第二話 草原の異変

 見渡す限りの草原と、その風景を二分する空の蒼さは、ただただ心を開放的にさせるものだと初めて知った。


 乾燥した爽やかな風が、時折草原の表面を撫で、さわさわと心地の良い音を奏でた。

 ヒバリやヒタキの、のどかで透き通った声が、遠くに響いてより空の高さを感じさせる。


「はぁ〜♪ 気持ちいいですね〜」


「ああ、こう言うのんびりなのもいいなぁ。

…………アレさえなければ」


 俺とソフィアが並んで歩く先に、大小不揃いな赤黒いボタンの目が、カクカクとこちらを見つめたまま頭を前後に揺らしている。


「ティフォ……あ、あんまりオニイチャ人形、太陽に当てると、痛んじゃうんじゃ……な、ないかなぁ」


 振り返るティフォの、背中合わせに背負われたオニイチャ人形が、流し目をするように彼女の死角に入った。


「ん? 虫干し。あと、後ろの警戒」


「……そ、そうか。ならいいんだ……」


 暗い部屋で出くわすより、明るい所で見る分には大分いいんだが……。

 やっぱり、視線を痛いくらい感じるんだよなぁ、あの人形。

 普段外に出てる時は、ティフォのポシェットの中に仕舞われてる事が多いんだけど、ダルンの開放的な景色の中に、鋭い刃物の如き視線があって台無しだ……。


 『後ろの警戒』とは、この辺りの草原には、大型の山猫やピューマが出る事があるらしく、その事だろう。

 ネコ科の野生生物は、視線に敏感な習性を持つものが多く、馬に乗らない少数の移動の時は、背中にお面を背負って歩くのが安全だとドギが言っていた。


(……って、ピューマくらいじゃあ、俺達になんも出来ないんじゃないかなぁ……)


 ティフォと俺の間には、仔猫化ベヒーモスが、尻尾をピーンと立てて歩いてる。

 サイズと釣り合いは仔猫でも、時折モリっと筋肉が主張する辺りは、災害級指定の面影がある。


 正直、何かが襲い掛かって来ても、そっちの方が可哀想な事になる気しかしない。


「─── オニイチャ、あれ」


 ティフォが急に立ち止まって、草原に続く細い道の先を指差した。


「……荷車が、脱輪でもしたのかな……?」


「どうせ通り道ですし、とりあえず行ってみましょう♪」


 上機嫌なソフィアが弾むように歩きだした。


「……ぞくの演技って事もある、俺が先に行こう」


 いや、例え賊でも、この二人に掛かったら、牧草の肥やしにしかならないだろうけどね。

 そう言って前に出ると、後ろからくすくす聞こえて来て、結局二人とも俺の横にピッタリ寄り添って来てしまった。




 ※ 




「いっやぁ〜助かった助かった! 市場に買い付けに行った帰りだろ? 荷車が重くて重くて押せども引けども動かねぇ。ありがとな兄ちゃん!

……にしてもスゲエ力だ、力士か何かか?」


 そう言ってバルド族の男は、顔に垢染あかじみの深いシワを入れて、にっかり笑った。


「しっかし、何だってあんなとこに泥濘ぬかるみなんか……。ま、終わったこたぁいいか!

……兄ちゃん達はどこ行くんだ? どう見たって外国人だ、栄光の道はこっちじゃねぇぞ」


「ああ、俺達はメルキアに用事があってな、栄光の道は通らない。ダルンは通り過ぎるだけなんだ」


 ブラウルと名乗るこの男は、バルドの馬族だった。

 一族に少しばかり大きな実入りがあって、代表して四人の息子達と買出しに出て来たらしい。


 話好きなバルド族だけあって、絶え間なく話題が振られてくるので、こちらまで饒舌じょうぜつになる。


「ふへぇ〜ッ! こっちからメルキア目指すってこたぁ、山越えと龍の巣通るってのか!

相当腕に自信が有りやがるな。その若さでこんな別嬪べっぴんさん二人も連れてんだ、見所あるぜ。

嫁か? 婚約者か? それとも情婦か?」


「……婚約者だ。二人ともな」


 そう答えるとブラウルが口笛を吹いて、頰をふくふく膨らませた。

 女神二人からは『うへへ』みたいな、ちょっとアレな笑い声が聞こえる。


─── 代わりに、三人の息子達が凹んでた


「な? 言っただろオメェら、ただ事の仲じゃねぇってよ。オメェらもとっとと、この二人みてぇな別嬪の嫁捕まえて、俺を安心させてみろ」


 どうやら息子達は、二人に気があったようだ。


「そこの子は……あんたの息子……じゃないよな?」


 四人の息子が馬で歩く後ろを、ひとりの小さな男の子が俯いて歩いていた。

 ひとりバルド族の衣装ではなく、簡素な上下の服に、決して綺麗とは言えない布を巻いて、帽子のように目深に被っている。


 そこからはみ出た髪色は明るい緑色、肌は汚れているものの、雪のように白かった。


「ああん? ああ、アレか。あれは奴隷だ。あんたら外国人は嫌なんだろ、そういうのは」


 まあ、嫌だよ。

 でも、こちらの綺麗事を押し付けるつもりはないし、奴隷だからと言って、それが不幸だとは限らない。



─── 生きて行けぬなら、従属して糧を得るのもまた生き方だ



 無下に否定するのは、そうして生きるしかない者の誇りすら傷つけかねない。

 気に入らないからと言って、文句だけ言うのはエゴだ。


「まあ、気に入らないけどな。でも、それが全て悪だとは思わないし、不幸じゃない。

─── 目の前で泣いていれば問題だが」


 そう言ってその子を見たが、顔を背けて無言で歩いていた。


「……良かったよ。あんたがそう言う考えでよ。そっちだって農奴とかあるじゃねぇか、なのに頭から否定するのが多くてな。

こいつはな、殺されかけていたんだ。それを拾ってこうしてる。

流石に我が息子達と同列には出来ねぇが、生きていけるよう手伝いをさせてんだよ」


 バルド族の奴隷は、奴隷市場などに売られた人間を買うのではない。

 戦いに勝った相手の、子供や身内を引き取り、もう一度攻めて来ないよう、半ば人質のような扱いが多いと言う。


 自由なようで不自由なく、不自由なようで自由ではない。

 ……一人で生きて行けぬ者が、そこに甘んじて生きていく術でもある。


 彼の話になってから、四兄弟の末っ子だろうか、一番若い男の子が守るように間に馬を進めて入った。

 兄弟として育てられなくても、絆はあるようだ。

 あれなら酷い扱いも受けてはいないだろう。


 奴隷の話に俺が突っかからなかったからか、ブラウルはまた笑顔を浮かべ、ティフォの方をチラ見した。


「……しっかし、ホントに別嬪べっぴんさんだ。兄ちゃんとお揃いの、あんまり見ねぇ眼の色だが、どこ出身なんだ?」


 俺とお揃い? ああ、ティフォの事か。


「俺たちはずっと東の方からだ。地図にも載ってない田舎だからな、地名は勘弁してくれ」


「へっえぇ、ここより田舎があんのか! しかしいい女だ、子供もたくさん産みそうだしな!」


 ああ、基準がそこか。

 そう言えば、この国に入ってからよく二人との関係を聞かれたりしたが、ほとんどがティフォへの質問だった。

 いつもだとソフィアがその役割なんだが、地域差ってやつなんだろうか。



─── オニイチャとなら、いっぱい産むよ?



「…………ボッ!」


「お、どうした兄ちゃん、何か破裂する音が……おいっ、真っ赤だけど大丈夫かッ⁉︎」


「な、なんでもない。持病の自然発火だ……」


「燃えるのか……外国人はおっかねぇなぁ」


 そんな事をグダグダと話していたその時だった。



「─── オニイチャ、離れて!」



 ティフォが突然叫んだ刹那、ブラウルが馬ごと肌色の何かに覆われていた───


「なッ……魔物! これは『ヒルコ』か⁉︎

全員動くな! 音を立てると狙われるぞ! ─── 【着葬クラッド】!」


「ヒッ、ば、バケモノッ‼︎」


「馬鹿野郎! 声を出すな─── 」


─── バク……ンッ‼︎‼︎


 俺の鎧姿に怯えた兄弟のひとりが、大声を上げた途端に、地中から現れた新手のヒルコに呑み込まれた。

 その隣にいたもうひとりの兄弟も、乗っていた馬ごと肌色の滑る魔物に包み込まれる。


 大蛇のような形に、ナメクジのような肌。

 馬ごと一飲みにする巨体と柔軟性、普段は土の中を移動し、ほとんど動かない。

 退化した体には、目も鼻も手足もなく、口しかない魔物だ。


 ボグリボグリと、薄いヒルコの肉壁の中で、骨を噛み砕く音が響く。


─── ピゥンッ キュンッ!


 ソフィアの斬撃がヒルコを撫でるが、粘液と小さな透明の鱗に覆われた体は、ジョリっと音がするだけで切り裂く事は出来なかった。

 ヒルコは何の反応もせず、大きく呑み込む音を立て、地中に消えて行ってしまった。


 草原に響いた斬撃音に、そこら中からヒルコが飛び出して、口を開ける粘着質な音が草原に騒めいた。


「アルくん。この子達みんな─── 契約済、です……!」


「─── なにッ⁉︎ 【針雷ニード・スンデル】!」


───タタタタタタァンッ!


 空から黒い線が、草原中に突き立った。

 閃光を至る所で放ちながら、紫色の電撃がヒルコの群れを縫い回り、肌色の滑る体を弾けさせる。

 辺りから、蛋白質の焦げる臭いが立ち込めた。


「……ま、魔術⁉︎ あ、あんた達は一体……?」


 確か長男だったか? 息子のひとりが周囲を見渡しながら、恐る恐る声を搾り出した。


「─── 俺達は冒険者だ。こいつらはどうも魔族らしい、ここら辺でそう言う話を聞いた事はあるか?」


 長男はもうひとり生き残った一番若い弟を見るが、彼は気付く事なくただ震えていた。


「……ち、父上と、お、弟達は……⁉︎」


 草原には雷撃魔術に打たれて横たわる、ヒルコの群れが、次々に霧となって消えて行く情景が続いていた。

 呑み込まれた父子三人の姿は、もう何処にもない、それを長男は必死で見渡して探している。


「…………済まない。間に合わなかった……」


「そ、そんな馬鹿なッ⁉︎ 父上はオレ達『月夜の風狼家』で一番の戦士だぞ⁉︎

今まで戦で負けた事なんかないッ! ピューマだってテントの柱で打ち殺した事があるんだ!」


 錯乱した長男が馬を飛び降り、怒鳴り散らしながら、俺に向かってくる。

 ティフォが鋭い眼でそれをにらみ、殺気立つのを、俺は手で制した。


「何でだッ! 有り得ない! あんな魔物は今まで居なかった! ……余所よそ者のお前達が連れて来たんだ……そ、そうだ、そうに決まってる!」


 涙を流しながら、血走った鋭い目で、俺の腕に掴み掛かる。


「……今のは『ヒルコ』だ。普通は湿地帯とか洞窟の湿った所にいる大人しい魔物なんだ。

─── それが魔族に使役されてる」


「魔族だって? そんなお伽話、誰が信じると思って─── 」



『─── オイオイ……人を勝手に架空にすんじゃねぇよ……ッ!』



 長男の腹から突然、三本の刃が突き出した。


「…………え? ……へ? ……ゴフッ!」


 状況が掴めず、オロオロと朱に濡れていく腹に手を這わせ、刃に触れた手の平がパクッと口を開くのを不思議そうに見つめている。

 その表情のまま、上に持ち上げられ、草原の向こうへと放り投げられた。


「……ヒルコに対して、音を立てねぇようにするだの、魔術でぜ〜んぶ片付けちまうだの……。

テメェは一体何モンだ? ええオイ?」


 両腕に長い鉤爪をつけた、異様に筋肉の発達した男が、舌なめずりをして言った。

 黒髪に紅眼、乳白色の短く太い角、間違いなく魔族だ。


「聞いて驚くなよ? 俺様は魔族『切裂さくれつ双爪そうそう』デニルだ。

……そう言やぁ、最近、俺達に歯向かう馬鹿がいるって聞いたな。黒い髑髏どくろの鎧を着けた、三人連れって聞い─── げぶらっ‼︎⁉︎」


 打ち下ろすように殴りつけられ、デニルが地面に横回転しながら、草を倒して滑って行った。

 可視化する程の神気を舞上げながら、紅い髪を逆立てて、ティフォが舌なめずりする。


「やっときた魔族。に、相手になれ」


 そう静かにつぶやき、音も無くツカツカとデニルに向かって歩いて行く。


「な、なんだ……カフッ、こ、この小娘が……め、メチャクチャに姦し殺してや─── 」


 不可視の触手がデニルを無理矢理立たせ、一瞬で間合いを詰めたティフォの姿がブレる。



【─── 『水鏡の太刀』】



 彼女が手刀を袈裟斬りに振り下ろすと、デニルの体が前後から血飛沫を上げる。


「うわぁ……夜切の奥義じゃん⁉︎ 手刀でやるのかよアレを……」


「ティフォちゃん、樹海の闘いから、鬼のように修練積んでましたもんね〜♪

神気も奇跡も使わないで、私と同じかそれ以上に強くなってますもん。

……あの戦いが相当頭に来てたみたいです。そこのカニさん、可哀想ですね……」


 言葉とは裏腹に『テヘペロ☆』て感じに、ソフィアが舌を唇の端にチョロ出ししてる。


「……さ、さては、お、お前ら人間じゃねぇな⁉︎ 何で人間の肩を持つ⁉︎ どうせコイツらなんざ、放っといたってすぐ死ぬんだぜ?

コイツら人間には、怨みがあんだよ俺達ぁ!」


「てめぇで言っておいて世話ねぇなぁ。『放って置いたってすぐ死ぬ』ってんなら、お前らの怨んだ相手はもう、この世にいねぇだろ?

パルスルに比べれば、小物だな……お前は」


 思わず口を挟んでしまった。

 こいつの殺戮には今までの魔公将に比べて、意義がない。


「ぱ、パルスル……様だと? なんでお前らがその名前を…………まさかお前らあの夜王すら─── ぶべらばッ!」


 ティフォのこれ以上ない程に綺麗なワンツー、膝関節を狩り込むようなローキックで、デニルの体が横回転して首から地面に落ちた。


「ごちゃごちゃ、うるさい。その爪は飾りか? 掛かってこない、なら、なぶりころすぞ?」


「……こ、このガキ‼︎」


 やっとその気になったらしい、低い体勢で一気にティフォとの間合いを詰め、両手にはめた鉤爪かぎづめで猛烈なラッシュを掛けた。

 振り抜く回数を重ねるごとに、闘気の練り上げられた斬撃が、草原に三条ずつの長い傷跡を刻みつける。

 土煙と草が舞い散り、壮絶な猛襲は、より苛烈になっていった。


 一撃でもまともに入れば、軽く骨ごと寸断されるであろう強撃を、絶え間なく繰り出し続けるスタミナは驚異的だ。

 通り名が何だったか憶えていないが、鍛え上げられた肉体は伊達じゃないようだった。


 横薙ぎの一閃をかわしたティフォの足が、次に動きにくい形を取った瞬間、デニルは振り切った勢いで回転する。


─── シュラララ……ン……


「……暗器!」


 一回転したバックハンドで、デニルは腰ベルトを引き抜いて、ティフォに繰り出した。

 その先が投網ように、空中で別れて拡がりながら、鋭い光の乱反射を描く。

 拡がる瞬間に出た音は、明らかに金属の音、リボンを束ねたような極薄の刃だ!


 どれだけ軟性が高いのか、遠心力で切っ先を伸ばしながら、斬り刻まれた草と土を舞い上げて、周囲の視界を奪って行った。


「─── 死ねッ‼︎」


 暗器を握る手首を、くんっと返すと、空中に拡がっていた刃が、土煙の向こうのティフォの影に一気に集中して襲い掛かる。


「キヘヘ! 他愛もねぇ、でっかい鉤爪かぎに気ぃ取られてっからだバァーカ!」


 もうもうと上がる土煙を背に、デニルが振り返る。

 不遜な眼つきで、こちらを品定めするように、視線でジロジロと舐め回す。


「へッ! パルスル様がどうとか言ってたな……。お連れさんがこの程度じゃあ、大方オメェらの言葉もハッタリだな」


「…………おい、殺り切ったか確認しなくていいのか?」


 俺の言葉に、デニルは肩をすくめ、笑い出した。


「んなもん、手応えで分かんだよ。俺の『千糸剣』の一本一本に、肉の滑る生温〜い感触が来るんだ。

あの糞ガキは今頃ミンチ─── 」


 突然、周囲の空気が、凍りつかんばかりに下がった。

 デニルは自分の胸元に震える手を当て、その掌を確かめるように見つめた。

 口の端から、一筋の血が線を引いて、あご先から滴り落ちる。


「……へ? はれ? な、何にもなってねぇ……ゲホッ! な、何だ? 生きてんのか俺ァ……」


 目から光を失い、地面に這いつくばって、浅く呼吸を繰り返す。

 その後ろには、気怠そうに斜に構えたティフォが、離れた位置からデニルの背中を見つめていた。


─── 強烈な殺気が見せた、死の幻想


 俺がダグ爺から免許皆伝を受けた、あの殺気のフェイントを、ティフォは研ぎ澄ましてデニルの背中に突き立てたのだろう。


「…………体に死んだと錯覚させるレベルって、そりゃあもう、神威クラスの技じゃねぇか……」


「ああ、ティフォちゃん、立派になって……」


 ソフィアが白い指で目尻を拭う。


 戦いは、力や技の威力なんかで、決まるものじゃない。

 戦いを調整して流れを作り、確実に勝利する必然性を構築するものだ。

 殺気を使ってフェイントを掛けたり、フェイクを入れるのも、相手を思い通りに動かす為の、言わばエッセンス。


 しかし、デニルは背後から放たれたティフォの殺気に、完全に呑まれて、斬られてもいないのに吐血していた。

 もう魔術か神威の領域に達している─── 。


「れんしゅーにも、ならん。もう、終わりか?」


 ティフォが、自分より遥かに大きな相手を見下ろしながら、無音の歩行で一歩ずつ近づいて行く。


「……ひ、ひぃぃっ! うわっ、うわぁ……ああ……うぅぅッ!」


 デニルは恐慌に陥り、声にならない声で喚きながら、手足をバタつかせて逃げようともがく。

 ティフォは眉ひとつ動かさず、憮然と彼を見下ろして近づき、やがてその目の前に立った。


「─── 『踊舞・霜星一握』」


 緩急が極端な歩法と、その踏込みから自然に連動する手刀の乱舞。

 デニルの周囲が突如、時間を止められたかのような錯覚が起き、身動きひとつ取れぬ間に斬り刻まれる。


 手刀一振りで刻まれる朱の太刀傷が、二条、四条、八条と、振り抜かれる度に倍化して、デニルを紅く染めて行く。


 宵鴉と明鴉の奥義が、またも手刀で完璧に再現されていた。

 ……それも、対集団用の広範囲技を、完璧なコントロールでひとりに集中させて。


(……無心の状態で放つ、制御不能の技なんだけどな……)


 本来は殺傷力の高いククリに任せ、斬りつける者の意識すら手放す奥義を、型の維持の難しい手刀でやる時点で驚愕だ。


─── ……きゅ……ひゅう……きゅうぅ……


 紅く染まり、人の形を失ったデニルは、時が動き出したようにふらふらと彷徨さまよう。

 体のあちこちから、魚を強く掴んだ時のような、異様な音を立てている。


─── パァンッ


 そうして数歩、戦神の如き少女から、逃げるようによろめいた時。

 体内の圧を抑え切れなくなったか、紅い肉の柱が爆ぜた。


「……す、すごいな、ティフォは……」


 そんな間の抜けた声しか出せなかった。

 本人は手をグーパーさせて確かめるようにそれを見つめながら呟いた。


「これで少し、覚悟、ふえた?」


 家族の生き残りの末息子と、奴隷が震えている。

 あれだけ唐突に家族が死に、理不尽な戦いに巻き込まれた後だ、仕方がないだろう。


 ……まあ、俺の甲冑姿にも問題はあるんだが。

 彼らの不安を解くために、何か話しかけようかと、二人の様子を目で確認した時、その違和感に気がついた。


 奴隷の目は、何故かソフィアに向けられ、状況にそぐわない表情をしていた。

 その視線を向けられたソフィアは、ティフォを称賛する事に夢中で、気付きもしていない。



─── 畏怖と歓喜



 一言で表すなら、奴隷はそんな顔をしていた。

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