第479話
マッサージの心地よさが見せた夢から覚めた僕は、寝ぼけ眼を擦りながら顔を上げると、すぐ近くに若女将さんが座っていることに気が付いた。
彼女は何やら深刻そうな顔をしていて、こちらが目覚めたことに気がつくと、すぐに頭を下げて謝罪の言葉を口にする。
「申し訳ございません。私が嘘をお伝えしてしまったばかりに」
「若女将さんは悪くないですよ。全部、看板を移動させた人が悪いんですから」
「それはそうなのですが……」
「本当にいいんです。妹の気持ちを知るいい機会になったので、むしろありがたいくらいですよ」
「…………うぅ、ありがとうございます……」
「え、どうして泣くんですか?」
僕が慌てて体を起こして背中を撫でてあげると、若女将は零れそうになる涙を袖で押さえながら、今にも溶けて消えてしまいそうな弱々しい声で呟く。
「もし怒られたら、もうこの仕事はやめようと思っていたんです……」
「やめるだなんてさすがに大袈裟ですよ、怪我もしてない訳ですし」
「それは結果論ですよ。熱々のお鍋をこぼしたり、飾ってある壺を倒したり、これまでもお客様を危険な目に合わせたことはありました」
「それこそ頑張っていた結果じゃないですか?」
「……旅館にとっては大勢のうちの一人でも、お客様にとっては一度きりかもしれない思い出なんです。私にはその責任を負う資格も覚悟もない!」
着物をギュッと握りしめるその姿から、僕は自分がどれだけ無責任なことを言ってしまったのかを理解した。
きっと彼女は客の知らないところで沢山練習して、それでも上手く出来ない自分を嫌いになりかけているのだ。
だからこそ、怒られたら辞めるだなんてことを前もって決めていた。不幸というのか幸いと言うのか、その条件が満たされることは無かったけれど。
「す、すみません。お客様にこんな話をしても、何の意味もないって分かってたんですけどね」
「いや、僕は若女将さんの本心が聞けて良かったと思いますよ。だって、立派な若女将だって再認識出来ましたから」
「私のどこが立派だって言うんですか!」
「もちろん、失敗をしないことや早く仕事ができる人はすごいです。でも、この旅館はきっと従業員にそれだけを求めているわけじゃないと思うんです」
「っ……」
ここで働いている人や女将さんの表情を、客という視点で見れば自然と伝わってくる。
テキパキとした動きの中にも、仲間同士の信頼関係やお客様への気遣いがしっかりと込められていることが。
ただただ高いだけの旅館とも、安く泊まれるノンサービスなホテルとも違う。
この旅館は、旅行のための宿泊先などではなく、旅行そのものの一部になりうる素晴らしい場所なのだ。
「若女将さんにはもう必要なものの半分が備わってるんです。好きなんですよね、お客様の笑顔を見ることが」
「……はい、大好きです」
「じゃあ、あとは落ち着いて仕事をすればいいだけです。初めは上手く出来なくていいんです、仲間を頼ってください」
「仲間を頼る、ですか」
「助けてもらった時、ごめんなさいって言ってませんか? そういう時はありがとうなんですよ」
「助けてくれて……ありがとう……?」
たどたどしい口調で呟く彼女に、僕は大袈裟なくらい大きく頷いて見せる。
人は謝る時に下を向いてしまうもの。伝える気持ちの内容は同じだとしても、言葉を少し変えるだけで体と共に前向きになれるのだ。
……まあ、全部テレビで偉いおじさんが言ってたことの受け売りなんだけどね。
「それに僕は怒りませんでしたからね。どの道、若女将さんは辞められませんし、どうせなら当たって砕けろの精神で頑張ってみて下さいよ」
「ふふ、それもそうですね♪
「その調子ですよ。助けられた分は、自分が助ける側になってから返せばいいんですから」
その後、何をされても『ありがとうございます』と言う特訓をしたところ、やはり反射的に謝罪が出る癖は治しきれなかった。
ただ、やる気だけはメラメラと燃えているようで、いつかもう一度ここに来るようなことがあったなら、その時が楽しみだと思えたことは言うまでもない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます