第四話 忘れてた
結界へと馬車が衝突する度に、空へと立ち昇る青白い光が、キュルキセル地方大森林の南部の空を断続的に染め上げた。
不可視の結界に猛烈な勢いで馬車が衝突し、積んでいた荷物も人も、砕け散った馬車の残骸と共に放り投げ出される。
一台、また一台とその光景は繰り返され、結界の外側には、物と骸とが無数に積み上がっていた。
「─── 済まないティフォ、待たせた
って、こりゃあ一体何が起きてるんだ……?」
「ん、わっかんない。でも、お馬さん、大パニックおこしてる。もーこれで六台目」
「大パニック……?」
そう言っている間にも、御者のいない四頭引きの幌馬車が、あり得ない速度で森を突き抜け、こちらへと真っ直ぐに向かって来た。
一頭はすでに絶命しているのか、ハーネスに引きずられながら、五体を力無く振り乱して土埃を巻き上げている。
残りの三頭は、歯を剥き出して白い唾液を撒き散らし、目を見開いて全力で駆けていた。
程無く、轟音と共に結界に激突し、結界表面に泥混じりの馬の血を残して、瓦礫と化してしまった。
パニック……確かに馬は繊細な動物だが、この惨劇は一体何なんだ?
「生存者は⁉︎ 今すぐ回収しに……」
「むり、間に合わない」
そう言ってティフォが指差した先には、結界の外で這いずる生存者の姿があった。
激突で損傷した手足を、あらぬ方向に放り出し、残った右腕の肘から上だけで這っている。
─── 確かに生きている、生きてはいるが、どうも様子がおかしい
馬と同じく目を剥き出し、砕けたあごをぶらつかせ、必死の形相で真っ直ぐにこちらへにじり寄る。
唖然としていると、その男はついた手を結界に焼かれながら、ヨロヨロと折れた足で起き上がった。
─── ……う、うが……げ、グバァ……ッ‼︎
喉元を異様に膨らませ、男の噴き出した
「オニイチャ。……よく見て」
「………………? ─── ッ⁉︎」
血の中にチラチラと光る小さな青白い光、それをジッと息を殺して確認して、全身に鳥肌が立ってしまった。
─── 小指の先程の長さの、小さな白い
それがびっしりと血痕の中を
恐る恐る内側から手を近づけてみると、俺の手をおいかけるように這い出し、結界に焼かれて消えていく。
「蟲……? 寄生蟲か⁉︎」
「これはまたずいぶんと古い……。これもハイエルフの秘術のものです。
───
宿主の精神を操って、次の宿主へと移るまで、暴走をさせる蟲型の魔物ですよ」
「次の宿主って、今明らかに俺を狙ってたぞ⁉︎」
「本来は同種の生物に寄生する習性ですけど、特定の環境で卵を孵化させると、生まれた場所にあった魔力を目指すみたいですよ?
アルくんが魔術で倒した者の死体で、卵の孵化をさせたのかも知れませんね」
魔力は人によって極わずかに違いがある。
それは本来持って生まれた性質や、術式の癖なんかで、全く同じものはない。
ただ、非常に小さな違いでしかないから、魔力や魔術痕で、人物を特定する事は不可能だ。
だが、この小さな蟲ともなれば、その違いが分かるそうで、元は魔術を使用した犯罪者の特定とか、
「ご覧の通り、それにはキャリアとなる犠牲者が必要ですし、まさに狂気が沸騰したみたいに暴走しますからね。
大昔にハイエルフ達の中で、禁呪扱いになったと聞いています」
「うわぁ……。
いやいや、ソフィは何でそんなに詳しいの?」
「ふふふ、一時期魔術王国のローデルハットで、図書館巡りをしてましたから。
……どうしても探し出したい人がいましたもので。チラッチラチラッ」
いや、頰を染めながら言われてもなぁ。
こんなもん放たれたら、全速力で逃げるぞ俺は!
「つまり、シャリアーンどもは、その狂騰蟲を悪用して、俺に寄生させて狂死させようとしていると……ふむ。
─── マジでロクでもねえのな! 森ごと消し炭にしてやろうか」
「そうすると、この森付近にいる、未だ蟲を仕込まれてない人々もローストする事になるよ?」
「う……っ、スタルジャ」
「馬車の人達は、本当にただの民間人みたい。でもどうしてこんな
そう言っている間にも、新たな馬車が激突して、夜の森に破片の散らばる音が響いた。
キュルキセル地方は、ただただ大森林の広がるだけで、決して街が発展する土地とは言えない。
西をローオーズ領、東をサァルヘイム山脈へと続く樹海に挟まれた、縦に長細い地域だ。
盆地で水が付きやすい上に、
更には樹海からは、魔獣や魔物がやって来る事が多くて、開拓も困難だ。
それでも人はたくましい者で、メルキア公国への交易に、幾条かの道は作られていた。
だから通り過ぎる事はあっても、この地域に住む者は少ない。
さっきから突っ込んでくる馬車は、多頭引きの大型なものが見受けられる辺り、この大森林に暮らす者ではないだろう。
「多分ローオーズ領の商人か、移動中の馬車だったんだろうな」
戦闘時の事を考えて、木のまばらな拓けた場所にしたけど、裏目に出たか。
もっと深い森の中なら、馬車は走れなかったはずだが……。
いや、そうだったら、馬車から飛び出して、徒歩でぶち当たりに来るってだけだな。
使えそうなものは何だって使った、ただそれだけの事。
そこまでして殺したいのか俺を─── !
「……あ、そう言えばティフォ! 子供を拾ったって、もしかしてこの馬車の……?」
「ん、そう。なげだされて、転がってたけど、キズはあさい。しらべたけど、ムシはついてなかったよ?」
「今はどこに?」
「テントのとこ、エリンとユニがつれてった。あと、セオドアとアースラもついてった」
「あの二人が付いて行った? なぜ?」
「さあ? セオドア、こどものケガみて、おろおろしてたよ?」
おろおろ? あの暑苦しいホルモンの塊みたいなセオドアが?
さっきの会話のせいで、どうにもあの二人が信用出来ない。
「どっちにしろ、結界がある以上、こちらには被害が及ぶ事は無いだろう。
ここの見張りはティフォとスタルジャに頼んでいいか?」
「わかった。何かあったら、すぐにミィル叩き起こして飛ばすね」
「ん、あたしもいーよー。オニイチャは、どーする?」
「あの二人の様子見だ、ちょっと不審な所があってな。じゃあ、頼んだ─── 」
テントの方へ向かおうとした矢先、俺はある事に気がついて、思わず振り返った。
「子供には蟲がついてないって言ったか?
同乗者は居なかったのか?」
「ん、どうじょーしゃは、いたよ。生きのこったのは、あの子だけ。
ティフォのめぢからで、ほねのずいまでみたよ? あの子には、なんもない」
「─── 馬車に乗っていたのに?」
「ん、そう」
「子供に寄生しないとは、書いてはありませんでしたが……。なぜなんでしょう? 単なる不幸中の幸いだったらいいのですが……」
人にも馬にも寄生する蟲が、抵抗力の弱い子供には寄生しない……? そんな事があるのか?
より大きく移動距離を保てるように、体の強い大人を選ぶのか?
「考えても分かんねえな、取り敢えず俺は一度テントに行く」
「私も行きます。何だかきな臭い事ばかりで心配ですから……」
転位魔術でソフィアと二人、テントへと向かう。
まさか、セオドア達が教団の差し向けた刺客だったりするのか?
今日の戦闘で見た限り、エリンとユニなら遅れを取る事は無いだろうが、隙を突かれればどうなるかは分からない。
─── 『時期じゃねえ』
確かにあの時、セオドアはそう言っていた。
それに『今はまだ完全に力を……』とも、あれは俺の契約の事を言っていた……?
だとすれば、教団とは関係が無いようにも思える。
教団には、俺とソフィアの関係と、契約の状態が分かるはずもないしな。
─── ……本当に、あいつら何者だ?
視界が白い光に包まれ、テントの近くへと転位する。
一度離れた足裏に、地面の感触が伝わると、転位魔術の光が切れた。
─── 遅かったじゃねぇかアルフォンス
目の前には松明の灯りで橙色に染まる、セオドアが俺を見下ろして立っていた─── 。
※ ※ ※
殺気は─── 無い。
無いがしかし……この渦巻くような重苦しい圧力はなんだ……?
抜くか─── いや、相手は丸腰、闘気も感じられない。
……あの革鎧程度なら、貫手で抉り抜くか、いや、掌底一撃で内臓を破壊できる。
「アルフォンス……」
嫌に力の入ったセオドアの声に、ソフィアが前に出ようとするのを手で制し、俺の後ろに回す。
セオドアは松明を片手に、ゆらりと両手を広げ、腰をわずかに落とした。
タックルか? いや、あの大地に根を張るような構えは、一瞬の内に闘気を高めて、初撃を耐え切るつもりか。
日中に見たあの海千山千、熟達した戦場の手管、流石に次の手が読めないな。
寝静まっていたはずの大森林に、結界へと激突する馬車の音が遠く響き、青白い光の瞬きがセオドアの顔をのっぺりと照らし出した。
─── その
やはりタックルだったか、図体はでかいがこの重心なら引き込んで……いや、膝であごを砕ける!
……て、あれ⁉︎ なんかこれ違うぞ?
セオドアは俺の腰に飛び込むんじゃなくて、両膝を地面について、ただ俺の膝に縋り付いた。
「な、なな、何なんだセオドア⁉︎ 抱き着くな離せ、気持ち悪い‼︎」
「うおおおぉッ! アルフォンス、アルフォンスよぉッ‼︎」
「うわ、鼻先を膝に擦り付けんな……って、熱ッ! お前、松明持ったままじゃねーかッ‼︎」
「子供がよおッ、子供がケガしてんだよ!
おめぇ、魔術得意だよな⁉︎ 昼に散々使ってたよな⁉︎」
「分かった! 分かんねえけど、分かったから離れろセオドア! 熱ッ、あつぅいッ‼︎」
取り敢えず頭にゲンコツ入れて、緩んだ所を首投げで転がして離れる。
尻から背中に掛けてビリビリ痛い、これぜってー火傷してるわ‼︎
直ぐに回復魔術と冷気を背中に発動させて、事なきを得るが、もちろん涙目だ。
「子供がよおッ、可愛そうだろうがよおッ‼︎」
「どう、どう、セオドア、どう!
分かった、分かったから! 子供を手当てしてやりゃあいいんだろ!」
「可愛そうじゃねぇかぁ〜ッ‼︎」
「さっきからそれしか言ってねえぞお前、情報薄過ぎんだよ!
……って、ティフォもいたし、エリンとユニが今は一緒なんだろ? 治療なんてとっくに終わってんじゃねぇのか……?」
セオドアはまだ興奮覚めぬ様子で、うん、うん、と相づちを返している。
その度に頰肉の振動と鼻息で、髭がわさわさと震えていた。
「俺ァ、ダメなんだ。子供が苦しむのを見るのが、どーにもダメなんだ!
ほら、ガキの頃、ケガすっとよぉ、痛いだけじゃなくて……その後しばらく怖くて泣いたろ?
……もうそーゆうのもダメなんだ俺ァッ‼︎
おめぇの魔術凄かったじゃねえか、それでよ、その……怖いのも何とかしてやってくれ!」
すっごい早口まくし立ててるけど、語彙力ないな。
この沸騰したような勢い、まさか狂騰蟲にやられてんじゃあねえだろうな……?
「落ち着かせる事は出来るけど、ケガした恐怖心は消せない。
むしろその恐怖心は、危機管理意識を育むもんだろ、そこまでは介入すべきじゃない」
「ぐ……ぬぅ、ぐぐぐ……。
─── 分かんね、もう一度分かりやすく言ってく……ぐわぁっ⁉︎」
再びセオドアが両手を広げ、すがりつきの姿勢に入った所で、アースラが背後から彼のケツを蹴り飛ばした。
「てめえアースラ、何しやがるッ! 亭主のケツを蹴り飛ばすとは何事だッ⁉︎」
「ハウスッ‼︎」
「ぐぬ……」
おお、一喝で混乱状態のセオドアがちんまり大人しくなった!
「静まりなさいな、あの子は今しがた眠りに就きましたわ。
あなたがここで騒いだら、目を覚ましてしまいますのよ?」
「……はい」
「ハァ、やっとこさ落ち着いたか。流石はパートナーだな、あれだけ慌ててたセオドアが、たった一言で落ち着くとは」
「……全く、いつまでも子供なのですよ、この方は。うふふふ」
そう言いながら、取り出した扇子で口元を隠して笑っている。
そんな彼女をバツが悪そうにチラ見して、セオドアは頰をボリボリ掻きながら俺に頭を下げた。
「悪かったなアル、恥ずかしいとこ見せちまった……」
「いや、気にするな。そう言う弱点みたいなの、誰にだってあるだろ?
ただ、人にすがりつく時は、松明をまず置いてからにした方がいい」
うん、熱いからね。
火傷も治って、火照りも冷気で治ったけど、今は尻と背中がスースーしてるしね。
「ん? あ、ホントだ。俺ずっとこれ持ったままだったのか……。
あー、そう言やあ、おめぇ途中で『熱ッ』とか言ってたもんなぁ。へへへ、すまねえ」
「あら、ではアルフォンスさんの、その背中のは、セオドアの仕業でしたの?
わたくしてっきり、最近の若者のファッションかと思っていましたわ」
「え? 俺、背中が何かなってんの?」
慌てて背中を触って確かめると、シャツの背中が焼け落ちていて、直に肌に触れた。
あれ? これ結構広範囲で露出してねえ?
俺の後ろを覗き込んだセオドアは、ぷるぷると震え出した。
「ぶはっ! おめぇケツ丸出しじゃねぇか!」
「え! ウソ、やだッ⁉︎」
体を捻って見てみれば、確かに自分の尻が、確認出来た。
つまり、
さっきからソフィアが静かだと思ってたら、真っ赤な顔を両手で塞ぎ、指の隙間からガッツリ尻を眺めてたらしい……。
「がははははッ‼︎ おめぇそのナリで『危機管理意識が』とか言ってたのかよ! ひぃーひひひひ! は、はら痛え……ッ‼︎」
「─── あの、奥さん、ちょっと旦那さん飛びますけど、構いませんかねぇ?」
「……(コクリ)」
─── ズビッシィィ……ッ‼︎
渾身のデコピンで額を打ち抜かれたセオドアは、膝から落ち、正座したまま後ろに倒れる形で昏倒した。
「─── ったく、あんまり服持ってねえんだから勘弁してくれよな……」
ぶつくさ言いながら、焼け落ちた服に意識を向けて、服を補修・再構築させる。
うん、これでスースーしなくなったわ。
安心してテントの方へ行こうとしたら、アースラは扇子で口元を隠したまま、俺の背中を覗き込んでいる。
あれ? まだ服に変な所でもあんの?
もう一度確認しょうと、体を捻った時、アースラが独り言のように呟いた。
「─── 無詠唱……?」
……忘れてたよ、手の内を隠してたって事を。
※ ※ ※
問題は翌日の朝に発覚した。
朝の日課の修練を終え、テントの場所まで戻ると、ユニが駆け寄ってきた。
「アル様……あの子の様子がおかしいの」
「蟲か⁉︎」
「ううん、そうじゃないの、ちょっと来て」
言われるままついていくと、そこには皆に囲まれて、倒木にちょこんと座る少年の姿があった。
昨日の生き残り、唯一蟲に寄生されずに済んだ少年だ。
年は7〜8歳くらいだろうか、短く刈りそろえられた髪、着ている服の質を見れば、しっかりと育てられている印象がある。
ただ、どこか上の空と言うか、やや視線を上向きに呆然としているように見えた。
「よう、おはよう。よく眠れたか?」
「…………おは……よう?」
一瞬だけちらっと俺の方を見て、
「俺はアルフォンスって言うんだ。君、名前は何て言うんだ?」
「……アル……フォンス。……ぼく、なまえ……? う……うぅん……」
「ああ、無理はしなくていいぞ? 俺の方はアルとでも呼んでくれたらいい」
顔をしかめて俯く少年に、慌てて名前を思い出させるのを止めた。
ああ、顔が青ざめてしまった、自分を分からないのは、そりゃあ不安だよな。
「…………この森の朝は気持ちがいいな、森は好きかい?」
「……ぼく、森は……すき」
「後で少し歩いてみようか」
「……うん」
昨日の今日、この小さな子供だ、ショックに意識や記憶に混乱が起きていたとしてもおかしくはない。
いきなり親の事とか聞くのは、どう考えても悪手だ、こちらからは控えて置くのが賢明だろうな……。
これは、しばらく時間が必要か。
─── こんな子供まで巻き込むとは
俺の方から直接、教団に乗り込んでやろうか……
そんな事を考えていたら、すぐ近くのソフィアが少年に聞こえぬよう気遣ったのだろう、念話で語り掛けて来た。
─── ……アルくん、この子は本当に記憶が無いみたいです。何度、心を覗いて見ても二〜三の事以外は消えていました……
─── ……喋れてはいる。衝突で脳に損傷があるわけでもない。精神的なものって線は?……
─── ……いいえ、綺麗に無いんですよ。ティフォちゃんもやってみましたが、答えは同じでした。
普通は何かしら記憶の断片のノイズが在るものなんです。
魔術の形跡はありませんが、いくらなんでも綺麗さっぱり読み取れないのは、疑問が残ります……
ソフィアとティフォのリーディングは、無意識の内に脳内に行き交ってる記憶の信号を、イメージ化して読み取る技だ。
逆になんらかの魔術で記憶の隠蔽を行う時は、強い暗示で思い起こさせないようにするか、特定の記憶に紐づけて、その信号をかき乱すなんて方法がある。
そういう乱暴な術を使えば、彼女らのリーディングには不自然なものとして映るそうだ。
しかし、その気配なく、実際にこの子は記憶が思い起こせていない。
記憶が消えたと言うよりもは、意識と記憶がバッサリと切れてしまって、自発的に呼び起せない状態と言った方がいいのかも知れない。
─── ……残ってる記憶ってのは?……
─── ……川、街中を流れる川、それを挟んで礼拝堂と時計塔ですかね、それぞれ特徴的な建物が立っています。
もうひとつは……この子の好きなものでしょうか? イメージを送りますね……
すぐにソフィアの言った通りの街並みが浮かび、続けてもうひとつのイメージが描かれた。
テーブルに置かれたプレートに、特徴的な調理をされたパンがのっている、そんな、なんて事のない風景。
─── ……自宅のテーブルだろうな、店って感じじゃない、生活は普通よりやや上。カトラリーがそんな感じに揃ってる。家の者の姿が無いのは残念だな。それにしても美味そうなパン料理だな……
─── ……あ、それ気になってました、食べてみたいです!……
─── ……何かのきっかけになるかも知れないな、これを作ってみるとするか。
礼拝堂のイメージといい、身元の特定は何とかなりそうだが……
─── ……メイプルシロップなんか合いそうですね。あ、いえ、そうではなくて、なぜこんな微妙な記憶だけ残ってるんでしょうか?……
これは教団側の仕込んだ線は弱いか。
あまりにやり方がボヤけ過ぎているし、他の記憶を消す意味が感じられない。
─── ……人為的な可能性は無いか。このタイミングであの惨事だ、ひとり生き残ったってのは不可解だが……。
しかしまだ、こんな小さいんだぞ? 何をさせるって言うんだ、刃物のひとつも持って無かったぞ……
─── ……もしかしたら、今までの追手のように、強い暗示をかけられたのかも知れませんね。体が耐え切れず、思わぬ作用を生んでしまったとか……
ありえるな。
そこらの雇われ人が、手足失っても起き上がって斬りかかってくるくらいだ、相当に強力な暗示だろう。
─── クソッ、この子は俺のせいで、こうなっちまったって事か
「……お腹、減ってないか? 朝ごはん、一緒に食べよう」
「…………あ、うん。おなか……すいてる」
事故にしても、罠にしても、この小さな子供にこれ以上負担を与えたくは無い。
手を差し出すと、俺の指をぎゅっと握って立ち上がる。
質問責めは負担になりそうだけど、何か記憶を取り戻せる可能性があるかも知れないと、目の前で料理を作る事にした。
─── ええと、パンプディングの変形みたいなやつだったな……?
記憶の断片で見た物に近いパンをズダ袋から取り出して、薄めにスライス。
牛の乳と卵を混ぜたものに軽く浸して、熱したフライパンでバターを溶かし、軽く焦げ目が付くように両面を焼いてみる。
何となく……パリッと感が足りないか?
店で食べた味を再現するのは好きだが、流石に見ただけの物を作るのは初めてだ。
イメージではもう少し、焼き上がりにエッジというか、羽のようなお焦げがあったような。
ふと閃いて、残っていた牛の乳と卵の液に、熟成の長い硬めのチーズを削り落として、パンの上から追加する。
小さな焼き音を立てて、チーズの香りの混ざった、甘さと香ばしさの何とも言えないにおいが立った。
それを皿に置いて、薄く切ったバターを乗せ、溶け出した頃合いに、メイプルシロップを流し掛ける。
「─── ほい、おまちどう。熱いから気をつけてな」
「……ありがと……う」
少年が大人用の大きなカトラリーに戸惑いつつも、小さく切って口に頬張る。
熱かったんだろう、目を白黒させて慌てたが、すぐにほうほうと口で転がして味わい始めた。
青ざめていた顔色に、少し赤味がさして、表情が薄っすらと出て来たように見える。
何口か口に運んだ時、柔らかそうな頰をもぐもぐさせながら『おいしい』と呟いた。
「もう一枚、食べるか?」
「……うん。……食べたい」
「よし来た!」
その後、更にもう一枚食べ切って、少年はうつらうつらとし始めたので、テントに連れて寝かす事にした。
─── 記憶は無くとも、食事の作法や姿勢、カトラリーの扱いは分かるのか
彼に合う大きさの食器なんかが無いのは仕方ない、子供連れでの旅準備なんて、考えもしてなかったからな。
そんな使い勝手の悪いであろうカトラリーで、何度か口に運ぶ途中で落としはしたが、ちゃんと使いこなしていた。
体が覚えているのだろうか、最後の方は音を立てる事もなく、綺麗に食べていたしな。
相当しっかりした家の子なんだろうか。
そんな事を考えつつ、後片付けに戻ると、そこにはテーブルに皿を並べて全員が待っていた。
「オニイチャ、さっきの、はよ!」
「メイプルシロップを提案したのは私です! 次は私がいただく権利がありまぁす!」
「「「はよ! はよ!」」」
ティフォとソフィアを皮切りに、次々と『はらへった、はようしろ』コールが、テーブルを叩くリズムに乗って押し寄せた。
こいつらの事を忘れてた。
いや、いい大人なんだし、自分で何とかしようや朝飯くらい……。
「─── お前ら全員子供かッ⁉︎」
その後俺は、パンを無茶苦茶焼いた。
因みに疑惑の傭兵夫婦が一番食べた。
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