第16話 壁の中の原動力

 勉強会は実によく捗った。ただでさえ敷居の高い春愁しゅんしゅう学園高校の中でも、トップレベルに厳しいと言われている数学の課題をたった一日で終わらせられるほどに。

 おかげさまで大きな肩の荷が降りた瑛斗えいとは、帰り行く二人の背中を見送った後、自分の部屋へは戻らずにその奥の扉の前で足を止めた。


「……奈々なな、起きてる?」


 廊下から声を掛けるが、返事は戻って来ない。分かってはいたけれど、やはり何度同じ結果でも同じように落ち込む。

 結果が分かっているとは言ったが、彼は別に誰も居ない部屋に話しかけた訳では無い。

 この部屋の中には、瑛斗が何よりも大切に思う存在……妹の奈々が居るのだ。

 彼女は春愁学園高校に通っている。いや、通っていたと言うべきだろうか。

 入学早々に引きこもりになってしまった奈々からは、仲のいい兄である瑛斗ですら事情を聞き出すことは困難を極めた。

 しかし、彼女がこのような状況になったことが過去に一度だけあったことを覚えていた彼はあの日、思い切って聞いてみたのだ。


『敵が居たの?』


 敵。奈々が中学生になったばかりの頃、彼女が学校に行けなくなるまで追い詰めた存在。

 憤る兄が良からぬことを考えないようにか、彼女は決してその人物の名前を口にすることは無かった。

 どうして自分を攻撃するのか、どうして自分に執着するのか。何も分からないまま、その人物に影で叩かれる。

 外面はいいせいで、周囲の人間からはあたかも面倒見のいい人、仲のいい二人だと思われていたらしい。

 敵はそれをいいことにイジメとも言える行為をエスカレートさせ、ついには奈々の腕に切り傷を付けた。

 それまで悪に屈しないと気を張っていた彼女の精神の糸は、その時にプツリと切れてしまったのだろう。

 学校に行かなくなり、家から出なくなり、部屋に籠ったまま壊れた機械人形のような生活を送り始めた。

 その理由はきっとトラウマだ。春愁学園高校に敵が居たのだと、瑛斗は睨んでいる。

 あの時は数週間後に敵が突然姿を消し、クラスメイトたちの助けもあって何とか復帰出来たが、今回もそうとは限らない。

 奈々の笑顔を取り戻すためには、一刻も早く敵の正体を突き止めて排除する必要がある。

 瑛斗が春愁学園高校に転校したのは、この目的を達成するため。では、なぜS級の女生徒にこだわっているのか。それは―――――――。


『学園……S級……女子……』


 嫌な予感を覚えて部屋に乗り込んだ時、カッターを握り締めた奈々が瑛斗を見てその3つの単語を零したから。

 あの時は何とか早まった行為を止めることは出来たが、いずれまた同じことをしかねない。

 自分が家に居ない時だったなら、きっと手遅れになってしまうだろう。

 だから、瑛斗は決めたのだ。大切な妹をここまで追い詰めた犯人を見つけ出し、必ずや復讐してやるのだと。


「奈々、うるさくしてごめん。迷惑だったら言ってくれていいから」

「…………」

「夜ご飯、何が食べたい? 食べたいものがあったら紙に書いて廊下に落としておいてね」

「…………」

「大丈夫。計画は順調だから」


 誰に語りかけているのかも分からなくなる言葉は、虚しいほどに廊下へと響いて壁に解けていく。


「じゃあ、行くね」


 けれど、もうこれが日常になりかけている。あまりにも悲しすぎる日常に。そんなことは決して許してはならない。

 ここにあったはずの兄妹の幸せを、誰かに壊されることをただ指をくわえて見ている訳にはいかないのだ。だから。


「麗子、見定めないと」


 彼女が敵なのかどうか。心を殺して疑い、見定めを続ける覚悟を決める瑛斗であった。

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