第595話
こちらを見下ろす彼女の表情は、先程までの日花さんと同じだとは思えないほどに優しい色をしていた。
それもそのはずだ。僕の手を掴んで助けてくれた彼女は、日花さんであって日花さんでは無い。
今話しているのはずっと眠っていた意識、アンドロイドである方の
「……麗子さんなの?」
「さん付けなんてやめてよ、他人行儀過ぎるし」
「あれ、やっぱり日花さんのままかも」
「ちゃんと麗子ちゃんですよーだ!」
話しているだけで自然と笑顔になってしまう。嫌なことがあっても前向きになろうと思わせてくれるこの笑顔が懐かしい。
姿形は変わっても、中身は昔と何も変わらない初恋の相手だ。きっと、変わってしまったのは身長と……それから僕の気持ちだけだろうね。
「麗子、こうしてまた話せるなんて夢にも思ってなかった」
「きっと、瑛斗くんはあの人から全部聞いたんだよね。私が騙していたことも全て」
「聞いたよ。でも、騙されたなんて思ってない。人間じゃなかったとしても、僕があの時知った感情は本物だった」
「……本物だった、なんだね」
少し視線を下に向けながら、彼女は寂しそうにぽつりと呟く。そんな姿を見せられて、胸が痛まないはずがなかった。
けれど、きっと嘘をつく方がもっと辛い。目を背けてきたことに向き合う機会も、そのために必要な覚悟だってこの場に揃ってる。
僕は今ここで、あの日の後悔から解放されなくてはならないのだ。
「僕はもう、麗子のことが好きじゃないんだ」
「……それは、私が機械だったから?」
「違う。それを知るずっと前から、僕が繋ぎ止めていた感情は別の物に変わってた」
「それは罪悪感、だよね」
麗子の言葉に、僕は黙って頷く。
もちろん、あの頃はずっと好きだった。でも、心の中に彼女が居座り続けた理由はそれとは違う。
だって、夢に出てきた麗子は時々僕に言うのだ。『君が来なかったから私は死んだ』と。
本物の彼女は絶対にそんなことは言わない。そう分かっていてもうなされる日があるのは、あの日に自分を繋ぎ止めているのが罪悪感という鎖でしか無くなっていたから。
「じゃあ、私が機械だって知っても嫌いにならなかったってこと?」
「友達として、ずっと好きでいるよ。それは僕がいくつになっても変わらないって約束できる」
「……そっか。それがずっと心残りだったの、謝りたくて仕方がなかった」
「僕の方こそ、伝えたかった。あの日、遊ぶって約束を守れなくてごめん」
「瑛斗くんのことだから、仕方のないことだったんでしょ? 私はそんなことで怒らない。だって、今立ってるのは景色を見渡せる木の上だもん」
「悩みも怒りも、忘れさせてくれる場所だ」
「木登りは身軽さが大事だからね。持って登るのは、楽しい思い出だけで十分だよ」
そう言ってにっこりと笑った彼女は、僕の目を見て照れくさそうに人差し指で頬をかく。
そんな何気ない動作だったけれど、麗子の手首を見た僕は反射的に目を見開いてその腕を掴んだ。
人間で言うところの関節にあたる部分が裂けてしまったらしく、内側の機械部品が見えている。
この手は……先程僕を助ける時に伸ばしてくれていた方だ。おそらく、落ちる男子高校生一人分の重さに耐えられるようには出来ていなかったのだろう。
思い返してみれば、掴んでもらった時にビリッとした瞬間があった。壊れたのはあの時かもしれない。
「そんな心配そうな目で見ないでよ。機械自体に問題は無いし、皮膚に見える絶縁体も数分で自動修復されるから」
「それならよかった……」
「でも、この傷が閉じたら私はお別れかな」
「え、どうして?」
「この体は日花ちゃんのものだよ、私がずっと表に出ていられるはずがない。それに、ずっと伝えたかったことを伝えられたから」
「もう心残りはないからって消えちゃうの? それなら日花さんに頼んで、時々でも体を貸してもらったら――――――――――――」
「この子にあなたはロボットですって教えるの? そんな酷いこと、瑛斗くんには出来ないよ」
『日花ちゃんは普通の人間として、普通に恋をしたり趣味を見つけるの。いつか知る日が来たとしても、そこに諦めた私の姿があってはいけない』
声が既に日花に戻っている。手首の傷は、いつの間にかもうほとんど閉じていた。
引き止めたくて、何も出来なかったあの日と違って何か出来ることがあるはずだと思えたけれど、手首に伸ばした手を僕は直前で止める。
傷口が塞がらなければ、彼女はずっとここに居られる。けれど、そうすれば塞がらないのは僕の心にある傷も同じだ。
正しい処置はなんなのか、もう後悔を捨てた今の僕には分かる。だから――――――――。
「ありがとう、麗子」
「瑛斗くん、ありがとう」
だから、僕たちは笑顔で別れを迎えた。麗子としての瞳に写った最後の景色が、お互いにとっていいものであるように。
「……ありがとう、大好きだったよ」
傷が完全に消えると同時に意識の途切れた彼女を慌てて支えた僕が、しばらくその場で込み上げて来た色々な感情を流れるままに零したことは言うまでもない。
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