかがえるものの、彼らからは『金で動く乱雑さ』を感じられなかった。


(これはプロはプロでも、殺し専門。ただの雇われゴロツキじゃなさそうだな……)


 殺る気なら、最初から無感情に遂行しているはずだ。


 問い掛けに応じて無駄な語りを入れる辺り、役人だと言う彼の言葉も、案外真実かもしれないとアルフォンスは考えた。

 何処かの国の諜報、工作部隊と言った、洗練された暗部の空気を感じられる。


「で、何だってこんな所で、俺はお役人に囲まれてんだ?

なんも荒事もしてねえし、職務質問にしては物々しいな」


「あー、僕もあんまり乗り気じゃ無いんですけどね。理由とか狙いとかも、守秘義務なんで、勘弁してくれません?」


「…………なるほどね。少なくとも、交渉に慣れてない部署で、ワンマンな王様の国の役人ってくらいは読めたよ」


 灰色狐は苦笑して、耳の横に上げた人差し指を、スッと前に突き出した。


「─── これだから、鋭い良民ってのは、可愛がられないんですよ」


 冷め切った言葉が、ぽつり。

 その声の出始めには、生温かい飛沫が散り、石畳の路面にピシャリと叩きつけられる水音が響いていた。


 青白い刃のきらめきが描いた、六条の残像は、もうすでに消え去ろうとしていた。

 黒装束の者達の内、先頭に配置されていた、第一陣の刃が中心にいたアルフォンスへと振り下ろされている。


 おびただしい血液が、街道を紅く染めていた─── 。


「……なんつーか、他愛も無いって感じですかね」


 灰色狐のため息交じりの言葉に、第一陣の黒装束達が、背筋を伸ばして振り返った。


「アルフォンス・ゴールマインかぁ……。

人選を誤ったんじゃないかなぁ、これは」


 頰に掛かった深紅の飛沫を、長い舌先がぺろりと舐めとる。

 その口元が、笑いをこらえるように、波状に歪む。


「もういいよ、君達。お疲れ様でした」


─── ドサ……。ドグシャ……ッ!


 第一陣の黒装束達が崩れ落ち、街道に響く鈍い肉の音と、六本の剣の転がる乾いた音。

 やや遅れて、第二陣として外側を囲んでいた黒装束の輪の、三分の一程が同様に沈んだ。


「ねえ、やっぱあなた、魔人族かなんかっしょ?」


「─── さあな、自分では人間だと思ってるけど、違うのかね。どう思う?」


 微かな風音の下、ギリギリと革ベルトを引き絞るような音が響いている。


 音の発生源は、足を地面から浮かせて、力無くだらりと垂れ下がった、ふたりの黒装束の首元。

 そのふたりの間から、紅い眼が愉しげに細められて、月の光に煌々こうこうと照らし出されていた。


───両手にそれぞれ首を掴んで、ギリギリと締め上げながら、軽々と持ち上げている


 首を握り潰され、宙に持ち上げられたふたりは、すでに事切れて膀胱ぼうこうの中身を滴らせている。

 その鼻から下を覆っていた布も、首に食い込んだ手に引き下ろされ、ぶくりと膨らんだ頰と舌を露わにしていた。


 街道の石畳の段差を、黒装束達から血が流れ落ち、ぴちぴちと静かに聞こえている。

 アルフォンスは爛々らんらんと輝く目で、周囲に転がる黒装束の骸を見下ろして、口角をクッと持ち上げた。


「赤毛に鳶色の目、彫りの深いこの顔つき。

─── なぁんだ、あんたら帝国から来たのか。

あっちは遊べるような、穏やかな海なんてねえもんな」


「ク……ハハハ! 失礼だなぁ、流石に遊べる海くらいはありますよ。泳いだら死にますけど」


 灰色狐は投げやりな表情で、手の平を広げて、再び合図を送る。

 

 彼らもその実力差には、気がついているだろう。

 目の前の丸腰の男には、毛程の傷を与えられず、生涯を終える結果となる事に。

 しかし、彼らは躊躇ちゅうちょひとつ、瞬きひとつせずに、持てる全てを刃に賭けた───


─── ボッ


 踏み込んだ間合いの、半分にも満たぬ場所で、全員の動きが唐突に止まった。


 アルフォンスに動きは一切ない。

 ただ小さく爆ぜる空気の如き音が、ほぼ同時に重なって、辺り一帯から発生していたのみ。


 数人がビクビクと、体を痙攣させている以外は、目を見開いたまま硬直している。

 直後、彼らの体は一斉に持ち上がり、見えぬ柱に串刺しにされたように、夜空に吊るし上げられた。


─── アルフォンスの不可視の触手が、全ての襲撃者を貫き通し、宙に吊るしている


「……つい最近な、痛い目に遭ったんだよ。

で、身に沁みたんだ『俺は付き合い過ぎだ』ってな─── 」


「そーいう事を、わざわざ教えてくれる辺り、まだ付き合い過ぎじゃないですかね?」


 唯一それをかわしていた灰色狐は、細い目を薄っすら開けて、詰まらなそうにつぶやいた。


「いやぁ、人選ミスは否めませんね。これは上司が悲しむなぁ。これだけの人材育てるのに、どれだけコスト掛かってるか分かります?」


「知らねえよ。税金の使い道考えるのが、あんたら役人の仕事だろ……?」 


「払ってる方も、考えるべきだとは思うんですけどね─── 」


─── ギキィィ……ンッ!


 赤い火花が散る。

 唐突に間合いを詰め、振り抜かれた青白い刃が、ふた振りのククリ刀にそれぞれ阻まれていた。


 突如現れたアルフォンスの得物に、灰色狐は驚いた顔をしつつも、長い舌でぺろりと唇を湿らせて八重歯を見せる。

 その瞬間、黒装束達の屍が、猛烈な勢いで男に投げつけられるも、灰色の髪を揺らして難無く避け切ってみせた。


「へえ。曲刀使いって聞いてたのに、帯刀してませんでしたから、てっきり不用心なお馬鹿さんかと思っていたら……。

なるほどね、余裕なわけだなぁ」


 そう言って笑った姿がブレる。

 しなやかな体をくねらせるように、手足の動きを加速させ、縦横無尽の猛攻が始まった。


 時に闇に溶け込み、時に月明かりを利用して、闘いのリズムを奪い去る巧妙さ。

 人間の動体視力を凌駕した、灰色狐の刃の暴風は、先ほどまでの襲撃者と次元が違う。


─── だが、アルフォンスは、それが己を脅かすものだとは、全く思っていなかった


 通常の刃物とは異なり、腕にはめ込むタイプの武器は、闘い方や振り抜くコースに変化が多い。

 だが、扱う者が人型である以上、人体の動きには制約がある。


 如何に視覚を超えた速度の斬撃と言えども、体幹は手足ほどには素早く移動せず、手足の予備動作が必ずそこに現れるものだ。

 体の芯を見通せば、自ずと両手の刃のコースは読み取れる。


 それに、剣の速度ならば、ソフィアの方が遥かに上、破壊力ならば赤豹姉妹の方が遥かに勝る。

 目を慣らすまでもない。


─── パァンッ!


 アルフォンスのローキックが、灰色狐の踏み込んだ脚の膝関節を、刈り込むように捕らえた。

 腰の回転を乗せた蹴り脚は止まらず、そのまま男の体をすくい上げて、宙に大きく回転させる。


 その胸元へ、アルフォンスのククリ刀の一閃が、神速で振り下ろされた─── 。


─── ピュンッ!


 瞬間、再び強烈な火花が散り、灰色狐の体が飛び退いて、間合いを広げる。


 空中で袖の中から新たな武器を弾き出し、持ち替えたその刃で、ククリ刀の一撃にカウンターを合わせていたのだ。

 アルフォンスは、カウンターを弾く事には成功したものの、その衝撃を利用して灰色狐の体制を整える事を許してしまった。


「─── 何だそのコートは。最近の役人は、手品も覚えさせられるのか?」


 狐の持ち替えた得物は、薄くて細い波形の剣。

 レイピアのようにたわみ、腰のある刃は、腕の速度以上に加速していた。


 その刃渡りは、隠していた袖よりも長く、単に仕舞っていたとは思えない。

 アルフォンスの呪いの武器達のように、手元に呼び出す際の、わずかな魔力も感じ取れなかった。


「…………」


 確実にカウンターが決まると思っていたのか、灰色狐は驚きの表情を浮かべていた。


「せめて、名前くらいは聞いておこうか……」


「─── …………ぷっ」


 突然、灰色狐は笑い出した。

 八重歯の目立つ白い歯を見せて、手品に騙された子供が、種明かしに笑うように。


「あはは、あはははははっ! 凄い! 凄いですよアルフォンスさん!

─── これは任務とか、言ってらんないなぁ♪」


「……だから、お前の任務は、何なんだよ」


 問いを無視して笑う狐に、アルフォンスはいら立ちを覚えた。

 話が通じない事への苛立ち、それよりも今彼にあるのは、自分の到達すべき目標が達成出来ない事だ。


─── 魔王としての闘い方とは?


 ここまでの間にも、殺そうと思えば、いつでも殺せただろう。

 周囲を巻き込まぬ為に、魔術を使わずにいる事は、仕方がないとしても。

 奇跡、触手、そして本気の一撃くらいは、難無く叩き込めたはずなのだ。


(……また『闘いの意義』だとか、俺の甘さが出てるのか……⁉︎ こんなんじゃあ、いつまで経っても俺は……)


 小さく言霊を呟き、明鴉あけがらす宵鴉よいがらすの力を解放する。


─── ここで変われなきゃ、俺は……!


 その一歩を踏み出した時、アルフォンスの体が、鉛のように重くなった。

 己に起きた変化に困惑する彼に気づくはずもなく、灰色狐は殺気に満ちた目をそのままに、口元ばかりは満面の笑みを浮かべる。


「やめたやめた……。こんな美味しいの、お預けとか無理ですよ。

ここで僕が食べちゃっても、後か先かの問題だよね〜☆」


 突如、眼前に迫った刃を、ククリ刀を交差させて受けるも、強烈な稲光が走ってアルフォンスの体が吹き飛ばされた。

 着地するより速く、雷撃を伴った凄絶な突きが、肩をかすめて衣服を散らせる。


「あれ、驚いちゃいました? さっきまでのキレがないじゃないですか〜。

こっちをその気にさせて焦らすとか、流石は婚約者五人は伊達じゃないっすね♪

でも……」


 柄の先が、鳩尾みぞおちと喉に連続して叩き込まれ、アルフォンスの体が、背中から地面に倒された。


「僕、どSなんで、焦らしとかされても、イラつくだけなんすよ。まごまごしてる奴見るとね、血が騒いじゃうなぁ。

─── ぶっ壊してやりたいってね」


 アルフォンスの両手首が切られ、双剣が遠くに蹴り飛ばされた。


 この一連の攻撃、そのどれを取っても、アルフォンスには簡単にいなせたはずである。

 しかし、今彼は顔面蒼白で、小刻みに浅い呼吸を繰り返すしか出来なかった。



─── 精神的外傷トラウマ



 勇者の魔剣に傷つけられた幽星体アストラル・ボディの後遺症。

 ローゼンに指摘されていた、その致命的な心のくさびが、今ようやく判明してしまった。


 対峙している灰色狐に起きた変化、それは特に大きな変化ではなく、闘いの中では当たり前のものが発せられただけである。


───


(……勇者にあったのは、他の命を何とも思わない『殺意』だ……。道理でソフィア達との修練では、発症しなかったわけだ。

俺の心が、心無い殺意に、体の主導権を放棄してる……!)


 手首の傷は、即時に自動再生されている。

 飛ばされた双剣も、すでに手元に喚び戻してある。


 ……だが、体が言う事を聞かない。


 辛うじて攻撃をかわす事は出来ている。

 しかし、それは単に体の反射がそうさせているだけで、頭の中は思考を失い、自分が何をしているのかさえ理解出来なかった。


「……何なんです、あなた。さっき僕の可愛い部下とやった時より、動けてないじゃないですか?

ちゃんと真面目にやって下さいよ〜」


─── ……だんな⁉︎ どーしちゃった?


─── 明鴉がなんかヘマでもした? ウチに任せて!


 異変を感じた明鴉・宵鴉の、キンキンとした声に、棒のようだった脚がわずかに動いた。


 その勢いに乗じて、ドンと思い切り地面を踏み付け、足裏に強い刺激を与える。

 かつてまだ幼かった頃、里の修行で大型魔獣に挑まされた時に覚えた、稚拙な恐怖心の払拭方法だった。


─── 『舞い踊れッ【明鴉・宵鴉】!』


 体からごっそりと抜ける生命力、その見返りに流れ込む闘いの為の力。

 呪われし双剣の、破壊衝動そのままに、彼は体を預け切った。


「─── ッ⁉︎」


 人智を超えた二刀の乱舞に、飛び退こうとした灰色狐の足の甲を、投げつけられた宵鴉が地面に縫い止める。


 即座に後退を諦めた狐の反撃を、明鴉の一閃がかすめると、刃を持つ手首から先を容易に千切り飛ばした。


─── アハハッ☆ たーのしー!


─── キャハハ☆ 血のにおいー!


 身を預け切ったアルフォンスの内側に、呪いの破壊衝動が、黒く黒く埋め尽くす。


 紅い瞳が闇夜にふたつ、煌々こうこうと輝き、愉悦に歪んで細められた。

 頭上の樹々からは、枯れ切った葉があめのように降り注ぎ、地に着く前にちりとなって消えて行く。

 その狂気とも言える殺意に、灰色狐は己の読みの甘さを、深く後悔していた─── 。


「─── ぐっ!」


 灰色狐が小さな石を懐から出し、地面に投げつけると、強烈な光が発せられた。

 明鴉・宵鴉に支配されたアルフォンスの眼をくらませる。


 狐は地面に打ち止められた右足を、二股に割いて引き千切り、その深手を無視して逃走を図った。


「く……っ、ぐ、待て……っ!」


 今の目眩めくらましで、双剣の支配は解けたものの、再び体の硬直が戻っていた。

 逃走した灰色狐の背中は、まだ目で追えている。


 しかし、逃走を選択した彼の、激しい怒りと憎しみの込められた殺意が漂い、アルフォンスの体から自由を奪っていた。


(……くそッ! あいつを逃したら、次はどう狙われるか分かったもんじゃない!)


 だが、体は追跡を、殺意に近づく事を拒否してしまう。


─── 闘いにおくした


 そうではなく、これは体の症状なのだと理解していても、アルフォンスは己の無力さに、歯を食いしばった。

 遠くで双剣の慌てる声が聞こえる。

 夜切の悲痛な声も、武器達の叱咤激励しったげきれいも聞こえている。


─── ただ、声は遠く、彼の意思を動かすには、あまりに無力だった……


 もう灰色狐の姿は視界から消えた。

 殺意の呪縛から解けたアルフォンスは、力無くそこに座り込む。


(……どうなっちまったんだよ……俺。こんなんじゃあ、本当に俺がじゃないか……)


 偽物─── 。


 アルフォンスには、アルファードの頃の記憶が無い。

 両親に再会できて、過去の映像を見て、その時代を知っても、それと重ね合わせられる記憶は無い。

 それは自分のルーツが残っていない、言わば自分が亡霊の如き、虚ろな存在としてしまう。


 プラグマゥとの闘いでも、姿を現したアルファードの力は、今現在の己を遥かに凌駕していた。

 そして、勇者の前で、何も出来なかった痛手が、彼に深くそれを刻み込んでしまったのだ。



─── 本当の俺はで、俺こそが本当は消え去るべきじゃないのか……?



 アルフォンスとしての記憶が、急速に色褪いろあせ、それが夢だったような錯覚すら覚える。

 両手から双剣が滑り落ちても、アルフォンスは立ち上がる気力すら、湧いてくる気がしなかった。


 ……その暗闇の込み上げる頭の中に、聞き覚えのある澄んだ声が、凛と響いた……。



─── あいつは殺さなきゃダメだよ……?



 アルフォンスはその声に力無く答えた。


「─── なら、お前がやれよ……


 そうつぶやいてうなだれた。

 そうして、潮騒の音だけが、十も聞こえた頃だろうか。

 不意に立ち上がったアルフォンスの体を、宵闇よりも暗い漆黒の渦が包み込んだ。


─── そこには、黒装束の骸だけが、取り残された




 ※ ※ ※




 アルザス帝国グレアレス宮殿

 法相直轄、白鳳騎士団、執務室


─── ガタンッ! ガラン……ガラガラ……


 魔石灯の光の下、年末の整理に追われていた執務室には、未だ多くの騎士や職員が残っていた。


 勢い良く立ち上がり、後ろに弾き飛ばされた椅子が、硬い床を滑っていく。

 周囲で仕事をしていた配下のひとりが、突如立ち上がった上司を、怪訝けげんな顔で覗き込む。


「ど、どうかしました? ヒューレッドさん……?」


 アッシュグレーの長い前髪で、を覆った狐目の男が、目を見開いて空を見つめ震えている。


 倒れたインク壺から、黒いインクがドス黒い血液のように流れ、机上の書類と床を染め上げていた。

 他の部下が慌てて雑巾を取りに走るが、ヒューレッドは何も目に入っていないかのように、ただ立ち尽くしていた。


「ぼ、僕の……半分が……」


「……はい?」


 ヒューレッドは床に力無く膝をつき、天井を見上げて、口をパクパクさせている。

 余りの雰囲気に、皆が仕事の手を止めて、立ち上がる。



─── 僕の半分が……死んだ



 そう呟いて、虚ろな目で硬直している彼を、皆は首を傾げて戸惑っている。


(……ほら、最近忙し過ぎたから……)


(……ヒューレッドさん、いつから家に帰ってないんだ?……)


 普段から交流の薄い彼に、今何が起きたのか、その場の誰も察する事は出来なかった。




 ※ ※ ※

 



 闇……真っ暗だ……。

 何も見えない……何も聞こえな……。


─── ぺちぺち、ぺちぺちぺち……


 何だこれ、頰に何か……?


─── ぺち……。ちゅっ、ジュボボボボ……!


 突然、内臓が吸い出されそうな勢いで、口を吸引されて我に返った。

 こんなハードなベーゼをする奴は、この世にひとりしか居ない。


「ゲホッ! ティ、ティフォッ⁉︎」


 慌てて引き剥がすと、いつものジト目が、俺を見つめていた。


「おは。オニイチャ」


「……ティフォ、いつの間に……。

ここはどこだ? 何が起きて……⁉︎」


 見渡せば森の中だ。

 樹々の間から遠くをみれば、海からだいぶ離れた、標高の高い場所だと分かる。


「何でこんな所に……う、うわっ⁉︎」


 自分の左手に掴んでいるものに、ようやく気が付いた。

 よく育った瓜程の大きさと重さ、その灰色の毛の塊から、何か白っぽい物がぶら下がっている。


─── 灰色狐の頭部、そこから垂れ下がる脊椎や、神経系の繊維質な赤黒い何か……


 思わず地面に放ると、力無く開いたあごに引っ張られ、顔の皮が垂れ下がるように歪んだ。

 恐怖に見開かれた目は、瞳孔の開き切った瞳で、地面を見つめている。


 髪に隠れていた右眼は、ぽっかりと穴を開けていて、眼球が失われていた。


「……こ、こいつは……!」


「─── パーカー・フェイ・サントリナ

帝国のじょーほー機関しょぞく。

魂のは、ほーしょーの白ほう騎士団しょぞく」


「……魂の……かたわれ?」


「ふたごの兄。パーカーはオモテの自分である、兄のため、影にいきると決めた。

ここへは、じょーしの命令で、オニイチャのちからを試しにきた、だけ」


「力を試す?」

 


─── 『ここで僕が食べちゃっても、後か先かの問題だよね〜☆』



 思えば確かにパーカーは、そんなような事を言っていたが、そういう事だったか。

 人選ミスってのは、俺の力を見るのに、実力不足って意味か。

 ふと見ると、ティフォは手の平で、コロコロと何かを遊ばせている。


「─── うっ、それって……」


「ん、パーカーのめだま」


「死体で遊ぶのは……んん?」


 パーカーの眼球には、何か術式の跡が残されている。


「それで俺を遠視してた奴が居るのか」


「オニイチャが追いかけて、ぎったんぎったんにする時に、最初にぶっこぬいてたよ?

─── あれは、アルファード?」


「─── ッ⁉︎」


 ようやく思い出した。

 何故俺がここに居たのか。


「俺はまた……

…………アルファードに助けられた……のか」


 言い様のない、喪失感と無力感。


 ティフォが何か言っている。

 でも、耳に入っても、脳がそれを理解しようとはしなかった。



─── 偽物



 俺の中で、何かが音を立てて、崩れ去った気がした───

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