第493話

 紅葉くれはがトイレから自分以外を追い出し、1対1で便器と向き合い始めてから数分。

 ようやく底から引き上げられた鍵を使い、僕はついに手錠から開放されたのだった。


「これで一件落着ね」

「……」

奈々ななちゃん、どうしたの? そんなにこっちを見つめて」

「……その手、ちゃんと洗いました?」

「洗ったわよ!」


 どうやら奈々は紅葉の手が汚いと思っているようで、証明とばかりに突き出されたそれから「し、信用出来ません!」と逃げ出す。

 紅葉も紅葉で逃げられると追いたくなるタチらしく、「トイレマンが追ってくる!」「誰がトイレマンよ!」なんて言い合いながら部屋の中をグルグル。

 少し距離が空いたかと思えば、紅葉が進行方向を変えて急ブレーキをかけている奈々に飛び付いた。


「小さいだけあってすばしっこいですね」

「小さいは余計よ。それより、ちゃんと洗ったから。信じなさい」

「はいはい、初めから疑ってませんよ。からかいたかっただけですし」

「……ほんと、いい性格してるわね」

「それほどでも」

「褒めてないから」


 やれやれと呆れたように首を振った紅葉は、こちらにも「信じなさいよ?」と言葉を投げかけてくる。

 もちろん僕だって疑ってなんかいないし、紅葉がビニール手袋を着けて取り出したことを知ってるから、そもそも汚いとすら思っていない。

 まあ、奈々からのからかいも含めて、暴走に関する罰だと思えばちょうどいいおしおきなんじゃないかな。


「手錠で思い出したけど、前に仲の悪いふたりが手錠で繋がれた結果仲良くなるってドラマがあったよね」

「ああ、かなり前よね……って、どうして私たちに手錠を向けるのよ」

「繋がれるなら紅葉先輩なんかより、お兄ちゃんとがいいよ!」

「私こそ奈々ちゃんとなんてお断りね。別に嫌いってわけじゃないけど……」

「……私だって嫌いでは無いですよ? でも、お兄ちゃんを取り合うライバルなので」

「「……ふふ」」


 仲良しと言ってもいいのかは分からないけれど、何だかんだお互いのことを理解はしてくれている2人に、僕は手錠を机の上に置き直す。

 彼女たちに手錠は必要ない。というより、もうその段階は乗り越えているらしいからね。

 敵同士とも、単純な先輩後輩とも違う、いいライバルのままでいてもらうのが自分にとっても最善な気がした。2人で結託して襲いかかられても困るし。


「でも、瑛斗えいととなら繋がれても構わないわ」

「むしろお兄ちゃんとなら繋がれたいくらいだもん」

「……ん?」


 いや、前言は撤回した方がいいのかもしれない。だって、ライバル同士でも目的が同じ方向を向けば、お互いが最も利を得られる行動を選ぶことが証明されてしまったから。

 ひとつしかないと思っていた手錠は、紅葉がカバンから「もうひとつあるわよ」と取り出したことで両者の手に渡る。

 そして言葉を交わさないまま視線だけで会話をした彼女たちにより、僕は瞬く間に両手に手錠をかけられてしまった。それも左右別々のだ。


「こういうのも面白そうなので、今日はお兄ちゃんをシェアしてあげます」

「奈々ちゃんに許されなくても、瑛斗は私を選ぶに決まってるわ」

「それはどうですかね。妹には妹の秘密兵器があるというのに」

「ひ、秘密兵器?」

「ふふふ、指をくわえて見ていてください」


 ドヤ顔でそう言って見せた奈々は、顔を僕の方へ向けると何やら唇をプルプルと震わせ始める。

 そしてすごく悲しそうな顔をしながら、「お兄ちゃん、抱っこ」と甘えた口調で言ってのけた。

 高校生にもなって情けないと思う人もいるかもしれない。しかし、妹にこうして真っ直ぐに求められると案外心に刺さるものがあるのも事実。

 そんな心の揺れを察知したのだろう。そうはさせまい紅葉も腹を括ると、クイクイっと服を引っ張りながら「だ、抱っこ……」と羞恥心全開で求めてきた。


「えっと、じゃあ順番に……」

「妹の私が先に決まってるよね!」

「いえ、私の方が先よ。奈々ちゃんより可愛かった自信があるわ」

「自分で言っちゃうなんて悲しい人ですね。ああ、可愛いのは身長だけだと言うのに」

「……今すぐボコボコにしてやろうかしら」

「やれるものならどうぞ?」


 バチバチと火花を散らしながらも、僕へのアピールはチラチラと挟んでくる2人。

 彼女たちはその後、叩き合いの喧嘩から何故か相撲勝負へと発展し、手錠に繋がれたままの僕も右へ左へと振り回されることになるのであった。


「負けた方が鼻から納豆ですからね」

「望むところよ」

「あの、目が回ってきたんだけど……」

「「黙ってて!」」

「……はぃ」

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