第594話
珍しく誰もいない校庭を走り抜けた僕は、その端の方にある一際大きな木の前で足を止めた。
そしてゴツゴツとした木の幹に手のひらを添えながら、
「木の上から見える景色は、悩みなんてきっと忘れさせてくれるよ」
「木登りをしろと?」
「そう、僕の大切な友達が教えてくれたんだ」
「……遠慮しておく。私は見ての通りインドア派だ、木登りなんてしたことが無い」
「見てるだけでもいいからさ」
乗り気でない彼女をその場に残し、僕はもう片方の手も木を掴んで体を持ち上げていく。
しかし、木登りなんて何年ぶりと言うだけでなく、そもそも人の助けがなければ登れたことも無い僕には厳し過ぎたらしい。
指に何かが食い込む痛みで上手く握力を使えず、みるみるうちに視線はズルズルと下へ落ち始めた。……でも。
「下手くそだな、君は。自分から誘っておいて情けないにも程がある」
見兼ねた日花さんがお尻を支えてくれたおかげで、それ以上の下降は食い止められたどころか、最初に掴んだ位置よりも高い場所に登ることが出来た。
やっぱり何年経っても、僕と木登りは分かり合えないらしい。誰かと一緒なら、歩み寄るくらいは出来なくもないけれど。
「ありがとう。日花さんも登っておいでよ」
「いいや、また少し頭が痛み始めた。今木登りをするのは危険過ぎる」
「大丈夫、きっと今しか登れないよ」
「どういう意味だ?」
「僕を信じて」
訳が分からないと言わんばかりに首を傾げる彼女を、僕は言葉で急かして半ば強引に木登りさせる。
今しか登れないと言ったのは、日花さんの記憶には木登りの経験が無くて、頭痛の原因である
僕と彼女を初めに繋いでくれたこの遊びなら、何かを呼び起こすトリガーになると思ったのだ。
「……ん?」
木を掴んだ瞬間、日花は何か違和感を覚えたように不思議な顔をした。
きっと、手のひらに残っている木登りの感覚に戸惑っているのだろう。麗子さんと同じ部品を使っているのだ、そんなことがあっても不思議ではない。
そして登り終えた瞬間、普段よりも高い位置から見える風景。これこそが僕の切り札、考えられる中で一番麗子の部分を引き出せそうな一手だった。けれど―――――――――――。
「ねえ、何か思い出した?」
「……あたしは何を思い出す必要があるんだ?」
――――――――――失敗した。
麗子としての記憶が残っていることは間違いない。だけど、日花として与えられた記憶にほぼほぼ上書きされてしまっているのだろう。
結局はデータなのだ。人間の記憶喪失のように存在するけど取り出せない状態とは違う、メモリ自体が取り替えられているのだから。
記憶領域のない部品にデータの断片でも残っているだなんて、そんな近未来メルヘンチックな現象を信じた自分が夢見すぎだった。
完全に手段を失ってしまった僕は肩を落として、ようやく追いついた叔父さんに結果を伝えるべく、木から降りようと右足を太めの枝に引っ掛ける。
しかし、左足を浮かせようとした瞬間、体重に耐えきれなかったそれは予兆も無しに大きな音を立てて折れてしまった。
……そう言えば、昔もこんなことがあった気がする。あの時の僕はどうなったんだったかな。
走馬灯は危険を回避する方法を見つけるためのものだなんて聞いたことがあるけれど、肝心なその瞬間を思い出せないだなんて―――――――。
「まったく、
一瞬何が起きたのか分からなかった。落ちていたはずの体が止まったと思えば、引っ張られる腕にビリッと痛みが走る感覚で閉じていた目を開ける。
すると、僕の手首は日花さんに掴まれていた。木の幹に擦った膝から血は出ているみたいだけれど、それ以上の怪我はしていない。
……いや、肘も痛いかもしれない。でも、今はそんなことどうでもよかった。
僕は聞いてしまったから。名前を教えていないはずの日花さんの口から、自分の名前が発されるのを。
「あの時は簡単に持ち上げられたのに。瑛斗くん、私が寝てる間に随分と大きくなったね」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます