第614話

「実は私、昨日作ってみたんです」


 東條とうじょう家のキッチンに入るなりすぐに、麗華れいかはそう言いながらリボンで口を結ばれた可愛らしい小袋を取り出した。

 そこに入っているのはクッキー。茶色よりも黒に近い色からして、チョコレートを染み込ませているのであろうことが伺える。


「バターを多く使うクッキーは、作ってから3日目が一番美味しく食べられるんです。なので、明日がその日になるようにしてみました」

「抜け駆けなんて卑怯ね。でも、だとしたら今日は何のために来たのよ」

「東條さんのお手伝いをと思いまして」

「冗談は顔だけにしておきなさい。あなたがそんなことに手を挙げるわけないでしょう?」

「それは心外ですね。私たちが友達であると言ったのは東條さんだと言うのに」


 しくしくと泣き真似をする麗華に紅葉が「本当に手伝ってくれるの?」と聞くと、彼女は顔を上げて深く頷けいて見せた。

 いくらライバルと言えど、食べ物を台無しにするような人間でないことは知っているし、何より紅葉自身が信じたいと感じている。

 ここはありがたく頼らせてもらうことにしよう。いや、頼る以外に間に合わせる方法はないのかもしれない。


「実は……まだ何を作るかも決めてないのよね……」

「え? 東條さん、一週間前にバレンタインがどうのこうのって言ってたじゃないですか」

「忘れてたわけじゃないわよ。もし瑛斗えいとが気に入ってくれなかったらと思うと、何を想像しても出来る気がしないのよ!」

「……紅葉ちゃん、初心うぶだね」

「……」コクコク


 3人は呆れたように首を振りながらも、彼女の気持ちも分からなくは無いようで、仕方ないという風にそれぞれがバレンタイン向けのサイトを検索して見せてくれた。

 ただ、紅葉だって穴が空くほど目を通したのだ。王道で行けば間違いないし、それを渡す時に告白への返事を付け足せばいいだけ。

 けれど、夢に出てきた意地悪な瑛斗の『美味しくない』という言葉がやけにリアルで、完成品の写真を見るだけでおくしてしまう。

 そういうわけで前日までズルズルと引き伸ばしになってしまったのだけれど、今更探そうにもピンとくるものがなかった。


「でしたら、とりあえず作ってみましょう」

「試しに作るほどチョコの用意が無いわよ」

「それなら心配ありません」


 麗華はそう言うと、合図のようにパンパンと手を叩く。その音が聞こえたのか瑠海るうなさんがどこからともなく現れると、手に持っていたアタッシュケースを開いて見せてくれる。

 その中にはぎゅうぎゅう詰めの札束……ではなく、未開封の板チョコが所狭しと並んでいた。


「こんなこともあろうかと、お父さんにあげるために用意したチョコを持ってきました」

「そ、それは困るわ。晋助しんすけさんの分が無くなるじゃない」

「チョコは見た目でも味でも種類でもありませんし、もちろん量でもない。お父さんにはこれ一枚があれば十分でしょう」


 麗華はそう言いながらアタッシュケースの中から板チョコ一枚を取り出すと、それを瑠海さんに保管しておいて欲しいと頼んだ。

 それから、頭を下げて立ち去ろうとする彼女にもう一枚手渡し、「当日はもっと心を込めたものをあげますね」と手を振って見送る。

 振り返り際に見えた瑠海さんの嬉しそうな口元には、その場にいた全員が気付かなかった振りをすることにした。


「東條さん、遠慮は必要ありません。後々請求するなんてこともしませんから」

白銀しろかね 麗華れいか、どうしてそんなに優しいのよ。今更だけど、私はあなたの好きな人に告白されたのよ?」

「……本当に今更ですね」


 嬉しさ半分困惑半分の表情で問いかけた紅葉に、麗華は短いため息をつきながら歩み寄ると、いつの間にか手に取っていた板チョコの箱で軽く額を叩く。


「瑛斗さんに浮気させるという勝負をすると言ったのは東條さんですよ。さっさと返事をしてもらわないと、私たちも動けないんです」

「そ、そういうこと……?」

「私は瑛斗さんのことが好きですから。でも、同じくらい東條さんのことも好きです」

「……白銀 麗華」

「友達が不幸になるのを見たいはずはないでしょう? 好きだから手を差し伸べるんです、あなたは私にとって初めて本音を言い合えた人ですし」


 分かってはいたつもりだったものの、こうして言葉にして貰えると安心する。

 紅葉は先程まで表情の半分を占めていた困惑を拭い取ると、素直な笑顔で彼女の善意を受け入れることにした。

 ただし、何を作るのかはチョコが増えても決まるわけではない。もうしばらく悩む時間があったことは言うまでもないだろう。

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