第491話

 トイレに入ってから僅か1分後、便座に座らされた僕は紅葉くれはに跨られた状態で抱きつかれ、身動きが取れなくなっていた。

 先程の『やっと2人きりになれたわね』という言葉から察するに、彼女は初めからこうなることを予想していたのだろう。

 その事実を裏付けるように、彼女はトイレットペーパーを収納するための棚からとあるものを取り出して見せた。


「ねえ、瑛斗。こんなところに連れ込んで、本当にハグだけで終わらせるつもりだったの?」

「連れ込んだのは紅葉だと思うけど」

「事実はどうであれ、世間は女より力の強い男を疑うものなのよ」


 紅葉はそう言いながら手にしたおもちゃの手錠で、少し強引に後ろに回させた両手首を拘束すると、締め付けるようなハグを解除してクスリと笑う。


「大丈夫、少し私の興味に付き合ってもらうだけ。そのためにこの家で一番邪魔されない場所を聞き出したんだから」

「……」

「怖がらなくていいの、痛いことは何もないから」

「……もう腕が痛いんだけど」

「それは我慢して? そうじゃないと、私のやりたいことが出来ないから」

「やりたいことって?」


 僕がそう聞くと、彼女は体重を預けるように体を密着させながら顔を寄せてきた。

 そして唇を軽く突き出し、普段の無邪気なものとは明らかに違った色気のある微笑みと流し目で教えてくれる。


「強引にするキスよ。ほら、白銀しろかね 麗華れいかがやってたじゃない」

「ああ……でも、あれって夏祭りのすぐ後だったよね? もうかなり経ってるけど」

「ふと思い立ったのよ。でも、私は本気で抵抗されたら勝てないと思うから……」

「それで手錠なんだね」


 コクリと小さく頷いた紅葉は、「本気で嫌なら外すわ、これがきっかけで嫌われるのは嫌だもの」と不安そうに俯く。

 こんな顔をされれば断ることなんてできっこないけど、僕はそれよりも気になることがあった。


「もしかしてだけど、このために色々準備してた?」

「……ええ、強引になるなら色気がなきゃダメじゃない? 普段は読まないけど、女性雑誌を読んで勉強してきたの」

「それにしてもすごいね。確かにすごく色気があった、紅葉じゃないみたいだったし」

「ほんと? よかった♪」


 いくら知識を詰め込もうと、本質的な部分は変えられない。嬉しそうに笑った時の顔はやっぱり普段通りの彼女で、こっちの方が好きだなと心のどこかで感じてしまう。


「でも、キスするつもりなんだよね?」

「そうよ」

「僕は抵抗しなきゃいけないと思うんだけど」

「でも、抵抗できないわよ?」

「…………うん」


 倫理的な話を放り捨てれば、別に紅葉とキスすること自体は不思議と嫌じゃない。

 でも、やはり倫理はどこまでも着いてくるもので、恋人じゃない相手とするキスは楽しいか!と問いかけてくる何かが自分の中にいる。

 だとしても、今の僕は囚われの身。自ら『誰にも邪魔されない場所』を教え、まんまと罠にハマった哀れなありんこだ。

 きっと倫理観も一緒に拘束されているのだろう。近付いてくる唇に諦めの二文字が浮かび、少しも抵抗することなく彼女の気持ちを受けいれたのだから。


「んっ……」


 紅葉が息なのか声なのか分からない音を口から漏らし、再度抱きしめてくる腕に力を込めた。

 微かに感じる痛みから、支配したい、独り占めしたい、自分だけがこうしていたいと求めるような気持ちがひしひしと伝わってくる。

 それでも嫌じゃなかった。唇が離れる度にチラッと見える蕩けた表情が、せっかく勉強してきた色気なんて忘れるほど自分に夢中になってくれていることを物語っていたから。

 しかし、そんな時間も長くは続かない。一般家庭の部屋を全て確認し追えるのにかかる時間はせいぜい数分だ。

 そしてその先で、残されたトイレが怪しいと気が付くのも当然の心理なのだから。


『お兄ちゃん、紅葉先輩、ここにいるんでしょ!』

「ほら、奈々にバレたからもう終わりにしようよ」

「……」

「紅葉?」

「……終わりたくない」

「ん? あ、ちょっと――――――――――」


 さっさとトイレから出ようと腰を浮かしかけた僕は、カプっと首筋に噛みつかれて足の力が抜けてしまう。

 そして、もう引き返せないところまで到達してしまったらしい紅葉の顔を見て、初めて抵抗するという選択をするのだった。


「奈々、助けて。紅葉が暴走してるよ」

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