第523話
「はぁ、さすがに経営者同士の話は難しい言葉ばかりですね……」
そんな独り言を零しながら、私は冷たい風でショートしかけた頭を冷却する。
いくら勉強が出来たとしても、大きなものを動かす人間のスピードにはまだ着いていけそうにない。今日はそんな自分の未熟さを痛感した一日だった。
「それでも、いつかは私もああならないと……」
胸の中に蓄積し始めた不安をかき消そうと首を振っていると、コツコツという足音と共に誰かがベランダへと出てくる。
その人物は「お隣、失礼するわね」と言いながら柵に背中を預けると、缶コーヒーを一口飲んで白い息を吐いた。
「あなたは先程、社長さんの隣にいた……」
「ええ、デザイナーの『HIFUMI』よ。ひふみちゃんって呼んでね」
「ひふみさん……」
HIFUMIさんはフリーでデザイナーをやっている人で、オリエンタルホールディングスが新しく作るテーマパークのデザイナーを務めている。
お父さんと仕事をするのはもう数回目になるようで、打ち合わせ中も楽しそうに雑談を挟んだりしていた。
私は仕事のことを覚えるので手一杯過ぎて、きっと上手く笑えていなかっただろうけれど。
「私のデザイン、どうだったかしら」
「す、すごく良かったと思います」
「それは『白銀社長の娘』としての言葉でしょう? 今は打ち合わせ中じゃないわ、あなた自身の言葉を聞かせて」
「……私の言葉?」
確かに打ち合わせ中、私は自分の意見なんてひとつも口に出さなかった。いや、出せなかった。
だって何が良くて何が良くないのかなんて、まだ子供から抜け出せていない私にはわからなかったから。
お父さんがダメと言えばダメなんだと信じ、良いと言われれば良く見えてくる。そうやって脳の稼働している面積を減らさなければ、本当に目が回りそうだったのだ。
だけれど、今は落ち着いた状況。本当に意見を求めている優しい目で見つめられると、不思議と落ち着いて言葉を探せる気がした。
「えっと、最後に見せてもらったデザインのことなのですが……」
「テーマパークの入口付近の絵ね」
「その、チケット売り場の上に書いてある数字に4が抜けてたのは縁起ですか?」
「あら、よく気付いたわね」
自分は偶然見つけられたものの、ひふみさんが驚くのも無理はなかった。売り場番号は3mmという極小サイズでしか描かれていないのだから。
ただ、反応から察するに単なるうっかりミスというわけではないらしい。それを証明するかのように、ひふみさんはその絵を見せながらにんまりと微笑んだ。
「信介くん、有難いことに私の仕事にはすごく信頼を置いてくれてるのよね。でも、最近信用しすぎだからちょっと試してみちゃった♪」
「試した、ですか?」
「そう。予想通り、この絵を見ても何も言わなかったでしょう? 私のデザインに間違いはないって思い込んでるのね」
「こんな小さなミスなら、たとえ父であっても見落としが起こるのは仕方ないと思いますよ」
「でも、そのお父さんが見落としたものを、娘のあなたは見つけてたわけだ」
「それはそうですが……」
「少なくとも、麗華ちゃんのおかげでそちら側のミスはひとつ減ったんだよ。ちゃんと役に立ってるんだから、そんな辛そうに仕事しないで」
そう言われてハッとした。仕事について行くことばかり考えていて、笑顔で仕事をする社長さんとひふみさん、お父さんを前にしてもガチガチに緊張してしまっていた。
せっかく多くの人を楽しませる場所を作れると言うのに、こんな暗い顔ばかりしていてはいいものは出来上がらないだろう。
ひふみさんは私の心中を察して、わざわざ声をかけてくれたのかもしれない。そう思うと、ほんの少しだけ冷えきっていた指先に熱が戻った気がした。
「仕事相手とは意見をぶつけ合うこともあるけど、それは決して敵という意味じゃない。互いに上を向いていれば、ぶつけ合うことでより高く舞い上がるはずよ」
「はい!」
「ふふ、ようやく顔色が良くなったわね」
「おかげさまで! 打ち合わせ、再会出来ますか?」
「先に戻っていてちょうだい。私はこのコーヒーを飲み干したら参加するから」
「わかりました、父にはそう伝えておきます」
最後にもう一度「ありがとうございました」と頭を下げると、軽く手を振ってくれるひふみさんに背中を向けて室内へと戻る。
そんな彼女がボソッと呟いた独り言は、私の耳まで届くことは無かった。
「ふふ、そんな気にしなくていいのよ。あなたには息子がお世話になってるみたいだから」
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