第484話

「んふふ、いい朝だね♪」

「……眠い」


 あれから一夜が明け、僕はようやく奈々ななのキス地獄から開放された。

 いや、もちろん彼女がこんなにも好きでいてくれているという事実は嬉しい。キス自体も途中から吹っ切れた。

 むしろ、あれだけされても変な気持ちが少しも湧き起こらない自分が怖くなるくらいだ。

 ただただ、寝させてもらえないことが辛いのである。おかげで鏡に映る自分が何歳か老けたように見えた。


「ねえ、お兄ちゃん」

「……どうしたの?」

「私、本気だからね。本気で紅葉先輩たちと戦おうと思ってるから」

「そこは疑ってないよ、信じてる」

「えへへ、お兄ちゃんも本気で恋愛禁止の約束守ってね」

「初めからそのつもり」

「……それならよかった♪」


 奈々はにっこりと微笑むと、「汗かいたからお風呂入ってくるね」と言って部屋を出ていく。

 その直後、コンコンとノックされる音と「失礼します」という聞き覚えのある声が聞こえてきた。


「おはようございます、お布団の回収に伺いました」

「若女将さん、おはようございます。ちょうど起きたところですよ、タイミングがいいですね」

「ふふ、昨晩はお楽しみでしたね」

「…………は?」

「もしかして本当にお楽しみでしたか?」

「そんなわけないじゃないですか、妹ですよ?」

「それもそうですね♪」


 若女将は昨日と違って随分と楽しそうに仕事をしている。僕の言葉で何かを変えられたなら嬉しいけれど、カマをかけられたことは納得がいかない。

 せっせと仕事をする若女将の背中を眺めながら、何か仕返しが出来ないかなんて考えていると、よいしょと布団を持ち上げた彼女の足元に落ちているものに視線を吸われた。

 それは奈々が夜中に目を覚ますために飲んだエナジードリンクの瓶。それを足元の視界が布団で隠れている若女将は気付かずに踏んでしまったのだ。


「きゃっ?!」


 短い悲鳴を上げて体を後ろに傾かせる彼女に、僕は反射的に手を伸ばして飛び込む。

 なるべく頭を守るように腕で包み込みながら、瓶を足で部屋の隅へと蹴り飛ばし、布団の上へと倒れ込んだ。

 我ながらよくできたと思う。火事場の馬鹿力とはまさにこういうことを言うのかもね。


「若女将さん、大丈夫?」

「だ、大丈夫です、ありがとうございます!」

「ドジなところは前向きになっても変わらないみたいだね。まあ、今回はゴミを床に置いてた僕タチが悪いんだけどね」

「いえいえ、確認していれば防げましたし……あ、瓶割れちゃいましたね」


 若女将が「すぐに片付ける用の手袋を……」と起き上がろうとした瞬間、お風呂へ繋がる扉が勢いよく開いてタオル一枚の奈々が顔を覗かせた。


「お兄ちゃん……?」

「奈々、これは事故なんだよ。僕が手を出したわけじゃない」

「それは分かってる、お兄ちゃんは優しいもん。でも、その女がそれに付け入ったのかもしれないよ?」

「わ、私は何も……」

「お兄ちゃんがいくら素敵だからって、演技までして奪おうなんて小賢しいに程があるよ!」

「ひっ?! ご、ごめんなさぃぃぃぃ!」


 彼女に詰め寄られた若女将はブルブルと震えると、大慌てで部屋から出ていった。

 それから数分後、割れた瓶の掃除に来てくれたのは女将さんで、あの子が迷惑をかけて申し訳ありませんとのこと。

 むしろ、こちらこそ怖がらせて申し訳ないくらいなのだけれど、奈々の笑顔が怖いので何も言えなかった。


「ねえ、お兄ちゃん?」

「なに?」

「紅葉先輩たちとは戦うって言ったけど、関係の無い女はすぐに排除するからね?」

「わかってるよ」

「疑わしきも罰するから」

「……そうだね」


 これまでこれだけの気持ちを抑え込んでいたのかと思うと謝りたい気持ちになる。けれど、それよりも帰った後の波乱を想像してため息をこぼすしかなかった。

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