第539話

 ノエルが到着してから数分後、紅葉くれはたちから僕の母さんが来ていたという話を聞くと、彼女はひっくり返りそうなほど驚いていた。

 それはもう、引退宣言だと勘違いした瞬間の僕と並べても引けを取らないくらいにね。


「みんなは会ったってこと……?」

「すごくいいお母様でしたよ♪」

「私は変に目をつけられたわ」

「……」コクコク

「わ、私はすれ違っただけですが!」


 人の母親に会うというのがそんなに羨ましいことなのかは分からないけれど、どうせならノエルもいる時に顔を見せてくれればよかったのに。

 彼女は今やトップと言っていいレベルのアイドル。仕事ばかりしている母さんでも、ノエルのことは何かしらの形で見たことがあるはずだから。

 もしかしたら、自分の母親がWASSup調子はどう?に関する何かしらのデザインを担当出来たり……なんてのは夢のまた夢なのかな。


「でも、話を聞く限りだとノエル先輩のことも睨まれちゃいそうですけどね。お母さん、既に麗華れいか先輩のことが気に入ってましたし」

「え、どういうこと?」

「私、お母様と一緒に仕事をしたことがあるんです。お父さんが以前からデザインの依頼を受けてもらっていたので」

「そんな繋がりがあったの?!」

「私も瑛斗えいとさんのお母様だと知ったのはついさっきですけどね」


 みんなが話しているのを聞きつつ、僕はせっせとみんなの前にケーキとコップを並べていく。

 次はクッキーを取りに行こうと顔を上げると、話の流れなのか全員の視線がこちらへ向いていることに気がついた。


「瑛斗、白銀しろかね 麗華れいかとの結婚を否定したってことは、好きじゃないってことなのよね?」

「まあ、恋愛的な意味ではそうなのかな。もちろん、友達としては大好きだけど」

「なんだか複雑な気持ちですね」

「結婚? 否定? わ、私、思ったよりライブで疲れてるみたい。頭がクラクラしてきたよ……」


 額を押えながらフラフラとしたノエルは、隣にいたイヴと萌乃香ものかに支えられて何とか意識を保っている。

 ただ、体だけでなく心まで疲弊してしまっているようで、自分と全く同じサイズのイヴの胸元とミスエベレストな萌乃香のとを見比べると、あろうことか後者へと抱きついたのだ。


「……」ガーン

「この温もり、柔らかさ、いい匂い。癒される……」

「ふふ、こんな私でよければいつでもハグしていいですからね♪」

「……」ジー

「イヴちゃんさんも来ますか? 2人までなら抱きしめられそうですよ?」

「……♪」


 結局、ショックを受けていた様子のイヴも、ノエルと一緒に包み込まれてハッピーエンド。

 僕も混ざらせてもらおうかなんて考えが一瞬過ったけれど、死にかけたトラウマがこんにちはしたから、そっと視線を逸らしてクッキーを取りに行った。


「母さんの話はまた今度にしようよ。せっかく準備も整ったわけだし」

「それもそうね」

「麗華先輩、この包丁で切れます?」

「弘法筆を選ばずって言うもの、技術さえあればどんな包丁でも切れるわよね?」

「もちろんですが……そのことわざの元になった弘法大師は、筆を選ぶ方だったという話もありますよ」

「え、そうなの?!」


 麗華の言っていることは正しいが、紅葉が驚くのも無理はない。弘法大師は筆を選ばないと言っておきながら、いい筆を使うようにとも言っているのだから。

 この2つは矛盾しているように見えて、意味を知ると面白いんだよね。この人の言っている『いい筆』というのは、きちんと手入れをしたものって意味なんだから。

 要するに、本当に上手い人は道具の善し悪しに文句をつけたりはしないが、普段から手入れをしておけば悪い道具を使うことは無い。

 そんなことを言いたかったんじゃないかなと僕は思ってる。『あくまで個人の感想です』って付けとかないと怒られそうだけどね。


「はいはい、私が間違ってたわよ。とにかく、上手に切りなさいよ」

「言われなくても東條とうじょうさんの分以外は綺麗にしますよ」

「どんな嫌がらせよ!」

「ふふ、嘘です。むしろ丁寧に切らなければ、やると言った私のプライドが許しませんから」


 別に食べられないほどにならなければ、そこまで責任を感じる必要は無いと思うけれど、やる気を出してくれているのなら口出しはするまい。

 僕は心の中でそう頷くと、イチャイチャしていた萌乃香たちも呼んで、入刀の瞬間とみんなの笑顔をしっかりと写真に収めておくのだった。


「……うん、我ながら完璧な一枚だね」

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