第480話

「「ご馳走様でした」」


 魚がメインだった昼とは違い、お肉たっぷりだった夕食を食べ終えた僕たちは手を合わせ、仲居さんたちに食器を片付けてもらう。

 これでいわゆる旅行の決められたプログラムは終了。あとは寝て起きれば、明日の昼頃に出発して家に帰るだけ。

 そう思いながら満足げに働いているお腹を撫でていると、奈々なながウキウキした様子でタオルやら着替えやらを用意し始めた。


「お兄ちゃん、今日のメインがやってきたよ!」

「メイン?」

「一緒にお風呂入るって約束したじゃん。私はそれが楽しみだったんだから!」

「まあ、別にいいけど……」


 確かに温泉旅館のメインはお風呂であることは間違いないけれど、ご馳走様からの即入浴は勘弁してもらいたい。

 もう少しこの幸せな時間を満喫してから、少し腹が凹んできたかなというタイミングでのんびりと浸かりたかった。

 ただ、彼女の方はもう我慢の限界らしく、勝手に僕の準備も済ませてしまうと、引きずるようにして脱衣所まで連れていかれてしまう。


「強引なんだから」

「えへへ、久しぶりなんだもん♪」

「気持ちは分からないでもないけどさ」

「ほらほら、早く脱いで脱いで!」

「ちょっと、さすがに脱がされるのは嫌だよ?」

「むっ……じゃあ、先に中で待ってるね!」


 体にタオルを巻いた奈々はそう言って曇りガラスのはめ込まれた扉の向こうへと消えていった。

 その背中を見送った僕は短くため息をこぼす。何か不満があるわけではない。楽しそうな妹の姿を見ていると、余計にお腹いっぱいになってきたのだ。

 幸せな気持ちだけでは生きていけないとはよく言うけれど、腹八分目くらいの状態なら丁度いいかもしれないね。


「奈々、入るよ」

『はーい』


 浴室の壁に反響する返事が聞こえたのを確認してから扉を開くと、モワッと湿度の高い空気が流れ込んできた。

 温かさが逃げる前にしっかりと後ろ手に閉め、腰に巻いたタオルが固定されていることを確認しながら既に座って待ってくれている彼女に歩み寄る。


「それじゃ、洗ってあげるね」

「うん!」


 水がお湯になったのを確認してから、肩から背中、太ももから足の先、そして髪と順に濡らしていく。

 それからシャンプーを自分を洗う時よりも多めに出し、揉み込むようにしながら長い髪の中で泡立てた。


「……学校は楽しい?」

「ふふ、休日のお父さんの質問みたい」

「ごめん、何か話すべきかと思って」

「私はお兄ちゃんに触れられてるだけで幸せだよ? すごくくすぐったくて、嬉しくて、ドキドキする」

「そっか、ありがとう」

「こちらこそありがとう、そばに居てくれて」


 目の前鏡に映る奈々の顔は湯気のせいか少し赤らんでいて、同時に喉に引っかかった小骨が気になっているような表情だ。

 彼女が兄である自分を好きになったきっかけには、必ず辛かった思い出がついてくる。

 それは一年以上が経過した今でも変わらないのだろう。大好きだった彼氏に捨てられたと言っていい振られ方をしたのだから、傷跡が残るのも仕方がない。


「はい、洗い終わったよ」

「ありがと! じゃあ、次は私が洗ってあげる♪」

「それならお言葉に甘えさせてもらおうかな」

「えへへ、座って座って!」


 僕と位置を交代した奈々は、洗い終えた髪を持ち込んだゴムで高い位置にまとめる。

 そうすることで普段は見えない部分があらわになって、特にうなじや鎖骨の部分から女の子という主張をひしひしと感じた。

 けれど、やっぱり自分にとって妹は妹でしかなくて、紅葉や麗華から感じる不思議な感覚は沸き起こらない。


「奈々、大好きだよ」

「……どうしたの、急に」

「言いたくなっちゃって」

「ふふ、私もお兄ちゃんが大好き。ずっとね?」


 きっと、僕には奈々から溢れんばかりに向けられる異性としての好意には応えられないのだ。

 つい口から漏れた『大好き』が家族愛でしかなく、奈々が発したものとの違いを感じた僕の胸が、少しキュッと締め付けられたことは自分だけの秘密である。


「そうだね。ずっと大好きだよ、奈々」

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