第490話

「……ぎゅってして欲しいの」


 紅葉くれはにそう言われた僕は、いいよと頷いて腕を広げる。しかし、彼女が近付いて来た瞬間、「あ、やっぱり……」と閉じてしまった。

 それを見た紅葉の顔がものすごく悲しそうで、胸がきゅっと締め付けられたけれど、危機管理っていうのかな。そういうのはちゃんとしないとだからね。


瑛斗えいと、私じゃイヤ……?」

「そういう意味じゃないよ」

「なら、どうして拒むの」

「拒むつもりはなかったんだけど、結果的にそうなっちゃっただけだから」


 僕がそう言いながら人差し指を立てて見せると、彼女はそれをじっと見つめる。

 そして指先をキッチンの方へと向ければ、それに合わせて視線もつられてそちらへと移動した。


「ほら、奈々なながいるでしょ」

「なるほど、邪魔されるわね」

「そういうこと。温泉旅行から、前よりも積極的になってるからね。当たり前のように割り込んでくるよ」


 この予想には紅葉も同感なようで、キラキラとした目でこちらを見上げながら「それは危険よ、安全な場所に移動した方がいいわ!」と訴えてくる。

 奈々に邪魔されず、2人きりになれる場所と言えば、家の中では大抵自室が挙げられるだろうね。

 ただ、それよりも僕はいい候補が廊下に出てすぐにあることを知っている。


「じゃあ、トイレに行こっか」

「……えっと、するのはハグだけよね?」

「そうだけど。トイレならここからも近いし、鍵もかけれるからいいと思ったんだけど」

「別に瑛斗となら嫌じゃないのよ? でも、2人で狭い個室はちょっと……」

「あれ、紅葉って閉所恐怖症だっけ」

「そういうことじゃないわよ」


 何やらモジモジとする紅葉の手を引き、音を立てないようにこっそりとリビングを出る。

 片付けをしてくれていた奈々は気付かなかったようで、僕たちはそのままトイレへと一直線に……。


「ま、待って! 心の準備が……」

「ハグするだけでしょ?」

「場所が問題なのよ! ていうか、別に部屋でもいいじゃない」

「部屋はダメだよ、鍵かけても意味ないからね」

「どういうこと?」


 紅葉が知らないのも無理はない。何度この家を訪れようとも、人の家である以上は扉の鍵のシステムを知ろうなんて思わないからね。

 僕の家の中にあるドアは、リビングやトイレ以外は全て同じものを使っている。だから、鍵も全部のドアがひとつの鍵で開くのだ。

 それぞれが部屋を持っている僕と奈々も1本ずつ鍵を所持しているから、鍵をかけても『閉まってることを確認→自室に鍵を取りに行く→開ける』という工程だけで突破されてしまう。

 それに比べてトイレはそうであってはいけない上に、中に誰かがいる状態で開ける必要が無い場所だから、鍵は金庫にしまわれているのだ。

 つまり、この家の中で唯一誰にも邪魔しようがない場所こそ、今目の前にあるトイレということになる。


「あ、邪魔されてもいいなら部屋でもいいよ。ベッドもあるし」

「もう一度聞くけど、本当にハグだけよね?」

「当たり前だよ。望まれたのはそれだけだもん」

「なら、どうしてハグだけなのにベッドが必要なの」

「ハグのバリエーションが増えるからだよ。同じようなのばかりだと、紅葉が飽きちゃうと思って」

「……飽きるわけないでしょ、バカ」


 軽く握った右手でポスンとお腹を叩いてきた彼女は、早速抱きついて来ながら「逆に飽きさせちゃうかも……」と弱々しい声を漏らす。

 そんな心配をしなくても、出会ってから一秒たりとも飽きたことなんてないと言うのに。紅葉は毎日少しずつ成長して、いつも違った表情を見せてくれるのだから。

 僕がそれを言葉にして伝えようと口を開いた瞬間、『あれ、お兄ちゃん?』という奈々の声が聞こえてきた。

 どうやら居ないことがバレたらしい。これは急いで紅葉に決断してもらわないと――――――――。


「トイレでいいわ、入るわよ!」

「あ、うん」


 何かを言うよりも先に、彼女は抱きついたままトイレの中へと駆け込む。

 そしてそっとドアを閉めて鍵をかけると、僕の唇に人差し指を当てながら外の音に耳を済ませた。


『あれ、2階かな。どうせ泥棒猫……じゃなくて、紅葉先輩がそそのかしたに決まってるよ』


 ブツブツと文句を言いながら2階へと上がっていく足音。電気もつけていないし、鍵が閉まっていることはよく見ないと分からない。

 もうしばらくはここにいても大丈夫そうだ。そう安堵していると、人差し指を離してくへた紅葉がそこへ自分の唇を押し付けてにんまりと笑った。


「ふふ、やっと2人きりになれたわね?」

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