第十一話 息抜き

 緑がかった銀色の髪を撫でる。


 さらさらと指の間を通る、その銀糸のような手触り、指先に感じる体温。

 長いまつ毛の伏せられた眼は、今にもぱちりと開いて、起きてくれるんじゃないかと何度そう思った事だろう─── 。


 寝た切りの彼女の髪が、ここまで滑らかに整っているのは、ソフィア達の甲斐甲斐しい世話のお陰だ。

 そして、この屋敷で働く使用人達の、細やかな心遣いのお陰だろう。

 後ろに控えて立っていた侍女に『ありがとう』と伝えると、頰を染めてしばらくボーッとした後、慌てて深々と頭を下げられた。


「……スタルジャ、聞こえるか? みんなこんなに君の事、大事にしてくれてるぞ……」


 長い眠りに硬ばらないよう、語り掛けながら、彼女の指を一本一本揉み解す。


─── 守護神契約から、四日が経った


 あれからも毎晩、彼女の精神世界に入っては、意識にアプローチを繰り返して来た。

 ……彼女がこちらに気がつく様子は、未だに一度も起きていない。


 それでも、ミィルやソフィア曰く、俺とスタルジャの契約は、順調に深まっているらしい。

 その実感が、俺本人に分かりようが無いってのは、どうにもやきもきさせられるが……。


「焦る必要は無いですよ。スタちゃんも、今までず〜っと頑張って来てたんです。私たちと出逢うずっと前から。……今はちょっとした休憩ですね」


 いつの間にか、ソフィアが隣に立って、スタルジャの顔を微笑んで眺めていた。


「─── 出来れば……穏やかな休憩にさせてやりたいよ。今はまだ、彼女は闘っているんだ、精神世界で……」


「…………過去との対話。精神的外傷トラウマの克服です……か」


「…………」


「辛い闘いですが……克服した先には、より広い世界が待っています。

克服は、ただそれと闘うだけではありません。に落とす。それが出来る自分を整える事も、克服です」


「自分を整える……か。

─── 俺もそうしなくちゃいけない事、いくつもあるなぁ……」


 勇者との闘いは、俺に大きな問題を投げかける、何か強制的な壁だったようにも思えていた。

 自分が適合者だと知り、魔王の候補者だと知り、そのどちらになるにも超えなきゃいけない事がある。


 例えば、アルファードと俺だ─── 。


 ソフィアはしばらくうつむいて、寂しげな表情で顔を上げた。


「─── 私も……なんですよ……」


 そうつぶやいてスタルジャに視線を落とすと、ソフィアは部屋を後にした。




 ※ 




─── ティフォに屋敷を


 後の事を廊下にいた侍女に任せて、スタルジャの所から、自分の部屋に戻った瞬間だ。

 俺は触手で縛り上げられていた─── 。


「や、やあ……ティフォお帰り……。

─── これは一体……ナニかな?」


「すん……すんすん、ふんっ!

ティフォは、疲れている。オニイチャ成分、とてもひつよー。よこせ、よこすんすん、フガフガ」


「あひんっ⁉︎ くすぐったい……!」


 自由を奪われた俺の首から耳の後ろまで、ティフォの小さな鼻先が、フンフン嗅ぎながら上下して擦り付けられた。

 それに合わせて、彼女の小さくて細い指先が、胸元をさわさわして来る。


「こ、こそばいッ! ティ、ティフォ……やめ」


「うるさいオニイチャ、人がきたら、どーする。だまって、にさせろ……!」


 狂ってる……!

 こいつを世に出すのは、まだ早過ぎたんだッ‼︎



─── 数分後



「はふぅ……。よかったわ、オニイチャ。

おつかれ分泌物が、深みと酸味の、ないすあくせんと♡」


「はうぅ……(体調とか成分的な分析は、聞きたくなかった)」


 嗅ぐだけ嗅がれてポイ捨てされた俺は、涙目でシャツの乱れを直すしか出来なかった。

 そんな事を御構い無しに、ティフォは俺のベッドに飛び込んで、うつ伏せでモゾモゾ動いている。


「はぁ〜、これでねむれる。オニイチャのベッド、べりーしるぶぷれ……すんすん」


「へ、へんたいっ!」


「じょーだんはさておき。ティフォのみっしょんは、こんぷりーと。マジ、おつかれ山」


 ティフォは俺が倒れて以来、ロジオンをギルド本部に届け、勇者の情報を方々に伝達。

 更にダークエルフと、精神世界の情報を集めながら、情報網構築に子マドーラを配置して来てくれたりしている。

 ローゼンの頼みとか、ギルドの頼みとかも、知らない所でこなしているらしい。


「ありがとうなティフォ。俺がもう少し動ければ……」


「ん、心配すな。オニイチャは、タージャのことを、たすけてやって。

あたしは、自分にできること、それだけをパーフェクトにするまで」


 ティフォは激務の間を縫って、ソフィアやローゼンと、何やら小難しい相談をしている。

 スタルジャの部屋にも、よく顔を出しているみたいだけど、最近は中々会えなかった。


 しかも、赤豹姉妹の稽古もつけていて、もう元からのジト目なのか、疲れた表情なのか分からない。

 それでいて、夢の世界での特訓にも、彼女は全力で取り組んでいた。


「凄く助かってるよ。ティフォは本当に凄いなぁ、俺なんか未だに、どこから手をつければいいのかって浮き足だってるんだよなぁ……」


「ん、こっちゃこい─── 」


 うつぶせで枕に埋めていた顔を少しズラして、トロンとした目で俺をチラ見すると、クイクイっと手招き。

 近づいた俺の後頭部を掴んで、強引に自分の胸へと引き寄せ、抱きしめられた。


 ……やだ、この子、すごいチカラ!

 また荒々しい事されちゃう⁉︎


─── なでなで……なでなで……


 また強引に何かされるのかと、強張っていたら、ただ優しく頭をなでられた。

 彼女の胸が、俺の顔にとくんとくんと、鼓動を伝えてくる。


 少女の胸に顔を埋め、頭を抱きかかえられながら、大の男がなでられる。

 絵面は非常にアレだが、彼女の温もりに、全身の力が抜けていくようだった。


 ああ、俺、またのかな。

 知らないうちに、体の色んな所に、緊張があったんだと気付かされた。


「なんだって、やってみればいい。オニイチャは、たくさん失敗しても、ティフォがゆるす。

転んだって、迷ったって、前にすすむのは、ゆーきがひつよー。

オニイチャは、がんばってる。あたしはよくしってるぞ?」


「…………うん」


 あかん、何か泣きそうになってしまった。

 見た目と口調は幼いけど、本当のテォフォは、俺の三十六万も年上なんだよな……。

 ゆっくり、優しい口調で囁く声が、俺の体の力をスーッと溶かしていく気がした。


「…………ティフォは、辛い事ないか?」


「ん? つらいことは、ないよ。今はできることしか、してないから」


「出来る事か……」


「ん。あたしは、あの糞スキン女に、完全に負けた。くやしい、はらたつ、シャウトしたい。

でも、がなっても、なんもならん。

オニイチャといる。これがあたしの、この世にいる意味。だから、全力でオニイチャをささえる。

今は、ひじょーに、みたされておる」


「ティフォ……」


 思わず顔を上げたら、頰を両手で挟んで、唇を重ねられた。

 いつもの情熱的な求め方ではなく、ソフトにただ体温を伝えるような、優しいキスだった。


「オニイチャはつよい。あたしのホレてるアルフォンスは、本人がおもってるいじょーに、つよい。

─── ただし……」


「ただし……?」


「ちと、こもり過ぎな。外あるけ、人としゃべれ、景色みろ?

元気だすにも、ねんりょーがひつよー。それは、そーいう、くだらねーことが大事。

─── ほれ、これやるから、遊びいってこぉ」


 ……と言うわけで、俺はティフォに『しっし』と追い出された。

 お小遣いの入った巾着と、シリルの妖精王からだと言う高級酒、それと変なサングラスを渡された。

 『バカンスセット』らしい。


 いや、もう夕方だから、サングラスとか暗くて危ないんだけどな?

 彼女の気持ちを、ありがたく受け取って、俺は海岸沿いを少しブラつく事にした。




 ※ 




 港から少し歩くと、岩場混じりの砂浜が、夕暮れの色に染まっていた。

 久し振りに見通しの良い所に来たせいか、すでに紫色がかった空の向こうから射す、細い夕陽が目にしみる。


(……ティフォのやつ、こうなるの見越して、これ持たせたんか……?)


 アケル土産の、ある意味で有名なサングラスが、まさかここで助けになるとは。


 日射しが強く、ネコ科の獣人が多いアケルの都市部で出回ってる、お土産用サングラス。

 竹製のフレームに薄い樹脂のレンズを貼っただけの使い捨てタイプだ。


 便利は便利だが、何故かフレームの両サイドに、無駄にセクシーな猫耳獣人娘の飾りがついてる。

 極め付けは、目に痛いくらいのドギツイ赤字で書き殴られた『アケルへようこそ!』の文字だな……。

 初めて見た時は、罰ゲーム中の獣人かと思った次第だが、その割に着けてる人数が多かった。


(……人っ子ひとり居ないし、いいか……)


 そう思って着けてみたら、想像以上に快適で、何故か悔しさと共に気分が高揚していた。


─── まあ、誰かに見られても、二度と会わねえだろうし、いいか〜♪


 『バカンスセット』とは言い得て妙だ。

 言葉は悪いが、この底抜けにくだらなくてダサいアイテムが、しがらみを薄れさせる。

 妙に気分が良くなって、シリル土産の高級酒も、袋から取り出してみた。


─── 『堕落妖精のしたたり 十二年』


 ラベルを読んで、鼻から変な音が出た。


 『したたり』って何だよ、何が垂れたの?

 何が入ってんだよおっかねぇ。


 妖精王ゲオルグがくれたって言ってたけど、王宮にあるにしては、商品名が不敬過ぎだろ?

 これ、絶対ティフォか、メイド長のチョイスだとしか思えん。


─── グビッ


 まあ飲むけどさ、飲んでみたら凄く上等なブランデーで、二度びっくりだよ。

 マジで高級酒っていうか、特級酒じゃねえかこれ……! 商品名考え直そうぜ?


 立て続けに自分の常識が崩され、もう何だかどうでも良くなって、楽しくなって来た。

 ……ここまでがティフォの計算だと思うと、異界の神の見通す力に、脱帽するしかない。


「おおっ! そこのおにーさん、自由な感じだねぇ〜♪」


 鼻歌交じりで海岸を歩いていると、岩場と岩場の間から、急に声を掛けられた。


 見ると長い金髪にあご髭、派手な格好のチャラい感じの男が、ニコニコして手を振っている。

 やや垂れ気味の細い眼に、キュッと上がった口角、もうあからさまに『女たらし』と言う感じだ。


 焚火を挟んで彼の隣には、アッシュグレーの長い前髪で片目を隠すように流した、狐目のこれまた色男がだらしなく脚を投げ出して座っている。


 ちょっとサングラスが恥ずかしくなったが、急に外すと負けた気がするので、そのまま平静を装う。


「─── よお。こんな時間に、野郎ふたりで何してるんだ?」


「え? ここを通りかかって、声を掛けたのが、おにーさんでふたり目。野郎しか通らなかった〜って、だけだよね☆」


「……って事は、そこのお連れさんも、初対面って事か?」


「へへ、そうなんですよー。急にこの人に声掛けられましてね、気がついたらここで焼き貝作りながら、飲んじゃってまして。へへへ」


 金髪の方は、俺より一回り年上か、ニッコニコで上機嫌な遊び人風。

 灰色髪の方は俺と同じ年くらいで、ヘラヘラしてる割に、パリッとした役人風の雰囲気がある。

 どちらも地元の人間には見えなかった。


「おほ、こっちはパッカーん開いたね。どうだいおにーさんも、おひとつお呼ばれされてみない? お呼ばれるよね☆」


 怪しい気配は無い。

 いや、怪しい人らではあるんだけど、嫌な魔力とかは感じられない。


 何だろう、イケメンにこう和かに話し掛けられると、男の俺でも悪い気がしないのは。

 気がついたら、自然に俺も焚火の前に座ってしまっていた。


 金髪男は、乾かしたオウリュウササの葉を広げて、焼き立ての貝を乗せて配る。

 同じく葉を織って作った、即席の盃に酒を注いで手渡してくれた。


「ま、ま、ご縁がありました〜って事で、カンパ〜イ☆」


 初対面の人に渡された酒を、恐る恐る思い切って口に含んで見れば、雑味のないすっきりとした蒸留酒で中々に美味い。


 汁気たっぷりの二枚貝は、湯気がもうもうと立っていて熱そうだが、こういうのは熱いうちが花だ。

 プリプリっとした貝の歯ごたえに、やや砂感が残るものの、海の出汁を凝縮したようなエキスが舌に広がる。

 その濃厚な旨味と、笹の風味が移った酒とがスッキリ濃厚、優しくピリッと。

 相性は抜群だった。


 酒を舐めれば、旨味と塩っ気のある貝が恋しくなり、また酒を呼ぶ。


「くぅ〜っ、美味いなぁ! 笹で飲むってのも乙なもんだ」


「あ、おにーさん分かるねえ! 温めた酒にすると、また香りがいーんだよねえ」


「へへ、もうさっきから、止まらないんですよコレ」


 初対面同士、会話が続くものなのかと思ったら、意外や意外。

 焚火効果とバカンス効果だろうか、特にお互いの素性も言わないまま、酒の話と旅の話で盛り上がった。

 ふたりとも旅慣れているのか、次から次へと話題が出て、どんどん居心地が良くなる。


「ああ、貰ってばかりじゃ悪いからな、良かったらこれ、試してみてくれ」


「おほ! 実はねえ、さっきからずーっと気になってたんだよねえ〜☆

変わった瓶だけど、どこのお酒?」


「シリルの高級酒らしい。仲間がもらってきたんでな。いわれは知らないが、中々上等だぞ」


 お土産の酒は、流石に笹で飲むのは合わない気がして、ズダ袋からカップと燻製チーズを出して配った。


「へへ、これヤッバイすねー! ガツンと来るのにフルーティ、何て酒なんすか?」

 

「あー、ラベルには『堕落妖精のしたたり 十二年』って書いてあるな」


「─── ブッ⁉︎」


 灰色狐が急に咳込み出した。

 結構酒精キツイもんなこれ……とか思ってたら、どうもそこじゃないらしい。

 バッと瓶を取って、ラベルを見て唖然としている。


「こ、これ……ラルゴーじゃないっすか⁉︎」


「ラルゴー?」


「シリル幻の酒っすよ! 妖精から聞き出した秘密の製法ってやつっす!

こ、こんなもん、ラッパ飲みで海岸歩くとか、富豪すか⁉︎」


「あはは、おにーさん超自由だねえ☆

─── 養ってくんない?」


 ちょっと金髪の目が本気なのが痛い。

 そして、何故か灰色狐は、そっからお酌してくれるようになった。

 と、灰色狐が近づいた時、香辛料のような変わった香りが、その体からふわりと届いた。


「……変わった香りだな。香水でもつけてるのか?」


「へへ、分かっちゃいましたか。これ、南方中央の辺りで流行ってるんすよ。

『魔惚香』って、惚れ薬みたいな効果があるらしいっす」


「ほ! 何それ何それ、自由な感じだねえ。

効果ある感じ? ある感じ?」


「さあ? 元から方なんで、よくわかんないっす。でも『近くにいると落ち着く』って言われるようになったっすよ?」


「「おお……⁉︎」」


 そこからふたりは、どこの国の女がいいだとか、どこぞに港を作っただとか盛り上がり出した。

 俺はまあ、笑顔で相づち打ちながら、酒を煽るしかないよねえ……☆


「しかし、変わった香水だねえ。魔力を発してるのかいそれ。なぁんか肌にモヤモヤ来るよねえ」


「お、敏感っすね。デザートジャッカルの魔石袋から作ってるらしくて、少し魔力入ってるらしいんですよ。相当集中しないと、分からないっすけどね」


「【魅了テンダーション】みたいなもんか……。

でも、その状態の相手と……って、何か良くなくなくないんじゃ……?」


「「ははっ、既成事実、既成事実」」


 カルチャーショックだ……。

 え、もしかして俺って、ヘタレなのか⁉︎


「おにーさん、自由そうなのに、真面目くんだねえ〜! 恋はさ、時間でもなんでもないよ、燃えたその時が永遠じゃない☆」


「へへ、僕にとっては、異文化交流みたいなもんっすけどねー♪ ほら、どんな感じの人なのかなーとか、興味湧いちゃうじゃないっすか、取りつくろってる時以外の、顔とか声とか」


「ははは、自由だねえ☆」


 いや、俺が今まさに異文化交流だよ……。

 ふたりは『どこどこ国の女性は』とか『方言が』とか『港を作るロマン』とか、盛り上がり出してしまった。

 余りに刺激的な会話に、目の前が真っ暗になる。


 ……あ、サングラス着けたままだからか。

 流石に陽も落ちて、辺りが見えなくなって来たし、わずらわわしくなって外す事にした。


「─── おっ! 何なに、おにーさんって、かなり整った顔してるじゃない」


「……またまた。調子いいなぁ」


「おにーさんって、魔人族? いや、角はないし、流石にちがうか。人間族で黒髪に紅い瞳は中々珍しいねえ。ドキッとしたよ〜、モテるでしょ?」


 その言葉にこっちがドキッとしたわ。

 『あ、違います自分魔族っす』とか、軽く言えたら楽なんだろうけどなぁ。


 灰色狐の方は、なんだか真顔になって、俺の顔をしげしげと見ている。

 ……何だ? 彼の空気が変わった気がする。

 そっちが気になるけど、金髪がベラベラ喋ってて、会話が切れない。


「まさかその顔で、童貞って事は無いよね☆

恋人とかいるんじゃないの〜?

結構一途な感じだったりしちゃうのかな?」


「ど、どど、童貞なわけななないじゃん?」


「おほ。反応が怪しいなぁ〜☆ 彼女さんは?」


「彼女って言うか、婚約者はいる」


「かぁ〜っ、そー言うのも良いよねえ☆

どんな娘、どんな娘〜?」


 金髪の浮いた話の隣で、灰色狐の表情が、どんどん険しくなっていく。

 それが気になって、俺も金髪の話に適当に合わせた。


 ……何者だ? 俺が素顔を晒した辺りから、様子がおかしい。

 まさか帝国関係の人間か─── ?


「どんな娘かって、五人いるしな。種族も違うから、一言じゃあ……」


「五人……ッ⁉︎ スゴ……! やっぱ富豪だったりするのかいおにーさん⁉︎

─── 養ってくんない?」


「……色々あってなぁ。ところでそこのアンタ、さっきから顔色が悪いが、大丈─── 」


「……ッ!!」


 声をかけた瞬間、灰色狐が目を見開いて、突然立ち上がった。


「ん〜? どうしたんだい?」


「アンタは一体……?」


「う……げぇ〜、オロロロォッ、ウロロロ……」


 灰色狐が、壮大にゲロ吐いた。


「だ、大丈夫かい……って、あ、酒が空になってるねえ⁉︎ 飲み過ぎだよぉ〜」


「……けふっ、らって、美味しくて……オロッ」


 んだよ、ただの酔っ払いかよ。

 強い酒って、いきなり酔いが回ったりするしなぁ。

 シリルの酒、口当り良かったし、ハイペースになっちまったのか。


 とりあえず口をゆすがせて、水を飲ませて、休ませる。

 酔い醒ましに【清浄グランディ】を掛けてやってもいいけど、変に勘繰られるのも嫌だから、自然にまかせる事にした。


「おにーさんは大丈夫みたいだねえ?」


「ああ、体質かな。あんまり潰れた事ないな」


「ははは、ぼくもだよ〜、不経済だよねえ☆」


 しばらく金髪と酒を酌み交わし、ふたりで盛り上がっていたら、灰色狐が起き上がった。


「うー。……帰る」


「ひとりじゃ危ねえ。送ってやるよ、家……宿は何処なんだ?」


 ヘロヘロながらも、彼は自分の宿の場所を言えていた。

 普段は真面目な人何だろうなぁと、よりにもよって、こんな所で感じ取れてしまう。


「あー、俺の帰り道だな。じゃあ、送ってくか。歩けるか?」


「らいじょーぶ。らいじょーぶ。めっちゃくちゃ、あるけるしぃ……へへへ」


「その台詞で大丈夫なやつ、俺は見た事ねえよ」


 吐くもん吐き切ったみたいだし、負ぶって行ってやるか。


「あー、済まねえなアンタ。そう言うわけだから、こいつ送って行くわ。

酒と貝ありがとうな。美味かったし、楽しかったよ」


「ははは、こっちもだよ〜☆

また何処かで会えたら、よろしくねえ〜」


「ああ。じゃあな……」


 金髪はまだここで飲むつもりらしい。

 御礼代わりに、酒とツマミをいくつかあげたら、きゃっきゃして喜んでいた。

 結局、名前すら知らないまま、長いこと酒を酌み交わしてしまったな。


 こういう出逢いってのも、旅の醍醐味かも知れない。

 身のある話かと言えば、疑問ではあるけど、人の考え方を聞けるのは貴重だしな。


 そうして、俺は見ず知らずのスケコマシ、灰色狐の男を負んぶして歩き出した。




 ※ 




 暗い坂道をトボトボと、野郎を背負って登って行く。


 崖沿いの道は綺麗に整備されていて、頭上にせり出した樹々の奥から、時折驚いた鳥の声が響く。

 それ以外は潮騒が、崖下から微かに聞こえる程度の、静かな夜だ。


 ティフォの言う通り、たまにはこうして、外の空気の中を歩くのもいいもんだな。

 帰ったらちゃんと御礼をする事にしよう。

 貰ったお小遣い、返すのもアレだし、何か買ってやろうかな?

 そろそろ『オニイチャ人形』以外の何か、あげたいしなぁ。


─── もぞ……っ


 背中で灰色狐の男が、モゾモゾと動き出した。

 どうやら目が覚めたらしい。


「大丈夫か? この先でいいんだよな?」


「はい……すみませんね、へへへ」


「こっから先って、建物がちらほらしかないよな。しかも、貴族の屋敷ばっかだ。

もしかしてアンタ、結構いいとこの若旦那だったりすんのか?」


「いえいえ、僕なんかただのペーペー役人っすから」


 あ、やっぱそうなの。

 ヘラヘラしてるけど、着てる物はそれなりに上質だし、役人独特な距離感みたいなのがあったしな。


「─── この辺りでいいす」


「ん? もう歩けるのか」


 そう言って降ろそうとしたら、男はスッと降りて、流れるように数歩後ろに下がった。


「…………。大丈夫そうだ……な」


「ええ。とても助かりましたよ、感謝します。

─── アルフォンスさん」


 月に掛かった雲の影が、男の姿を半分闇に溶け込ませる。

 男は髪の掛かっていない、吊り上がった細目を、愉しそうに歪ませてこちらを見ていた。


 その姿に、さっきまでの酩酊の様子は、微塵もない。

 ささやかな風に乗って、男の纏う香水の香りが、ふわりと鼻をくすぐった。


「あれ? 俺も酔っ払ってんのかね。

アンタに名乗った覚えがないんだが─── 」


「へへ、そうでしたっけ? まあ、いいでしょう。

─── あなた、アルフォンス・ゴールマインさんでしょう?」


「名乗る必要も感じないが……。

そうだったらどうする?」


 男はニコリと微笑んで、黒革の手袋をはめ、指揮をするように指先を踊らせた。


─── ゾゾ……ゾゾゾ……


 闇の中から生え出すように、黒装束の集団が現れた。

 十、二十……男の背後と、アルフォンスの背後に陣を組んで、青白い刃を抜き放つ。


「なに、人違いでも構いませんよ。

世の中には、人が溢れていますから、少しばかり減った方がね─── 」


─── ジャキ……ッ!


 コートの両袖から、それぞれ手先を覆うように刃物が突き出し、薄く長いその先端が刃鳴りを響かせた───

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