第489話

 朝目が覚めると、寝ぼけ眼のまま洗面所へと向かって冷たい水をパシャリパシャリ。

 少しハッキリしてきた意識で寝癖を治し、朝食を食べようとキッチンへ向かうと、何故かそこには既に2人の先客がいた。


「砂糖は控えめでいいわ。いくら美味しいからって、糖分の摂りすぎは良くないもの」

「いいえ、お兄ちゃんは甘い卵焼きが好きなんです。妹の私が一番よく知ってるんですから」

「そんなこと言って、学校での瑛斗えいとのことはほとんど知らないくせに」

「なっ……調子に乗ってると妹パンチが出ますよ!」

「望むところよ、倍にして返してやるわ」


 その先客である紅葉くれは奈々ななは、どうやら卵焼きにどれだけ砂糖を入れるかで揉めているらしい。

 話を聞く限り、自分のために朝食を作ってくれているようで、ある意味自分のせいで喧嘩が勃発しそうになっているのだけれど、寝起きなせいでここへ飛び込んでいく元気はまだ出なかった。


「先輩が倍なら私は4倍ですから!」

「じゃあ、8倍よ」

「16倍!」

「32倍!」

「―――――」

「―――――」


 それ以降、どこまで続いたのかはこっそりと引き返したから分からない。

 ただ、何かすごい物音がした訳でもなければ、叫び声や怒鳴り声も聞こえなかったから、結果的に平和的な解決に落ち着いたのだろう。

 十数分後、部屋まで呼びに来た2人に連れられて再度一階へ降りた僕は卵焼きを口へ運び、その予想を確信へと変えたのであった。


「……さすがに卵焼きにりんごジュースは入れない方がいいと思うよ」


 目の前でじっとこちらを見つめていた二人分の瞳が、同時にしゅんと下を向くのを見て、思わず口元が緩んでしまったことは僕だけの秘密だ。

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 朝食を食べ終わって落ち着いた頃。

 お皿を洗ってくれている奈々の背中をソファーの上から眺めつつ、隣に腰を下ろして見つめてくる紅葉に少し前から聞こうと思っていたことを聞いてみる。


「ところで、今日は何しに来たの?」

「別に何も。いいでしょ、理由なんてなくても」

「それはもちろんだよ」

「奈々ちゃんと旅行の間、一日だけだったけど瑛斗に会えなかったじゃない? その時に思ったのよ」

「何を?」

「瑛斗が居ないとこんなに寂しいんだって。会うのが当たり前だったから、気にしたこともなかったのよね」

「そっか、それは嬉しいね」


 紅葉は少し照れたように頬を人差し指でかくと、心做しかほとんど無かった距離を縮めてきた。

 呼吸をする度に右腕と左腕が触れるような近さから、彼女は尚も何かを求めるような瞳でこちらを見上げてくる。

 やっぱりいつ見ても触り心地の良さそうなほっぺだ。いや、実際に触り心地がいいことは確認済みなんだけど、ここまで近くにあるとまたモチモチしたい欲が溢れちゃうよ。


「……瑛斗、その手は何?」

「なんでもないよ」

「何でもない割には、やけにいやらしい手つきじゃない。変なことでも考えてるのかしら」

「それは絶対にない」

「その否定の仕方は失礼ね。これだけ近くに居るんだから、変な気くらい起こしなさいよ」

「わかった。じゃあ、ほっぺ触らせて」

「変な気のハードルが低すぎない?!」

「ってことは、触らせてもいいってことだよね?」

「そ、そういう意味じゃ――――――んぅ」


 少しばかり強引に両頬を指先で優しくつまむと、彼女は途端に抵抗をやめて大人しくむにむにとされてくれた。

 表情や反応から察するに、満更でもないらしい。少しは気持ちいいと思ってくれているのかな。

 触られている間はそっぽを向いていると言うのに、手を止めると視線がこちらへ向けられる。

 その目は確かに『やめないで』と言っていた。前はあんなに嫌がってたのに、何だか素直になってくれたことに感動しちゃうね。


「え、瑛斗……?」

「どうしたの」

「触らせてあげた代わりに、私のお願いも聞いてくれない?」

「身代金は払えないよ」

「誰のよ。別に無理なことは言わないわ、瑛斗なら簡単に引き受けられることだと思うから」

「それなら聞くよ、堪能させてもらったし」


 まだ柔肌の感覚が残る指先を見つめつつ「それで、お願いって?」と聞くと、紅葉は人差し指同士をつんつんとしながら緊張や照れから微かに震える声でこう言った。


「……ぎゅってして欲しいの」

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